2010年7月30日金曜日

北原亞以子『月明かり 慶次郎縁側日記』

 昨日、久方ぶりに雨が降り、今朝も午前中までは雨が落ちていたが、午後から、ときおり夏の日差しがさし、今は曇り空が広がっている。気温も僅かだが低くなっているが、蒸し暑いのに変わりはない。『カフカ論』に少し手を入れていたが、論じても論じきれないし、書いても書ききれない感じがしてならない。こういう時は、後で読み返すと論理が堂々巡りをしていることが多いので、きっとそうだろう。

 昨夜は北原亞以子『月明かり 慶次郎縁側日記』(2007年 新潮社)を読んだ。これでおそらくこのシリーズで今まで出されているものは全部読んだことになるが、変わらずに淡々と枯れたような文章で人間の心情の顛末が綴られている。

 手籠めにあって自死した一人娘を失った元南町奉行所同心で「仏の慶次郎」と呼ばれていた森口慶次郎は、娘と結婚するはずであった晃之助を養子に迎え、家督を譲って酒屋の寮の寮番として生活しているが、彼をしたって持ち込まれる事件に関わっていくというのがシリーズの格子で、養子の晃之助は嫁を迎え、子どもができ、慶次郎は孫として可愛がっている。血は繋がっていないが、その親子や家族の姿も、慶次郎の人柄を現して爽やかで互いの思いやりに満ちている。

 本書は、その慶次郎の元に、子どもの頃に目の前で父親を殺された若者が、長い間かかってようやく父親の敵を見かけ、それを確かめたいと言ってきたのが始まりで、それを探っていく内に、若者の父親やその友人にまつわる男女のどろどろした愛憎関係が浮かび上がって来るというものである。

 登場人物のそれぞれに負い目と秘密があり、嫉妬や恨みもあり、男と女、親と子、兄弟がその中で、どうにもならない自分の気持ちを抑えきれずに愛憎劇を繰り広げていく。若者の父親は、思いやりのある人間で、彼に横恋慕した女の嫉妬心やその女に惚れている別の男のとばっちりを受けて殺されたのである。

 巻末の方で「月明かりの中での勘違いで不幸になる」というくだりが出てくる。それぞれの愛憎が月明かりの中での薄ぼんやりと見えた出来事に過ぎないというのである。「一生月明かりの中にいて、お互いごまかされていりゃ幸せなんだ。弥吉(父親を目の前で殺された若者)のように、月明かりの中ではっきり父親殺しの顔を見ちまうと、みんな不幸せのもとになる」(209ページ)と自分の恋が実らずに不幸せだと思っている女が思う。

 本書の表題は、そういうところから採られているのだろう。そして、それと対比するように、「ずっとやさしい気持ちでいられたら幸せ」という姿として、子どもが自分の子ではないと知りながらも自分の子として可愛がった若者の殺された父親の姿や森口慶次郎の姿が描かれる。

 もちろん、人に裏切られて悔しい思いをしなければならない人間の思いも赤裸々に描かれるが、それでも、「お互いにやさしい気持ちで生きられたら幸せ」の方へ傾いていくのである。そういうことは、寮番としていっしょに暮らす口うるさい左七という男を有難いと思っている慶次郎の姿の中に込められていく。

 北原亞以子の作品は、『深川澪通り木戸番小屋』でもそうだが、優しさにあふれている。どうにもならない状況の中で、「人の優しさ」というより「思いやり」が宝石のように光る作品である。もちろん、それだけではどうにもならないのが人間であるが、そんなことは承知の上で、なお、その「思いやり」を描こうとする。そういう姿勢がいいと思っている。

 ただ、本書を読みながら、「惚れたら、惚れたものは仕方がない」という思いを抱き続けていた。「あばたもえくぼ」とはよく言ったものである。「惚れる」というのは生物学的にはホルモンの働きに過ぎないが、惚れたら倫理も思想も、何もかもが吹っ飛んでいく。そして、そういう「惚れる」ことを経験することができる人間は、それだけでもう最高の幸福を知ることになるのだろう。「惚れる」ことは自分の実存を実感できることである。ただ、惚れていることを実感でき、心底惚れて、惚れ抜くということは実際の人間には「まれ」なことかもしれない。いいかげんの「月明かり」が現実かも知れないと思ったりもする。そう思うところに、夢も希望もないが。

2010年7月28日水曜日

鳥羽亮『剣客春秋 初孫お花』

 文字通りに「うだる」ような暑さが続いている。今朝、3月に注文していた新しい車が届けられたので、車内の荷物を引っ越したり、車の操作方法を調べたりしていた。これまでの車は平成元年のものだったから、22年間も使用われ、自分で修理しながら乗ったりしていたが、新しい車は便利になったとはいえ、自分では何もできないような仕様になっている。排気量がこれまでの半分ほどになり、小さくなったと思っていたが、外観に比して実寸はそうでもなかった。やがて乗り慣れるだろう。

 それはそれとして、昨日、鳥羽亮『剣客商売 初孫お花』(2007年 幻冬舎)を読んだ。これは、一昨日に記した『里美の涙』に続くシリーズの7作目で、夫婦になった町道場の娘里美と吉野彦四郎の間に子どもができ、主人公の千坂籐兵衛にとって初孫が誕生する。

 そういう中で、陸奥国高垣藩の江戸勤番の藩士たちが千坂道場に入門してきて、高垣藩から剣術指南役の話が持ち込まれる。ちなみに、陸奥国高垣藩というのは実在しないのではないかと思う。その藩からの要請の裏には、どうも藩の内紛に絡む問題があるようで、入門してきた藩士たちが襲われ、千坂道場の若い門弟も殺される。

 千坂籐兵衛は、藩の内紛に絡む問題には立ち入らないようにしながらも、門弟や師範が襲われたために、彼らを襲った高垣藩の一派が使う剣客らと対決していく。

 藩の内紛には、経済的に窮乏を喫した藩で、改革派と商人に癒着した保守派が血で血を争う抗争を繰り広げていた。そして、襲撃してきた者たちは、刀を横に払って顔面や首をはねる飛猿斬りと呼ばれる剣法の名手たちだったため、千坂道場の師範や彦四郎たちは傷を負い、彦四郎は千坂籐兵衛に手を引かせるために捕らわれたりする。

 この作品には、剣客小説の本領を発揮して、その飛猿斬りの名手と一刀流の千坂籐兵衛の激突の様が克明に描かれていく。もちろん、飛猿斬りというのも作者の創作だろうが、もし、俊敏な動きが可能なら不可能ではない秘剣となっている。

 こうして、籐兵衛の活躍によって藩の内紛騒動は解決していくし、藩から道場を広げるなら資金を出しても良いという提供を、自分はこのままでいいし、不要といって断る籐兵衛の無欲で質素な、ただ、家族や弟子たちに思いやりをもった姿が描かれていく。

 江戸時代も末期のこのあたりになると、どこの藩でも経済的にも政治的にも行き詰まって、どうにもならない状態が続き、改革派と保守派といった内紛もあちらこちらで起こっていくが、保守派が保身のために悪徳商人と結託したものでなくても、行き詰まりの中での内紛は起こっていた。そこには社会構造そのものの問題があったのであり、武家社会の構造そのものが歪みを是正できなくなっていたのである。明治維新は、そうした武家社会の状態が行き詰まってしまって、どうのもならなくなった果てに起こったもので、一部の英雄的な志士たちが先見の明をもって事を起こした以上に、そうした行き詰まりの切羽詰まった状況が引き起こしたものだと思っている。

