2009年11月30日月曜日

佐藤雅美『啓順地獄旅』(1)

 先週までの温かさとは打って変わって、昨夜からしのつく雨が降り、寒さが戻ってきた。今は、雨は止んでいるが灰色の雲に覆われた冬空が広がっている。今日で霜月も終わり、明日から師走なのだから、当然の気候と言えば言えるが、やはり寒いのは苦手である。

 昨日、夕闇が迫る頃に、コートを着込んでマフラーをして、一時間ほど散策に出かけ、近所の家々で飾られているクリスマス・イルミネーションを眺めたりした。途中で雨が降り出したのだが、濡れながらゆっくり歩いた。

 クリスマスのイルミネーションは、厳密に言えば、アドベントが始まる昨日の日曜日から飾りつけるのが本当だが、今では季節の風物詩になっているイルミネーションも、ずいぶん前に飾られるようになり、商魂のたくましさというか、なんでも先へ先へと進みたがる現代人の気質のようなものを感じさせられるものになってしまった。

 ただ、去年あたりからひどい不況のために、派手さがなくなっていて、少しささやかで、それがいい感じでもある。個人的な好みを言えば、闇の中に小さく光を放つ姿の方が好きだ。ただ、省エネで増えているLEDの明かりは、光のもつ温かさがなく、寒々としている。現代の科学技術の光は冷たい。

 一昨日、「あざみ野」の山内図書館に出かけて、新しい本を6冊借りてきた。少し凝り性のわたしの性癖が読書にも如実に表れていて、どうも、これはと思う作家にめぐりあったら、その作家の作品を続けて読むようで、この「独り読む書の記」も、これまでのものを振り返ってみれば、宇江佐真理の後で読み始めた諸田玲子や北原亞以子、そして最近の佐藤雅美の作品が多い。一昨日に借りてきた6冊も、これらの作家の作品である。時代小説の中では、特に、市井物と呼ばれるものが気に入っている。欧米ものに凝ったのは、もうずいぶん昔の話で、10代の後半の頃、カフカやドストエフスキーに熱中したこともあった。その頃のことを、わたしは「思想の季節」と呼んだことがあるが、手当たり次第に読んで、自分の思想形成に大きな影響を与えたものであった。今は、できる限り、気楽に読める物をたくさん選んでいるような気がする。

 そして、一昨日の夜から、佐藤雅美『啓順地獄旅』(2003年 講談社 2006年 講談社文庫)を読んでいる。面白くて読み進めたいのだが、ぼうーと過ごす無為の時間が多くなって、まだ半分ほどである。

 これは、『啓順凶状旅』という作品に続くもので、前作からの物語の流れがあるのだが、本書にも主人公である「啓順」の状況が述べられているので、その物語の展開がわかるようになっている。

 主人公の「啓順」は、かつて多紀安長(これは実在の人物で、1755-1810年に江戸で名医として活躍した人物)の弟子であり、奥医師(将軍家に仕える医師)の大八木長庵(これは創作人物だろう)のもとで漢方医を学んだ医者であるが、ふとしたことから渡世人の世界に入り、江戸町火消しの顔役に息子を殺した犯人と思われ、逃走し、お尋ね者となって、網の目のように張り巡らされた町火消しの顔役の手から逃げ回りながらも、その真相にたどりつくが、その時には真犯人も死んでしまい、逃亡を続けるしかなくなっている人物である。

 その逃亡の先々で、困窮に陥っている者や病める者を見捨てることもできずにいる「心やさしい医師」である啓順が、そのためにまた追手に迫られる緊張感をもつ渡世人であるという、その二律背反性と緊張が物語を面白くする基調となっている。

 この『啓順地獄旅』では、「いつかはいいいえに住んできれいな女房をもらって暮らしたい」と夢見たが、凶状もちの逃亡者となっている啓順が、追手の手を逃れつつ、師の大八木安長から平安期の医師丹波康頼(912-995年)が著した日本最古の医学書である『医心方』の探索を依頼されて京へ向かう姿が描かれたもので、「旅から旅への艱難辛苦の救いのない地獄」が続く中で、自ら窮地に陥りながらも出会った人々の救済を行い続ける出来事をとおして、彼が運命的な転換を遂げていくという話である。

 今はまだ途中なので、それがどういう転換として描き出されていっているのかは、また、読了後にまとめたいと思う。

 今日はこれから、少しというよりだいぶ、仕事をしなければならない。限りのない山積みのものではあるが、『愛することと信じること』のデジタル化も進んでいないのだから、そろそろ、次に取りかからなければならないだろう。明日の用意もしなければ。「はあー」という気分ではあるが。

2009年11月27日金曜日

佐藤雅美『お白州無情』

 昨日は、気温が上がって温かさを感じる日になった。温かいと、やはり嬉しい。朝六時に起き出して、ずっと仕事をして、黄昏時から夜にかけてクリーニング屋に行くついでに散歩に出かけたが、ほとんど寒さを感じることもなかった。こういう日ばかりではもちろんないが、やはり、今の季節の中での温かさは貴重だ。

 一昨夜から続けて佐藤雅美の本で、『お白州無情』(2003年 講談社『吾、器に過ぎたるか』を改題、2006年 講談社文庫)を読んでいる。書物の内容からすれば、なぜ文庫化で改題したのかわからない。改題しない方が良かったのではないかと思う。

 これは、江戸末期に、儒教の『中庸』の一節、「天の命、之を性と謂ふ、これを道と謂ふ」からとった「性学」と名づけた実践道徳を説き、農民指導をし、農村改革を行った大原幽学(1797-1858年)の伝記小説で、大原幽学は、かつては日本の小学校のどこにでも建立されていた二宮金次郎像で有名な同時代の二宮尊徳(1787-1856年)と並んで、日本の農村改革の先駆けとなった人であり、「先祖株組合」と名づけた農業協同組合を世界で最初に創った人でもある。

 しかし、彼が行った農村を越えての農民の交流が当時の勘定奉行に怪しまれ、1857年に「押込百日(閉門幽閉)」と農村改革の拠点であった「改心楼」の棄却、「先祖株組合」の解散を言い渡され、五年に及ぶ訴訟の疲労と農村の荒廃を嘆き、1858年に切腹して自害したのである。

 この作品は、大原幽学の活動が、勘定奉行や関八州(関東周辺を回る役人)から怪しまれるところからの過程を、文献を丹念にたどりながら述べ、その中に幽学の思想と彼が行ったことを盛り込んでいくことで、当時の状況と幽学という人の姿を明らかにしていくところから始まっている。

 このような評伝の手法の最たるものは司馬遼太郎の作品であるが、佐藤雅美も、先に読んだ『『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(2002年 実業之日本社 2007年 講談社文庫)の手法と同様のものをここで取っており、作者の文献研究の確かさを伺わせるものとなっている。

 作者は1941年生まれで、当然、1960年の安保闘争や70年代の「思想の季節」の時代に青年期を過ごしているのだから、作者が寺門静軒や大原幽学へ深い関心を寄せているのは、時代小説、あるいは歴小説作家としての作者の姿勢が真摯なものであることを感じさせる。

 ただ、残念ながら、図書館の貸し出し期限があって、この作品を読了することはできなかった。今日中に返さなければならないし、仕事も次々とあって、また、いつか再読したいと思っている。しかし、Someday never comes.であるかもしれない。

2009年11月25日水曜日

佐藤雅美『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』

 朝から細かく冷たい雨が降っている。天気予報では、今日は、午後から雨も上がるし、気温も少し上がるということだったが、今は、寒い。このところ寒い日々になっているので、使っている暖房器具ではなかなか暖まらずにいるし、特に外出先から帰ってきた時の部屋の冷え冷えとした気配にどうにもならなさを感じたりするので、最近のエコの動向とは反するのだが、もう一つの伝統的な暖房器具であるコタツでも買おうかと思ったりしている。コタツで眠るのは最高に気持ちいいだろう。
 
 昨夜から佐藤雅美の本を読んでいるのだが、ベッドに入るや否や眠りに落ちてしまう日々になってなかなか進まないでいる。肩の凝る内容でもないし、気軽に読み進める作品で、一気に読める作品なのだが、本を読むということは、その内容の把握一つとってみても読み手の肉体的、精神的状況に大きく影響されるということを、つくづく感じてしまう。

 昨夜は、『首を斬られにきたの御番所 縮尻鏡三郎』(2004年 文藝春秋社)を読んだ。この作品は、巻末の書物の広告に『縮尻鏡三郎』(文春文庫)というのが記載されているので、その続編だろうと思うが、それはまだ読んでおらず、たぶん、その作品の方が、ストーリーが起伏に富んで面白いのではないかと思う。それを思わせるくだりが、この作品の中で随所に出てくる。

 作者の定義からすれば、「縮尻」というのは、何らかの事情で人生が「尻すぼみ」になってしまったことをいうらしい。主人公の「拝郷鏡三郎」は、九十俵三人扶持の貧乏御家人の家に生まれ、唯一開かれた道である勘定所(今でいえば財務省)への採用を目指して、七つ八つの頃から学問と武芸に励み、推薦者となる組頭のもとに日参し、死に物狂いの就職活動をして、ようやく採用されたが、上役の勘定奉行からの命で、ある老中の内密の御用を承ったのが徒となって、その役職を棒に振り、失職して、家督を娘夫婦に譲り、町方が出し合って作っていた大番屋(仮牢)の責任者(元締め)となった人間である。このあたりのくだりは、おそらく、前作『縮尻鏡三郎』で展開されているのだろう。まさに、人生が尻すぼみになった「縮尻」なのである。

 本書は、この「縮尻」の鏡三郎が江戸の市井で起こる様々な事件で「大番屋」に入れられてくる人間に関与し、その真相を明らかにしていくという、いわば、軽いミステリー仕立てになった作品で、「読み物」として面白く読める作品である。

 もちろん、この作者は、丁寧に文献にあたり、時代考証も、江戸の社会考証もきちんとしているので、なるほど、江戸の庶民はこういう暮らしをしていたのか、ということが細部にわたって描かれており、何とも言えない味わいのある作品であるが、作者は「読み物」を書いているのであって、彼が他の作品で展開しているような思想性を期待することはできないし、むろん、作者も、そういうつもりはないだろうと思う。

 彼は、淡々と出来事を記していく手法をここでは採っているが、ただ、もう少し主人公の人格や、市井の中で事件を引き起こさざるを得ない人間の状況と心情が書き込まれてもいいかもしれないと思ったりする。それだけの力量と思想性をもつ作家なのだから。

 ただ、収められている作品の中では、第六話「妲己のおせん」から第七話「いまどき流行らぬ忠義の臣」、第八話「春を呼び込むか、百日の押込」の流れが、主人公鏡三郎のうだつの上がらないままに無聊を囲っている娘婿と、しっかり者で、大手の手習い所(塾)の長身白皙の美男とその手習い所を共同経営することになった娘の夫婦関係に気をもみながら、相続争いやお家の復興をかけた小大名の武士たちや、跡目騒動(後継者争い)などの事件に関わって、その真相が明らかになっていく物語の展開が、人間の欲の姿を映し、そういう中で、主人公の拝郷鏡三郎の「縮尻」ではあるが自由人である姿と対比されて、「自由人」であることの日常の姿がよく描き出されている。

 拝郷鏡三郎は「自由人」なのである。彼の「自由」は、自分の人生が尻すぼみになっていく「縮尻」であることを達観し、何とも思っておらず、そのようなことにもはや価値を置かないところに由来している。こういう姿は、「痛快」である。

今日は、午後から都内での会議のために出かけなければならず、その準備もあるので、続きはまた明日、ということにしよう。

2009年11月24日火曜日

諸田玲子『日月めぐる』

 22日の日曜日は、本格的な寒さに震える日曜日だった。ほんの少し出かけるにしても、コート、マフラー、手袋の「冬支度の三種の神器」が必要なほどで、おまけに小糠雨もか細く震えるように降って、痛めている頸椎から左肩にかけては痛みも走るし、身の置き所がないような感じだった。

 ところが、昨日(23日)は一変して、「小春日和」という言葉がふさわしい日になり、朝から、洗濯をし、寝具を代えて、掃除をしたりするのに快適な日となった。午後から、中学生のSちゃんが訪ねてくることになっていたので、大江健三郎論に手を入れながら、完全な図形である円が無理数をもっているということなどをぼんやりと考えていた。

 そういう中で、諸田玲子『日月めぐる』(2008年 講談社)をようやく読み終えた。

 これは、幕末期の駿河の小藩であった小島藩の城下町(といっても城はなく、陣屋があるだけで、全体が経済的に苦しい状態が続き、ようやく駿河紙の製造で少し落ち着いた)に住む人々の様々な喜怒哀楽や関わり、生き方を描いた七つの作品が連作の形で綴られている作品で、いずれも、甲州往還と並行して流れている興津川の上流の、両側に山が迫り、川幅がせばまって流れが急となり、岩のせいで水深の差が激しく、不思議な色合いを見せて渦巻く渦巻きが象徴的な基調となって、その渦巻きにそれぞれの人生が巻き込まれていくようにして生きていく人々の姿を描くものになっている。

 第一話「渦」は、今は隠居しているが、かつては藩政の重要人物だった男と、隠居を前にしたその部下であった組頭である男の、かつての駿河紙の製造を巡る事件の真相が明らかになっていく話で、組頭の息子とその藩政の重要人物だった男の娘の縁談が進められて行くことが中心になり、政治を司る者も、またそれに翻弄されていく者も、共々に、それぞれの労苦を負いながら生きている姿が描かれていく。

 第二話「川底の石」は、紙漉きの技術を教えていた商人と契りを結んだ娘が、いずれは迎えに来るという約束を信じて十年の月日を経て待ち続ける話で、ようやく十年後に戻ってきた男がとんでもない男になっていることがわかっていく。そして、彼女が十年もの歳月、男を待ち続けていた間に、彼女を慕い続け、彼女を助け続けていた幼馴染の年下の男の本当の思いがしみじみとわかっていくという話である。

 第三話「女たらし」は、極めつけの容貌をもって嘘八百を並べ立てて詐欺を働いていた男が、ふとしたことで小島藩にたちより、そこで後家で紙問屋の娘を、同じようにたらしこもうとして入りこむが、その娘が肌の白さだけが取り柄の子持ちの大女であることを知り、さっさと逃げ出そうとするうちに、次第に、その子どものことや彼女の素晴らしさに惚れていくという話である。この二人が仲の良い夫婦になっていくことが後の物語で夫婦として記されていくことで示される。

 第四話「川沿いの道」は、幼馴染でお互いに夫婦約束をしていた藩士を待ち続ける娘が、藩命によって彼が自分の兄を殺し、そのために自分との結婚を取りやめていったことを知っていく話で、第五話「紙漉」は、かつて父を捨て、自分を捨てて男と逃げたと言われる自分の実母を探し、実母の相手の男と、場合によっては実母も「女敵討ち」で殺そうと思って小島藩にやってきた御持筒組与力の次男が、その真相と、実母とその男の思いを知り、思いを返して、自分自身の歩みを始めようとする話である。

