2010年4月29日木曜日

佐藤雅美『向井帯刀の発心 物書同心居眠り紋蔵』

 二日間降り続いた雨も上がって、今日は気持ちの良い良く晴れた日になった。一昔前は昭和天皇の「天皇誕生日」として祝われ、今は「みどりの日」となった今日は、父の命日でもある。そのせいかどうかは分からないが、昨夜、老いた父と母が遠方の大学に転勤するというわたしを心配している夢を見た。夢の中でわたしは老いた父と母の食事のことを心配していた。そして、時間がなくて飛行場に向かうバス停で老いた父と母を振り返りながらバスに乗り込む所で目が覚めた。

 こんな夢にもちろん意味はない。フロイトを用いた心理学的判断もあまり信用していない。最近は眠りが浅いのでこんな夢を見たのだろうが、あまり親孝行もしなかったわたしの幾分の後悔があるのかもしれないと思ったりはする。

 それはともかくとして、先ほど気持ちの良い日差しの中で、佐藤雅美『向井帯刀の発心 物書同心居眠り紋蔵』(2007年 講談社)を読み終えた。これは全部で九作あるこのシリーズの八作目で、三作目『密約』、四作目『お尋者』、五作目『老博奕打ち』、そして七作目『白い息』は前に読んで、ここにも記したとおりで、『向井帯刀の発心』は、「与話情浮貸横車(よはなさけうきがしのよこぐるま)」、「歩行新宿旅籠屋」、「逃げる文吉」、「黒川静右衛門の報復」、「韓信の股くぐり」、「どうして九両(くれよう)三分二朱」、「旗本向井帯刀の発心」の7作からなる連作である。

 ここに収められているのは「居眠り」という奇病をもつ例繰方同心(判例を調べる同心)である紋蔵の身内、とくに子どもたちにまつわるやっかいな事件を、紋蔵が、父として、その知識と知恵を駆使して収めていく話が全体を貫く筋として置かれ、例によって当時の判例集を基にした江戸市井の公事事件(民事)が描き出されていく。

 紋蔵には妻里との間に、紋太郎、紋次郎、稲、麦、妙の五人の子どもたちの他に、父親が旗本の用人で事件を起こして遠島になったためにひとりぼっちになってしまった文吉という子どもがいる。この文吉の養い親になる事情は『密約』ですこぶる感動的に描かれている。長男の紋太郎は、与力の婿養子に出し、長女の稲は、上役の次男と相思相愛となり嫁に出している。そして、今度は学問塾で優秀な次男の紋次郎が、老いて引退を考えている養子にと請われ、これを断ることができずに養子に出すことになる。また、残った男の子の内、文吉は、男儀のある子どもで、江戸の演劇界の顔役である博徒のところへ行くと言う。次女の麦も紋蔵の義父・義母がやっているお茶問屋の跡取りとして婿を迎える話が進んでいく。紋蔵は寂しさを隠しきれない。

 そういう中で、火事や風水害が続いたために借金をして悪事に走ることがないように奉行所の与力や同心の内情を探るように密かに命じられ、ふとしたことから、町会所の金を浮貸しして利を図っていた与力のことが発覚していったり、罪を犯した相撲取りの身分を巡っての調べに関わったり、与力の養子となった紋次郎を妬む子どもによるいじめ事件が起こったり、それを巡っての切れ者と噂される与力との確執が起こったり、隠し金のねこばば事件が起こったり、お金がつけられていた捨子をお金目当てで引き取った親が、その子どもに手ひどい仕打ちをして、紋蔵がその子を預かることになったが、その養父母が何者かに殺される事件が起こり、それに重ねて、父親が盗人だったことを知っていた旗本が、何気なく飾っていた掛け軸が盗品であったことがわかって、発心(武家を捨てて僧になること)したが、昔の父親の手先で下男として匿っていた老僕が、実はその子の父親で、安ない親のあまりの仕打ちに腹を立てて殺したことが分ったりして、紋蔵の身辺は大忙しである。

 藤木紋蔵は、決して我を張ることはしない。曲げられないことは曲げないし、相手が信じて打ち明けた秘匿しなければならないことは、自分がお役御免になろうとも貫くが、子どもたちにも自分の思いを強制するということはない。「向井帯刀の発心」では、旗本向井帯刀が紋蔵に打ち明けたことを秘匿したために紋蔵の立場は悪くなり、そのためにあれこれと今後のことを悩むが、「知らない」と通し続ける。結局、息子のことで確執していて、紋蔵を窮地に追いやった上役は、文吉を世話することになった演劇界の後ろ盾の博徒に身から出た錆を脅され、閑職に着かされることになるが、紋蔵は、子どもや弱いものを守るためには奔走するが、自らを守るためには決して自ら手を下さない。紋蔵は、損な、不器用な生き方をしている。しかし、紋蔵は飄々と生きていく。

 こういう主人公が、魅力がないわけはない。お金に苦労し、役所で仕事上の苦労があり、人間関係での苦労があり、家庭での重荷がある。紋蔵は一つ一つその苦労を彼なりに処理していこうとする。しかし、子どもや家族を思い、捨てられた者を助け出し、愛情を注ぎ、筋を通していく。決して「ずる」をしない。そして、飄々と日々を過ごす。

 だから、事件の判例の説明に少し煩わしいところもあるが、このシリーズは面白い。春の気持ちの良い陽だまりの中で読むには最適である。

2010年4月26日月曜日

内田康夫『棄霊島(上・下)』

 久しぶりによく晴れた日になり、朝から窓を開け放ってベートーベンの交響曲を流しながら掃除に精を出した。あるラジオ局から出演の依頼があって、どうしようかと考えていたが、結局、企画の趣旨がどうも自分のあり方とは異なっている気がして、今日、お断りした。担当者が丁寧に対応してくださったので、なんだか悪いような気もしたが、節は曲げたくない。