 小説では、藩内の改革派と保守派の争いを明確にして面白くするために、保守派の商人と結託した姿として描かれているが、社会に対する思想的な対立の方が、リアリティーがあっただろうし、悪を悪として出現させる安易さを感じないわけではないが、主眼は剣客小説として、欲も何もなく、ただ初孫の誕生を心底嬉しがる人間としての籐兵衛の姿を描いているのだから、これはこれで十二分に面白いのである。籐兵衛は、どこまでも市井の人間として生きていく。

 人には、社会的に自分の存在を確立する必要などどこにもない。家族や周囲の人々を慈しみ、大切にして、日々の喜怒哀楽の中で、子どもや孫の誕生を喜び、人生の同伴者があることを無上のこととして、貧しくても日々の暮らしが営んでいければ、それでいい。そこには社会正義を大上段に振りかざす必要もなければ、つまらない批判精神なども発揮する必要もないし、自分の能力を誇示する必要もない。そんなことを感じながら、この作品を読み終えた。

 今日は、暑くてやりきれないが、これからシャワーを浴びて、車の保険の切り替え手続きなどが終わったら、少し買い物がてらに新しい車の慣らし運転でもしてみよう。これで車を買い換えることも、もうないだろう。

2010年7月26日月曜日

鳥羽亮『剣客春秋 里美の涙』

 昨夜少し雨がぱらつき、今日も午後から曇ってきたが、湿度と気温が高く耐え難い暑さにあることに変わりはない。朝から汗まみれになって掃除をしていた。

 昨日、鳥羽亮『剣客春秋 里美の涙』(2006年 幻冬舎)を読んだ。これは、このシリーズの6作目で、前に読んだ5作目の『恋敵』に続くもので、本書では剣術道場を開いている千坂籐兵衛の娘里美と吉野彦四郎は夫婦となり、夫婦で籐兵衛の道場に通いながら剣の修行を続けている。

 本書では、1837年(天保8年)に大阪町奉行所の与力であった大塩平八郎が起こした江戸幕府に対する反乱の影が江戸にも落ちて、江戸で「大塩党」を名乗る牢人集団が商家を襲い、強奪と強盗を働いた事件が背景として取り上げられている。大塩平八郎の乱そのものは、天保の飢饉と大阪の豪商による米の買い占め、大阪町奉行の腐敗などがあっての武装蜂起であった。内通者なども出て失敗するが、その残党が各地に流れたのは事実である。

 本書では、江戸で食い詰めた牢人たちが「大塩党」の名をかたって強盗を働く牢人集団が取り上げられている。彼らは、武芸所を作るという名目で腕の立つ牢人たちを集め、商家を強請り、強盗に押し入るのである。各派の武芸を一堂に集めた武芸所を作るというのは、いってみれば清河八郎並みの発想であるが、実態は押し込め強盗に過ぎなかった。

 しかし、そこには能力があっても食い詰め牢人として生きていかなければならない下層武士たちの悲哀がある。「里美の涙」というタイトルの「涙」は、その悲哀を表す言葉である。

 彼らが、千坂籐兵衛の亡くなった妻の実家である米問屋に脅しをかける。それぞれが凄腕の牢人たちであり、容赦なく人を斬り殺す。その米問屋の危機を籐兵衛、里美、彦四郎らの千坂道場の面々が救っていくというもので、彼らの決死の活躍によって「大塩党」を名乗る強盗集団を捕らえていくというものである。

 千坂籐兵衛や道場師範に「大塩党」からの誘いがあったり、鬱々としていた門弟が大塩党の一員であったりして、下層武士階級を取り巻く切迫した状況が「人間の姿」として描かれている。また、政治的、あるいは社会的目的を掲げて、それを大義名分にして自己の安泰や保身、出世をもくろみ、強奪などを働く人間には、どこか傲慢なところがあるが、その傲慢さも「大塩党」を名乗る牢人たちの姿によく現れている。

 前作でも、あるいはこのシリーズの全部に言えることだろうが、欲も何もなく、ただひとりの剣客として正直に生きる千坂籐兵衛や里美、彦四郎の姿がそれだけによけいに爽やかな姿として映る。彼らはお互いに「思いやる」ことを知っている人間たちなのである。

2010年7月23日金曜日

鳥羽亮『剣客春秋 里美の恋』

 「酷暑」とか「猛暑」とかいう夏の暑さを表すあらゆる言葉でも表しきれないほどのひどい暑さの日々が続いている。夜になっても暑さが去らず、湿気も多い。ますます動摩擦係数が大きくなって動くのが億劫になる。

 だが、読書の方は、宮部みゆきに続いて鳥羽亮『剣客春秋 里美の恋』(2002年 幻冬舎)を気楽に読み進めた。これは前に読んだこのシリーズの『女剣士ふたり』や『恋敵』の第1作目の作品で、神田豊島町に一刀流の道場を開く千坂籐兵衛とその娘里美の活躍を描いたものだが、父と娘という取り合わせが良いし、事件や出来事への関わり方も剣客らしい筋を通したものとなっている。

 既に、2作品を読んでいたので、娘の里美が料理屋の美貌の息子で北町奉行の妾腹の子である吉野彦四郎と恋仲であることは承知し、その出会も、ぐれていた彦四郎が暴漢に襲われているところを里美が助けたということが度々触れられるので承知していたが、この1作目の『里美の恋』でその詳細がかなり複雑なものであったことが記されている。

 吉野彦四郎は、料理屋の息子であるが母親から武士として育つことを期待され、その理由が自分の父親にあるらしいことを知って、顔も見せない父親への反発からぐれて、博打場に出入りし、自堕落な生活をし、借金を抱えると同時に、博打場を取り仕切る市蔵の罠の中で、逃れられない状態に陥っていた。

 だが、里美に助けられ、剣術の稽古の清々しさも知って立ち直ろうとする。しかし、市蔵は罠をかけ、彼を人殺しの下手人にしたて、監禁する。市蔵は彦四郎が奉行の妾腹の子であることを知って、彼を手中に収めることで身の安全を図ろうとしたのである。そのしつこさと粘着性は反吐が出るようなしつこさである。だいたい悪意をもつ者は粘着性が高い。欲のない籐兵衛や里美の爽やかさと対照的になっている。

 千坂籐兵衛は、彦四郎の母や父親の奉行、そして里美の気持ちを知って、彦四郎を救出していく。その際、市蔵に雇われた凄腕の牢人との剣の対決を覚悟し、最後に牢人と対決して、わずかの差で勝つのである。

 剣道にしても他の柔術にしても、あるいはそのほかのすべてのことにおいて、この「僅かの差」というのが、実はかなり大きな差となる。「僅かの差」は無限のひらきがあるのである。こういうことを作者は本当によく知って作品が書かれているので、作者の頭の中で想定された剣の対決ではあるが、リアリティーがある。

 千坂籐兵衛と里美から助けられた彦四郎は、無頼の徒から立ち直って、千坂の道場で剣の修行を始めることになる。娘の里美も、恋する里美になっていく。

 こういう作品は、本当に肩のこらない作品で、情景描写も優れていて読みやすい。池波正太郎の『剣客商売』も面白かったが、これも面白く読めるものである。脇役の同心や千坂家の食事の世話などをしている「おくま」という名前のとおりの女性も物語に妙味を沿えている。

 今日は出かけなければならず、炎天下を歩き回るのもどうかと思って車を使うことにした。新しい車が来週納車されるというので、この車に乗るのもあと僅かになった。長年使ってきたのでやはり少しもったいない気もするが、故障も多くなっているからやむを得ない。『剣客春秋』のシリーズは、他にも図書館から借りてきているので、今夜もその続編を読むことにする。