 第六は「男惚れ」は、百姓の息子であり、武士に憧れ、鉄砲稽古人をしていた少年が、自分が理想として憧れていた、鉄砲の指南でもあった優れた武士が女に骨抜きにされているという噂を聞き、理想と憧憬が壊れていく中で、その武士のもっていた藩の貴重な鉄砲を盗んで、これを興津川の渦の中に投げ捨て、そのためにその武士が切腹していくという話で、彼はひどく後悔し、武士が最後に語ったように商人となって、その武士の子どもや家庭を支えていくようになるという結末が添えられている。

 第七話「渦中の恋」は、大政奉還後の混乱した藩の中で、職を失って侘しい仮住まいをする男女が、すさんだ生活をして幕府側に立って新政府(明治政府)と戦おうとする兄などの姿を通して、お互いの思いを募らせていくという話で、本書のまとめの作品としても、これは秀逸したものとなっている。

 いずれも、興津川上流の、不思議な色合いを見せる渦を見に行く、ということで、その渦の色合いの多様さと同じように多様な人生を歩み人々の姿が、柔らかい筆致で描かれていく。第六話「紙漉」の中に、「人は、わけもなく、巻き込まれてしまうことがある。佳代(実母)が悲惨な目にあったのも渦なら、与八郎(駆け落ちしたと言われる相手の男)に奔ったのも渦・・・いわば不可抗力である」(186ページ)という文章があり、また、第七話「渦中の恋」の中に、「ご老人(第一話の藩政を司っていた人物)は鄙びた里の廃屋でひっそりと暮らしておられた。苦悶に胸をえぐられ、悔恨に眠れぬ夜を過ごしたこともあったろう。日だまりで幸福な午睡を貪ったこともあったはずだ。どこでなにをしていようが、禍福は糾える縄のごとし。我らは渦の中をぐるぐるまわっておるだけやもしれぬ」(258-259ページ)と語られる場面がある。

 渦のように様々な色合いを見せながらもぐるぐる回って生きなければならない人間の姿が、この作品の中で描かれているのである。

 そして、第二話で出てきた女が年老いて、第七話で、状況が江戸幕府から明治政府へと変換していく混乱を経験しながらも、「あたしゃもう、じっとしていたいね。頭の上でぐるぐる渦巻こうが、ごうごう流れようが、あたふたする気はないのさ」(264ページ)と語る。それは、時代や状況に翻弄されながらも、庶民として生きる人間の強さである。

 それに続いて、「両側に迫った山のせいで狭まった流れを、ごつごつした岩がなおもさえぎろうとしている。さえぎられてたまるかと、川の水は怒ったように飛沫を噴き上げ、ぬれそぼった黒い岩に挑みかかる。
 けれど、いがみ合っているだけではなかった。ここには調和があった。薄青と紺と紫苑と群青と縹色(はなだいろ)と薄葉色と御納戸色と浅葱色と、そして輝く紺碧・・・水にかかわるありとあらゆる色の濃淡が、きらめく陽光と溶け合って、渦という摩訶不思議な世界を創り出している」‘264-265ページ)と述べられている。

 ここで「両側に迫った山」と「ごつごつした岩」は、社会の状況であり、世間であり、生き難さである。そして、渦の色は、それぞれが、百姓であったり、もつれ合った男女であったり、武士であったり、商人であったりする者を指している。その中で生きている人間が織りなす「摩訶不思議な世界」とそこでの大切なことを、諸田玲子は、この作品の中で展開しているのである。

 これは、彼女の最近の作で、柔らかい筆致で、さりげなく人間を描く優れた技量が見事に見られる作品だろうと思う。

2009年11月21日土曜日

北原亞以子『花冷え』

 昨日から晴れ間が見えだし、今朝はよく晴れているが、気温が低く、寒さというより冷たさを感じる朝になった。寒がりの私としては、ことのほか指先の冷えを感じたりする。それでも、今日は朝から仕事があって、六時前から起き出した。

 このところ「大江健三郎論」に集中していて、そのほかに書かなければならないものも多く、読書量が落ちているが、昨夜、北原亞以子『花冷え』(1991年 勁文社 2002年 講談社文庫)を読んだ。

 これは、1970年から1991年までに各雑誌で発表された七編(「花冷え」、「虹」、「片葉の葦」、「女子豹変す」、「胸突坂」、「古橋村の秋」、「待てば日和も」)の作品を収めたものであるが、北原亞以子は1969年に作家としてデビューして1989年に『深川澪通り木戸番小屋』で泉鏡花文学賞を受賞し、1993年に『恋忘れ草』で第109回直木賞を受賞するまでは、なかなか世に認められなかった作家としての苦労を重ねた人で、『花冷え』は、その間に書かれていた、いわば初期の作品群を集めたものである。

 したがって、これらの作品を読むと、彼女が、世に認められるとか認められないとかとは全く関係なく、営々と自己の研鑽を積み、作品を書き続けていたことがよくわかるし、最初の作品「花冷え」から七編目の「待てば日和も」に至る過程では、文章表現や構成が段々と変化してこなれたものになっていくこともわかる。そしてまた、この作家の視座というものの基本もよくわかる作品群である。

 第一話「花冷え」は、2年前にいい仲になって結婚の寸前までいった紺屋の娘と型染め職人が、水野忠邦の天保の改革(1830-1843年)による「綱紀粛正・倹約令」によって技術のいる高度な型染めが禁止されたために、職人気質の男が反発して仲を裂かれ、2年後に再会して分かれるという話である。紺屋の娘は男とよりを戻すことを期待するが、男は、他に縁談があるという。

 結末の「ふいに風の向きが変わって、雨が廊下に降りかかった。お花見はもうだめかもしれないという女中のことばが、なぜか急に思い出された」(文庫版 33ページ)という情景が心情を表わすものとして優れている。

 心情を情景で表わして優れているのは藤沢周平であるが、これは、北原亞以子の作品の中に一貫していくものとなっている。この初期の作品群の中では、特にそのことにこだわりがあるようで、どの作品も、結末が美しい。そして、この作品では、政治という上からの強権で引き裂かれ、翻弄されて生きなければならない人間の姿も描かれ、作者の視座も伺わせるものとなっている。ただ、文体が以後の北原亞以子の作品に比べると、やはり、少し硬い。

 第二話「虹」は、老いて病身な母親と料理屋で働きながら暮らしている女が、姑の意地の悪さのため二度も離婚した油問屋の主人に惚れて嫁ごうとするが、娘の行く末を案じる母親との間に挟まれ、迷い、その間に油問屋の主人が浮気をしたりして、さらに迷いつつも、嫁ぐことを決心していく話である。ここには、女が働いている料理屋の夫婦が、困難な過去を乗り越えた後で結ばれていった話が重ねられて、素直に自分の思いを遂げていくことの重さが描き出されていく。

 文庫版54ページに、その女の心情が次のように描かれている。
 「おすえ(母親)が許してくれぬのなら、家を飛び出しても一緒になりたかった。連れ戻しにくるに違いない母を門前で追い払っても、伊兵衛(油問屋の主人)の胸にすがりついていたかった。
 だが、怒っている筈の母は、座敷に上がって、寒がりやのおぬい(主人公)の寝床に掻巻をのせていた。
 おぬいは、寝床を母のそれに近づけた。「いやだよ。狭っ苦しい感じがして」と言うおすえの手を押しのけて、横にした掻巻を二人の寝床にかける。狭っ苦しい感じがすると言った筈のおすえは、枕をおぬいの寝床の方へ近づけていた。
 この母を残して嫁けないと思った。
 父に死なれ、薄暗い家へ入れずに木戸の外で泣いていた時、母はおぬいの欲しがていた物を買って、駆け足で帰ってきたのではなかったか。治作(母の二度目の夫)と夫婦になってからも、おぬいの着物を嬉しそうに縫っていたのではなかったか。
 伊兵衛には、口やかましい母親がいた。伊兵衛の許へ嫁いだなら、おすえのようすを見に来るのもままならないだろう。」

 ひとつひとつの言葉の使い方に、ほんのわずかだが「ぎこちなさ」を感じるところも
あるのだが、こういう素直な表現と構成は絶賛に値するだろうと思う。この作品の結末も、「雨の音が、こころなしか小さくなったようだった」(文庫版73ページ)という心象風景で終えられている。

 第三話「片葉の葦」は、本所駒留橋の小溝のたもとで風の吹きだまりのせいで陽の当らない方向にばかり葉を茂らせている葦になぞらえて、春を売る女(売春婦)として生きている主人公が、女たらしで仕事もしない男に惚れて、別れられない「遊女の深情け」の中でもがいていく姿を描いたもので、その男が新しく作った女髪結いの女との確執もあったが、天保の改革で、その女髪結いが捕縛された時に、彼女に示される「情け」を感じていくというものである。

 そう言えば、北原亞以子の作品には、どうしようもない男に惚れていく女の心情を取り扱った作品が多いのだが、「惚れる」というのは、たとえそれがどうであれ、男にとっても女にとっても掛け値なしに貴いことに違いない。

 この作品には、北原亞以子らしい優れた表現がたくさんあって、主人公の「お蝶」が心細さと不安を感じながらも男を探しに行く場面で、「傾きかけた陽が、路地を赤く染めていた。どこから飛ばされてきたのか、枯葉がどぶ板の上を転がっていく。お蝶は、風に巻き込まれたように外へ出た」(文庫版 91ページ)と表わされたりして、「どぶ板の上を吹き飛ばされて転がっていく枯葉」と主人公の生涯が重ねあわされて、何とも言えない情感をつくっている。

 また、「片葉の葦」を眺めながらの主人公の心情が次のように示される。

 「似てるじゃないかと、お蝶は思った。風の当たらぬ方へ葉を茂らせるほかはなかった葦と、陽の当らぬ方へ歩いていくほかはなかったお蝶母子やお藤達とは。
 そういえば、女髪結いのおとくにも、軀を売って暮らしていたことがあるという噂がまとわりついている。おとくもまた、陽の当らぬ方へ葉を茂らせるほかはなかった片葉の葦なのかもしれない」(文庫版 95ページ)。

 こうした表現は直線的である。そして、直線的であるがゆえに心を打つ場面になっているのである。

 第四話「女子豹変す」は、貧乏御家人の「筧(かけい)」家の次男坊として生まれ、麗しい容貌をもちながらも、それが災いして三両一人扶持(三ピン)にもなれなかった男と、亭主を亡くして二人の子どもをなりふり構わず育てている惣菜売りの女との間に生じる愛情の始まりを描いた作品で、第五話「胸突坂」は、老舗ではあるが傾き始めた菓子屋を一人で背負っている女と、その幼友だちで昔は貧乏し苦労したが今は繁盛している料理屋の女将との間の確執と友情を描いた作品である。

 第六話「古橋村の秋」は、豊臣秀吉に敗れた石田光成をかくまい、彼にどこまでも忠誠を尽くそうとする百姓の与次郎太夫、彼の息子とその忠誠を支える許嫁の娘の心情を描いたものであり、第七話「待てば日和も」は、惚れた男に捨てられて死のうとした女がひとりの男に助けられ、その男が、かつては老舗の呉服屋で辣腕をふるっていたが、あまりの冷遇に一切を捨てて落ちぶれていることを知り、自らを顧みていくという話である。

 いずれもいくつかの伏線が交差して、貧しくどうしようもない中で、人間の「温かさ」や「愛情」を求め、それがいかに人間にとって生きる力となっていくかを描いたものである。

 人は、木枯らしが吹く寒い冬に自らを温めるすべをもたない生物であり、それだからこそ「温かさ」を必要とする生物である。北原亞以子は、江戸の庶民の姿や男女の「情愛」を描くことによって、その「温かさ」がどんなものであるかを描き出していくのである。ほんの少しでもいいから、その「温かさ」があれば、人は生きていけるのである。

2009年11月19日木曜日

北原亞以子『白雨 慶次郎縁側日記』

 昨日の午後は少し晴れたのだが、今朝は重い雲の冬空が広がっている。始まっている本格的な寒さが身にしみるようになってきた。風も冷たい。指先に寒さが宿る。空気が冷え冷えとし、霙でも落ちてきそうだ。

 昨夜はなんだか疲れ切って、ビールを飲みながら、だらだらとあまり意味のないテレビ番組を見つつ北原亞以子『白雨 慶次郎縁側日記』(2008年 新潮社)を読んだ。そして、読んでいるうちに段々と嬉しくなっていき、ついに夜中までかかって読了した。

 北原亞以子のシリーズ物で一番気に入っているのは『深川澪通り木戸番小屋』であるが、『慶次郎縁側日記』も、あっさりと書かれているところが良いと思っている。このシリーズは、刊行年順に記せば、『傷』、『再会』、『おひで』、『峠』、『蜩(ひぐらし)』、『隅田川』、『やさしい男』、『赤まんま』、『夢のなか』、『ほたる』、『月明かり』の11作と、『脇役 慶次郎覚書』がこれまで出されており、『白雨』は12作目の作品となる。この内で、まだ読んでいないのは、記憶が怪しいのだが、たぶん、『月明かり』だけのような気がする。

 このシリーズは、前にも少し書いたが、元南町奉行所の同心で「仏の慶次郎」と呼ばれた人情厚い森口慶次郎が、今は隠居して酒屋の寮番をしながら、江戸の市井に生きる様々な人々と、その人たちが起こす様々な事件や出来事に関わっていく話で、どうにもならない状況のなかで生きなければならない人々に示される「情の温かさ」と「暖かさの呼応」がさりげなく、そしてふんだんに描き出されていて、読むだけで何となく嬉しくなる作品である。

 『白雨(はくう)』は、「流れるままに」、「福笑い」、「凧」、「濁りなく」、「春火鉢」、「いっしょけんめい」、「白雨」、「夢と思えど」の2005年から2006年にかけて「小説新潮」に掲載された8つの作品が収録されており、たとえば、第一話「流れるままに」は、自分の意志や決断というものがあまりなくて、すべてを人のせいにして生きている質屋の婿養子がやりきれない思いで生活する中で盗癖のおる女に引っかかって脅される話であり、第二話「福笑い」は、あまり機転が利かずにぼんやりすることが多くて勤め先から暇を出され、口入屋(仕事斡旋所)に身を寄せながら暮らしている女が、惚れた男に、これも仕事を首になり、他の女に世話になっていることを知りながらも金を貸し、富くじに当たったという男の財布から金を返してもらおうとして泥棒と間違えられる話である。

 第三話「凧」は、昔自分を捨てて男と逃げた女房のために岡っ引きの「蝮の吉次」がさりげなく動いて、養女にするつもりだった女にまとわりついている男のことを調べたり、養女になるはずだった母親と暮らしている女が、母親との関係を恢復していったりする話である。