 大学で政治学か国際関係学を教えているM教授から久方ぶりでニュースレターを受け取ったが、彼は、このままだと日本の国際的な地位が下がって、ますます四面楚歌になってしまうことを憂えていた。論旨を読みながら、日本の国際的地位や国力が下がると外交や経済で発言力が低下して、どうにもならないところに追い込まれるかもしれないが、果してそれがどれほどの意味があるのだろうかと考えていた。「ミミズのたわごと」かもしれないが、弱くて小さな国でもいいんじゃあないかな、と思ったりもする。

  土曜日の夜と日曜日の夜にかけて、内田康夫『棄霊島(上・下)』(2006年 文藝春秋社)を読んだ。これは時代小説ではなく、心優しい名探偵「浅見光彦」が活躍する探偵小説で、以前に推理小説や探偵小説をずい分と読んでいる頃から彼の作品を読んでいて、内田康夫の作品はほとんど読んだように思っていたが、調べてみると、2003年あたりから歴史・時代小説が枕本の中心となっており、図書館でこの本を見つけて借りてきた次第である。

 探偵小説は、著名なドイルのホームズやクリスティーのポアロ、ミス・マープル、チェスタトンのブラウン神父などを始め、明智小五郎、金田一耕助はもちろんのこと、様々な名探偵が活躍する小説や、トリックに凝った島田荘司のものや東野圭吾の作品もたくさん読んだが、内田康夫が描き出す浅見光彦は、とりわけ心優しい。文章も柔らかく、内実もある。論理の組み立てよりも、彼の人間性がいい。シリーズが進むにつれて、いくぶんデフォルメされて理想化されていったきらいはあるが、ひとつの事柄の歴史的背景の中で物語が展開するので、ほかの探偵小説とは異なった独自の世界がある。たくさんテレビドラマ化されているので、いくつかのものはテレビドラマでも見たが、ドラマの方は、原作で最も大事にされている事件や事柄の歴史的な背景の掘り下げがもう一つのような気がして残念な気もする。

 『棄霊島』は、長崎半島の南西海上に浮かぶ通称「軍艦島」と呼ばれる「端島」を舞台にしたもので、「端島」は、元々は小さな瀬に過ぎなかったが、江戸末期ごろから石炭の産出地として知られ、燃料としての石炭の需要が増加するにつれて埋め立てられて坑道が広げられていったが、度々の大風被害のために本格的な採炭には至らなかった。しかし、1890年(明治23年)に三菱が鍋島家(佐賀)から買い取って、以後、2001年まで三菱の私有地で(現在は無償譲渡されて長崎市が所有している)、周囲を高い護岸堤防で覆われた炭鉱の島となったところである。

 1916年(大正5年)に日本で最初の鉄筋コンクートの高層集合住宅が建設され、人口密度も高く、島内でほぼ完結した都市機能が整備されていく中で、その姿が「軍艦」のような所からこの呼び名がついたが、石炭産業の衰退と共に、炭鉱が閉山され、現在は廃墟となっている。

 軍艦島での炭鉱の労働は、待遇はまあまあではあったが、苛酷であることに変わりはなく、特に、第二次世界大戦中に行われた朝鮮人の強制連行による強制労働は過酷を極めたと言われている。

 『棄霊島』は、その朝鮮人の強制連行と強制労働を背景にして、学徒動員で労務管理者として派遣されていた男が、戦後、教育界の指導者として尊敬されるようになり、その男に絡んだ殺人事件の真相を、本業である雑誌の取材で知り合った五島列島の元刑事の死と関係した浅見光彦が暴いていくというものである。

 ここには、そうした朝鮮人の強制連行と現在の北朝鮮による日本人拉致問題、靖国神社をめぐる問題、教育行政の問題などの現在の焦眉の問題が意図的に取り上げられているが、社会の中で自己を守るためにどうしようもなく罪を犯さなければならなくなっていく人間の姿が克明に描かれている。

 犯罪の社会的背景を浮き彫りにする手法を用いたのは松本清張であるが、松本清張の地を這うようにして犯罪の真相を暴いていく刑事たちと異なって、名探偵浅見光彦は颯爽としているし、何よりもさらに歴史的背景が描かれるのである。そして、彼の立場は、それが政治的な問題であれ、いつでも非政治的である。人間を個人として包もうとする。それが作者の主眼でもあるだろう。

 内田康夫の作品の中に登場する犯罪者たちは、そのほとんどが、どうしようもなく罪を犯さなければならなかった人間たちであり、そのどうしようもなさが背景として掘り下げられ、名探偵浅見光彦は、鋭くその犯罪の真相を暴きながらも、それを優しく包んでいく人間なのである。推理の展開や作品のプロットに幾分の無理も矛盾もあるが、主人公のその優しさで救われている。彼が優秀な兄に頭が上がらない居候で、その兄を心から尊敬し、しかも、女性に対して臆病であるのも、人間を個人として優しく包むという作者の姿勢を具現化するものだと言えるかもしれない。

 「浅見光彦倶楽部」というのもあり、内田康夫は長者番付に名前が載るくらいのベストセラー作家であり、作品も本当に多いので、その作品について書き始めるときりがないが、こうした形で、人間の優しさや思いやりが世の中に浸透していくのは良いことだろうと思う。

 それにしても、わたしは普段でも体のあちらこちらを机の角や柱の角でぶつけて、自分で痛い思いをすることがよくあるが、今日は、台所の掃除をしていて、シンクの上にある棚の扉を開け放しにしていたのだろう、その扉に思いきり頭をぶつけて、前頭葉を切ってしまったようだ。今、何か痛いなあと思ったら、かなりの長さで血痕が付いていたので自分で驚いてしまった。この傷は後に残るかもしれないが、愚かさのしるしのようなものだろう。