2010年7月21日水曜日

宮部みゆき『ぼんくら』

 「炎天」という言葉では足りないくらいの猛暑日が続いている。風もほとんどなく、少し身体を動かせば汗がしたたり落ちる。夜になっても気温が下がらずにむっとした空気が漂うだけで、何とも過ごしがたいが、読書の方は、宮部みゆき『ぼんくら』(2000年 講談社)を面白く読んだ。

 これは先に読んだ『日暮らし』(2005年 講談社)の前作に当たるもので、登場人物は、主人公的な引き回し役の井筒平四郎が、この作品では奉行所の定町廻り同心だが、『日暮らし』では臨時廻り同心となっている。井筒平四郎は、四男だったが家督を継がなければならなくなり、仕方なしに同心をしているのであり、家でごろごろして、できるだけ働きたくないと思っているのだから、「背中にひびができる」と言われるほど江戸市中を巡回しなければならない定町廻りよりも臨時廻りの方が性に合っている。

 井筒平四郎は物覚えも悪く、あまり細かいことも考えたくなく、どこか呆然としたところのある人間であるが、実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い。繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。

 彼の細君は絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性であるが、二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる五男の弓之助を養子にしたいと思っている。

 この弓之助が真に優れた子どもで、誰もが振り返るほどの美少年であるが、測量にこっており、「わたくしは、必ず一尺二寸の幅で歩くのです」と言って、ものとものとの距離がわかれば、「ものの有りようがわかります」と言ったりする天才的な頭脳の持ち主なのである。そして、おねしょの癖があってからかわれたりするが、叔父の平四郎が関わる事件を見事に見抜いて、平四郎を助けていくのである。平四郎はこよなくこの弓之助を愛し、包み込んでいる。その関係が絶妙で、弓之助との会話の中にそれがよく表されている。元来、天才的な頭脳の持ち主はおねしょ癖があるものである。作者は多分そのことをよく知っていて、物語の綾として取り入れているのだろう。

 先の『日暮らし』でも触れたが、この作品には、もうひとり天才的な少年が登場する。それは、母親からも「鈍くて人の足を引っ張る」と言われて捨てられ、井筒平四郎が懇意にする岡っ引きに引き取られている「おでこ」と呼ばれる少年で、彼はあらゆる出来事を記憶する能力の持ち主で、弓之助と友だちになって事件の解決に一役買っていく。

 こうしたユニークな登場人物を中心にして『ぼんくら』は、深川の通称「鉄瓶長屋」と呼ばれる貧乏長屋の住人たちが巻き込まれた事件の真相を暴いていくというミステリー仕立てになっている。「鉄瓶長屋」の家作(持ち主)は、築地の大店の湊屋総右衛門で、彼の意を受けた差配人(管理人)久兵衛の下で、八百屋、煮売屋、魚屋などが表にあり、裏には桶職人や水茶屋で働く女などが住んでいる。

 「鉄瓶長屋」というこの奇妙な名称は、昔、共同井戸の汲み換えの時に井戸の底から錆びた鉄瓶が二つも出てきたところからつけられたもので、そこには物語全体の重要な鍵となる複線が張られていて、古来、鉄は魔を封じるものとされてきたところから、井戸の底にある「魔」や「怨念」を封じるために誰かが投げ入れたものである。その「怨念」を封じなければならなくなった人間の事情、それがこの物語の格子なのである。

 「鉄瓶長屋」の中心となっているのは差配人の久兵衛と煮売屋のお徳で、お徳は、腕っぷしも強く、きっぷもあって、住人を束ねているが弱い物を助ける人情家でもある。井筒平四郎は、このお徳の煮売屋に始終立ち寄って、お徳の料理をつまみながら時間を潰しているのである。

 最初に、この「鉄瓶長屋」の住人たちに次々と禍が起こってくる。八百屋の息子が何者かに殺され、桶職人が博打に狂って娘を売りそうになり、水茶屋で春を売って働く女性が越してきて一騒動起こり、ついには差配人の久兵衛までもが失踪するのである。店子たちは次々といなくなっていく。こうした出来事の悲喜こもごもが丹念に描かれて、それらのすべてが複線となり、これらの出来事の背後に、「鉄瓶長屋」の持ち主である湊屋総右衛門の意向と、その事情が隠されていることがわかっていくのである。

 この作品は実に多くの複線が張り巡らされて、しかもそれが丁寧に、巧みに描かれて、後になるに従って、なるほどあれはこういうことだったのか、というようなミステリーの巧みさが見事に生かされている。大きな筋立てだけでなく、たとえば、最後に井筒平四郎と湊屋総右衛門が屋形船で会い、事の真相をはっきりさせる場面で、屋根船に揺られたために平四郎の「腰が重く」なるのだが、それが、結末で彼の「ぎっくり腰」として現れるという具合である。事件の顛末も単純ではなく、平四郎や弓之助が、殺されて鉄瓶長屋に埋められているのではないかと思っていた湊屋総右衛門の愛人の女性が、実は生きていたりする。いわば最後のどんでん返しも仕込まれているのである。若い男女の恋愛もあり、春をひさいでいた女性が性病で死んでいく場面もあり、また奉公人と主人の関係も見事に描かれている。

 そして、何よりも少年の弓之助と「おでこ」、そしてそれを暖かく包む平四郎や岡っ引きの政五郎の姿も物語の要となっているところがいい。事件は陰惨だが、物語はユーモアに満ちている。小説のおもしろさを全部持ち合わせている。この作品と『日暮らし』は、宮部みゆきの作品の中でも傑作と言えるかもしれない。

2010年7月19日月曜日

杉本章子『きずな 信太郎人情始末帖』

 積乱雲がもくもくと立ち上がり、昨日から猛暑日が続いている。じっとしていても汗が滴る。昨夕はそれでも涼風が吹いていたのだが、今日は、木々の梢も微動だにしない。

 土曜日(17日)から昨日にかけて、杉本章子『きずな 信太郎人情始末帖』(2004年 文藝春秋社)を読んだ。これは、先に読んだこのシリーズの『狐釣り』に続く四作目で、呉服太物店の跡取りで許嫁がありながらも、吉原の引手茶屋の女将で子持ちの女性に惚れて勘当された美濃屋の信太郎を主人公にした話で、『狐釣り』では、信太郎と彼が惚れた女将の「おぬい」との間に子どもができ、いよいよ自分の身の振り方をはっきりさせなければならない状況が描かれていた。

 本作には、「昔の男」、「深川節」、「ねずみ花火」、「鳴かぬ蛍」、「きずな」の5編が収められているが、読み終わって嬉しくなったことの一つに、信太郎とおぬいの身辺状況を描いた「昔の男」と「きずな」が最初と最後に置かれていて、ちょうどサンドイッチのようにして、その間に信太郎の友人でもあり御家人の次男で芝居の囃子方で笛吹きをしていた磯貝貞五郎の兄が殺されるという事件の顛末が挟まれている構成になっていることである。

 「サンドイッチ方式」とでも呼ばれるような構成なのだが、そこに少しも無理がない。まず、全体をうまく包む第一話「昔の男」と第五話「きずな」であるが、「昔の男」ではおぬいが昔つきあったことがある侍のことで、それを知る旗本がおぬいに脅しをかける。おぬいはそれをきっぱりとはねつけようとするが、手口が巧妙である。だが、そこに信太郎の父親がきて、脅す旗本を逆に追い返し、おぬいと信太郎の父親の初顔合わせの場面ができ、信太郎の父親は脅しに屈しないおぬいのことを気に入っていくのである。

 男女のことの中で、きっぱりとした対応ができるためには、自分の愛情に自信が必要である.自分がとことん惚れていることを知っていれば、愛情の問題はほとんど解決していく。おぬいにはそれがあるのであり、また、第五話「きずな」でそのことを知った信太郎が少し悋気(嫉妬)を起こしかけるが、それもふたりの間を裂くに至らない。「悋気は寝屋で」というのがいい。