 第四話「濁りなく」は、父親のこと(慶次郎の愛娘を手ごめにして自害に追いやった)で重荷を追ってきた岡っ引きの辰吉と暮らす「おぶん」が親しくしている気のいい後家さんが、大金を騙し取られ、それを慶次郎と辰吉たちが解決していく話である。昨今の社会を賑わせている詐欺というを視野に入れて書かれたものだろう。

 第五話「春火鉢」は、久しぶりで早く家に帰って来て、頂戴物のもちを焼いて食べる家族のありがたみを味わった同心の島中賢吾が、お互いにまだ思いをもちつつも、喧嘩をし、刃傷沙汰を起こして夫婦別れをした男女に関わる話で、第六話「いっしょけんめい」は、あまり丈夫ではない女が可愛がって育てた娘が、仕事もせずに気に入らない男と所帯をもったために独り暮らしをし、意地を張っていたが、その中で娘夫婦と孫のありがたさを知っていく話であり、第七話「白雨」は、慶次郎と一緒に酒屋の寮番をしている変わり者の「佐七」の友人となった男が、実は、昔の大泥棒であったことが分かり、「佐七」が傷つかないように慶次郎がその友人と話をつけに行く話である。

 そして、第八話「夢と思えど」は、昔、駆け落ちの約束までして惚れぬいた男が、約束の場所に現れず、その男への思いを秘めたまま二度の結婚をし、二度とも失敗し、三度目の結婚話が持ち上がってきた時に、偶然、その昔の男に出会い、その男と再び駆け落ちすることになったが、その時も、男が現れないという筋立てである。

 男は、その女への強い思いをもちながらも、自分のような男では相手を幸せにできずに苦労ばかりかけると思って、その独りよがりの気持ちのまま出奔してしまうのである。男は、女に対してとった自分の行為を罪業と感じていく。こういう男の気持ちはわからないではないし、ふと、デンマークの哲学者S.キルケゴールのことを思い起こしたりしながら読んだ。

 北原亞以子『再会』は、相変わらず、物語の展開も文体も練られていて、流れるように読むことができるような工夫がされている。彼女の小説作法の技量は、相当なものである。

 たとえば、第一話「流れるままに」の冒頭のところで、次のような表現が出てくる。

 「確かに、すべてを他人のせいにしてしまえば気持ちは楽になると慶次郎も思う。慶次郎も、その誘惑に負けて他人の言う通りに動き、あとでそのひとのせいにしたことが幾度かある。が、後味は悪かった。」(9ページ)

 こういうことを素朴なことを無理なくさらりと表現しているのがいいし、「何度か」ではなく「幾度か」という言葉の選択も洗練されたものがある。

 そして、相変わらず、独りで貧しく生きなければならない人間の心情の表現もうまい。

 第二話「福笑い」で苦労しながら生きている「おふく」という女性について、

 「自分が気のきかない女であることも、湯が沸く時のあぶくや鑿に削り落された木屑など、人があまり興味をしめさないものを眺めているおかしな女であることはよくわかっている。そのことで叱られたり呆れられたりするのには慣れているが、持って帰った餅で雑煮をつくり、一人で食べた時にはさすがに涙が出た。」(50ページ)

 と記す。侘しい一人暮らしの姿は、その食事の時にもっとも感じられるが、「雑煮を一人で泣きながら食べている姿」を思い浮かべると、それがひしひしと伝わってくる。

 また、書き出しも真に優れていて、たとえば、第三話「凧」の書き出しは次のようなものである。

 「職人風の男と一緒に、風のかたまりが店へ飛び込んできた。室町三丁目の畳表問屋、伊勢屋の店先であった」(73ページ)

 この「風のかたまり」が、登場する岡っ引きの「吉次」や登場人物の心に吹き込んでいくのである。こういう書き出しは、おそらく何度も推敲を重ねたものだろうと思う。

 また、第五話「春火鉢」には、次のような一節がある。

 「春の宵である。とろりとかすんだ薄闇の中へ洩れる明かりは、日々の暮らしに満足している者と胸に屈折した思いを抱えている者とでは、まるで色合いがちがうだろう」(154ページ)

 この一節だけで、この物語に登場する人物がどんなものであり、この物語が伝えることが分かるような気がするし、この物語の最後の言葉は、事情を知った同心の島田圭吾が、「ひえびえとした時には、物置に入れた火鉢を出すにかぎるのだ」(156ページ)と思う言葉である。まことに読後感の後味の良さを感じる表現である。

いずれにしろ、『再会 慶次郎縁側日記』は、それぞれが、それぞれの重荷や苦労をしながら江戸の市井で生きる庶民の姿を取り扱ったものである。こうした作品は多いし、わたしも好んで読んでいる。読んで、ただただ嬉しくなる本である。

2009年11月17日火曜日

平岩弓枝『平安妖異伝』

 雨で、寒い日になった。シベリアからの寒気団と低気圧が一緒になって、山沿いでは雪とのこと。冬が始まっていることを実感する。

 昨日、久しぶりで池袋まで出かけた。そこで「大江健三郎」について話をするためだが、その後のそれを主催した会のスタッフとの「打ち上げ」の席でのT大学のS教授との話の中で、「大江健三郎」の作品の「予言性」のようなことについての話が出た。三島事件やオウム真理教の事件など、それが実際に起こる前に大江健三郎が作品の中で同じような事件を書いていることについてなのだが、お互いに、文学者のもつ感性の鋭さに納得するものがあった。おそらく、大江健三郎のような優れた感性をもつ文学者は、人間と社会の現状をよく観察し、これを鋭く分析して、その本質を見出すことで、起こりうるだろうこと、あり得るだろうこととして、それを作品に盛り込んでいく精神の作業を極めて深く行っているからだろうと思う。「観察者」であることは、ひとつの重要な要素なのである。

 池袋までの往復の電車の中で、幸いにも座席に座ることができたので(利用している東急田園都市線と半蔵門線は、たいてい、耐えがたいほどのすし詰めの満員か混んでいる。往復とも座れるのは、真に幸運としか言いようがない)、平岩弓枝『平安妖異伝』(2000年 新潮社)を読んだ。平安時代に左大臣、摂関、太政大臣となっていった藤原道長(966-1028年)がまだ青年期の頃を物語の引き回し役にして、異国の血をひき不思議な能力をもつ楽士秦真比呂(はたのまひろ)を登場させて、数々の怪異現象を解明していくという筋立てである。

 平岩弓枝の作品は、やはり、なんといっても『御宿かわせみ』シリーズで、与力の次男「神林東吾」と「かわせみ」という宿の女主人「るい」、そして、東吾の友人であり同心である「畝源三郎」を中心に様々な事件を解決していくというこのシリーズの江戸物は、描き出されるどの人物もとても魅力的で、一時、とてもハマって全部読み、全巻をそろえたいと思ったほどだった。

 何度かテレビドラマ化もされて、記憶に残っているのでは、「るい」役を真野響子さんという切れ長の素敵な目をした美人女優さんが演じられたもので、後には、若尾文子さんという幾分ゆったりとした感じのする、これも切れ長の目をした美人が演じられたものである。しかし、残念がら全部を見たのではない。神林東吾役が誰であったかは忘れてしまった。真野響子さんの美しくあでやかな着物姿だけが目に焼き付いている。

 テレビドラマといえば、宇江佐真理の『髪結い伊三次捕物余話』のシリーズがドラマ化されてBSフジで放映されているが、こちらは、残念ながら放映時間が仕事の都合と重なって見ることができない。録画すればいいのだが、レコーダーが古くて操作が面倒なのでしていない。再放送を期待するだけである。楽しみに見ているのは、TBSの日曜劇場で放映されている『JIN―仁』というドラマで、村上もとかという人の漫画を原作にしたものである。脚本を森下佳子という人が書いているそうだが、登場人物のせりふがたまらなくいい。これは、日曜日の夜の楽しみになっている。

 さて、平岩弓枝『平安妖異伝』であるが、これは、やはり、歴史考証もしっかりしているし、おそらく平安京の地図の上で登場人物たちを縦横に動かせて描かれていると思えるし、当時の風習や建造物への考証もかなりのものがあるので、忌憚なく読める。また、藤原道長をはじめとする歴史上の人物への肉薄も、さりげない文章にしっかりした考証がされていることをうかがわせて、面白い。もちろん、作者が創った秦真比呂という少年も魅力的に描かれているのは言うまでもないことである。

 もともと、「秦氏」は日本文化と技術に多大な影響を与えた渡来人であり、政治の中枢にもいたのであるから、怪異な事件を解決する不思議な能力ももつ少年が「秦」であるのは、納得できる設定である。平岩弓枝は、こうしたことは、やはり、さすがにしっかり考えているし、彼女の文章もこなれているので、本当に面白く読める。物語は、藤原道長が幻惑に惑わされたり、魑魅魍魎に惑わされたりして危機に陥る時に秦真比呂が彼を助けるとう話で、不思議が不思議でなくなるところがいい。

 しかも、単なる怪異現象が取り上げられるのではなく、人間の「情」や「思いやり」の現象として描き出されるところが平岩弓枝の感性の豊かさを表している。

 たとえば、第四話「孔雀に乗った女」は、かつて大陸から持ち込まれ、使われないままに片隅に追いやられ、整理されることになった多くの楽器のうち、孔雀と異国の女性が描かれ螺鈿がはめ込まれた五絃の琵琶が、その用いられないことを悲しみ、人々を惑わすという話であるが、秦真比呂は、藤原道長に次のように言う。

 「父が申して居りました。楽器によっては、ここに納められたきり、二度と陽の目をみることのなかったものも少なくはあるまいと・・・・・」
 真比呂の声が寂しげであった。
 「楽器はそれを弾きこなす者があって、はじめて人の目にも触れ、喝采を得ることが出来ます。使い方もわからず、使う人もなく、埋もれたものの悲しさは、誰にも知れません」(107ページ)

 こういうくだりは、なかなかのものである。

 もちろん、ここで言われていることを全面的に肯定しているわけではなく、わたし自身は「用いられることを恥とせず」ではあり、また、「用いられること」を求めているわけでもないし、人は埋もれて生きていくのがいいと思っているが、「埋もれたものの悲しさ」はわかる人間でありたい。平岩弓枝は、作家として大成した人ではあるが、こういう心情を描き出せるところがいい。

 天気はひどいものだが、少し散策もしたいとは思うが、今夕は予定があって、たぶん、近くのスーパーマーケットに買い物に行くのがせいぜいだろう。今日はしなければならないことが山ほどある。いつかは何も予定がない日々になればとつくづく思う。

2009年11月14日土曜日

諸田玲子『氷葬』

 昨夜から雨が降り続けて、今朝も白く煙った世界が広がっている。ただ、気温が少し高くなっているのでそれほどの寒さは感じない。昨日はいくつかの仕事をしながら「大江健三郎論」を書いていた。少し詳しくなりすぎたし、文体も固いものになっていたので、いくつかのことを削り、文体も柔らかいものにしていた。論文になると、どうしてもわたしの文体は思考をそのまま反映して練られたものにならないきらいがある。弁証法が多すぎるのかもしれない。

 諸田玲子『氷葬』(2000年 文藝春秋社 2004年 文春文庫)を読んでいるがなかなか進まない。この作品は、江戸時代の中期である明和3年(1766年)に起こった「明和事件」をベースにしたサスペンス仕立ての小説であり、少し探究心の強い理知的な主人公ではあるが、言ってみれば普通の主婦が織りなす冒険活劇でもあり、物語の起伏や展開も面白く描かれているのだから、本当は一気に読めるのだが、夜、疲れてしまって、手に持って枕元に広げたままいつの間にか眠ってしまう日々が続いているために、なかなか読み終わらない状態になっている。

 「明和事件」というのは、明和の前の宝暦年間に尊王思想を基にした幕府批判によって起こった「宝暦事件」(宝暦8年 1758年)に続いて起こった事件で、江戸で儒学や兵法を教えていた山県大弐(1725-1767年)と宝暦事件に関連していた藤井右門(1720-1767年)が上野小幡藩の内紛にからんで幕府批判の不敬罪で処刑された事件である。山県大弐の門弟には上野小幡藩家老吉田玄蕃をはじめとする小幡藩の家臣が多くあり、危惧を感じた小幡藩家老の吉田玄蕃が彼を幕府に謀反の疑いがあるとして訴えたことによって、事件が公となり、山県大弐らは死刑となったのである。一説では、山県大弐と藤井右門は、甲府城や江戸城を攻撃する軍略を練っていたともいわれる。

 諸田玲子の『氷葬』は、この事件に巻き込まれた小幡藩に隣接した岩槻藩の下級藩士の妻の芙佐の姿を描いたもので、夫の江戸における知己と名乗って訪ねてきた男に暴行され、辱めを受けた芙佐が、その男を殺して沼に捨て、氷の下に閉じ込めようとしたところから事件に巻き込まれていくのである。彼女を凌辱した男が、いわば、明和事件の山県大弐が記したと思われる軍略書や幕府転覆の誓約書と思われる書状をもっていたからである。凌辱と殺人を隠そうとする彼女の元に、その軍略書と誓約書を探しに、小幡藩の隠密や幕府の密偵が襲いかかり、彼女のまわりの人間たちが殺されていくにつれ、彼女は、夫もその事件に関連しているのではないかと感じたりして、決然と、その謎を解くべく立ち上がり、彼女にふりかかった事件を自ら解決していくのである。

 ここには、拭いさっても拭いきれない過去を背負った女性の姿が描かれているし、夫も子もありながらも、自分を助けてくれる公儀隠密と思われる武士に対する揺れる思いも描かれている。しかし、彼女は、沼の氷の下に閉じ込めたように、すべてを自分の胸に閉じ込めて生きていく。

 人は、すべてを胸にしまって決して表には出さないものを閉じ込めながらも、その日常を送らなければならないのかもしれないと思う。人の日常には、そうした影が常につきまとう。特に女性は、いつも現実的で、過去を忘れやすいと言われたりするが、過去を忘れるのではなく深い沼に凍結させるのかもしれない。女性は男性以上にその影を自らの肉体に刻みつけることが多いのだから。諸田玲子は、そうした影を抱いて、しかも、たくましく生きていく人間の姿を描きたかったのではないかと思う。わたしの場合、過去はいつもぐずぐずと、あるいはうじうじと渦巻いている。

 しかし、最近、わたしはよく昔出会った人々を妙にリアリティのある場面の夢で見ることが多くなった。何の脈略もないのだが、様々な光景を夢の中で思い起こすのである。昨日は、ある人と冷えたトマトを輪切りにして食べているところの夢を見た。トマトの赤が鮮烈に記憶に残っている。おかしなものである

2009年11月13日金曜日

北原亞以子『江戸風狂伝』

 昨日は一昨日の雨は上がっていたのだが重い空が立ち込め、「木枯らし吹いておもては寒い」一日だった。今日も、灰色の雲に覆われて、寒い日になった。葉の落ちた木々の梢が震えている。冬の足音が聞こえそうだ。