2010年4月23日金曜日

諸田玲子『めおと』

 「菜種梅雨」という言葉があるが、今日も降り続く冷たい雨にぬれそぼるような光景が広がっている。新緑の薄緑色をした木々の葉から、雨が滴り落ちる。

 昨夜、諸田玲子『めおと』(2008年 角川文庫)を読んだ。この作品には、珍しく作者の「あとがき」が記されていて、ここに収められている六編の短編が作者の初期のころの作品であり、それなりの思い入れがあることが述べられている。

 読み進めていくうちに、作者にしては少し表現も構成も荒いような気がしていたし、無理やりまとめようとしているところを感じていたが、「あとがき」を読んで、なるほど、と思った。そう思って改めて見ると、後に作者が展開していくような人物像や物語の萌芽とでも言うべきものが随所に見られて、この作者が抱いているテーマのようなものが見えてくるような気もする。

 『めおと』は、表題のとおり、それぞれ六組の夫婦の姿を描いたアンソロジーになっており、藩の政争で義理の妹を装って送り込まれた美貌の女(忍び)に嫉妬心を燃やす妻を描いた「江戸褄の女」、病気の夫と生計のために密かに体を売り、自分のことが夫に知られないかと不安に思いながらもそのことに馴染むうちに、夫の病を引き起こしていたものが、夫を手元に置いておきたいと願う老僕の仕業であることがわかって、老僕と死に物狂いの争いをして夫の元に帰っていく妻を描いた「猫」、浪人となって辻斬りをする夫と、昔の男と逢瀬を続ける妻、そしてその夫と妻の姿が交差するところで二人とも死んでしまう「佃心中」、駆落ちして旅館を営むようになった夫婦が、同じように駆け落ちしてきた若い武士と女を助けようとして奔走するうちに、互いの絆を確かめ合うようになる「駆け落ち」、今川義元と織田信長の桶狭間の合戦に雑兵として駆り出された百姓が、迎えたばかりの自分の妻の尻軽さを知り、その報復として強烈な下剤ともなる薬を仕込んだ酒を今川義元らが飲んでしまって、結局、桶狭間で休息を取らざるをえなくなり、織田勢に敗れたという「虹」、ひとりの女性を思い続けて盲目にまでなった戦国武将の工藤泰兼を描いた「眩惑」。いずれもが、男と女、あるいは夫婦の間の微妙なバランスを描いたものである。

 これらの作品のうち、「駆け落ち」は、駆け落ちして苦労し、ようやく旅館を営むようになったが、それによって腑抜けのような生活をしていると思っていた夫が、若い男女の駆け落ちを命を賭して助けようとする姿を見て、今の夫との生活を「ありがたい」と思い直していく旅館の女将の姿を描いたもので、これは後の、たとえば『お鳥見女房』に出てくる夫婦の姿などを彷彿させるものがある。あるいは、『あくじゃれ瓢六』で描かれる男女の姿も彷彿させる。

 普段は腑抜けのようにしていて、いざとなったら立ちあがって守ってくれたり、義を通したり、そういう男が、ある意味で作者の理想だったのかもしれないと思ったりする。男と女の関係は人間の分泌されるホルモンの作用かもしれないが、そこに「情」が絡み、特に嫉妬は毒にも薬にもなる。そういう絡んだ「情」や嫉妬が毒になったり薬になったりする姿を、初期の頃の作者は描いていたのだろうと思う。

 ともあれ、『めおと』は、諸田玲子という優れた作者の出発点とも言える作品である。

2010年4月21日水曜日

多岐川恭『用心棒』

 昨日は午後から雨が降り出し、今朝には上がっていたが、夕方からまた雲が広がり始めた。昼中の気温はそれほど低くなく、どちらかと言えば過ごしやすいが夜は冷える。このところ身体の芯からにじり出るような疲れを覚えたまま日々が過ぎており、なかなか力が出ない。昨日、雨の中を、コーヒーを買いに「あざみ野」の「神戸珈琲物語」というお店まで出かけたが、どことなく気分がさえずに、妙な孤独感を覚えたりしていた。帰宅して、新約聖書の『使徒言行録』のギリシャ語原典を読みながら考えをまとめようとしたが、思考が散漫になってしまいがちだったので、読みかけの多岐川恭『用心棒』(1988年 新潮社 2005年 徳間文庫)を読み続けた。

 これは、書名は『用心棒』となっているが、いわゆる強くてかっこう良くて颯爽とした浪人の話ではなく、自ら泥にまみれて生きている「泥助」と名乗る男が、武士の意地や面目、教条などの一切を捨て、いわば「男めかけ」として女を手玉に取りながら生き抜きつつも、それぞれの惚れた女たちの胸に抱えている無念さを晴らす手助けをしていくという話である。

 物語の半ば過ぎまで、泥助は、浪人の格好をしているが偽浪人で弱く、女あしらいだけがうまくて、うまく女に取り入っていく腐り果てた男として描かれ、女たちも、それぞれの欲と思惑で男を手玉にとり、男を利用し、男たちはまたその女を利用していくという「色と欲」の複雑に絡み合った世界に生きる人間として描かれていく。

 しかし、物語が展開していくにしたがい、うまく口車に乗せて自分のものにした武家娘が親の無念さを晴らすことを大望していることを知り、泥助は武家娘の父親を騙して自害に追いやった犯人一味を突きとめていく。そしてまた、表向きは小料理屋であるが売春宿でもある店の女将で、美貌で冷徹でもあり、体を使って男を手玉にとって男同志を争わせて破滅させていく女が、実は武家の出であり、親の出世と生活の安定のために結婚させられ、その結婚相手も自分の出世のために彼女を上役に売り、ついに離縁されて失意と絶望の中に生きている女であり、その無念さを晴らすことを目指していることが明らかにされていく。