 信太郎の父親は、おぬいとこうして顔合わせをし、なんとか勘当している信太郎と自分の美濃屋との関係を修復させようと、おぬいの連れ子である千代太を自分の店に引き取ろうとするが、周囲は猛反対をし、特に気の強い信太郎の姉がいきり立つ中、持病の心臓の発作が起こり、他界してしまう。

 知らせを受けて駆けつけたおぬいは、はじめは逡巡するが、千代太と信太郎との間にできた娘に、「祖父(じいさま)」ときっぱりと言わせるのである。

 勘当したとはいえ、理解をもて接しようとした信太郎の父親が亡くなって、さて、信太郎とおぬいはどうするか、それが今後の興味をそそる筋立てとなっている。

 その間に挟まれた2-4話では、自分の兄を殺された磯貝貞五郎が、信太郎の協力を得て真相を突き止めていく話であるが、ここでも身分違いの恋の行くへが問題となる。貞五郎は芝居の囃子方として粋で売り物の柳橋芸者の売れっ子と夫婦同然の暮らしをしていたが、兄の死によって武家の家督を継がなければならなくなり、売れっ子芸者は身分違いと諦めようとする。

 しかし、貞五郎は彼女を嫁にしたいと申し出る。貞五郎の兄嫁と母親が乗り込んできて、身分違いを言い立てる。貞五郎は元々兄嫁が結婚する前からの幼なじみであり、兄嫁と結婚させるというのである。自分でも武家の妻などにはなれないと思うところもある。しかし、女の意地もあったのかもしれないが、売れっ子芸者は貞五郎の申し出を受け入れていく。

 事件の探索と恋模様の二筋が絡み合って、磯貝貞五郎の顛末が語られているのである。そして、様々な状況やのっぴきならない関係があったとしても、結局は自分の決断と思いの強さが事柄を決していくことが全体を貫いているのである。

 「人間は精神である」と言い切ったのはS.キルケゴールであるが、「精神は決断」であり、その決断に従って生きているのだから、どのような決断をするかがその人の人格と人生を決めていく。『信太郎人情始末帖』では、主人公たちはそれぞれ「自分の愛」に誠実に決断していく姿が描かれている。作家の精神はそう単純なものではないが、このシリーズを読む限りにおいては、作者にもどこか一本気な所があるのかも知れないと思ったりもする。

 今年のお正月に見た映画の『のだめカンタービレ 最終章(前編)』がDVDになっていたので借りてきた。何度もこれを見ているのだが、改めてDVDで見ても、これは本当に面白いし、使われている音楽がとてもいい。この作品の中では主演の上野樹里の顔つきがとても柔らかである。作られる時のスタッフも雰囲気も良かったのだろう。5月に公開された後編も早くDVDになればと思っている。

2010年7月16日金曜日

宮部みゆき『堪忍箱』

 雨の多かった梅雨が上がってきた気配で夏空が広がっているが、蒸している。このところ頸椎のこともあったり、歯医者にかよったりして身体のメンテナンスの必要性をつくづく感じているが、スポーツジムも止めてしまったので、今のところ少し長く歩く以外のことはしていない。ただ、黄昏時に散策をするのはとても気持ちがよい。夏の夕暮れは、どことない寂寞感が漂うのだが、それもよい。清少納言は、「秋は夕暮れ」と言ったが、現代の季節感に照らし合わせれば「夏は夕暮れ」となるだろう。

 2~3日前から宮部みゆき『堪忍箱』(1996年 新人物往来社)を読んでいたが、昨夜ようやく読み終わった。彼女の作品は展開の妙もあってどれも読みやすいし、これは短編集なのだが、夜にすることもたくさんあって、なかなか読了しなかった。

 宮部みゆきは比類のない筆力をもった作家で、彼女の筆力は、展開がゆっくりと、しかも大胆な発展をしていく長編にこそよく現れる本格的な長編作家だと思うが、短編もそれぞれの妙がある。長編は決して短編の積み重ねではなく、そこには特有の粘り強い、そして全体を見通す思索が必要であり、短編は独特の切り口を必要とし、いわば詩的な感覚を要するので、その作品の構造自体が異なっているのだが、宮部みゆきの短編には、短編ながらその両者を兼ねているようなところがあるように思われる。

 『堪忍箱』は、表題作の他に「かどわかし」、「敵持ち」、「十六夜髑髏」、「お墓の下まで」、「謀りごと」、「てんびんばかり」、「砂村新田」の8編が収められている短編集で、それぞれ、江戸でその日暮らしを強いられている人々の暮らしの中での人間模様を描いたものである。これらの作品多くは、奉公人として働かなければならない、今で言えばまだ少年少女の視点の中での人情や妬みや恨みの気持ちを抱いて生きる人間の姿である。

 表題作の「堪忍箱」は、火事で祖父を失い、意識不明になった母を抱える菓子問屋の娘を引き回し役にして、家代々に伝わっている決して開けてはいけないと言われている「堪忍箱」につまっている人のくやしさや嫉妬心、怨念の話で、「かどわかし」は、忙しい母親の代わりに育ててくれた乳母を慕う少年の気持ちと、それを知る母親の思いが、少年のかどわかし(誘拐)事件をきっかけにして交差する話である。

 第三話「敵持ち」は、勤めている料理屋の女将に横恋慕していると思われる男に脅され、命を狙われる料理人が身を守るために長屋の傘張り牢人に用心棒を頼み、それによって料理屋の女将と男が企んでいた金貸し殺しの嫌疑を料理人に向けるという悪計が暴かれていくというもので、用心棒となった牢人は、かつてはある藩の要職だったが、藩主が狂気に陥り、奥方との不貞を疑って上意討ち(主君の命で殺されること)となり、逃れていたもので、人の欲と狂気が交差する中で、牢人の身の処し方が光る作品である。

 第四話「十六夜髑髏」は、15歳で米屋に奉公に出た娘が、その米屋に代々伝わっている十六夜の月の光を浴びると主人が死ぬという言い伝えの真実を知っていくというもので、それが初代の主家殺しの怨念であるというもので、第五話「お墓の下まで」は、それぞれの事情を抱えて捨てられた子どもたちが、長屋の差配夫婦に育てられ、それぞれの子どもたちの事情と育てる差配夫婦の事情が絡み合って、それぞれの事情を墓の下までもっていくことによって互いの思いやりと愛情のあり方を情感あふれる温かい筆致で描き出したもので、個人的には、この短編集の中では一番気に入った作品である。

 第六話「謀りごと」は、長屋の差配が死んでいるのを見つけた住人たちが、それぞれに死んだ差配の姿を描き出すもので、人にはいろいろな面があるのだということが、それぞれの住人の姿を通して描かれる。第七話「てんびんばかり」は、姉妹のようにして育ってきた二人の娘が、一人は大店の後添いとなり、一人はそれに嫉妬していくということを筋立てにして、大店に嫁いだ娘も不義の子を身ごもったり、嫉妬していた娘も結婚して住み慣れた長屋を離れていくことになったり、人の運命というのがほんの少しのところで変わっていくということを、女性同士の嫉妬心や友情の姿として描き出したものである。

 最後の第八話「砂村新田」は、父親の病のために奉公務めをしなければならなくなった娘が、苦労している母親の昔の恋心を知っていくというもので、人間の愛情の深さがさらりと描かれている。

 こういう短編が、切り口というより、様々な思いをもって生きている人間の姿の集約された描写として描かれており、単純な文学的点描の短編ではないところが、おそらく、作者が長編作家であるゆえんだろう。

