2011年11月4日金曜日

葉室麟『いのちなりけり』(1)

 昨日一日、特別の行事があって、いささかの疲れを覚えていたが、なぜか素敵な女性を背負って中華料理を食べに行く夢を見たりして、われながらおかしく、ふふ、と笑いながら今朝は目覚めた。朝方は曇っていた空が晴れ渡ってきている。

 葉室麟『秋月記』に続いて、『いのちなりけり』(2008年 文藝春秋社、2011年 文春文庫)を大きな感動を持って読み終わっていたので、記しておくことにする。この作品も極上の作品だった。

 この作品について、作者自身が「江戸に人々が羨むほどの仲の良い夫婦がいるんですが、実は彼らは長い間、離れ離れに暮らしていたんです。夫は若い頃、人を殺めて流罪にされていた。妻は三十年以上も夫を待ち続け、年老いてようやく一緒に暮らせるようになった。思いを繋いだまま、『巡りあう夫婦』というものをいつか描きたいと思っていました」と語られたそうだが、元禄の頃(五代将軍綱吉-1688-1708年)、島原の乱(1637年)以来の深い関係がある水戸藩と佐賀鍋島藩を背景に、天下の副将軍として名高い水戸光圀と老中柳沢保明との争いを絡ませながら、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の藩士雨宮蔵人と小城藩の重職であった天源寺行部の娘であった咲弥の離れ離れになりながらも互いの愛情を深めていく物語である。二人は、夫婦といっても、互いに契りを交わした夫婦ではなく、その思いはひたすら純粋である。

 物語は、隠居した水戸光圀が、家臣で中老であった藤井紋太夫を小石川の水戸藩上屋敷(現:後楽園)で誅殺した(1694年-元禄7年)場面から始まるが、その水戸藩上屋敷の奥女中として16年もの長きに渡って光圀に仕えてきた咲弥は、小城藩鍋島家から光圀が預かった女性で、その年38歳になるが、美貌は少しも衰えず、才識豊かで、「水府(水戸)に名花あり」と言われるほどの女性だった。その咲弥が光圀に預けられる経過がこれから語られるのであるが、咲弥がひたすら思いを寄せ続けていた男からの手紙に書かれていた歌が最初に記されている。

 それは、古今和歌集に記されている読み人しらずの次のような歌である。

 「春ごとに 花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」

 そして、この歌が、咲弥と彼女の想い人雨宮蔵人を繋ぐ全編を通しての響きとなっている。この歌そのものが、涙が出るほど感動的な歌であるが、こういう構成を取ることができる作者の良質な知性に敬服する。

 咲弥は、佐賀鍋島藩の支藩であった小城藩の重臣である天源寺家に生まれ、才媛の誉れが高い女性であった。兄たちが死去したために藩の家老の四男で将来を嘱望された男を婿に迎えたが、子ができないままで病に倒れて死去してしまった。そして、天源寺家の跡取りを望む父親の天源寺行部の要望で、新しくわずか70石の軽格の部屋住みであった雨宮蔵人を婿として迎えることにしたのである。咲弥二十歳、蔵人二十六歳の時である。

 雨宮蔵人は、取り柄と言えば、角蔵流と呼ばれる組み討ちの流派を使うくらいで、凡庸で、猛犬の前を通るときなどは、「脛を噛まれても薬を塗れば治りますが、袴を食いちぎられたら買いなおさねばなりませんから」と言って、裾をからげて走り抜けたり、「眼病を治療する薬をつくるのは人の道にはずれてはおりません」と言って、目薬を作って売る内職をしたりして、人々の人々のひんしゅくを買ったりしていた男だった。色黒で、鼻が大きく顎が張って、大柄で、とても美男とは言えないような人物だった。

 だが、暴れ馬を諫めるときに、丸腰で馬の周りをぐるぐる回り、暴れ馬が根負けしておとなしくなった様子を見ていた天源寺行部が、蔵人が見かけとは違う人物だと見抜いて婿と決めたのである。天源寺家は、佐賀藩では特別な立場である龍造寺家の家系で、もともと佐賀藩鍋島家の祖である鍋島直茂は龍造寺家の家臣に過ぎなかった。戦国時代に龍造寺隆信は九州全体を制圧するほどの勢いであったが、薩摩の島津家との争いに敗れ、豊臣秀吉が隆信の孫に当たる五歳に過ぎなかった龍造寺高房を当主として鍋島直茂を家政者とし、朝鮮出兵の際に鍋島直茂を肥前国主と認め、また龍造寺高房が狂乱のうちに死去することがあって龍造寺家が断絶し、以後、鍋島家が龍造寺家の家督を相続していたのである。