 昨日、ホームセンターでホットカーペットの上敷きを買ってきた。これまで長く使ってきたホットカーペットの上敷きがコーヒーをこぼした跡などが点々とついていたので、これを処分し、新しい物と変ようとして、4時間ほどかけて家の全部の拭き掃除をした。こういう新しさは、ほんのわずかでも気持ちのいいものである。そして、新約聖書の『使徒言行録』をギリシャ語で読んでいると、いつの間にか日が暮れて、気づいたら、夜の八時になっていた。

 昨夜、少々疲れ気味ではあったが、北原亞以子『江戸風狂伝』(1997年 中央公論社)を読んだ。これは、「風狂」とか「粋人」とか呼ばれた人たちの「風狂ぶり」を描いた作品であるが、「伊達くらべ」をしかける金持ちや吉原で財産を散在してしまう人間や、少なくとも「愚人」であるわたしにとっては面白くもなんともない人間の姿が取り上げられて、文体のリズミカルな描写とは別に、読み進むのに息の上がらないものではあった。

 しかしながら、第四話の「爆発」で平賀源内(1728-1780年)が取り上げられて、平賀源内が捕縛される前(源内は勘違いによって二人の人を殺傷した罪で投獄される)の姿が、ただ周囲の人々の好意を五月蠅く思っていた「変人」として描かれたり、第六話の「臆病者」の歌川国芳(1798-1861年)が天保の改革(1841年)に反骨精神を発揮したことなどが、実は、気の弱さからのものであったとされていたりすることなどは、なかなか味のあるものである。雑誌に発表されたことの関係で枚数の制限があったのかもしれないが、たとえばこの二人は市井に生きた人であり、「遊び心」というのも豊かな人たちだったのだから、もう少し描き出された方が良いのではないかと思ったりはするが。

 第七話「いのちがけ」は、宝暦年間(1751-1763年)に講釈師として活躍した馬場文耕(1718-1758年)を取り上げたもので、馬場文耕は、元は伊予(愛媛県)の浪人中井文右衛門といい、1754年ごろから講釈師として活躍し、反骨精神旺盛で、宝暦8年(1758年)に、美濃郡(岐阜県)上八幡の金森家のお家騒動を「珍説森の雫」と題して講釈し、幕府を批判したかどで逮捕され、獄門に処せられた人である。

 作中では、この馬場文耕が「森の雫」を講釈する時の姿が描かれ、捕縛を怖れつつも、百姓の側に立って話をする文耕の姿が描き出されており、内偵に来た岡っ引きも、自分も水呑百姓の倅で、その水呑百姓のことを語る文耕をなんとか助けようとするのだと言ったりして、興味深い。

 いずれにしても、「風狂」とか「粋」とか「反骨」とかいうことが、小さくて弱い人間が、恐れ慄きつつもやむを得ぬ心情の中で精いっぱいの抵抗をすることであることが、これらの人々の姿を通して語られており、その視点は市井を懸命に生きようとする人々への作者の眼差しを反映したものとなっていて、少なくともわたしにとっては好感のもてる人物像となっている。ただ、いつの世でも、権力者たちはその力をふるってこのような人を抹殺してきたし、今の世では、「風狂」とか「粋」の精神もすたれてしまった。「粋」というのは、もはや死語に近い。

 しかし、力を振るう者には、「粋」で抵抗することが、また「粋」ではあるだろう。「粋」は、日常の生活スタイルなのである。それは、ファッションでも外見でもなく、精神の問題なのだ。

2009年11月12日木曜日

北原亞以子『再会 慶次郎縁側日記』

 昨日一日降り続けた雨が上がっているが、重い雲が下がっている。昨夜はずいぶん風も吹いたようで、街路樹の銀杏の葉が道路にべったりと貼りついている。車の騒音は相変で、いくつかの文書をプリントアウトする作業もあるのだが、ぼんやりとその遠景をみながらコーヒー―を入れて眺めたりする。久しぶりにモーツアルトを聞き、朝の時間を過ごした。

 昨夜から北原亞以子『再会 慶次郎縁側日記』(1999年 新潮社 2001年 新潮文庫)を読んでいる。この作品は、このシリーズの2作目で、このシリーズの『傷』、『おひで』、『峠』、『蜩』、『隅田川』などはすでに読んでいたが、シリーズとはいえ、どれから読んでもいいように構成されている。そして、『再会』は、元南町奉行所の同心で「仏の慶次郎」と言われた深い人情をもつ主人公の人と成りがよく描き出された作品でもある。

 それにしても、この作品に出てくるすべての人が何と優しく描き出されていることか。愛娘を自害という出来事で失った慶次郎の養子となった愛娘の元許嫁の晃之助と、出来事のすべてを知りつつ晃之助の妻となった皐月、酒屋の寮番として慶次郎と一緒に暮らす佐七、岡っ引きの辰吉、蝮と言われて悪事を働いた人間をゆする岡っ引きの吉次とその妹夫婦、やがて慶次郎が惚れることになる料理屋の女将お登世、そして、様々な事件を起こす人々も、すべて優しいし、また、人情に人情が呼応する人々である。言い換えれば、「人の情け」がわかる人たちなのである。

 わたしが時代小説の市井物と呼ばれるものをこのところずっと読んでいるのは、そういう「情けがわかる人々」が描かれているからである。これは、哲学の中にも思想の中にもない。「智に働けば角がたつ。情に棹をさせば流される」が、論理的な思考癖もつわたしが、「論理ではなく、情で生きよう」と思ったのは、もうずいぶん前で、情に流され、涙をぽろぽろこぼしながら、「それでもいいではないか」と思いつつ生きて、こういう「情けがわかる人々」に胸打たれるのは、自然の成り行きだろうと自顧したりする。

 物事の美醜を感じるのは、それを感じることができるものがあるからで、愛を感じることができるのは、ただ愛だけである。カント的な言い方をすれば、感情には先験性(ア・プリオリ)が必要なのだ。真、善、美、そして何よりも愛を見出すには、その自己の中の先験性を豊かにする必要がある。人間がそうして生きることができたらなんと素晴らしいだろうかと思う。

 論理を働かせ、功利的に生きる人間は、その論理がどんなに正当で素晴らしく構築されたものであれ、いやらしい。わたしが好きな時代小説の市井物には、それがない。

 たとえば、『再会』に収録されている第一話「恩返し」の冒頭に、重い風邪(今でいうインフルエンザだろう)にかかった慶次郎のもとに養息子の嫁の皐月が、前掛けとたすきを入れた風呂敷包みをかかえて籠を飛ばしてくる場面がさりげなく描かれている。皐月は、半月ほど慶次郎の看病をするために用意して出てきたのである。養息子の晃之助も、息せき切って翌日現れる。慶次郎と晃之助、その妻の皐月との間には血のつながりはない。しかし、義父が重い風邪を患ったと聞きつけ、「籠を飛ばし」、「息せき切って」駆けつける姿に、その心情の温かさがある。

 第一話の「恩返し」は、自分を養ってくれた親の九右衛門が、実は泥棒だったということを知った老舗田島屋の婿養子になっている道三郎が、その養い親への恩を返すために、自分の地位も名誉も捨てて、養い親の泥棒を助けるという話である。

 そのことを知った慶次郎は、泥棒に入ろうとした九右衛門を捕え、言う。

 「道三郎は、自分を捕えてくれと言った」
 九右衛門が慶次郎を見た。
 「自分が捕らえられれば、お前が盗みをやめるだろうというわけさ。田島屋の暖簾とお前の恩とを天秤にかけて、お前の恩をとったんだよ。それが道三郎の恩返しだったんだ」
 倒れるのではないかと思うくらい、九右衛門は深く首を垂れた。「恥ずかしいよ」という声が、少しくぐもって聞こえてきた。
 「旦那、頼むよ。明日、半日でいいから暇をくんな。道三郎に詫びてから自訴をする・・・」
 「だめだ」
 慶次郎はかぶりを振った。
 「自訴して、道三郎や、何も知らねえ田島屋にまで迷惑をかける気か」
 九右衛門は、ふたたび首を垂れた。
 「茂八んとこか江戸の隅っこで、おとなしくしているんだな」
 返事は聞こえなかった。

 翌日、慶次郎が辰吉の家へ出かけた留守のことだった。山口屋の寮に巡礼姿の男がたずねてきて、油紙にくるまれた重い包みを置いて行ったという。
 開けてみると、二十五両ずつたばねられた小判が八つ、きれいにならべられていた。(文庫版 42-43ページ)

 返されたのは、九右衛門が盗んだ二百両である。養い子の道三郎の思いと慶次郎の情けを知った九右衛門が、首を垂れ、巡礼に出るというのもいいし、慶次郎の思いもいい。慶次郎は、まことに「粋」な人間である。こういう「情けの呼応」が素晴らしい。

 そして、また、北原亞以子は、「独りで生きなければならない人間の淋しさと不安」もよく描く。第六話「やがてくる日」に、仕立ての内職をしながら独りで暮らしている「おはま」という女が出てくる。

 「おはま」は、十六歳で一目ぼれした羽根問屋の息子と結婚するが、それから五年後に亭主の浮気が止まず、姑もからもいじめられ、ついに舅から大金をもらって家を出て、実家に戻り、その実家でも弟に嫁が来て、折り合いが悪くて家を出て、しばらくは母親と暮らしたが、その母親も死んで、独り暮らしとなった女である。もらった金も残り少なくなってきた。「三十―か」とおはまは呟く。将来の不安がのしかかってくる。

 「おはまも、やがて老いる。恐ろしいのは、おはまが考えている以上の長生きをすることだった。六十を過ぎても内職ができるとは思えず、その頃は多分、居食いで暮らしていることだろう」(文庫版 200ページ)と考える。

 おはまは、憂さ晴らしに高価な着物を買い、贅沢な寿司を食べようと思う。しかし、何度も逡巡する。三両も出して高価な着物は買った。だが、値の張ることで有名な寿司屋に行く時、「『みんな、一緒に行く人がいるんだ』一人で鮨を食べに行くのは、おはまだけではないか」(文庫版 204ページ)と思う。

 「何だって、わたしだけこんなに淋しいのさ。わたしは何も悪いことをしちゃいない。浮気者の亭主と意地のわるい姑がいやで、羽根問屋を飛び出しただけなのに」
 すぐ目の前を歩いているおはまと同じ年恰好の女は、十歳くらいの女の子を連れていたし、その先にいる女は、わざと不機嫌な顔をしているらしい亭主から少し離れて歩いていた。
 「わたしの方が縹緻(きりょう)はいいのに。あの女達が、あの紬を着たって似合わないのに」
 だが、あの紬を着たおはまを、誰が見てくれるのだろう。(文庫版 204-205ページ)

 と思い、泣き出しそうな顔になって踵を返す。

 こうした「独りで生きなければならない人間」の姿が細やかに描かれる。それは、おはまのような三十路の女だけでなく、第八話「晩秋」に登場する頑固者で誰も寄りつかなくなって独り暮らしをする五兵衛も、親切ごかしをしてその五兵衛の懐をねらう我儘で怠け者の幸助という男もそうである。

 「孫に会いたくなったのだろうとは、わかっていた。身内の者に会うのは癖になる。音沙汰なしで暮らしていれば、淋しいことは淋しいが、会いたさにいても立ってもいられなくなるということはない。が、一度身内の家へ行って、親子やら兄弟やらのにおいを嗅いでしまうと」だめなのだ。食べ物のすえたにおいばかりがこもっているような自分の家へ帰るのがいやになるのである」(文庫版 258ページ)

 北原亞以子は、ここでこう続ける。

 「両親をあいついでなくし、青物町の店も人手に渡って、南小田原町の裏店で一人暮らしをはじめた頃、幸助は叔父の家へ泊まりに行ったことがある。叔父には叱言を百万遍も言われたが、いとこの女房は親切だったし、暖かいめしも焼魚も、縄暖簾のそれとは比べものにならぬほどうまかった。
 二晩泊めてもらい、三日目の夕暮れに「またくればいい」という叔父の言葉に送られて家へ戻ったのだが、明かりのついていない家の暗さがまず、いやになった。「今帰った」と言っても、当然のことながら返事はない。
 叔父の家へ行く前に脱ぎ捨てていった着物は、丸められて部屋の真中に置かれたままだし、急須の中では茶の葉がひからびていた。
 いとこの女房が持たせてくれた菓子を一人で食べるのも気のきかぬ話だと、縄暖簾へ行くつもりで外へ飛び出させば、味噌汁ではなく、築地の川がはこんでくる潮のにおいがする。縄暖簾で顔見知りを見つけ、足許もあやうくなるくらいに飲んで、家へ戻ればまた暗闇だった。明かりの入っていない行燈と、ひからびた茶の葉の入っている急須と、いとこの女房のもたせてくれた菓子が、ぽつねんと幸助を待っていたのである。」(文庫版 258-259ページ)

 こういう侘しさや淋しさは、実際に、幾分かは文学的に誇張されているとはいえ、本当のところである。そういう心情で生きなければならない人間の悲しみが行間にある。人には人の温かさが、それも日常に、必要なのである。何も特別なことはいらない。そういう温かみの必要性を『慶次郎縁側日記』は改めて感じさせてくれるのである。

 表題作になっている「再会」は三話あり、いずれもこのシリーズに登場する人物たちが、それぞれに昔かかわりがあった女性と再会する話であり、第一話は岡っ引きの辰吉のところに彼を「兄さん」と呼び慕っていた「おもん」が助けを求めて訪れ、そのことによって辰吉が人殺しの疑いをかけられるという話である。第二話は、慶次郎がふとしたことで入った蕎麦屋に七年前に関係をもった「おしん」という女性がいて、外見と中身が違うと言われ続けてきた「おしん」が慶次郎を訪ねてくるという話である。第三話は、岡っ引きの吉次が、昔自分を捨てて男と逃げた元の女房で、裏櫓(場末の女郎屋)の女将をしている「おみつ」と事件の探索の過程で再会するという話である。

 いずれも、元の鞘には戻らないが、それぞれの人生の交差点を中心にして、それぞれの人生が語られる。人と人との出会いは真に不思議なものである。縁があって一緒に生きる人もあれば、望んでも、ついに縁のない人もある。まことに「縁」という言葉がふさわしいのかもしれないが、それで人生が大きく変わっていく。「縁は異なもの、味なもの」である。

 わたしにはどんな「縁」があるのだろうかと、自分自身がこれまで関わった人たちのことを思う。そして、おそらく、「縁なきまま」に、人生が終わっていくのかもしれないとも思う。ただ、「縁」は、自分で作り出していくものであり、孤独を囲わなければならないのは、自ら招いたことではあるが。

2009年11月11日水曜日

佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』

 天気予報どうり昨夜から雨が降っている。空が煙っていて、雨らしい雨になっている。こんな雨の日はぼんやりと外を眺めていたいのだが、そうもいかない。

 昨日、急を要する仕事をいくつかかたずけて、朝から大江健三郎についてまとめていたら、いつの間にか夜の暗闇になっていた、つるべ落としで日が暮れたのも気づかずにいた。今朝、たぶん昨夜の夢の続きかもしれないが、何の脈略もなく、数字の「0(ゼロ)」のもつ不思議で絶大な力について考えたりしていたら、仕事の電話が入ったりした。人間は、いつから雨でも仕事をするようになったのだろうか、とふと思ったりする。考えることに脈略がなくなって、たぶん、集中力が切れているのだろう。