 宮部みゆきの長編作品は、おそらくなかなか人気があるのだろう、図書館で上下巻そろっていることがまれで、最近でも『小暮写真館』という相当の分量の長編が出版されている。作家としての資質はいうまでもないことであるが、思考力の持続性と仕事量に脱帽する。

 今日は本当に暑い。夜眠る時にエアコンを使わないし、騒音を防ぐために窓を閉め切っているので、滴る自分の汗で目覚めてしまい、睡眠不足が起きてしまうが、これからこういう日々が続くのだろう。昔は、田舎で、窓を開け放って朝まで気持ちよく眠っていたような気もするが、そのころの風景がなんとなく懐かしく忍ばれる。

2010年7月12日月曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 孫六の宝』

 梅雨特有の重い空が広がり、ときおり湿気にこらえきれずに雨となったり、雲の切れ間が見えたりする。昨日参議院選挙が終わり、大方の予想通り政権与党の民主党の惨敗が報じられた。政治に哲学も高い精神性もなく、それゆえにまた方策もないというもっともらしい批評を下すことは簡単だが、問題の根は深く、また深刻でもある。人間の「暮らし方」の根本が問われているのに、表面的な、あるいは場当たり主義的な現象しか問われない。本当の意味でのリアリティーがなくなってしまって、これほど人間がその精神性を失った時代はなかったのかも知れない。

 それはともかく、今日、掃除をしながらずっとF.カフカが描いた「不幸な状態」について考えていた。カフカの主人公たちは、真綿で首を絞められるようにして追い詰められて行き、悪戦苦闘の末、結局、自分の居場所をどこにも見出せなくなって終わっていくが、現代の人間の不幸はそんな状態に置かれているところにあるのかも知れないと思っていたのだ。「存在の喪失の不幸」はじわじわと追い詰め、人を狂わせていく。何ともやりきれない思いを抱かなければならないこと、それが不幸の正体かも知れない。

 再び、それはともかくとして、昨夜、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 孫六の宝』(2007年 双葉文庫)を読んだ。先日読んだ『父子凧』に続く第十作目の作品で、今回は、「はぐれ長屋」の住人で、還暦を過ぎて引退した元岡っ引きの孫六に待望の孫が誕生する話が基線となり、その孫六の娘婿で魚のぼてふり(天秤棒に担いで売り歩く)をしている叉八が辻斬りに襲われるところから事件が始まる。

 叉八を襲った辻斬りたちは、執拗に叉八をねらい、ついには「はぐれ長屋」にまで襲ってくる。事態を受けて、「はぐれ長屋」の華町源九郎、菅井紋太夫、茂次、三太郎が動き、なぜ叉八が狙われるのかの真相を探っていく。

 そこには太物問屋と材木問屋の乗っ取りを企む高利貸しと彼に雇われた剣鬼のような牢人たちが暗躍しており、叉八は、彼が襲われた時に、高利貸しと牢人たちに繋がりがあることを知ったために付け狙われていることが判明する。

 「はぐれ長屋」の住人たちは、手分けして探索をはじめ、源九郎と紋太夫は剣鬼のような凄腕の牢人たちと対決していく。

 その中で、華町源九郎は、かつて鏡新明智流の道場の同門であり、「籠手切り半兵衛」と呼ばれていた安井という武士と出会う場面がある。安井は源九郎のあまりにもみすぼらしい格好を見て、
 「おぬしに、その気があれば、その腕を生かす仕事もあるのだがな」と言う。
 源九郎は
 「この歳になると、腰の刀でさえ、重くてな、それに隠居暮らしはわしの性に合っておる」
 と言って断る。
 安井は声に力を込めて言う
 「華町、まだ、老いるのは早いぞ。もう一花咲かせねば」
 それに対して、源九郎は「そうだな」と同意を示すものの、胸の内で「わしの花は、好きなことをして呑気に暮らすことだ」とつぶやくのである。(87-88ページ)

 その安井は、高利貸しと結託して、辻斬りと乗っ取りの手先となっているのである。そして、無欲の源九郎と対決して敗れる。

 これを読みながら、ふと、この国の人々が上昇志向というものに取り憑かれるようになってどのくらいたつだろうかと思ったりした。この国の住人の多くは、どこを見ても上昇志向だらけになった感さえある。以前、NHKの紀行ドキュメンタリーで、ベネチィアで何代も何代もゴンドラの船手をしている人が紹介されていたのを思い起こす。彼もまたゴンドラの船手としての生涯を過ごし、人生を終わるという。彼は、自分お仕事と生活に誇りを持ってそう語っているように見えた。そこに、この国の人々との大きな違いを感じたような気がした。

 うらぶれた貧乏長屋である「はぐれ長屋」の傘張り牢人として過ごす華町源九郎の姿は、どこか爽快で、作者がこれをシリーズ物として多くの作品を書いた理由も、そこにあるように思えた。

2010年7月10日土曜日

鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 父子凧』

 東北と九州南部では大雨が予想されているが、昨日の雨が嘘のように晴れ上がった夏の日差しが注いでいる。頸椎の痛みはほとんど薄らいできたが、体力の低下はいかんともしがたく、何をするにも時間がかかるようになってきた。もっとも、一つのことをするのに時間がかかるということは、人生をもてあまさない身体的機能工夫の働きだろう。決して悪いことではないと思っている。

 昨夜、鳥羽亮の『はぐれ長屋の用心棒』シリーズの第九作目『はぐれ長屋の用心棒 父子凧』(2007年 双葉文庫)を読んだ。

 貧乏御家人だったが、家督を息子に譲って「はぐれ長屋」の住人となり、傘張りをしながら暮らしている華町源九郎と、居合いの大道芸で糊口を潤している菅井紋太夫、還暦を過ぎて岡っ引きを引退し、娘夫婦と暮らしている孫六、包丁研ぎをしている茂次、砂絵を描いて見物料を取ることで暮らしを立てている三太郎の五人が、今回も町方(奉行所)が手を焼くような事件に関わって、これを解決していく話である。中心人物の源九郎、紋太夫、孫六は、いずれも高齢で、「老いぼれ」と呼ばれ、あとの二人はしがないその日暮らしの住人である。

 今回は、華町家の家督を継いだ息子が、幕府御納戸係(将軍家が必要とする物資を調達する係)の下役である御納戸同心となったが、その一つ上役の御納戸衆と共に将軍家御用達でもある呉服屋の老舗の供応を受けた帰りに、何者かに襲われ、上役の御納戸衆は殺され、彼は命からがら逃げるという事件が起こる。

 華町源九郎は父親として息子の危機を救おうとする。また、息子の上司に当たる御納戸頭から、その事件の真相を探って欲しいとの依頼を受ける。

 「はぐれ長屋」の五人が事件を探っていくと、どうもその事件の影には、老舗の呉服店の追い落としを企む新興の呉服店ともうひとりの御納戸頭との賄賂を絡む不正の匂いがする。新興の呉服店は金貸しのやくざ上がりの主人で、凄腕の牢人を雇い、老舗の呉服店の手代を殺し、源九郎の息子たちを襲ったのである。源九郎の息子家族は、その牢人たちの夜襲を受けたりして、再三に渡って命を狙われる。

 源九郎は息子家族を破れ貧乏長屋である「はぐれ長屋」に匿い、事件の解決に奔走し、新興の呉服店が雇っている凄腕の牢人たちと対決していく。源九郎は自らも傷つきながらも息子を助け、また助けられながら必死に対決する。かくて、事件は無事解決する。その過程では、はじめは貧乏長屋になじめなかった息子の嫁も、長屋の思いやりのある明るい住人たちによって次第に打ち解けていく。そういう姿が、挿話として丁寧に描かれている。