 彼女は泥助を利用するが、実は泥助が本当に武士の出であり、しかもかなり強い腕をもつ男であるという泥助の正体には気づいていくし、泥助もまた、彼女の正体に気づいていく。泥助も彼女も、それぞれの多くの男や女と交わっていき、そこには「貞淑」とか「善悪」とかの考えは微塵もなく、そこにあるのは「性」そのものであるが、泥助と彼女は魅かれあっていても交わらない。それが二人の関係を微妙に保っているのが物語の綾となっている。

 その二人が、泥助が性を相手する「男めかけ」として雇われたある大名の後家であり出家していながら「色に溺れていた」女性の助けを借りて武家娘の無念を晴らし、女将自身の無念を晴らしていくのである。

 この作品は、ただただ「色と欲」に絡んだ男と女の姿が描き出される。その「色と欲」の犠牲となった人間も描かれるが、基本的には「したたかに生きている人間」の姿が描き出されている。もちろん、娯楽時代小説と呼ぶにふさわしく、色と欲にまみれた悪は一掃され、最後は女たちの無念も見事に晴らされていくが、つまらない道徳観も倫理観もなく、報われない人間は報われないままに死んでいき、男と女は「性の交わりをする者」として描き続けられ 物語の女性たちは泥助と簡単に寝てしまうが、それを通して、「人間」という者を過大にも過小にも評価しないという視点があるようにも思われる。

 わたし自身の好みからいえば、こうした娯楽小説に何か思索や感情的な動きがあるというのではなく、「面白く読む」というだけで、最近はこの類の小説を読むことはなかったのだが、なんだか久しぶりでこうした「娯楽小説」を読んだような気がした。多岐川恭の作品は、少し前に『暗闇草紙』(1982年 講談社)を面白く読んだので、今回も肩の凝らない面白い作品を読みたいと思って手にした次第である。

2010年4月19日月曜日

宮部みゆき『幻色江戸ごよみ』

 ようやく春らしい気温と天気が戻ってきた。チベットでの地震とアイスランドの火山噴火という天変地異が続いたが、今日の空気は春の穏やかさに満ちている。できるなら静かにその空気を味わいたい。

 土曜日の夜と日曜日の夜に宮部みゆき『幻色江戸ごよみ』(1994年 新人物往来社)を読んだ。これは十二話からなる短編小説集で、いずれも江戸の庶民がそれぞれの生活の中で遭遇して、その不可思議さを迷信のような出来事として納得していこうとしたことを「人間の情」という視点で切り取ろうとした珠玉の作品である。

 たとえば第一話「鬼子母火」は、酒問屋の「伊丹屋」という店の仏壇から火が出て小火が起こった。仏壇にあげる灯明の火は確かに消したとお内儀は言う。店の屋台骨を背負っている苦労人の番頭が調べてみると、仏壇に飾った注連縄(しめなわ)から火が出たようで、その注連縄に人の髪の毛が織り込まれていた。何かの祟りでそこから鬼火が出て燃えたのではないかという。番頭と同じように苦労してきた頭脳明晰な女中頭は、その髪の毛の出所を探ることにする。

 調べていくうちに、注連縄に髪の毛を織り込んだのが女中として奉公にあがったばかりのいたいけな少女であることが分かる。少女は近郊の水飲み百姓の六人兄弟の末娘で、村に起こった流行病(伝染病)で母親をなくし、供養もされないままに母親を荼毘送りにしなければならなかったことを悲しんで、母親の髪の毛を切って、江戸へ奉公のために出て来て、注連縄に織り込めばみんなから拝んでもらえるのではないかと思ったと言う。

 流行病で亡くなった母親が、その病原菌のついた髪の毛をそっと切り取ってもっている娘を案じて、その病気を感染させないために、娘の手を離れて注連縄に織り込まれた時に燃やしたのだ、と女中頭は少女に語り聞かせ、燃え残りの髪の毛を燃やして、春になるとそこに花が咲くように庭の片隅に埋めてあげる。

 女中頭は、店の小火はお内儀の火の火始末だと思っているが、母親が娘を思う気持ちを察して、また娘が母親を思う気持ちを察して、母親に変わって娘の面倒を見ていくことを決心していくのである。

 こうした物語がそれぞれ十二話語られている。迷信や「祟り」というものは、個人の力ではどうしようもないところで渦巻いていく人間の怨みや復讐心、嫉妬、情念、欲などの化身ともいうべき表出である。どうしようもないから、あらゆるものに神仏が宿るという汎神論的土壌をもった日本の社会の中では、そこに神仏が生まれてくる。江戸時代には、存外にそうした考えが定着していった。社会と人間関係の膠着状態が「たたり」を生むのである。

 現代社会は科学と合理的思考でそうした迷信や祟りといったものを排除してきた。それは、人間精神のひとつの大きな進歩である。しかし、それを科学的・合理的思考でなくしてきても、そこになお残る「情」の感情がある。「情」が脳内分泌物の作用であると説明することはできても、その説明ですべてがすむわけではない。作者はそれを「愛」や「慈しみ」や「優しさ」、「思いやり」といった人間の情の発露として描き出そうとするのである。

 ここに収められている十二話の短編は、そうしたことにまつわって人間の「思いやり」や「人を思う優しさ」、「愛情」の物語である。

 ただ、この十二話のうち第二話「紅の玉」は少し異色で、これは社会の上層部として位置づけられていた武士と日々の生活に明け暮れなければならない職人(庶民)のそれぞれの立場が決定的に異なったものであることを明瞭に示す物語となっている。

 腕のいい飾り職人である佐吉は、水野忠邦が打ち出した「天保の改革」(1842年)による「奢侈禁止令」によって仕事を失う。病気の女房を抱え、貧苦にあえいでいる。そこに見事な珊瑚の紅玉をもって銀の簪を内密に作ってくれないかという老武士が現れる。娘の嫁入りにしたいと言う。佐吉は、「奢侈禁止令」で罰されるかもしれないと思いながらも、差し出された高額の報酬で女房に滋養のあるものを食べさせることができるし、見事な紅玉を使って自分の腕を存分に振るうことができることを考えて、丹精をこめて簪を作り、そこに自分の銘を入れる。