 昨夜、前作に続いて、佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(2002年 実業之日本社 2007年 講談社文庫)を読む。

 この作品は、主に江戸時代の天保年間に儒学者・随筆家として活躍した寺門静軒の代表作『江戸繁盛記』を基に、その人物を描き出す、いわば伝記小説の形をとっており、こうした手法は司馬遼太郎が駆使するところでもある。

 寺門静軒は、寛政8年(1796年)に水戸藩御家人の妾腹の子として江戸に生まれるが、仕官がゆるされず(小説では御家人株を売って)浪人となり、学問で身を立てるべく折衷学派山本緑陰の門人となり、駒込で塾を開いていたが(水戸藩への仕官運動もするが受け入れられず)、貧にあえぎ、天保2年(1831年)から江戸の風俗を漢文で記した『江戸繁盛記』(天保13年、1843年、までに5編を出す)が評判を呼び名声を博する。しかし、天保の改革によって、風俗を乱す者として武家奉公御構の処分を受け、追放されて各地を遍歴後、安政7年(万延元年)現在の埼玉県熊谷市近郊で「先生は宜しく老ゆべし、子弟は宜しく学ぶべし」という意味で「両宜塾(りょうぎじゅく)」などを開いて、慶応4年(1868年)に没した人である。なお、言うまでもなく、慶応4年は、明治維新の年でもあった。

 佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』は、この寺門静軒の『江戸繁盛記』出版の前後から、貧にあえぎながらもなおも向学心をもって生き、なんとか糊口を潤したいと焦る彼の姿や生き方が漢文の『江戸繁盛記』を読み下しつつ、生き生きと描かれ、身につまされるところも多く、作者の技量がいかんなく発揮されている作品であると言えるだろう。

 それにしても、文化・文政以後の江戸時代の狂歌にしても、いわゆる洒落本や絵草子にしても、なんと語彙が豊かで洒落ていることだろう、と改めて思う。多くは、漢文の素養が基にあるとはいえ、なかなかのもので、たとえば、『江戸繁盛記』でも、暇を持て余して退屈を紛らわせていることを「白日を消して、以て無聊(ぶりょう)を遣(や)る」と表現されていたりする。(ちなみに、佐藤雅美の表題はおそらく、この言葉から取られたものだろう。)

 寺門静軒自身は、自らを「無用之人」と呼び、後に出した『繁盛後記』でも、「生まれて功徳なし。死後、馬となるも、また其の所。牛となるも、また其の所」(自分は生まれてきても何の役にも立たなかった人間であり、死んだあとに、馬になっても牛になっても、何の文句もなく、馬であれ牛であれ、残念に思ったりもしない)というようなことを語っているが、馬や牛というところが洒落ている。そして、佐藤雅美は、その寺門静軒の心情を遺憾なく描き出している。

 また、この作品には、当時の儒教を中心にした、いわゆる学界の背景も盛り込まれており、その中で、名もなく、係累もなく、在野の学者として身を立てなければならなかった寺門静軒の苦労が描き出されて面白い。それは、現代でも、さしたる学閥もなく、引き立てる者もなく、名も係累もないままに在野の思想家として生きている多くの人々の姿であるかもしれない。作者が伝記小説として寺門静軒を取り上げた理由はわからないが、つまらない歴史上の偉業を遂げた英雄たちを取り上げる歴史小説よりも好感が持てる。

 さらに、最後のところで、寺門静軒が流浪中に世話になった埼玉県の絹問屋浅見家の娘「わか」が、長命で、昭和7年(1932年)10月30日付東京日日新聞埼玉地方版で語っている静軒の思いでを紹介し、とっつきにくい恐ろしいような風貌をしていたが、やがて、「『どうしてこんないい方を江戸から追ひ出したのだろうと』と思ふようになりました」という談話を載せて、静軒が、気性がさっぱりしていて、誰からも好かれた、と語る(文庫版 383-384ページ)ところが晩年の彼の人となりをよく表わしていていい。また、静軒が、まれにみる愛妻家であったことも紹介される。作者が愛情をもって寺門静軒を見ている視点も読む者を楽しくさせる。

2009年11月10日火曜日

佐藤雅美『物書き同心居眠り紋蔵 密約』

 空は、晴れたり曇ったりだが、初冬の感じがしてくる日になった。目覚めた時に寒さを覚える。4時くらいに起き出して、佐藤雅美『物書同心居眠り紋蔵 密約』(1998年 講談社 2001年 講談社文庫)を読んだ。

 この作品は、『物書同心居眠り紋蔵』、『隼小僧異聞』に続く、このシリーズの3作目で、前の2作はまだ読んでいない。しかし、読んでいなくても、主人公の藤木紋蔵の姿がよく描き出されているので、時代小説の捕物帳として、大変面白く読んだし、時代考証も物語の背景としてしっかり生かされているし、おそらく、この作者は古地図も古文書もきちんと読みこなせるのだろうと思われて、なかなかの作品だと思った。

 古地図はともかく古文書は、現代人が見慣れない字の崩し方や用語の使い方もあって、これを読むには相当の慣れを必要とする。しかし、作者は苦も無くこれを読みこなせるのだろうと伺わせる箇所が随所にあって、作法からしても、じっくりと練られた跡がうかがえる。

 物語の主人公藤木紋蔵は、文化・文政年間に南町奉行所で例繰方(判例などを調べる役職)の与力に仕える物書(記録係)の同心であり、本人の意思にかかわらずに所構わず不意に眠りこんでしまう奇病の持ち主で、「居眠り」と呼ばれる人物である。彼がそのような奇病にもかかわらず、閑職とはいえ、物書同心として勤められるのは、彼の人格と才能を認める上役や周囲の人々に支えられているからで、彼自身、様々な事件を彼のやり方で解決していく力をもっている。

 この作品は八話から成り立っているが、それらが連携して、最後に、藤木紋蔵の父が殺された事件の謎を解くという方向へと流れるようにできている。紋蔵は、父の死が一橋家と徳川家斉につながった事件であったことを地道な捜査で知っていくのであり、最後に、時の権力者である一橋家と南町奉行所との間で交わされた「密約」があったことを知るのである。

 藤木家には、すでに北町奉行所に勤めている長男と嫁に行った長女以外に、妻の里と次男の紋次郎、麦、妙の二人の娘の他に、ふとしたことで預かることになった文吉という子どもがいる。

 この文吉についての話が、「第一話 貰いっ子」と「第二話 へのへのもへじ」で、文吉の父遠庄助は、女郎屋の親父をしていた久兵衛を「無礼討ち」にしてしまったのである。藤木紋蔵は、上役に頼まれて、それが「無礼討ち」なのかどうかを調べるのだが、実は、昔、久兵衛が遠藤庄助の金を盗みだし、その怨恨もあったという事情を調べ上げ、遠藤庄助は、情状が酌量されて、罪一等を減じられて遠島になるのである。

 文吉は、藤木紋蔵を頼り、そのまま藤木家にいつくことになる。「紋蔵も里も、文吉が一緒に朝夕箱膳を並べていることに、やがてなんの違和感も抱かなくなった」(文庫版 54ページ)という結びの言葉が、まことにいい。

 圧巻は、その文吉を連れて遠島になる父親を見送りに行く場面で、紋蔵は文吉の手を引いて父親の前に立たせる。

 「遠藤庄助はぴくりとも表情を変えない。文吉もそうで、二人はしばらく睨み合っていて、やがて遠藤庄助は横付けされている小舟に目をやった。
 二人とも感激がないのではない。殺しているのだ。大人の遠藤庄助はともかく、わずか八つの文吉までが見事に感情を殺している。躾の問題だとは思うがそれにしても驚くばかりだった」(文庫版 115ページ)

 とあり、その文吉が、その後で行った料理屋の二階で、肩を震わせて泣くのである。そのくだりは、次のように表現されている。

 「お客さま」
 女が障子の向こうから声をかけ、源次が声を返す。
 「なんだ?」
 女は障子を開けて、声を細める。
 「お子が泣いておられます」
 「あっしが」
 源次が立とうとするのを手で制して、紋蔵は女に聞いた。
 「どこで?」
 「廊下の外れです」
 紋蔵は足音を忍ばせ、廊下を外に向かって角を曲った。
 突き当たりに円窓があり、どうやらそこから大川と海が見渡せるようで、文吉は外を見ながら、肩を激しく上下にゆすっていた。(文庫版 121ページ)

 藤木紋蔵は、情に厚い。「第七話 漆黒の闇」で、料理屋の美人「お裕」に思いを寄せられた時、彼自身も心憎からず思ってはいるが、奥方様のことがご心配でございますか」と言われ、「心配というより、居眠りのわたしを支えてくれたかけがえのない女房だ」という。「お裕」は「悔しい!」と返す。

 この会話にも藤木紋蔵の人柄がにじみ出ている。また、「悔しい!」という「お裕」も粋でいい女である。

 こうしたところが随所にあって、読ませる。

 佐藤雅美は、1994年に『恵比寿屋喜兵衛手控え』で直木賞を受賞し、『物書同心居眠り紋蔵』のシリーズは、1998年にNHKでテレビドラマ化されたとのこと。残念ながら、その頃は西洋哲学書ばかり読んでいて、時代小説にほとんど関心がなかったために、このテレビドラマのことは全く知らなかった。今思えば、おしいことをした。

 今日はこれから大江健三郎についての話をまとめる作業に入ろうと思う。来週の月曜日に話をしなければならないので、レジメも作成する必要があるから。仕事も少したまっているし、図書館にもゆったりと出かけたい。ただ、相変わらず貧しくはあるが、こんな日常も悪くはないと思ったりする。

2009年11月9日月曜日

北原亞以子『夜の明けるまで 深川澪通り木戸番小屋』

 朝は少し雲が覆っていたのだが、今はよく晴れている。押し入れから掛け布団を出して来て陽に干したり、洗面所やトイレに敷いているマットを洗ったりした。身体の不調はいつもの通りではあるが、昨日、大岡山に出かけたりしたので、少々疲れも覚える。

 大岡山は理系のメッカである東京工業大学がある町で、大井町線の駅の前がきれいに整備されているが、商店街は古いままに残されており、時間があればぶらぶらするのもよいかもしれない。ただ、残念がら、大岡山に行く時はいつも予定が詰まっていて素通りするだけである。

 昨日中に北原亞以子『夜の明けるまで 深川澪通り木戸番小屋』(2004年 講談社)を読んでしまおうと思い、夕方に読み終わった。これは、このシリーズの4作目だろうと思うが、深川中島町の澪通りにある木戸番の夫婦、古武士の風貌をもちながらも穏やかな笑兵衛と、肥ってはいるが上品な品格をもち、いつもころころとよく笑う女房のお捨ての中年夫婦の人情に触れ、慰めと励ましを受けていく人々の物語である。

 この『夜の明けるまで』は、「第一話 女のしごと」、「第二話 初恋」、「第三話 こぼれた水」、「第四話 いのち」、「第五話 夜の明けるまで」、「第六話 絆」、「第七話 奈落の底」、「第八話 ぐず」の八話から成り立っているが、いずれも、木戸番夫婦の何気ない温かみを頼りにしている人たちの話で、第一話は、下練馬で貧しい雑貨屋の娘として生まれ、江戸に出てきて料理屋で働き、気楽な生活をすることを望んでいた「おもよ」が、友人で身勝手な「お艶」の開店した店で働くことになるが、「お艶」ばかりが大事にされたりして、次第に自分の存在感を失っていく。しかし、木戸番小屋のお捨てとの何気ない会話の中で、日々の暮らしの中で生きていくことこそ意味があることをじんわりと知っていく、という話である。

 「第二話 初恋」は、木戸番小屋に始終顔を出す差配の弥太右衛門の「いろは長屋」に越してきた労咳の亭主「年松」と明らかに武家育ちとわかる妻の「紫野」の話で、「紫野」は、16歳の時、かつて自分の生家の窮状を救うために300両で真綿問屋甲州屋広太郎のもとへ嫁いだが、広太郎の女遊びの激しさと舅、姑の仕打ち、「金で買われた嫁」という店の者の冷たい視線や仕打ちなどに耐えきれず、自分の下駄の鼻緒をすげてくれた職人の「年松」の優しさに触れて、彼のもとへ逃げだした女である。

 年松は、ついに労咳で死ぬが、復縁を迫る甲州屋や兄や周囲の者の反対を押し切って、「紫野」は、そのまま「いろは長屋」に住むことを決意する。

 「第三話 こぼれた水」は、美男とはほど遠い顔つきをした釘鉄問屋近江屋山左衛門が木戸番小屋の近くに越してきた美人でしっかり者の「お京」と浮気をしているのではないかと案じた女房の「お加世」が、さんざん迷った末に、「お前さんの女房はわたしです」といって立ち直る話である。

 「第四話 いのち」は、火事で前途ある若侍から命を助けられた五十四歳で遊女の繕い物をして暮らしていた「おせい」が、自分を助けて死んでしまった前途ある若侍に比べて、年寄りで何のとりえもない自分が助けられたことを悔やみ、また周囲からもそう言われたりして、木戸番小屋に身を寄せて介抱されることになり、お捨ての働きで救われていく、という話である。

 「第五話 夜の明けるまで」は、木戸番小屋の前にある自身番で書き役をしている貧しい太九郎が、五つになる子どもを抱えて仕立物をしている貧しい「おいと」と夫婦になりたいと願うが、「おいと」は、前の亭主をはじめとするこれまでの人々の表裏のある姿をいやというほど見せられて、しかも、前の亭主の女癖の悪い舅が自分の部屋に入って来たりして、離縁してきた女だった。太九一は「おいと」と夫婦約束をするが、太九郎が病気で寝込んだ時に、同じ長屋に住む「おまち」を嫁にと世話をする人が「おまち」を看病にやったりしたのを知って、誰も信じられないと閉じこもってしまう。

 しかし、外に出た時、木戸番の笑兵衛と出会い、太九郎が絶えずうわごとで「おいとさん、佐吉(子ども)」と名前を呼び続けていたことを聞かされ、「自分が一人でねじくれていた」ことに気がつく。笑兵衛は、おいとと佐吉を木戸番小屋へ誘う。

 「第六話 絆」は、木戸番小屋へ時々顔を出す駒右衛門が、昔自分が捨てた子どもが一緒に暮らしてもいいといってくれたことにまつわる話で、駒右衛門は、昔、材木問屋を営んで羽振りが良く、その時茶屋女を囲って「おるい」という子どもを産ませていた。しかし、商売がうまくいかなくなり、その女と子どもを捨てた。借金も増え、女房も母親も死に、残った家作で細々と暮らしをすることになった。そんな時、かつて捨てた「おるい」が亭主と共にやって来て、一緒に暮らすことを提案したのである。
だが、「おるい」の心情は、かつて自分たち親子を捨て、そのために母親を亡くし、体まで売ってきたことに対する復讐だった。駒右衛門は、それを知りつつ、自分の唯一の生計である家作を「おるい」に譲り、これから「おるい」が暮らしていければ、それでいい、と言う。「おるい」は、その父親の心情に打たれて、家作を手に入れて逃げようとする亭主の刃から父親を守る。