 この物語の展開は、このシリーズではなじみのものだが、なんといってもそれぞれの登場人物たちが個性的であり、ここでも華町源九郎が、「何よりも息子の命が大事」とする視点が貫かれて、貧しいその日暮らしの生活ではあるが何よりも身近なものを大切にしていこうとする姿が小気味いいし、「はぐれ長屋」の住民たちの信頼関係も、それぞれの思いやりを基にして成り立っているところが作品を盛り上げている。それが、思想の言葉ではなく、生活から滲み出る雰囲気として描かれるところが気に入っている。

 今日は土曜日で、朝から千客万来の感があって、何とはなしに一日が終わりそうではあるが、少しゆっくり散策でもしよう。食料も買い出さなければならないし、夏物衣料も買う必要がある。掃除は月曜日にでも回すことにしよう。

2010年7月8日木曜日

鳥羽亮「はぐれ長屋の用心棒 袖返し』

 30度を超える暑い日差しが降り注ぐ日となった。むんむんと湿気も多いのでちょっと忍びがたい。

 昨夜、寝苦しさを覚えながらではあるが、鳥羽亮『袖返し はぐれ長屋の用心棒』(2004年 双葉文庫)を読んだ。これは、先に読んだこのシリーズの2作目で、15作目の『おっかあ』では主人公の華町源九郎は58歳であったが、ここでは55歳となっており、同じ「はぐれ長屋」に住んで居合いの達人でありながら居合抜きの大道芸で暮らしを立てている友人の菅井紋太夫は48歳となっている。

 この『袖返し』では、主人公の華町源九郎と、かつては女掏摸であり小さな料理屋の女将をしながら源九郎に惚れて親子ほども歳が離れているにもかかわらず男女の関係を持っている「お吟」との出会とその顛末が描かれている。華町源九郎は、貧乏御家人であったが、家督を息子に譲り、息子夫婦との同居の気詰まりさ避けて、回向院裏手の通称「はぐれ長屋」と呼ばれる貧乏長屋で傘張りをして糊口をしのぎながら独り暮らしをしている。「老いぼれ」と呼ばれる歳ではあるが、鏡新明智流の達人であり、その腕を買われてときおり用心棒のような仕事の依頼を引き受けているのである。

 その源九郎の許に、かつて剣術道場の同僚であり大身の旗本の家臣をしている男が、主人が重要な書類を掏られたようだから、それを取り戻して欲しいという依頼をもってくる。「はぐれ長屋」の住人たち、菅井紋太夫、名岡っ引きだったが還暦を過ぎて隠居している孫六、包丁研ぎで暮らしを立てている茂次の手を借りて探索に乗り出すが、その過程で、かつての女掏摸の「お吟」と掏摸の元締めをしていた父親の栄吉が営む小さな料理屋を訪ねる。

 父親の栄吉は、昔、娘の「お吟」が掏摸を働いた時に、華町源九郎に捕らえられたが、それを見逃してもらったことを恩にきて、掏摸家業を辞めて料理屋を始めていたのだが、源九郎を助けようとして、昔の掏摸仲間を訪ねたりしているうちに、何者かに惨殺されてしまう。「お吟」の命もめら割れているようだから、華町源九郎は「お吟」を自分の長屋に匿うのである。

 事件は、大身の旗本が料理屋の女将に惚れて差し出した艶文と結婚の約束をした起請文が掏られ、上司の娘との結婚が決まっていたために、それを種に脅されるというもので、脅迫をする者たちの中には凄腕の牢人もおり、旗本の家臣で主人を裏切って脅迫者とつるんでいるものや、旗本の出世を蹴落とそうと企むライバルの旗本もいる。大身の旗本は「目付(検察)」をしており、醜聞が世間に漏れると困ることになる。

 「はぐれ長屋」の住人たちは、源九郎を中心にして一歩一歩探索を進め、その間に命を狙われたりしながらも、脅迫をしている牢人たちを撃退していく。そのくだりが本書のクライマックスとなっているが、華町源九郎は、大身の旗本がどうなるのかということではなく、ただ、「お吟」といっしょに、殺された栄吉の仇を晴らすことを念願にして、事件の解決を進めていくのである。

 こういう、たとえば社会や世の中が、あるいは社会の上層部がどうなのかということではなく、徹底して自分の身の回りにいる人間たちのことを思って過ごしていくあり方は、ありきたりの社会分析や批評にうんざりしているわたしのような人間にとって、物語はもちろん作者の想像力の産物ではあるが、ある種の根についたリアリティーと清々しささえ感じる。

 昔、まだ若い頃、理論や思想、正義や世界という遠くばかりを見つめて、「生活をする」とか、身近にいる人たちのことをあまり顧みなかった自分自身を深く反省したことが蘇ってくる。人は、自分の身近にいる人々との「暮らし」を第一に考えるべきなのだ。

 先日、図書館に行った際にこのシリーズのものをあと2冊借りてきているので、娯楽時代小説として楽しみながら読みたいと思っている。

2010年7月5日月曜日

宇江佐真理『深川にゃんにゃん横町』

 西日本で大雨の予報も出て、蒸し暑い日々が続いている。昨夕すこし午睡して出かけたら、やはり雨が降り出した。今頃の雨は空気中の水分が飽和状態になり、それが堰を切ったようにして雨になるような感じがある。今日は区役所に印鑑証明を取りに行かなければならない。

 土曜日の夜から昨日にかけて宇江佐真理『深川にゃんにゃん横町』(2008年 新潮社)を読んだ。やはり、この作者は人の情の「細やかさ」の泣かせどころを知っていると、つくづく思う。深川の木場の側の通称「にゃんにゃん横町」と呼ばれる小路にある「喜兵衛店(きへいだな)」と呼ばれる貧乏長屋に住む人々の、何の変哲もない暮らしの中で起こる様々な姿を柔らかい筆致で描き出したものである。

 「にゃんにゃん横町」と呼ばれる小路は、猫好きの住民も多く、野良猫の通り道になっているところからつけられているもので、作品の中でも猫たちが重要な役割を果たしている。

 「喜兵衛店」の大家の徳兵衛、幼なじみで自身番の書役(記録係)をしている富蔵、そして、自身番に詰めている土地の岡っ引きの岩蔵が町内の雑事をこなし、「喜兵衛店」には、徳兵衛と富蔵の幼なじみで、思ったことを歯に衣を着せずにぽんぽん言う世話好きの「おふよ」が、自分たち自身のそれぞれの暮らし方も含めて住民たちの日常や人生の一こまに関わっていくのである。

 徳兵衛は、五十歳で佐賀町の干鰯問屋の番頭を退き、のんびり暮らそうと思っていたが、請われて無理矢理「喜兵衛店」の大家を引き受けさせられた。「おふよ」は子どもたちを既に奉公に出し、指物師の亭主との二人暮らしで、夜は小さな一膳飯屋の手伝いをし、徳兵衛たちは時折、その一膳飯屋で一杯やりながら過ごしているのである。だから、これらの人々はいずれも孫のいる五十~六十歳の老人たちである。

 その「喜兵衛店」に材木問屋の手代をしている泰蔵が住んでいた。泰蔵は女房と別れてここにやってきて独り暮らしをしている。彼の元の女房は、暮らしの不足を補うために居酒屋勤めをするようになり、その居酒屋の客といい仲になって、泰蔵との間にできた娘を連れて男の許に走ったのである。

 ある時、泰蔵は偶然に自分の娘と会い、娘と約束をして小間物屋や呉服屋に行き、そば屋に連れて行って、娘が行きたいと言った見せ物小屋に連れて行った。母親に内緒だったので、母親が自身番に娘がいなくなったと届け出て、母親が泰蔵など全く知らないと言い張ったので、泰蔵は「かどわかし(誘拐)」の罪に問われることになった。