 ところが、嫁入り道具というのは真っ赤な嘘で、老武士とその孫娘は、水野忠邦の意を受けて腹心として働いていた鳥居耀蔵の家臣への武門と大義をかけた仇打ちをするのである。その時に佐吉が作った家紋を入れた簪をつけて行ったのである。仇打ちは許可されたものではなかったし、彼の簪は「奢侈禁止令」に引っかかる。佐吉は取り手の足音を聞きながら、「俺はどうなる。ひとり残される病気の女房はどうなる」と思う。

 人は、誰でも、自分の立場でしか物事を考えることができない。江戸時代に定着していった武家倫理は優れたところもあるが、「面目」や「大義」を過重にして、それが生きている人間を苦しめた。誰かほかの人の、ほかの立場に立たなければならない人の苦しみや悲しみ、どうしようもなさをきちんと認識できるかどうかにその人間の器の大きさがあるとするならば、いびつな武士階級の権力争いの犠牲が生まれてきた江戸時代に起こったいくつかの社会改革をわたしはどうしても評価する気にはなれない。

 それは現代社会の中でも同じである。「力をもつことは、力のない者を犠牲にすることである」ことをよく知っておく必要がある。老武士の言葉を単純に信じ、高額の手間賃に夢を追い、自分の作品に銘を入れる職人気質をもつ佐吉にも、もちろん、それゆえの愚かさはあるかもしれないが、「違う」と叫ばなければならない佐吉の姿を描いた作者に、わたしは軍配を上げたい。

 この短編集を読んでみて、改めて作者の筆力というものを感じた。描写も丁寧だし、描かれる人間も生きている。彼女が数々の文学賞を受賞しているのもうなずける思いがする。

2010年4月16日金曜日

諸田玲子『狸穴あいあい坂』

 四月の中旬というのに、このところ本当に寒い日々が続いて、今日も最高気温が7度ぐらいまでしか上がらない冷たい雨が降っている。四月が思っている以上に雨の多い季節ではあるにしても晴れた日が少なすぎるし、寒すぎる気がする。覚悟がないから四月に寒いと気分も滅入る。

 そういう中で、諸田玲子『狸穴あいあい坂』(2007年 集英社)を、久しぶりに爽快な気分で読み終えた。作者の円熟味を物語の構成や人物の設定、展開の視点などに随所に感じることができるし、登場人物たちの爽やかな姿が光っている作品で、作者の同じ系統の作品集に『お鳥見女房』の優れたシリーズがあるが、物語が春から次の春までの一年間の季節の移ろいの中で展開されて、はるかによくまとまっている。狸穴の「ゆすら庵」という裏庭に「山桜桃(ゆすらうめ)」の木のある口入屋(就職斡旋所)の離れに住んでいる頑固者の元火盗改めの老武士とその孫娘が主人公となっており、その「山桜桃」の季節に伴う変化が「時」を表わしていくことで、人間の優しさと柔らかさが見事に表出されていく。

 孫娘の「結寿(ゆず)」は、ふとしたことで、隠密廻り同心として事件の探索をしている「妻木道三郎」と知り合い、身近に起こる様々な事件を通して互いに恋心を膨らませていく。しかし、元々、火盗改めと町方の同心は、その設立や役割から反目した職業意識があって、彼女の祖父も彼女が慕う「妻木道三郎」をなかなか受け入れない。火盗改めは厳罰主義の検察であり、「妻木道三郎」は温情あふれた事件の処理をしていこうとする。しかし、祖父もまっすぐなら、妻木道三郎も、どこまでも鷹揚でまっすぐである。その中で「結寿」は娘心を募らせていく。

 この作品には、元火盗改めの老武士と孫娘の「結寿」が住んでいる家の大家である口入屋の「ゆすら庵」の三人の子どもたちと、妻木道三郎の子どもが重要な役割を果たす者として登場する。「結寿」は「ゆすら庵」の子どもたちに手習いを教えていたりして親しくしているし、道三郎の子どもをあずかったりする。その子どもたちと「結寿」の信頼関係も物語の展開で欠くことができないし、老武士の下働きで元幇間の「百介」も味のある役割を果たしている。

 「結寿」の祖父で元火盗改めの老武士と、彼の碁仲間で絵師であり俳諧の師匠をしている老人の姿も、すべてをわかって飲み込みながら自分のスタイルを通していく人間として描かれ、これもまた味わい深いものとなっている。

 時代小説の中で、その小説が生きるかどうかは子どもと老人の描き方にかかっているといっても過言ではないかもしれない。平岩弓枝の作品でも、宇江佐真理の作品でも、子どもと老人は実に生き生きと、しかも重要な役割を果たす人間として登場する。これは作者の作品でも同じで、子どもと老人は、殺伐とした現実の救いとなる。わたしはその視線が嬉しい。

 親子の「情」、男と女の「情」などが様々な事件を通して描かれる姿は、作者の面目躍如そのもので、まさに円熟した作品のひとつだろうと思う。子さらいや復讐、心中事件や強姦事件などのシリアスな出来事が、主人公たちのまっすぐな思いで「温かく」展開されている。こういう作品を読むと、本当に嬉しくなる。これはそういう作品である。