 「第七話 奈落の底」は、蕎麦屋の和田屋の女房に恨みを抱く幼友達の「おたつ」が、その仕返しをしようと企むが失敗する話である。「おたつ」は、かつてどうしてもお金が必要になって、昔馴染みの和田屋の女房を訪ねるが、相手にしてもらえなかったことを逆恨みして、まじめな荷揚げ人足をしている三郎助をつかって和田屋でひと騒動起こそうとするが、三郎助は、和田屋にも「おたつ」にも迷惑をかけたくないと思って失敗する。なじる「おたつ」に三郎助は言う。

 「ついこの間まで、女の人の中では、木戸番小屋のお捨てさんが一番好きだったんだけど、今はあの、おたつさんが一番好きだ」
 俺は、一文なしで江戸へ出てきた、と三郎助は言った。眠る場所を探しているうちに道に迷い、空腹に耐えきれなくなって蹲った。目の前に町木戸があったことと、恰幅の良い男がその木戸の前に立っていたことのほかは、霞がかかってしまったように記憶が消えている。
・・・・・・・・
 すでに床についていたお捨が、わざわざ七輪に火を起こして粥をつくり、まだ明かりのついていた炭屋からたまごをもらってきてくれたのだそうだ。
 「見ず知らずの人間のため一所懸命になってくれる人もいるもんだ、そう思いました。ほかにはいねえだろうと思っていたんだけれど、おたつさんがいた」(209ページ)

 「弥太右衛門さんから笑兵衛さんとお捨さんの話を聞いた時、俺あ、ほんとうに嬉しかった。だって、お捨さんは眠っていたのに起きてくれて、七輪で粥をつくってくれたんですよ。はじめて人にかまってもらえたと思ったら、涙が出た」(211ページ)

 この話を聞いて、「おたつ」も思い返す。

 「第八話 ぐず」は、鰹節問屋の大須賀屋林三郎の女房だった「おすず」は、亭主の林三郎の女遊びが激しく、舅も姑もそれを鼓舞するような家で暮らすことが耐えらず、暴力も振るわれていた中で、台所の隅で泣いていた時、出入りの指物師与吉に「御気分でもわるいのですか」と声をかけられたのを機に与吉と深い仲になってしまい、婚家を離縁されてしまい、深川熊井町でひとりで絵草子屋を営んで、時折、木戸番小屋の夫婦を訪ねる生活をしている。

 彼女は、離縁され実家に戻された時、二度と与吉にあってはならないと彼女の面倒をみる兄から釘を刺されていた。しかし、家を飛び出すつもりでいた。与吉は、昼過ぎまで待ち、夕暮れまで待ち、さらに夜更けまで「おすず」を待っていた。だが、「おすず」は迷い、ついに飛び出さずに、兄の世話で絵草子屋を営むことになったのである。

 それから十五年の月日が流れた。元の亭主の林三郎が「おすず」の実家の金を目当てに復縁を迫ってきた。しかし、彼女はそれを受けつけない。彼女は後悔していた。なぜ、与吉の元へ行かなかったのだろうか、と。その心情が、次の文章ににじみ出ている。

 「おすずは爪を噛みながら、はこべや車前草が生えている空き地をみた」(232ページ)

 「爪を噛み、空き地をみる」まことに巧みな描写である。

 元の亭主に復縁を迫られ、今度こそは間違えないと思って、「おすず」は与吉を探すことを決意し、あちらこちらを訪ねて探しだす。

 与吉は、もう、髪に白いものが混じり、昔の面影はない。「おすず」は、羽目板の陰からその様子を見る。そして、そこから思い切って訪ねるのである。

 「おすずが羽目板の陰から出ると、その気配に与吉が顔を上げた。おすずは、障子に手をかけて、蹲ってしまいそうな軀をささえた。与吉の顔が、わずかにゆがんだ。
 「おすずさんか」
 「上がっても、いい?」
 もう立ってはいられない。上がらせてもらえなければ、出入り口で蹲って泣き出しそうだった。
 「待っていたんだ、ずっと」(238-239ページ)

 まったく泣かせる場面である。ただひたむきに、ひたむきに生きようとする人間の姿が描かれる。それが、自分の欲と保身のために策略を練る元の亭主と対比されて描かれるところがいい。

 策略を練り、計略を立てて、野心をもち、人生の設計をし、成功を求めて、うまくごまかしながら生きることよりも、単純で、素朴で、ひたむきであることの方が、はるかに価値がある。この作品は、それをしみじみと覚えさせてくれる。

 ただ、同じシリーズでも、『夜の明けるまで』は、たとえば前に書いた『燈ともし頃』よりも、木戸番夫婦の笑兵衛とお捨との関わりの描き方が少なく、木戸番夫婦の姿を描き出すと言うよりも、その周辺で生きる人々に焦点が当てられているために、せっかくの木戸番夫婦の姿が迫力をもって見えにくいということがあるように思える。そのために、それらの人々が木戸番夫婦によって励まされていくリアリティが「第七話 奈落の底」以外の作品にはあまり感じられなくなっている。その点が、木戸番夫婦のあり方に心を打たれているわたしのような人間には、少し物足りなく感じられるのである。

 とは言え、このシリーズが傑作であることは間違いない。構成も、筆運びも、真に見事であり、心情が込められる情景の描き方も素晴らしい。

 昨日、山内図書館に行くつもりでいたが、今日もついに時間がとれずに、明日、たぶん天気が崩れるかもしれないが、出かけることにする。コーヒーも切れてきたので買ってきたい。明日は、都内で一つ予定があるのだが、どうも気が進まない。都内に出るのはほんとうに億劫になっている。

2009年11月7日土曜日

北原亞以子『その夜の雪』

 目覚めた時は雲が薄く広がって、少し肌寒く感じたが、午後からは秋空が広がるのだろう。予報では、晴天であった。

 今日は立冬で、これからは初冬というのがふさわしいのかもしれない。人間の気持ちが重くなる季節の始まりではある。

 昨夜、「焼きサバを上にのせたお寿司」という珍しいお寿司をいただいた。生の新鮮なサバかシメサバが上に乗っている「サバ寿司」は、何度も食べたことはあるが、これは初めてだったのでとても美味しくいただくことができた。戴き物で、東急の袋に入っていたので、東急青葉台店で売っているものだろう。今度自分で買いに行ってみようと思う。

 昨夜、北原亞以子『その夜の雪』(1994年 新潮社 1997年 新潮文庫)を読んだ。ここには、「うさぎ」、「その夜の雪」、「吹きだまり」、「橋を渡って」、「夜鷹蕎麦十六文」、「侘助」、「束の間の話」と題する短編が七編おさめられている。このうちの表題作ともなっている「その夜の雪」は、『慶次郎縁側日記』としてシリーズ化されるものの最初のくだりで、「仏の慶次郎」と呼ばれた人情同心慶次郎が、その愛娘の三千代を失ってしまう時の話である。三千代はふとしたことで暴漢に襲われ、自ら死を遂げ、親ひとり子ひとりで暮らし、ようやく婚約も整って引退を控えていた慶次郎はその犯人を追い、これを探しだすが、ついに、その振り上げた刀をおとすことができなかった。そんな慶次郎の姿を見事な構成と文体で描き出したものである。このシリーズは、以前、ほとんど読んでいたが、改めて北原亞以子の構成の巧みさと飾らないが、しかしじんわりと人間を感じさせる文章を感じた。『その夜の雪』に収められている作品には無理がない。無理がないくらいに何度も練られたものであるだろう。

 「うさぎ」は、男を作って乳飲み子を捨てた元の女房が江戸へ戻って来て、独りで苦労して育てた愛娘が、その母親と会い、母親の方へ気持ちを傾けていくことを知って、孤独を感じ続ける摺り師の峯吉が、ふとしたことで子どもを産めずに離縁されて孤独を噛みしめている縄暖簾(居酒屋で、時には売春もした)で働いている女「お俊」と出会い(「お俊」は、孤独に耐えきれずに子どもをかどわかそうとした)、その「お俊」がうさぎを飼い始めることを知る、という話である。

 何の変哲もない話であるが、孤独を噛みしめて生きなければならない人間の心情が、「うさぎを飼う」ことに巧みに表わされている。「うさぎ」は、淋しさで死ぬこともあると聞いたことがある。本当かどうかは別にして、わたしにも、それがよくわかる。

 「吹きだまり」は、左官の日傭取り(日雇人足)の貧しい暮らしをしている作蔵が爪に火を灯すようにして貯めた金をもって、温泉宿で有名な「春江亭」という料理屋に古金問屋の若旦那と称して行き、そこで働いている女中の「おみち」の窮状を知って、そのためた金を差し出す、という話である。この話の終わりが次のように結んである。

 「俺も二十五か」
 呟いた言葉が部屋に響いた。
 作蔵は、両手で自分の肩を抱いた。寒くてならなかった。
 「お待たせしました」
 酒を持ってきたらしいおみちの声が、ひっそりと聞こえた。(文庫版 139ページ)

 こういう結末は、本当に泣かせる。そして、再び元の貧乏暮らしに戻らなければならない作蔵の姿が目に浮かぶ。ひっそりと、寒さに肩を震わせながら、人は生きていかなければならない。北原亞以子は、そういう人間を慈しむのだろう。市井ものの時代小説の良さが、ここに凝縮されている。
 
 「橋を渡って」は、深川佐賀町の干鰯問屋の妻「おりき」が、夫の浮気を知り、忍耐して耐えようとするが、「お前のことは有難いと思っているよ。でも、女にかまけていたら、わたしが駄目になっちまう・・・」(文庫版 161-162ページ)という言葉を聞き、自分がとるに足りないものとして扱われていることを実感して、その家を密かに出て、口入れ屋(仕事斡旋所)に向かう、という話である。この作品は構成が巧みで、「おりき」の弟夫婦の浮気事件と「おりき」夫の浮気が対比的に語られることによって、いっそう「おりき」の孤独が浮かび上がる。

 人は、自らの孤独を自ら噛みしめながら生きていかなければならない。それは当り前のことかもしれないが、その当り前のことが「とてつもなく淋しくつらく」感じられる時がある。ここに収められている短編は、その淋しさとつらさを謳ったものである。

 「夜鷹蕎麦十六文」は、噺家で、初代志ん生(もっとも、文末の作者注で、初代志ん生は設定されている時代には他界していたが、あえて、登場させたとある)の前座を務める「かん生」が、自ら真打ちにはなれないことを自覚しながら、一時は、自分の芸も粋を心ざす思いも理解せずに、ねんねこ袢纏を着こんで赤ん坊を背負い、がっしりした大きな軀をした野暮を絵にかいたような女房「おちか」ではなく、粋な深川芸者で彼を贔屓にしている「染八」に魅かれていき、初代志ん生の芸には到底及ばないことを知って、慰めを求めて染八のところにも行ったりするが、「おちか」の思いに打たれていくという話である。

 粋な生活を求めて勝手気ままな暮らしをして留守をしている間に、女房の「おちか」は、生活のために茶飯屋で働かなければならなくなり、大家の喜右衛門に口説かれる。「あの亭主は何だね。まともな噺は喋れやしない。生涯、前座で終わっちまうよ」(文庫版 196ページ)と喜右衛門は「おちか」に言い、「あんな男にひっついていたら苦労するばかりだよ。わたしは、それを心配しているんだ」(文庫版 197ページ)と言う。しかし、「おちか」は、本当に貧乏して水ばかり飲まなければならなかった時に、「亭主は、草履を質に入れて、そのお金でわたしに夜鷹蕎麦を食べさせてくれたんだ」「女房に十六文の夜鷹蕎麦を二杯食べさせて、自分は空き腹を抱えて寄席へ行って、高座に上がったとたん、目をまわすばかがどこにいます。裸足で寄席へ出かけて、足に霜焼けをこしらえてくるとんまが、どこにいます」「これはりくつじゃありませんよ。大家さん、わたしゃ、あのとんまが好きでしょうがないんです」と言う(文庫版 198-199ページ)

 これを聞いて、「かん生」は、「あたしも、色が黒くって、男みたような軀つきの、野暮な女が好きだったんだ。ええ、あたしゃ野暮が大好きだよ。粋が何だってんだ、人情噺がどうしたってんだ」(文庫版 199ページ)と思う。そして、「かん生は、用水桶の陰りからそっと立ち上がった。空き腹のまま家に戻り、おちかの帰りを待つつもりだった」(文庫版 199ページ)で物語がくくられる。

 これは、読めば読むほど優れた短編だと思う。主人公の「かん生」と初代志ん生の対比も見事で、「かん生」という二流で終わらなければならない人間の悲哀がにじみ出ているし、粋だが功利的な深川芸者の染八と生活に追われている野暮な「おちか」の対比も見事で、そして、苦労を共にすることができる男女の思いも見事に描かれている。

 そして、「かん生」のような人間にはたくさん出会うし、自分自身もそうかもしれないと思ったりする。しかし、わたし自身は、残念ながら、本当に残念ながら、「おちか」のような女性には出会ったことはない。「おちか」は、自分の子どものおしめを代えるために平然と大店の店先を借りたりもする。彼女の内情の豊かさが、彼女を一所懸命な素直な女として現わされている。だから、この短編がよけいに身にしみる。以前、「自分が好きな人が世界で一番美しい人ですよ」と言われたことがあるが、本当にそうだと思う。

 こういう男と女の姿を、飾らない、しかしよく練られた文体で、しかも構成の見事さで描き出すこの作品は、真に優れた市井物の小説である、とつくづく思う。

 「侘助」の主人公杢助は、以前は日本橋の呉服問屋の手代としてまじめに一所懸命陰日向なく働いていたが、札付きの遊び人で他の男の子を身ごもっている「おそめ」を、古着屋を出してもらえるという条件でもらい、なんとか頑張ってきたが、その「おそめ」が以前の男と駆け落ちをし、自分の店でも存在感をなくし、すべてを捨てて、死んだようになって「物もらい」として生活をしている。その杢助のところに、以前の自分の店で働いていた「おげん」という女がころがりこんでくる。「おげん」は、自分は娘夫婦に世話になって幸せに暮らしていると言うが、実は親戚や知り合いの家に泊まっては、その家から金銭を盗んで暮らしていた孤独でさびしい境遇だった。杢助は、自分の「物もらい」としての生活もたちゆかなくなることを知りつつも、そして、「おげん」が自分のなけなしで貯めた小金を取ろうとしたことも知りつつ、その「おげん」と共に暮らすことにする。