 徳兵衛、富蔵、岩蔵、おふよは、何とか泰蔵が娘の父親であることを証しして泰蔵の罪をはらそうと懸命に走り回る。そして、そのおかげで泰蔵の嫌疑が晴れ、泰蔵は元の暮らしに戻ることができた。それからしばらくして、娘が泰蔵の所に訪ねてくる。母親と義父が引っ越し、自分は廻船問屋に奉公に出るのでお別れに来たというのである。八歳の娘は泰蔵に心配かけまいと健気に振る舞う。

 父親の泰蔵に別れを告げ、「三好町を抜け、山本町の通りに出た時、不意におるりは口許を掌で覆って泣き出した」(32ページ)。泰蔵は、「にゃんにゃん横町」に巣くっている野良猫が生んだ子猫に娘の名前をつけて飼うことにする。

 こうした話が第一話「ちゃん」である。それから、貧乏暮らしに耐えられずに女房に逃げられ三人の男の子を男手一つで育てている木場の川並鳶をしている巳之吉の鼻つまみ息子である三男が、材紋問屋が催した相撲大会で何とか優勝して再び親子の情を取り返していく第二話「恩返し」が続いていく。この第二話の中には、野良猫たちの世話をしていた「喜兵衛店」に住む四十過ぎの妾暮らしをしている「おつが」の許に、黒と白の斑だから「まだら」と呼ばれる雌猫がいろいろなものを運んできて恩返しをするという話が挿入されている。

 第三話「菩薩」は、昔は絵師として活躍を期待されていたが、師匠が自分の絵を平然と盗んでいることに嫌気がさし、師匠とけんかをして飲んだくれとなってしまった亭主をもつ髪結いの「おもと」が、酒にやられて死にかけた亭主の最後の面倒を見ていく話で、子どもたちの世話もあって一時回復の兆しを見せた時に、亭主が描いた自分たちの姿の絵を大事にするという話である。

 「大家さん、見てやって下さい。うちの人が最後に描いた絵ですよ」
 そう言って、おもとは絵を拡げた。仔猫とたわむれる子供達、千社札があちこちに貼られている喜兵衛店の門口、蔓を絡ませている朝顔、七厘で魚を焼くおゆり、笑うおてつと与吉、絵を描く筆吉、土間口から家の中を覗くまだら、民蔵の家族や周りの景色がいきいきと描かれていた。
 そして、最後は台箱を携え、仕事に出かける時のおもとの立ち姿だった。
 「うちの人、あたし達に何もしてくれなかったけど、これだけは残してくれた。あたしは満足ですよ」
 おもとは泣き笑いの顔で言った。(123ページ)

 第四話「雀、蛤になる」は、小林一茶の「蛤になる苦も見えぬ雀かな」という句にちなんで、佃煮屋の嫁に来た「おなお」が、まだ二十二歳で後家となり、身寄りがなかったために亭主の弟と結婚しなければならなくなった話の間に、酒によって喧嘩をして寄せ場送りとなった亭主が、期が明けて帰ってくることになった煮売り家の「お駒」が、亭主が寄せ場送りの間懸命に暮らしを手助けしてくれていた亭主の弟と駆け落ちしていく話が入っている。

 第五話「香箱を作る」は、貧乏長屋の喜兵衛店に老舗の薬種屋の大旦那が隠居して独り住まいを始めることになった話から始める。大旦那は薬種屋の婿として生活してきたが、若い頃、自分が惚れ、しかし様々な事情から捨てることになってしまった娘が火事で焼け死んだ場所に身を置き直して自分の人生を考え直したいと引っ越してきたのである。その話と、喜兵衛店に住む大工の息子で、秀才の誉れが高く学問で身を立てることになったが、父親が世話になっている材木仲買の店の土地を買い取る話をするようにと師匠の儒者に頼まれ、父親が断ったために、師匠に顔向けができずに、師匠の許での学問を諦めて帰ってきて、手習い所を始めていくという話である。

 父親は、自分が世話になっている店を金で横っ面を張るようにすることはできないと言う。息子は、その話をうまくまとめれば儒者の娘と結婚して後を継がせると言われるが、それを諦めて父親の許に帰ってくる。ところが、儒者の娘は、彼との結婚を望んで押しかけてくる。そこに儒者も追いかけてくる。そういう騒動の中で、「おふよ」が啖呵を切って儒者を諫め、徳兵衛などが説得をし、儒者がわびて、息子は再び学問の道に進んでいけるようになる。

 ちなみに「香箱」というのは、猫が丸まった姿を言うそうであるが、第五話は、自分の居場所を探していく人間の話なのである。

 第六話「そんな仕儀」は、手代として奉公に出した息子が出世して上方から孫を連れて帰ってくるが、貧乏長屋の自分の家には泊まろうともしない姿に寂しさを感じる「おふよ」の姿と、自分の家にやってきて「母さん」と呼んで、金までせびった若い男の寂しさを描いたもので、上方で育ったこまっしゃくれた孫との会話の妙や、「おふよ」の寂しさが滲み出る。

 そしてそんな中、野良猫の世話をしていた「おつが」が野良猫のまだらと共に静かに息を引き取る。「にゃんにゃん横町」の猫たちが何十匹も、その「おつが」の家の方を向いて黙って座っている。一晩中、猫たちが座っている光景が描かれる。その猫に声をかけて、
「弔いのある朝だというのに、徳兵衛は妙に清々しい気持ちがしていた。こうして猫達に囲まれて、いつか自分も一章を終えるのだ。
それも悪くない。徳兵衛はそう思いながら弁天湯の表戸が開くのを静かに待っていた」(252ページ)
で、物語が閉じられる。

 貧乏長屋で暮らす何の変哲もない、しかし、それぞれに人生の機微を織りなしながら日々の暮らしを続けている人々の姿が、切なく悲しく、そして清々しく伝わってくる。人間の暮らしというものは、こういうものだとつくづく思う。そして、人の暮らしに必要な「情」があればそれでよい。そういうことをしみじみと感じさせてくれる作品だった。

2010年7月2日金曜日

鳥羽亮『はくれ長屋の用心棒 おっかあ』

 今日も晴れたり曇ったりの蒸し暑い日になった。夜は雨かも知れない。昨日、寝室に置いているサンセベリアが新しい株を作って芽を出しているに気づいた。以前、葉が広がりすぎていたので植え替えていたのが効を出したのかも知れない。

 昨夜、あまりよく寝付けないままに鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 おっかあ』(2009年 双葉文庫)を読み始め、面白くなって一気に読み終えた。巻末の書店の広告からこのシリーズがたくさん書かれており、既に18冊が出版されているようだ。『おっかあ』は、その15作目である。

 このシリーズは、まだこれ一冊しか読んでいないのだが、物語の「爽快感」というのが全編にみなぎっているように思われる。

 娯楽時代小説の「爽快感」は、まず、主人公が一見したところ弱々しく見えるのだが実は凄腕の持ち主で、いざとなった時にその力が見事に発露していくことと、主人公が対峙する悪が、本当にどうしようもなく巧妙で狡猾、欲の塊のような人間であること。そして、主人公を取り巻く人間模様が爽やかで「情」に厚いことである。

 本書の主人公は、傘張り牢人の貧乏暮らしをしている58歳の高齢の華町源九郎と、これもまた50歳を過ぎた居合抜きを大道芸にして糊口を潤している菅井紋太夫、元岡っ引きで還暦を過ぎて隠居している酒好きの孫六、包丁研ぎなどをしている茂次と砂絵描きの三太郎といったその日暮らしの町人である。いずれも世の中の役に立ちそうもない人間たちである。源九郎たちは、回向院の裏手の相生町にある通称「はぐれ長屋」に住んでいる。