 それにしても今日は本当に寒くて手足が冷え冷えしてくる。こういう日は出掛けたり人にあったりするのが億劫になる。山積みしている仕事を少しかたづけよう。

2010年4月13日火曜日

佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』

 昨日一日中降り続いた雨が上がって、日中は初夏を思わせる暖かい日になった。しかし、明日からまた二日ほど寒くなるという。寒暖の差が激しくて、また季節が狂っていっているような気がする。晴れ間が久しぶりだったので、朝からシーツを洗濯したり掃除をしたり、途中で入る電話やFAXへの応対を挟み、銀行と証券会社へ出かけ、ついでにレンタルビデオショップへも行ってきた。

 金曜日(9日)に作家の井上ひさし氏の訃報を聞いて、とても残念に思う。確かつい最近執筆中の作品の延期が申し出られたはずだったが、やはり病が相当重かったのだろう。初期の『モッキンポット師の後始末』(1972年 講談社)や『吉里吉里人』(1981年 新潮社)、『腹鼓記』(1985年 新潮社)など、本当に面白く、また意味深く読んだ。中でも圧巻は『吉里吉里人』だったし、地域が独立できるという夢を与えた。まさに、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」の作品だった。作品への執念も相当強く、それが晩年離婚した奥さんによって「家庭内暴力」となっていたことが暴露されたりしたが、彼が描いた作品の世界は、意味深いものであった。

 同じ日に召天されたK氏の「お別れ式」を5月の中旬にもつという連絡が入ったので、5月にまた九州に行くことにした。

 それらの事柄は別にして、昨日、佐藤雅美『浜町河岸の生き神様 縮尻鏡三郎』(2005年 文藝春秋社 2008年 文春文庫)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、懸命に努力して御勘定留役(大蔵・財務省高級官僚)にまでなった主人公の拝郷鏡三郎が、政争の側杖を食って失職し、閑職の大番屋元締(仮牢-留置場-の責任者)として日々を過ごす中で、江戸市中で起こる争いや事件、身内の出来事などに関わっていくというもので、主人公が活躍して事件を解決するというのでもなく、また事件が明快に勧善懲悪で解決されるというのでもなく、人の世の「色と欲」に絡む出来事が主人公の日常の中で語られていく。「縮尻」は「しくじり」と読み、人生に失敗した人間という意味である。

 しかし、これが絶妙なペーソスで語られ、一応の安定と太平を見せた天保年間(1830-1843年)の封建制度の中での江戸の社会背景を的確に踏まえたうえで人々の暮らしとして述べられていくところに面白みがあり、作者は江戸時代の公事訴訟(民事裁判)に詳しく、それらの判例から事件がとられているので、「生きた人間」のリアリティーがよく現れている。

 本書には、「破鍋に綴蓋」、「さりとはの分別者」、「お構い者の行く末」、「思い立ったが吉日」、「似た者どうしの放蕩の血」、「踏み留まった心中者の魂魄」、「浜町河岸の生き神様」、「御家人花房菊次郎の覚悟」の八編が収められているが、第一話の「破鍋に綴蓋」で手習い所の師匠として生きている主人公のひとり娘と「脇が甘い」と思われているその夫のことが述べられているほかは、江戸市中で起こった家の普請にまつわる公事、妻と娘を殺された武士の復讐にまつわる話、商家の主が死んだと思って夫婦になったのに、その主人が生きていたという話、放蕩して家を潰し、蔵書を売りさばいて放蕩を続ける男たちの話、心中に見せかけた殺人が発覚する話、貧苦にあえぐ大名家の借金踏み倒しの話、家の売買を利用した取り込み詐欺事件の話など、それぞれが裁判所や勘定所で取り扱われていた話の顛末が述べられ、それらはまさに「色と欲」に翻弄される人間の話である。

 こうした生臭い話を、主人公は行きつけの「ももんじ屋」(肉を食べさせる店)で、友人の同心や剣道場主と、うまい肉鍋をつつきながら話をしたり、解決のヒントをえたりしていくのである。主人公は外食と梯子酒が過ぎるので、奥方から外食は3日に一度と釘を刺されているが、中年を過ぎて老年期に差し掛かった「縮尻(しくじり)」人生を歩む姿も独特なペーソスを生んでいる。

 このシリーズは、何らかの思想的な意図があるわけでも、「情」が語られるのでもないが、どこか飄々と生きる主人公に共感がもてる作品である。

 昨日、雨の中をひとり歩きながら、今年は初から何となく気ぜわしい日々が続いて、どこか自分自身を失って、自分が決して望んではいない生活を送っていることを少し暗い気持ちで考えたりしていたが、飄々と生きることに変わりはなく、それでもいいか、と思ったりしながら、この作品を読み終わった。

2010年4月10日土曜日

白石一郎『海狼伝』

 桜も散り始め、日中は春の温かさがようやく感じられるころになった。今週は5日(月曜日)の午後に九州の久留米在住のK氏が危篤の状態になられたとの連絡が急遽はいって、6日の朝、久留米まで出かけなければならなかった。90歳を越えておられたK氏は、若い頃に結核を患われたりして苦労されたが、従業員500名以上を抱えるいくつかのホテルと結婚式場、祭儀場を経営され、謙遜で、質素で、ロダンの彫刻を愛し、久留米市の文化や教育の分野でも助力を惜しまれず、真に比類のない生涯を送られた方であった。

 久留米の聖マリア病院の病室で最後の面会をすることができたが、昨日(9日)、召天された。死を迎えることは、人にとって最後の大仕事だとつくづく思う。今は静かに冥福を祈ろう。

 九州までの往復と滞在中に白石一郎『海狼伝』(1987年 文藝春秋社 1990年 文春文庫)を読んだ。こちらは若々しくエネルギーに満ちた人物を描いた長編作品で、直木賞受賞作品でもあるが、こういう生き生きとした人物を中心にした作品を書くには相当な情熱とその持続が必要で、いったい作者が何歳ごろの作品だろうと思って調べたら、1931年生まれだから、56歳の時の作品だと知り、改めて驚愕した。