 「おげんが池のほとりを指さした。見ると、松にかこまれた小さな椿が薄赤い花を咲かせている。
 杢助は、ひっそりと咲く花を眺め、泣いているらしいおげんの肩を眺めた。丸くて、厚みのある肩だった」(文庫版 233ページ)

 と描かれている光景がたまらない。こういう感性が、本当にすごいなぁ、と思う。

 「束の間の話」は、鼈甲細工の職人である息子夫婦と暮らしていた「おしま」が、その息子夫婦が嫁の実家ばかりを大切にするのに嫌気がさして、その家を出て、ひとり暮らしを始め、ついに高熱を出して寝込んだ時、同じように息子から馬鹿にされて一文の金もなくなった源七が盗みに入って、その「おしま」を看病し、人と人とが触れ合って生きることのありがたさと喜びを知っていく、という話である。

 この短編も構成がすばらしく、ひとりぼっちになった「おしま」の後悔や、息子に頼ろうとする母親の心情やわがまま、そして、ひとり暮らしで病んだ時のわびしさが描かれ、同じ貧乏長屋に住む隣の夫婦の喧嘩が挿入され、その姿が見事に描き出されている。

 この『その夜の雪』に収録されている短編は、その構成が見事である。無理のない仕方でそれぞれの人物の生活と生きる姿が描き出されている。「ゲラ刷りが真っ赤になる」と言われたそうだが、真に納得である。

 なんだかんだと気ぜわしい日常が続いているが、寂寞感が大きくなるとともに、怠け心が大きくなってきているのを覚えてしまう。自分を叱咤しなければ動けないのかもしれない。

2009年11月6日金曜日

諸田玲子『月を吐く』

 空気が晩秋の爽やかさに満たされている。しかし、さわやかな空気とは別に、相変わらず、往来する車の音はやかましい。車と言えば、先日、とうとうわたしの車が動かなくなり、バッテリーの交換をしたりして、ようやく走るには走るようにはなった。もう19年以上も前の古い車で、エコカー減税というのもあるし、走行距離も20万キロメートルを越えているので、そろそろ変え時ではあるが、せめてあと1年くらいはもってほしい。

 昨日から引き続いて諸田玲子『月を吐く』(2001年 集英社 2003年 集英社文庫)を読んでいるが、なかなか進まない。この作品は、先の『お鳥見女房』とは全く傾向を異にした歴史上の人物を取り上げた比較的シリアスな作品であり、歴史小説の体を取りつつ、ひとりの女性の生涯を描いたものである。

 なかなか読み進まない理由の一つは、もちろん、これが大きいのだが、こちらの体調が思わしくなく、集中力も想像力も欠いているからであるが、もう一つには、ここで取り上げられている人物に対して、元々あまり関心がわかなかったということにもよる。

 作中の人物は、「築山殿」と呼ばれた徳川家康の正室「瀬名」で、彼女の幼少期から死に至るまでが描かれている。「瀬名」は、今川義元の姪で、その重臣関口刑部少輔親永(ちかなが)の娘であり、歴史的には、今川家の人質となっていた松平元康(徳川家康)と政略結婚させられ、嫡男竹千代(後の信康)と亀姫を産むが、徳川家内部の勢力争いもあって、信康は、武田家と内通した疑いをかけられ、織田信長の命によって、家康は信康と瀬名を殺害したのである。

 諸田玲子は、この瀬名を描くにあたって、彼女が幼少のころから恋い慕っていた高橋広親(ひろちか)なる人物を登場させ、時代と状況に翻弄されながらも自らの恋心を胸の奥に秘めて生き、そして、最後に、家康によって殺されたのではなく、替え玉を立てられて生き伸び、広親の生まれ育った吐月峰の比久尼屋敷で生涯を終えたという筋立てにしている。そして、家康の母「於大(おだい)」と元康の嫁で、織田信長の娘であった「五徳姫」との嫁姑関係が、それぞれの勢力争いと軋轢を展開する中で、なんとか自分の居場所を確保しようと悪戦苦闘する女性として描いている。

 男であれ女であれ、あるいは小さな家の中であれ組織や国家の中であれ、勢力争いをする者には、同じように勢力争いをする者たちが集まってくる。徳川家康自身がその最たる者である以上、彼のまわりには常に醜い勢力争いがつきまとう。諸田玲子は、「瀬名」は言うまでもなく、家康にしてもその母「於大」にしても、比較的好意的に描いているが、その実態には権謀術策が限りなく展開される。人間の歴史がこうして織りなされてきたことは事実である。

 ただ、今川義元、織田信長、徳川家康といった戦国時代後半の群雄割拠した時代の中で、それぞれの場で権謀術策が、小さくはお家騒動から大きくは国取りに至るまで展開される状況下で、自分の愛を胸に秘めながらも生きた一人の女性として「瀬名」を描き出し、歴史的通説とは異なったロマンの成就を描き出そうとしているのが、この作品であるだろうと思う。

 前にも書いたと思うが、諸田玲子は、人間が、欲望と絶望をもち、願いと諦めをもち、どうすることもできない状況に生きなければならない姿を赤裸々にするし、この作品も、「築山殿」と呼ばれた徳川家康の正室「瀬名」の姿を通して、彼女の周囲にいた人々を含めて、そうした姿を赤裸々に描いたものである。

 作品は歴史的考証も変わらずしっかりしているし、広親をめぐる人間関係も物語の綾をなすものとして興味深い。今川家が崩壊していく過程も、それなりの重みがある。ただ、個人的な好みからいえば、たとえそれがどんなに小さなものであれ、勢力争いし、保身を図る人間は心底嫌いである。歴史と人生が状況に翻弄されるものであれ、いわゆる「政治」からは縁遠いところにいたいと思っていたし、思い続けるわたしにとって、こうした人間は、理解しても理解したくない。歴史小説は、そうした個人の好みに依存しているところが大きいので、題材の選択が難しいのだろうと思う。

 諸田玲子には、家康の周辺の人物を取り扱った作品がいくつかあるが、たぶん、彼女が静岡県の出身であることも、その理由にあるのかもしれないと思ったりもする。

 今日は、仕事もたまっていることだし、それを少しかたづけて、今夜は北原亞以子の作品を読もう。

2009年11月5日木曜日

諸田玲子『お鳥見女房』

 予報では、今日あたりからまた気温が少し戻るということだったが、晴れたり曇ったりの肌寒い日になった。思えば、もう霜月なのだから当然かもしれない。

 昨日の夕方、仕事上の郵便物を出すついでに「あざみ野」まで出かけ、コーヒー豆や薬局で日用品を買ってきた。日用品を買うのは、わたしのような人間とっては、どれがいいかわからずに一苦労である。

 一昨日、大根を葉ごといただいたので、今日は、その大根の葉の炒めものでも作ろうかと思う。このところ少し仕事が立て込んでいるので、肉体が養生を強要しているが、昨夜、諸田玲子『お鳥見女房』(2001年 新潮社 2005年 新潮文庫)を読んだ。この作品はシリーズになっていて、先にこのシリーズの『蛍の行方』、『鷹姫さま』、『狐狸の恋』などを読んでいたので、このシリーズの第1作目である本作品を読んだときは、フィルムが巻き戻されるようなフィードバックの思いがした。このシリーズの作品は、とにかく、面白く、そして、温かい。諸田玲子の他のシリアスな著作とは異なって、文体自体もふっくらしている。

 物語は、天保の改革(天保12-14 1841-1843年)を行った水野忠邦(1794-1851年)が老中となっていることから、おそらく、天保年間のこととして設定され、将軍家の鷹狩に際して、その鷹の餌となる鳥の棲息状況を調べる役職である「お鳥見」を代々務める矢島家の人々の姿を中心に描かれるが、「お鳥見」としての夫の仕事や子どもたちの成長、そして矢島家にかかわった人々を温かく見守る主婦「珠世」の姿が生き生きと描かれる。

 珠世は、「格子縞の小袖に柿色の昼夜帯をしめ、髪を地味な島田髷に結っている。小柄で華奢なのにふくよかな印象があるのは、丸みを帯びた体つきのせいだ。丸顔に明るい目許、ふっくらとした唇。珠世はよく笑う。笑うと両頬にくっきりとえくぼが刻まれる。そのせいで歳より若く見えるが、二十三を頭に四人の子持ちである」(文庫版10-11ページ)と描かれる。

 この矢島家には、婿養子として入った夫の伴之助、見習い役として出仕している嫡男の久太郎、剣の修行に励む次男の久之助、次女の君江、隠居している父の久右衛門の六人が暮らし、雑司ケ谷にある七十坪ほどの役宅には、時折、すでに旗本に嫁いでいる長女の幸江が子どもの新太郎をつれて遊びに来る。

 矢島家は八十俵五人扶持で、十八両の伝馬金(役職手当)が出、嫡男久太郎にも十人扶持、十八両の伝馬金が出ているので、日々の暮らしには困らないだろうが、決して豊かではない。しかし、「お鳥見」は、表の仕事とは別に、幕府の密偵としての裏の仕事もあり、やがて、夫の伴之助がその裏の仕事で沼津へ行き、行くえ不明になるという出来事を抱えることになる。

 この矢島家に、ほんのわずかなかかわりから、浪々の身に身を落としている石塚源太夫と五人の子供たち(源太郎、源次郎、里、秋、雪)が居候することになり、また、源太夫を父の敵とする女剣士沢井多津も同居することになり、都合十三名が暮らすことになる。家計は逼迫していく。しかし、それを受け入れる珠世の姿が次のように記される。

 「珠世は苦笑した。今さら迷惑もないものである。すでに五カ月余り、源太夫父子は矢島家に居座り、米、味噌、醤油、ことごとく空にした上に、家のなかを我がもの顔に飛びまわっている。
 もっとも、それを迷惑と厭う気持ちはなかった。米や味噌なら、なくなれば買い足せばいい。だが、人と人とのつながりは途切れればそれで終わり。その儚さを思えばこそ、せっかく結ばれた縁は大切に育まねばと思う」(文庫版 117ページ)

 珠世自身が、石塚家の五人の子供たちのくったくのなさや素直さ、信頼を寄せる心に救われていく。そして、石塚源太夫と彼を敵とする沢井多津の心も、矢島家で珠世と暮らすうちに和み、ついに二人は夫婦となる。

 「どしゃぶりでも、お内儀のそばにおれば雨がかからぬ。冬も火桶がいらぬ。年中笑いが絶えぬそうな。ほれほれ、ことにそのえくぼは絶品。まこと天女のごときお方じゃと…」(文庫版 231ページ)と源太夫は仕官口をもってきた松前藩の工藤伊三衛門に語ったとある。

 果し合いで父を殺した源太夫と真剣勝負だけを考えていた多津は、心が騒ぎ、怯えつつ矢島家に帰ってきた時に、「多津ねえちゃーん」、「お帰りーっ」と源太夫の子どもたちに迎えられた時、「門前で遊んでいた里と秋が手を振りながら駆けて来た。自分を待っていてくれる人がいるというのは、なんと心温まるものか」と実感していく。そして、次第に、大らかで屈託がなく、心やさしい源太夫にひかれていく。石塚源太夫は神道無念流の達人であるが、多津に斬られる覚悟をしている。

 こういう何でもない、しかし大切な温もりが、珠世を中心にした矢島家に満ちているのである。珠世は多津の背中をさすりながら、
 「己の心を偽ると、後々まで悔むことになりますよ」(258ページ)と言う。

 しかし、密命を帯びて沼津へ行った夫伴之助の行くえ不明が次第に深刻な影を矢島家に落としていくことになる。ついに、次男の久之助が、その父を探しに沼津へと出奔する。そして、多津との結婚を決め、ようやくにして松前藩に仕官が決まっていた石塚源太夫も、その仕官の口を辞退し、久之助の後を追って、伴之助の救出に向かうことになる。出立に際し、源太夫は珠世に言う。
 「お内儀。これまでの御厚情、生涯忘れぬ」

 「これまでの御厚情、生涯忘れぬ」という、この短い言葉には、石塚源太夫の万感の思いが込められた重みがあります。そういう経過が綴られているのである。「生涯忘れぬ」と言われても、現実的にはいつの間にか忘れられることがたくさんあり、現代の饒舌が言葉を羽毛のように軽く、塵や埃のように舞い落ちては散っていくものにしてしまっている感があるが、ここで語られている言葉は、人生のすべてをかけたような重い意味ある言葉となっている。『お鳥見女房』の言葉は、さらりと書いてあるようでも、そうした重みのある深い言葉が成り立つ人間関係が描かれている。

 こうした人間模様が、実に無理なく、描かれていく。この作品のおしまいのところで、諸田玲子は珠世の心情を次のように書いている。

 「楽しいことがあれば、辛いこともある。荷車の両輪のようにどちらも切り離せぬものなら、笑いながら引っ張ってゆくだけの気概を持ちたい」(文庫版 347ページ)

 そういう人間の姿を諸田玲子はこの作品で描き出そうとしているのだろうと思う。「おもしろうて、やがてせつなき」である。

2009年11月4日水曜日

藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(2)、『春疾風 見届け人秋月伊織事件帖』

 昨夜、少々疲れを覚えていたが、藤原緋沙子『遠花火』を読み終え、同じシリーズの『春疾風 見届け人秋月伊織事件帖』(2006年 講談社 講談社文庫)を読み終えた。

 『遠花火』の第二話「麦笛」は、八州回りの役人野島金之助の私腹を肥やす奸計によって売り飛ばされた深川芸者の美濃吉と彼女に惚れていた呉服商「中村屋」の次男甚之助が殺され、その事件を、秋月伊織を中心にした「見届け人」たちが解決していく物語である。

 その事件の探索の過程で、殺された美濃吉を雇っていた深川の料理茶屋尾花屋の女将に、秋月伊織が次のように言って、美濃吉の背後関係を聞き出す場面がある。

 「女将、ここで働く女子たちは、皆女将のその心一つを頼りにして働いているのではないか」(136ページ)

 料理茶屋の女将は、この言葉で、美濃吉の背後にいた野島金之助について話すのである。「心ひとつを頼りにして働く」あるいは「生きる」というこの関係は、時代小説の中では主従関係であれ何であれ、深い信頼に基づいた関係として取り上げられるテーマである。ドイツ語のゲマイン・シャフト(Gemeinschaft)という言葉を、ふと、思い起こす。言うまでもなく、悪事を企む野島金之助とその仲間たちはゲゼル・シャフト(Gesellschaft)で生きる人間たちであり、見届け人たちはゲマイン・シャフトで生きる人間たちである。このシリーズは、そうした「心で生きる人々」の物語でもある。だから、面白い。

 第三話「草を摘む人」は、出世と金にしか目がなく、領地の百姓を絞れるだけ絞り取っていた北信濃の代官桑山修理の奥方美世が、そのあまりの非道ぶりから逃げだし、秀蓮尼と名を変え密かに暮していたが、夫の修理の出世の目論見と保身から命を狙われるようになった事件に「見届け人」たちが関わる話である。