 江戸幕府も龍造寺家を認めなかったが、鍋島家が肥前の領主となる際、本家以外の龍造寺一族も鍋島直茂を支持し、そのために鍋島家の中では、特別に力を持つ家柄として存続していたのである。それによって鍋島家の中では龍造寺一族は代々重職をもつ家柄となったが、裏では、鍋島家と龍造寺家は積年の確執をもった存在でもあった。それゆえ、龍造寺家の流れを持つ小城藩の天源寺行部は、嗣子がどうしても必要だったのである。そして、美男子で才媛豊かな人物よりも、体格が良くて病など無縁のような雨宮蔵人を咲弥の婿として選んだのである。

 だが、婚礼の夜、咲弥は、前夫は学問教養が高く、和歌をたしなみ、「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」という西行の歌を好み、「花」は桜を意味し、咲弥の名前の由来である桜にちなんで歌った歌に自分の想いを籠めていたと語り、蔵人もその心を表す歌を示すまでは寝屋を共にしないと宣言する。和歌など親しみのなかった蔵人は困惑し、愕然としてしまう。咲弥は蔵人を自分の夫と認めなかったばかりか、彼が目薬を売っているということを聞いて軽蔑さえしてしまうのである。

 咲弥と蔵人は夫婦になったが、それは形ばかりで、そのことが藩内に知られてしまい、蔵人の従姉妹で咲弥にふさわしいと噂されていた美男子の深町右京も心配して訪ねてくる。だが、蔵人は、「わしが嘲られておるだけで、咲弥殿の評判が上がったのならよいではないか」「わしは望まれたことに応えられなかった」と言うだけであった(文庫版 30-31ページ)。

 そうしているうちに、佐賀藩主鍋島光茂と嗣子綱茂、小城藩主鍋島直能の前で行われる鎧揃えの儀式の時に、何者かが矢を射かけるという事件が起こってしまった。この時、主君の直能の前ではなく、本藩の鍋島綱茂の前に立ちふさがって鎧に矢を受けて防いだのが雨宮蔵人で、続けて放たれた矢を切り払ったのが従姉妹の深町右京だった。だが、矢を防いだ功績ではなく、主君ではなく本藩の世子を守ったということで、蔵人の評判はがた落ちし、矢を斬り落とした従姉妹の深町京介の名は上がった。義父である天源寺行部がそのことを問い糾したとき、蔵人は矢筋を見極めるために矢の面前に立ったのだと応える。蔵人は愚直なまでにまっすぐに振る舞う。

 このことを見抜いたもうひとりの人物がいた。それは、小城藩江戸屋敷で剣術師範をしていた柳生新陰流の巴十太夫で、やがて、この巴十太夫と蔵人は死闘を演じることになるが、小城藩はこの柳生新陰流をお家流儀としていた。小城藩にはもう一つ小太刀を得意とする戸田流があり、雨宮蔵人はこの戸田流を学んでいたのである。お家流儀の柳生新陰流ではなく、戸田流を学んでいたというところも、この雨宮蔵人の生き方を示す重要な鍵となっている。

 参勤交代で江戸に出てきた雨宮蔵人は、小城藩の継嗣であった鍋島元武の前でこの巴十太夫と試合をさせられ、巴十太夫はわざと負け、それを見ていたまだ十四歳に過ぎなかった元武から、先の鎧揃えの時に本藩の鍋島綱茂に矢を射かけたのが義父の天源寺行部で、天源寺行部は、先の島原の乱で先駆けし、鍋島藩を苦境に追いやったことで分家の家老に追いやられた恨みを持っていたと告げられ、その天源寺行部を討つように密命を受けるのである。

 島原の乱の際、農民が立て籠もった原城攻めは2月28日と決められていたが、27日の夜に状況を見極めた天源寺行部と江戸留守居心得の鍋島大膳亮が先駆けして原城に乗り込んでしまうということが起こったのである。幕府軍も予定を繰り上げて総攻撃を行うことになったが、このことで佐賀藩は軍令違反で咎められることになった。鍋島大膳亮は墊居させられ、天源寺行部は支藩の小城藩に追いやられた。