 これは、いわゆる戦国時代の末期に活躍した村上水軍で志を高く持って南蛮貿易へと船出していく青年のロマンを描いた冒険小説である。

 九州の壱岐・対馬を中心に活動した松浦党(海賊・倭寇)の末裔として生まれた主人公は、朝鮮から帰国して海賊をする「将軍」の下で働くことになり、その海賊働きの最中に瀬戸内海の村上海賊衆に捕えられ、瀬戸内海まで連行されることになる。しかし、不明となっていた主人公の父が、実は、村上水軍の将であったことがわかり、商才に富んだ村上水軍の一族に預けられ、明国(中国)人で奴隷であった男との友情も深めながら、自分の道を定めていくのである。

 彼が恋した女性が、厳島で毛利元就に敗れた陶晴賢(すえはるかた)の子であったり、織田信長と一向衆(石山本願寺)との争いに村上水軍として加担したり、瀬戸内海をめぐる緊迫した状況の中で、大貿易を試みる商才に富んだ青年、明国人で奴隷であった武力に富んだ青年との友情などが、実に綿密な当時の海賊や村上水軍への史的考察の下で展開され、海のかなたに勇躍していこうとする青年の姿が生き生きと描き出されていく。それはまさに、爽快な冒険譚である。視点も歴史を大上段に見るのでなく、そこで生きている人間の側から描かれる。それも本当にいい。

 こうしたロマンを描いた小説を久しぶりで読んだ気がする。気の重い状態の中で、他方では青年のロマンを描いた作品を読む。これもまた、ひとつの過ごし方かもしれないと思ったりする。

2010年4月5日月曜日

多岐川恭『暗闇草紙』

 雨が降り始め気温も下がってひどく寒い四月の月曜日になった。気温がジェットコースター並みに変動しているが、今日はまことに寒い。

 昨日から多岐川恭『暗闇草紙』(1982年 講談社 1992年 新潮文庫)を読んでいたが、これは「草紙」と表題にあるように、一昔前のとてつもなく面白い冒険・推理・時代小説であり、推理作家でもある作者が意図的に娯楽時代小説として書きあげたもののように思われる。

 物語は、妻恋坂の裏通りにある通称「暗闇小路」の裏店に住む手習い所の師匠で剣術道場の代稽古をしながら糊塗をしのいでいる浪人が、その裏店に越してきた若い娘と乳母と思われる女の家に入った押し込み強盗の事件をきっかけに、隠された財宝を探し出していくというもので、同じ裏店に住む岡っ引きとその出戻り娘、浪人が惚れて通っている馴染みの女郎、精神的な安らぎを覚えて慕っている尼僧、彼に思いを寄せて迫る剣術道場の妻などとの恋模様あり、隠された財宝が長崎における抜け荷や海賊からの略奪品であり、裏切りの繰り返しで狙われ続けたものであることなどの人間の欲の深さありで、それらが巧みに織り混ざって、物語の山場を迎えていく。

 主人公の浪人が、貧乏手習い所の師匠を続けようとするところもいいし、気性がさっぱりして頭のいい女郎のもとに通いながら、一方で清楚で頭脳明晰な尼僧に魅かれつつも、ついに色香を振りまいて迫って来る剣術道場の妻の誘いに負けて、その夫と話し合って、彼女と夫婦になるようになる、いわゆる凡夫として描かれているのもいい。女郎も尼僧も、境遇は正反対だが、物事の真実を見通す目をもっている女性として描かれているし、岡っ引きの出戻り娘の恋心も綾を添えていく。また、欲に固まった長崎奉行と商人との結託と裏切りの繰返しによって隠されてしまった財宝の顛末も、いかにも娯楽小説としての筋立てがきちんとしている。

 物語の大円団は、財宝が隠されていた高尾山の山頂で起こるが、そこに財宝を狙う元長崎奉行の手の者とそれを争っていた商人の手の者、そして、鍵を握る若い娘と乳母、真実を暴こうとする主人公の一団がすべてそろって争いとなり、尼僧の昔のつてである大身の武家と火消し仲間の手によって争いが鎮められ、若い娘や乳母の正体も暴かれ、隠されていた財宝は結局誰の手にもならずに円団を迎えていくというものになっている。

 そして、最後のところで、女郎は女郎屋を買い取って彼女を慕う下働きと、岡っ引きの出戻り娘は自分の恋心を胸にしまって父親の手下と、尼僧は変わらず静かに、そして主人公は剣術道場の主となって尻に敷かれていく。尼僧の境遇が最後に明かされるが、それも精彩を放っている。

 こうした作品は、肩の凝らない「草紙」-読みもの‐として面白いし、直木賞や紫綬褒章までも受賞している作者の技量は改めていうまでもない。なぜか、松本清張の隠し金山を舞台にした長編の時代小説『西海道談綺』を思い起こしたりした。『西海道談綺』も、本当に面白く、こちらは以前住んでいたところの近くの九州の日田や鯛尾金山などが舞台であったので、よくそこに出かけたりした。今でも、九州に行った折には日田の筑後川に鮎を食べに行ったりする。多岐川恭『暗闇草紙』の最後の舞台となった高尾山にも思い出がある。

 こうした地名の出てくる時代小説を読むと、その場所を思い出したりするのも小説の効用だろう。

2010年4月3日土曜日

宮部みゆき『天狗風 霊験お初捕物控(二)』(2)

 昨日は重い雲に覆われて「春の嵐」と呼ぶにはあまりにも強い風が吹いて、道を歩く時も吹き飛ばされそうな気がしていたし、お風呂の天窓がカタカタと音を鳴らし続けていた。この不順な天候で農作物があまりうまく育たないと聞いて、それでなくても高い野菜の値段がまた上がるかもしれないとおもったりもする。ここではトマト1個が200円近くもする。