 第四話「夕顔」は、周防国(山口県)岩城藩の勘定組頭矢島貞蔵の計略によって、不義密通者とされ江戸へ逃げてきて朗々の生活を送り、病んで死の床にある小野木啓之助と、その小野木を助けるために遊里の中でも場末の裾継(すそつぎ)に「あやめ」という名で身を売っていた松乃を女敵打ちであるはずの元夫の本田永四郎が身請けをするという話から、勘定組頭矢島貞蔵が賄賂を強要していた紙問屋の「和泉屋」徳兵衛を殺すという事件に絡んで、見届け人たちが矢島貞蔵の悪事を暴いていくという話である。

 松乃は、不義密通者とされ江戸へ逃げてきたが、わびしい江戸の長屋住まいの中で、元夫への心を待ち続け、思い出の夕顔を育てている。元夫の本田永四郎も、松乃が好きだったという夕顔の花を育てている。そういう姿が描かれているが、「夕顔」というのが、わびしく、悲しく、つつましやかでよい。

 いずれの話も、物語の構成がしっかりしているし、意識的にひとつひとつの関連が配置されているので、見届け人の一人である土屋弦之助の浮気話やその妻多加の悋気、長吉夫婦の姿、秋月伊織に密かに思いを寄せるお藤などのエピソードも盛られていて面白く読んだ。

 『春疾風 見届け人秋月伊織事件帖』は、このシリーズの3作目ではないかと思うが、先の『遠花火』よりもさらに文章が練られていて、すっきりしている。これも四話構成で、第一話「寒紅」は、両国の団子屋で売り子をしている「お波」と、播磨国(兵庫県)小原藩での内紛で浪人し、筆作りをしている原田淳一郎、原田淳一郎の元上司で、これもうらぶれた浪々の生活を強いられ、余命いくばくもない病んだ妻の薬代に窮し、ついには強盗の手先として雇われた栗原平助などの、どうすることもできない状況の中で苦闘しなければならない人間の姿を描き出し、江戸で起こった残虐な強盗殺人事件を「見届け人」たちが解決していく話である。

 「お波」は、かつて、「寒紅」という高価な紅を万引きし、それを原田淳一郎に助けられ、それから彼を慕い、彼のために生きようとしている女性であるが、強盗のひとりであった弥太郎の仲間と間違えられて金で雇われた栗原平助に斬り殺される。栗原平助は、妻のために原田淳一郎から十両の金を借り、その返済のために強盗の手先として雇われる。原田淳一郎は、新しく作ることを依頼された筆の材料費のためにその十両をもらっていたのだが、かつての上役の窮状を見かねてその金を差し出す。しかし、筆作りの話が取りやめになり、その十両を返却しなければならない。

 「悲しみの因果」というものがあるとしたら、この三人は、その金のために「悲しみの因果」の中にある。だから、作者の目は、登場人物に対して限りなく優しい。

 第二話「薄氷」は、あくどい商売をする酒屋「伊勢屋」のために店を潰された「越後屋」の嘉助が汗と泥にまみれた浮浪の生活の後、寺の墓地で凍死するという悲惨な出来事に出くわした秋月伊織が、伊勢屋で起こっていた放火事件を調べることになり、伊勢屋につぶされた越後屋に育てられ、実子のように可愛がられた捨子の与之助が放火犯であることを知る。秋月伊織たち見届け人は、なんとか与之助を助けようとするが、与之助は、ついに、放火犯として捕えられてしまう、という話である。

 与之助が自分を可愛がって育ててくれた嘉助の恨みを晴らそうと嘉平が眠る墓地で最後の決意をする場面で、次のような描写がある。

 「与之助は、つとめて平然としていつものように水汲み場に向かった。
 水汲み場には二尺四方ほどの石船が据えてあり、水はこの石船から桶に取り分けて墓地まで運ぶ。
 -おや・・・。
 石船に柄杓を差し入れようとして、与之助は微かな抵抗にあってその手を止めた。
 覗き込むと、うっすらと膜が張っている。
 薄氷だった。
 与之助は手をひっこめた。
 長い時間をかけてようやく張り付いた透明なその膜は、自分が越後屋で積み上げてきた商人としての何か、目に見えない希望というものを形にすれば、この薄氷のようなものではなかったかと、ふと思ったのである。
 与之助が築き上げてきたものは、越後屋が潰れるまでは、鋼のように固くて確かなものだと思っていた。
 ところがそれは、一瞬にして粉々になるような、頼りない代物だったのである。
 失意のうちにも一度は心を奮い立たせて、その残片を拾い集めてみたこともあった。だがそれは、もうけっしてもとの形に戻すことはできないのだという現実を、与之助は放浪の暮らしを通じて思い知らされたのである。
 いかに自分が、主の嘉助から温情を注いでもらっていたのかという事も、改めて知ったのであった。
 そんな自分の人生と重なる薄氷を、壊してしまうことが恐ろしくて与之助はふと、柄杓をひっこめたのである。
 だが、それも一瞬のこと、与之助は柄杓の頭でこつんと氷をつっついた。
 そこだけ穴をあければいい。遠慮がちに角を当てたが、氷はしゃりしゃりと音を立てて辺り一面割れてしまった。」(137-138ページ)

 この描写は、まことに見事であろう。物語全体が、ここに凝縮されている。そして、与之助の人生全体も。

 第三話「悲恋桜」は、かつて好き放題の乱暴を働いていた旗本真野鉄太郎を中心とする取り巻き連中が、無銭飲食で酔った勢いで、通りがかりの御小姓組の長田兵吉とその妻女、母に狼藉を働き、その事件によって江戸上追放になったのだが、いつの間にか江戸にもどり、再び、女をかどわかしては監禁して客を取らせるという悪事を働いていたのを「見届け人」たちが暴いていくという話である。

 母親と妻女に乱暴を働かれた長田兵吉も、妻女を守れぬ武士にあるまじき腰抜けとして改易(解雇)されていた。妻女の「かね」は、乱暴された者として世間からも実家からも冷たくあしらわれ、兵吉との間にできていた子菊之助を生んで、かつての長田家の中間だった友七のもとに身を寄せ、兵吉への思いを胸に暮らしている。兵吉は、何とか仇を討ち、汚名を返上したいと思って浪々の暮らしをしている。

 そういう事柄に、秋月伊織らが関わり、伊織は、及び腰ながらも極悪非道な真野鉄太郎に向かっていく兵吉に武士としての汚名を返上させる手助けをし、兵吉は、見事にそれを果たすが、自らも斬られて死ぬ。武家の力の倫理が規定する社会の中で、力のない者がどうすることもできないような苦境に追い込まれ、世間から冷たくされている者たちの姿がそこに織り込まれている。桜は、「かね」が夫への思いを重ねるために植えた木であり、死地に赴く夫の兵吉が妻と子へ残す思いである。その桜が、降るように散っていく。

 表題作ともなっている第四話「春疾風」は、貧しさゆえに場末の最下層の遊女屋である裾継に身を売らなければならなかった上野国(群馬県)の百姓の娘「おちよ」を探している幼馴染で元許嫁の畳職人伍助と出会った秋月伊織が、重税のために貧苦にあえいで、ついに岩花代官の勝本治兵衛を越訴(直接幕府に訴える)のために江戸へ来た「おちよ」の兄で伍助の親友でもあった与助らを助け、これを阻止しようと企む代官一味と戦い、その願いを手助けするという話である。

 この物語にも、裾継という場末の遊女屋で生きていかなければならないつらさと悲しみを背負っているが、そこを生き抜こうとする遊女の「おふく」という女性が登場するし、飢饉や干ばつに加えて重税であえぐ百姓たちの姿も描かれる。「見届け人」たちは、それらの心情にさりげなく触れていく。

 主人公の秋月伊織は幕府御目付役をしている秋月忠朗の実弟であり、越訴の手助けをすることは、その兄もただでは済まないことになる。しかし、伊織は、目の前で困窮している与助や伍助を見捨てることができず、兄に勘当を申し入れ、絶縁してから、彼らを助ける。伊織にとって、それは自分の生活を失うことである。しかし、伊織は、さらりとそれをやってのける。そこが、時代小説の面白いところ。伊織はこの出来事をきっかけに裏店の長屋住まいをすることになるが、伊織に思いを寄せているお藤は張り切る。

 『春疾風』は、『遠花火』以上に、作者の温かい目を感じる作品である。どうにもならない悲しみの中に追い込まれる人間の姿も、深く織り込まれている。『春疾風』を読んで、このシリーズの他のものも読みたくなった。

 今日は、資源ゴミの回収日になっているので、少し早起きをして、たまっている新聞紙や段ボールを整理して出したり、洗濯をしていた。気温はまだ低く、寒さを感じるがよく晴れている。気ぜわしい一日になりそうだが、仕事は仕事。

2009年11月3日火曜日

森真沙子『日本橋物語5 旅立ちの鐘』、藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(1)

 昨日から寒気が南下してきて寒い日になった。多くのところで初雪が観察され、木枯らし1号も吹いたという。今日は、よく晴れているが風が冷たく寒い日になった。朝から忙しい日になりそうだ。昨夜、無理やりだらだらと食べ続けたので、体重が一気に2キログラムも増えてしまった。自制心のなさ、この上もないところではある。

 昨夜、眠れぬままに、八月に九州からこちらに来る飛行機の中で読もうと思って空港の売店で買い求めた森真沙子『日本橋物語5 旅立ちの鐘』(2009年 二見書房 二見時代小説文庫)を読む。

 この本は、『日本橋物語』というシリーズになっていて、日本橋で染物などを扱う店の美貌の女主人「お瑛」を主人公にして、そこで起こる様々な事件を解決していくミステリー仕立ての話で、『旅立ちの鐘』は、それぞれの時を刻む鐘の音が響く頃の事件が展開されるものである。

 ただ、残念なことに、この書物だけでは、主人公と彼女を取り巻く人々の人物像がはっきりしないし、事件も解決方法も込み入ったものではない。「お瑛」の店で働く番頭の市兵衛は、冷静で有能な番頭であり、棒術の免許皆伝の腕前という設定になって、いわば理想的な男性となっているが、この本の中ではその姿が浮かび上がらない。同居している義母の「お豊」は「寝たっきり」という設定であるが、これも、経験豊富で知識や心情の豊かな老女性という印象以外に、「寝たっきり」であることの悲しみや苦労も、それを看護しなければならないはずの「お瑛」の姿も浮かび上がってこない。

 もう一つ残念なことは、各章が「時の順」に並べられているのだが、そこに現在の時制での時間が括弧で示されていることである。江戸時代の時制は、夜明けと日暮れをそれぞれ「明け六つ」、「暮れ六つ」としてその間をほぼ2時間くらいずつに区切っていたし、従って、江戸の「六つ」と京都の「六つ」は、ほぼ1時間ぐらいの違いがあって、一概に、現在時間で何時というわけにはいかないことぐらいは、時代小説を書く人間なら誰でも知っていることである。それをわざわざ現在の標準時間で表記するのは何故だろうか、とつまらぬことを思ったりする。また、「スタスタとずいぶん早くお歩きだね」(224ページ)などの会話も、その多くが極めて現代的な言葉使いで書かれている。

 もちろん、娯楽小説として、物語の展開がきちんと進めばそれでいい、と言ってしまえばそれまでだが、時代考証も含めて、人物にも、もう少し思想性が欲しいところである。

 続いて、藤原緋沙子『遠花火 見届け人秋月伊織事件帖』(2005年 講談社 講談社文庫)を読んでいるが、なかなか進まない。これを読もうと思ったのは、この作者が小松左京の「創翔塾」という創作教室の出身とあったからで、小松左京(1931年-)は、日本を代表するSF作家であるが、高橋和巳(1931-1971年)の友人であり、なじみのあるところでは『復活の日』(1964年 早川書房)や『日本沈没』(1973年 光文社カッパ・ノベルス)などを面白く読んでいた。

 この小松左京の創作教室の出身なら、かなりしっかりした時代考証と社会検証の中で物語が進行していくだろうと思った次第である。

 物語は、今の神田見附あたりにかかっていた筋違橋から北に向かって伸びる御成道と呼ばれる道筋にある「だるま屋」という本屋の主人の「吉蔵」が、今でいう情報屋のような仕事をしており、この情報の真偽を確かめる「見届け人」として旗本の次男である秋月伊織や元目明しの長吉、浪人の土屋弦之助、吉蔵の姪のお藤などを中心にして事件の探索を行い、一つの事件ごとに一話が完結していくという筋立てとなっている。

 それにしても、最近の時代小説はこうした構成を取っているものが多い。おそらく、テレビドラマの制作の手法が大きな影響を与えているのかもしれない。テレビドラマは、時間内でひとつのエピソードが完結するように作られているのだから、それを意識して小説を構成する作風があるのかもしれない。したがって、登場人物の細かな心理描写もあまり必要とされないし、人生そのものを描き出すような長くて味のある小説も少なくなっている。ただ、この作品がそうだというのではない。この作品は、構成がしっかりしているので読みやすいし、人物の描写や会話も巧みである。

 とりわけ、同じような物語構成を先駆けた平岩弓枝(1932年―)の『御宿かわせみ』(1974年から始まって、現在なおも明治編が執筆中)や藤沢周平(1927-1997年)の多くの作品、池波正太郎(1923-1990年)などの作品は、一つ一つのエピソードを山場にもちながら、全体としても深い味わいがある。

 この作品は、まだ、読書の途中の段階であるし、一慨の批評などはあまり意味をもたないが、文体は洗練されてリズミカルであり、読みやすい。表題作ともなっている第一話「遠花火」は、女に騙された「あばた」顔の田舎侍柏木七十郎の話である。自己嫌悪の日々を送っていた柏木七十郎は、魂胆をもって言い寄って来た「おかね」という女に騙され、身の破滅に追い込まれる。見届け人たちがその事実を暴いていくのである。

 この話の結末部分に次のような一文がある。(吉蔵が伊織に事情を話す場面として)

 「柏木様は江戸にご出立の折に、庭に蜜柑の苗木を植えてこられたのだそうです。その蜜柑の木に実がなる頃には国に戻って来るとおふくろさまに約束していたようでございます。ところが一年が二年になり、二年が三年になり、定府の勤めになってしまって、蜜柑の苗木のことはすっかり忘れていたようです。それが、今度のお手紙ではその蜜柑に花が咲いたと書いてあったそうです。・・・・狭山様(柏木の友人)のお話では、柏木様のおふくろさまは歳のせいで目がよく見えなくなっているそうなのですが、そんなおふくろさまが蜜柑だけは枯らしてはならないと、手探りで水遣りをしてきたんじゃないかと、そう申されておりました。」(92ページ)

 こういう設定と会話が、わたしを懇情に喜ばせてくれる。柏木の母は義母である。時代小説は人間のよさを素朴に引き出す。この作品は、この最後の言葉で成功しているのかもしれない。ともあれ、続きを読もう。夕方出かけなければなrないので、電車の中で読む時間はたっぷりとれるだろう。