 本書では、彼ら二人が先駆けして原城に乗り込んだ際、そこにいた小西家の牢人黒滝左兵衛と闘い、大膳亮が背後から槍で刺して殺したが、その時に黒滝左兵衛と一緒にいた六歳の男の子を見逃し、この男の子がやがて成長して、佐賀藩に恨みを抱きつつ、幕府老中柳沢保明の用人となり、水戸光圀の思惑をくじいて佐賀藩を窮地に陥れようとするという遠大な構想の一つの要となっている。

 雨宮蔵人が江戸にいる間、蔵人の従姉妹の深町右京が天源寺家に足げく通うようになり、人々は、行部が、何の取り柄もないような蔵人を離縁させて、前夫に似て才豊かで見目も良い深町右京を婿に取るつもりではないかと噂しはじめたりする。咲弥は蔵人に対しては愛情を抱くことができなかったし、まだ子どものころに桜狩りに出かけたときに道に迷っていたところ、桜の木の上で雲を見ていた少年から助けられたという話を聞き、それが深町右京ではないかと思ったりする。右京は咲弥から西行の歌で好きなものがあるかと聞かれ、即座に答えることができるほどの教養もあり、やがて、御歌書役に任じられ、藩主の鍋島光茂が古今和歌集の伝授を受けるのを助ける役を仰せつかり、その際には才豊かな咲弥を嫁として連れて行ったらどうかという話も出る。だが、右京の心中は、蔵人の人柄をよく知っており、なんとかして咲弥の蔵人に対する誤解を解きたいと願っていただけである。

 他方、江戸の蔵人は義父の天源寺行部の暗殺を小城藩継嗣の鍋島元武に命じられ、自分の父親が桜狩りの際の天現寺家の姫(咲弥)が道に迷ったことの失態を咎められて役を解かれ、傷心の中で病死したことなど思い起こし、天源寺行部とは少なからぬ因縁があったのだが、近習として仕える元武が疱瘡を患ったときも寝ずの看病をし、薬湯を作ったり藻草で灸をすえたりしながら、自分は「天地に仕える」ということを公言したり、あるいは、苛められていた鍋島綱茂の近侍が苛めていた先輩格の人間たちを斬り殺す事件に関わったりしていた。そして、越後牢人黒滝五郎兵衛とひょんなことから出会うのである。

 黒滝五郎兵衛は、島原の乱の時に原城から逃げのびた少年で、やがて細川家の家臣に拾われて育てられ、武術を学んでいたが、育ての親の妾と懇ろになり、「キリシタンは外道だな」と罵倒されて、育ての親を殺してしまい、出奔し、越後まで流れ、雪の中で倒れていたところを助けられ、越後高田藩小栗家の小栗美作(みまさか)に気に入られて、仕えていたが、高田藩の内紛騒ぎで小栗美作から幕府の状勢を探るように命じられて、江戸に出てきていたのだった。

 雨宮蔵人は、自分は天地に仕えると語り、黒滝五郎兵衛は、島原の乱で絶望を見てきていた自分はそういうことが大嫌いだと語っていく。二人は奇妙な縁であるが、その後、水戸光圀と柳沢保明の争いや佐賀鍋島藩への工作などで微妙に絡まっていくのである。やがて、元武から義父の天源寺行部を暗殺する密命を帯びたまま、参勤交代が開けて国元に帰国することになるのである。

 前半だけで、これだけの話の展開が重層的に語られ、その中で雨宮蔵人のまっすぐで開かれた公然性をもつ人柄が語られているのだが、何ものにも動じないでどっしりと立ち向かう姿は、「天地」という「いのち」に誠実であろうとする姿であり、それがさりげなく示されている。彼はただ、天地とその命を大切にしようと心がける。不器用なまでに武人である。自分でどうすることもできない運命もあるが、その中を歩み続ける。こういう主人公が真面目に生きようとする人の心を打たないわけがない。しばらく瞑目して、この主人公の姿を考えたりした。

 物語は、これから次第に頂きに向かって上っていくが、続きはまた次回に書くことにする。

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