 しかし、「強い風の吹く日には、誰かの罪がゆるされ、冷たい雨の降る日には、誰かの悲しみがいやされる」と思ったりもする。

 宮部みゆき『天狗風 霊験お初捕物控(二)』を予想した通り面白く読み終えた。物語の途中では、「神隠し事件」とからまって、「阿片の密売」に絡んだ事件が明るみに出ていったり、「神隠し」を利用した「誘拐・脅迫事件」が明らかにされていったりして、それぞれの事件に関わった人物も丁寧に描写されているが、すべてが大円団を迎え、女の執念の化身である「天狗」も、真の美しさが人の心の中にあると信じる主人公のお初の手によって解決されていく。

 お初は、神隠しを起こした女の執念と対決する時に、友人の古沢右京之介の丸眼鏡をかりて、それで正体を見極めていく。右京之介は、お初がどんな姿形でも(お初は美貌の持ち主ではあるが)「美しい」と思う時があるといい、本当の美しさは、それを感じる人の心にあるという。その丸眼鏡の助けを得て、「神隠し」をおこなう女の執念に立ち向かうのである。

 それは決して深い思想の開示ではないかもしれないが、こういう素朴で当たり前のことを、ひとつの物語として展開していくところに作者の作家としての「面白く読ませる」という豊かな技量がある。また、お初と右京之介の恋心や、算術を志したために勘当した右京之介の父親の、温かく見守りながら息子を認めて助けていく姿なども描かれていくし、根岸肥前守のすべてを包み込むような姿もよく描かれている。こういうところは、人間への姿勢という点で、優れた作家である平岩弓枝の作風を思わせるものがある。読みやすさとストーリーの展開で、宮部みゆきは群を抜いていると言えるかもしれない。

 作品に思想的な深みを求めているわけでないから、少なくともわたしには、この類の作品は、あまりにも奇想天外なファンタスティックなところは除いても、何か精神的な疲れやつらさを覚える時に読むのによい作品のように思える。現実離れした話がしっかり現実に根をおろしているので、話が荒唐無稽に思われないようにできているのが好ましく思えるのである。

 明日は、今年のイースターで、希望の到来を告げるイースターが春を思わせる日になればいいと思ったりする。ずいぶん以前に、スザンナ・タマ-ロの「一人で生き抜く力」というのを考えたことがあるが、ひとりで天に向かって手を伸ばす日であればいいと思う。

2010年4月1日木曜日

宮部みゆき『天狗風 霊験お初捕物控(二)』(1)

 晴れたり曇ったりで、気温は少し上がっているのだが、「花曇り」というには幾分寒すぎる気もする。季節の変わり目ということもあって、身体機能が環境に馴染んでいかない感じがある。

 先日から宮部みゆき『天狗風 霊験お初捕物控(二)』(1997年 新人物往来社)を読んでいるが、なかなか読み進まない。これは、「お初」という霊感の強い娘を主人公にしたファンタジック時代小説とでも呼べるような作品で、お初は、姉妹屋という一膳飯屋をしている岡っ引きの兄夫婦の店を手伝いながら、江戸で起こる不可思議な事件を、彼女の霊感を見込んだ町奉行根岸肥前守の依頼で解決していくというもので、根岸肥前守は、名を根岸鎮衛(ねぎし やすもり)といい、1735-1815年に実在した南町奉行所の名奉行として著名で、彼が集めた江戸の様々な事件や世話話を記した『耳嚢』全10巻には面白い話が記されているが、もちろんその他の登場人物は創作上の人物である。

 お初は不思議な力をもち、見えないものを見たり聞こえないものを聞いたりする能力をもち、物に触れればその物の背景を知ることができるし、猫とも会話ができる。彼女には、心強い岡っ引きの兄がいたり、思いやり深い兄嫁がいたり、また与力の息子で、見習い与力であったが、それを辞めで算術の学問を志している古沢右京之介という信頼を寄せる友人(お互いに思いをもってはいるが、それを明らかにはしない)がいたりして、奇想天外な事件を解決していくのである。

 『天狗風』は、「天狗にさらわれて神隠し」にあった二人の娘の事件を解決していくというもので、「天狗」が「女の情念や怨み」の化身であるというのも作者らしい設定であろう。

 物語の本筋は奇想天外な荒唐無稽なものではあるが、背景がしっかりしており、奉行所で起こる冤罪事件や人間の欲がからむ策略や女の情念と嫉妬の恐ろしさなどが展開され、その中で、爽やかなお初と古沢右京之介の真直ぐな姿が光って、娯楽小説としては面白い。

 ただ、作者にしては展開のテンポが少しゆっくりで、それだけ描写が丁寧であるとは言えるのだが、この類の小説としては読むのに少し時間がかかるような気もする。特に、猫が「お初」に化けたり将棋の大駒に化けたりして「ものの化」騒動を引き起こして、お初を助けていくようなところでは、少し作者が遊びすぎるような気もする。

 しかし、おそらく、宮部みゆきは、現代の「語り部」のひとりと言えるかもしれないと思ったりする。全474ページもの長い物語の語り口調は、物語の展開が一貫しているので、するすると読み続けられるものとなっている。しっかりした時代考証の上で奇想天外な物語を展開しているところに作者の技量の豊かさもある。もう少し彼女の作品を読んでみたいと思う。

 しかし、読了していないので何とも言えないが、彼女の作品では、先に読んだ『日暮らし』の方が優れているのではないかと思っている。

 昨日は、金沢出身のMさんのお宅に呼ばれて、古い蒔絵の火鉢を拝見させていただいた。Mさんのご実家は金箔などを作っている名家で、今は、昨年ご主人を亡くされた八十六歳のかくしゃくとしたお婆さんである。今日は夕方、中学生のSちゃんが来るという。数学の美しい二次関数の話でもしよう。物事を関数で表わしていく思考方法は、物事を相対化していく上でも重要だろう。宮部みゆきは夜にでも読むことにしよう。