 源九郎と紋太夫は、いずれも高齢であり、その日の暮らしにも困る貧乏暮らしで、「ジジイ」と罵られたりするが、源九郎は鏡新明智流の達人であり、紋太夫は田宮流居合いの達人である。また、還暦を過ぎて老いぼれてはいるが孫六は探索名人の名岡っ引きである。

 こういう主人公たちの設定そのものが、何とも嬉しくなる設定であり、それぞれに「人間くささ」も十分に醸し出されている。主人公たちの中心である華町源九郎は、娘のように年の離れた「お吟」と情を通じており、時折その色香にくらくらする。「お吟」は、かつては女掏摸であったが、源九郎に命を助けられ、今は、「浜乃屋」という小さな料理屋の女将で、源九郎に惚れている。

 彼らが住む「はぐれ長屋」の近辺で、少年たちが徒党を組んで粋がり、あげくに商家を強請って金を巻き上げるという事件が頻発した。深川の材木問屋から強請られているので何とかしてほしいと依頼を受けた源九郎は、その依頼を五人で引き受けることにして、強請の現場に立ち会い、少年たちを諫めるが、そのことによって五人がそれぞれに命を狙われるようになる。どうもその裏に、尋常ではない悪が潜んでいるようである。

 少年たちは粋がって町を闊歩しているうちに、やくざに手なずけられ、強請の片棒を担いで次第に抜けられなくなっていくのである。「はぐれ長屋」の住人の息子も、その悪に引きずり込まれていく。彼らの狼藉は次第に度を超すようになっていくが、その裏で暗躍していたのは、悪を悪とも思わず強請りや強盗を当たり前にしている欲の塊であるやくざである。凄腕の用心棒もいる。

 そして、やくざの一員になって悪を働こうとする「はぐれ長屋」の住人の息子を母親が身をもって救い出そうとしたり、主人公たち五人がそれぞれに知恵と力を発揮して、裏で少年たちを操っていたやくざの捕縛に手を貸していったりするのである。

 悪に染まりそうになる少年を救い出すのは母親の必死さであり、一見老いぼれて役に立ちそうもない主人公たちが諸悪の根源を摘み取っていく。彼らは、よたよたとではあるが胸のすく活躍をするのである。「はぐれ長屋」の住人たちの貧乏暮らしの助け合いもある。もちろん、凄腕のやくざの用心棒と源九浪、紋太夫との立ち会いも、作者が自ら剣道をするだけに堂に入っている。こういう人物の設定と物語の展開が、「爽快」でないわけはない。

 この作品が書かれた頃、少年たちが引き起こす理由なき残虐な殺人事件や、徒党を組んでの弱いホームレスの虐待事件が頻発した。そういう現代の時代背景も、この作品の背景にはあるかも知れない。21世紀の初め頃から、青少年を取り巻く状況が閉鎖的になって、まじめに自分の問題や課題に取り組むものと、何となくやけになって世をすねて暴れる者とに世相が二分した嫌いがある。多くが「生きる意味」を探しあぐねている。そういう背景が、この昨品にはあるような気がするのである。

 そしてそれゆえにこそ、貧しく、高齢となり、その日暮らしを余儀なくされている中で、それでも懸命に生きたり、「情」を大事にしたり、爽快に生きたりする本書の主人公たちの姿が光っていくように思われるのである。

 いずれにしろ、「面白く読める」シリーズである。

2010年7月1日木曜日

平岩弓枝『北前船の事件 はやぶさ新八御用旅』

 太平洋高気圧の南下によって梅雨前線も南下し、梅雨の間隙の蒸し暑い日になった。名古屋あたりでは猛暑日だそうである。暑さが身体にこたえるようになって、この夏を乗り切ることが健康上の課題だな、と思ったりもする。

 昨夜からふと思っていたのだが、1737-1815年の江戸時代の中後期に活躍した根岸肥前守鎮衛が現代の時代小説の中で注目を集めるようになったのは、いつごろからなのだろうか。

 根岸肥前守鎮衛は、150俵の下級旗本の三男として生まれ、22歳で同じ150俵取りの根岸家に養子に出されて、それから勘定所(経理)の中級幕吏になり、1782年から始まった天明の大飢饉や1783年の浅間山の噴火による社会救済で能力を発揮し、田沼意次から松平定信へと変わる政変にも無関係に、1784年に佐渡奉行、1798年から江戸南町奉行となり、死去するまで務め、名奉行のひとりといわれている。

 彼が在職中に市井の人々の話を聞き集めた『耳嚢(耳袋)』については以前記したとおりだが、その『耳嚢』に記されていることが、現代の作家の想像力を刺激するのだろう、佐藤雅美や宮部みゆきもそれを題材にしていくつもの作品を書いている。

 1989年に平岩弓枝が『はやぶさ新八御用帖』シリーズの第1作『大奥の恋人』を記し、この根岸肥前守の側用人(秘書官)であり、南町奉行所の内与力(奉行つきの与力)である隼新八郎という神道無念流の達人で頭脳明晰の心優しく情に厚い好青年を主人公にした昨品を発表し、その中で根岸肥前守の『耳嚢』からいくつかの題材を取っていたのが、わたしが最初に『耳嚢』について注意して見るようになった最初のような気がする。このシリーズは、平岩弓枝の『御宿かわせみ』のシリーズと合わせ、その一つの流れでもある『はやぶさ新八御用旅』のシリーズともども、作者のゆったりと平易な、しかし奥もある文章が好きで面白く読んでいた。

 昨夜読んだ『北前船の事件 はやぶさ新八御用旅』(2006年 講談社)は、『御用旅』シリーズの中で最も新しいものである。

 行方不明となった北前船の探索をする中で、ひとりの水夫と思われる男の死体が谷中の感応寺の境内で富突の後で発見された。隼新八郎の友人でもある南町奉行所の同心がその事件の真相を探索する中で、内与力の新八郎にもその命がくだる。事件はどうも根岸肥前守が佐渡奉行をしていたころの出来事と絡んでいる気配がしてきたからである。そうしているうちに、かつては新八郎と思いをかよわせていたが身分の差によって叶わぬ恋となり、今は根岸肥前守の奥女中として気働きをし、肥前守から娘のように大事にされている「お鯉」が拉致され、隼新八郎に越後の出雲崎に来いという脅迫文が送られてくる。

 そこで、肥前守の命によって越後に向かう「御用旅」が始まるのである。そして、18年前に越後と佐渡の間の海で起こった抜け荷(密貿易)と海賊行為の首謀者たちを暴いていくのである。「お鯉」の拉致は、その抜け荷と海賊行為によってひどい仕打ちを受けた者たちが、再び薩摩藩による抜け荷行為が活発化してきたのを機に、仇討ちをするために根岸肥前守と隼新八郎に助力を願うためのもので、拉致ではなく、「お鯉」に願って、「お鯉」自らがそのように望んだことであった。

 事件が解決した後、根岸肥前守は仇討ちをした者たちを公にはせずに、これを「佐渡のむじな(狸)」が起こした悪人成敗として処理する。こういう結末のさわやかさは本書の主眼でもあるだろう。

 作者の平岩弓枝は、1932年生まれだから、これを出したのは作者74歳で、このシリーズの最初の頃の胸躍るようなみずみずしさや恋も情熱もある冒険譚的な要素は幾分薄れているとはいえ、その分、「人の情」ということが細やかになり、平易で美しい日本語で次々と物語が展開していく手法はさすがである。平岩弓枝は、もちろん、時代作家として大御所であるが、一読者として、『御宿かわせみ』とこのシリーズは、まだまだ続けてほしいと願っている。