2011年4月29日金曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 湯けむり浄土』

 薄く雲が広がり気温も低めだが、爽やかで新緑が嬉しい。昔「天皇誕生日」だった今日を「みどりの日」とはよく名づけたものだとつくづく思う。今朝、起き出して新聞を取りに玄関に行った時に数冊の時代小説が置いてあることに気づき、どなたが置いてくださったのだろうと思っていたら、脚本などを手がけておられるT氏が訪ねてきてくださったようで、せっかくおいでくださったのに、昨日は外出して会えずに残念だった。ブログをご覧になって連絡をくださり、彼が同級生だったことが最近わかって、今度会うことにしている。

 閑話休題。高橋義夫『花輪大八湯守り日記 湯けむり浄土』(2004年 中央公論新社)を読む。これは先に読んだ『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』(2009年 中公文庫)のシリーズ第一作目の作品で、現在の山形県新庄市の肘折温泉の湯守りとなった主人公の花輪大八のユニークさや当時の雪深い湯治場を巡る人々の人間模様、関わっていく事件の展開や全体を包んでいる大らかさなどが面白く、その第一作目の主人公が湯守りとなる経過を描いた一作目を読んだ次第である。そして、この一作目も、一気に読むことができる面白さをもった作品だった。

 山形新庄藩で在郷の代官を務める六十石の花輪家の次男の部屋住みであった大八は、城下で横暴を振るっていた黒川武平に捕らわれた友人を救い出すために武兵と対決し、祖父から習った具足術で武平を傷つけるが、大事にしないために私闘とされ、喧嘩両成敗ということで城下を追放され、兄や周囲の人々の計らいで雪深い鄙びた湯治場である肘折温泉の湯守りとなる。

 主人公の剛胆で物怖じしないが思いやりのある真っ直ぐな気質は、湯治場の人々に受け入れられ、湯治宿や村の人たちからも次第に認められるようになっていく。その中で、病を抱えた武士の親子と出会い、その武士が仇打ちの旅にあることを知っていく。だが、武士の病は重く、ようやく仇のいるところを探し出すが、その仇も銀山で働くうちに死病を患っていることを知る。やがて、武士の親子が仇と狙う相手は銀山で史に、武士も、己の一分を通しながら死んでいく。そして、大八は残された息子を湯治場の医者のところで働き、医者になるように計らっていくのである。

 そうしているうちに、私闘で破れた黒川武平が修行を積んで私闘の決着をつけるために現れる。花輪大八と黒川武平は雪の中で闘いを繰り広げ、、二人とも雪崩に巻き込まれてしまい、武平はもはや闘うことができなくなって私闘に決着が着いていく。

 こういう展開が、鄙びた肘折温泉の風情やそこで暮らす人々の暮らしぶり、主人公の大らかで物事に執着しない姿などを合わせて、時にはユーモラスに、時にはシリアスに描かれて、物語全体に何とも言えない柔らかな雰囲気が包んでいるのである。山形といえば、今頃は桜がきれいだろう。

 こうした作品は、疲れた時など、本当に気楽に読めていい。このシリーズは、第二作目があるので、機会があればそれも読んでみたい。

2011年4月27日水曜日

鳥羽亮『子連れ侍平十郎 おれも武士』

 晴れてはいるが、上空を風がごうごと唸りを上げて吹き抜けているのが分かる日になった。午後から明日にかけて天気がくずれるとの予報が出ているし、東北地方でも豪雨が予想されている。雨は地震で緩んだ地盤では災害ももたらすし、放射能の土壌への染み込みが案じられし、復興の作業にも困るだろうが、舞い上がった粉塵を鎮め、すべてを洗い流してくれる気もする。

 昨夜は爽風に身を委ねながら、鳥羽亮『子連れ侍平十郎 おれも武士』(2009年 双葉社)を一息に読んだ。これは、先に読んだ『江戸の風花(子連れ侍平十郎)』(2004年 双葉社)の続編で、やはり、読ませる力量があって面白いと同時に、家族を大切にする現代的な視点もあると感じたりした。

 東北のある藩の政権争いに巻き込まれて、六歳になる娘の「千紗」のために娘を連れて江戸に出奔し、江戸で自分たち親子の窮乏を救ってくれた町道場の争いにも巻き込まれ、殺された道場主のひとり娘「佳江」の願いもあって道場を引き継いだ長岡平十郎は、上意討ち(主君の命によって討ち果たすこと)が降った執拗な藩の追手と、町道場の争いで破った男の凄腕の弟の両方から命を狙われるという二重の危機に直面する。

 長岡平十郎の命を狙う二組は、それぞれに剣の遣い手であり、町道場の争いに敗れた男の弟は、平十郎の道場の門弟たちを次々に殺していくし、藩の追手は、互いに思いを寄せ合うようになった「佳江」と娘の「千紗」を人質にとって、平十郎を争いの場に引きづり出そうとする。その危機の中で、それぞれに緊迫した争いが展開され、平十郎は「平常心」を取り戻すための修練を重ねて、これと対峙する。剣客どうしの争いが展開されていくのである。

 長岡平十郎は、彼を慕う門弟や元の藩の武士たちの助けもあって、何とかこの危機を乗り越えていく。そして、やがて国元の藩でも、彼を上意討ちにしようとした家老の衰退や状況の変化によって、彼への上意討ちが取り消され復藩が可能になる。だが、長岡平十郎は、初めの思いを貫いて、藩に戻らずに娘の「千紗」と相愛になった「佳江」を守って生きる道を選んでいくのである。

 作品の中で、病で母を亡くした娘の「千紗」(この作品では七歳になっているが)と、先の婚家で娘を亡くして出戻りとなっていた「佳江」が、互いに母娘としてお互いの絆を、特に人質とされた不安の中で強めていく話や、長岡平十郎と「佳江」の互いの思慕が深まっていく姿が丁寧に描かれて、このもまた物語の展開に深く味を添えるものとなっている。

 子どものために武士の一分を捨て、「子連れ侍」と揶揄されても、自分が愛し、大切に思うもののために生きることこそ「武士」という思いが、この表題となっていて、少なくてもわたしのような人間にとっては、それが読ませる力となっている。ただただ愛する者のために生きる、それは絶大な力と豊かさを持つ。剣の争いの場面でも、「平常心」をもつことの重要性が強調されているところが、すこぶるよい。もっとも、こういう武士の姿は最近の時代小説ではおなじみのものになっている感はあるが。

この作品は、先の『江戸の風花』との二作で完結しているのだが、またシリーズとなって書かれるかもっしれない。父親を慕い、案じ、またしっかり自分を保とうとする「千紗」の成長を見てみたい気もする。

2011年4月25日月曜日

鈴木英治『手習重兵衛 母恋い』

 めまぐるしく天気が変わり、少し家事をしようと掃除をし、洗濯物を干したと思ったら雨が降り出し、慌てて室内に入れたら晴れてきて、また干し直すことを繰り返したりした。でも、日常がこうして流れることも悪くないし、むしろ貴重なことだろう。柔らかな言葉を書き綴ってくださったメールをいただき、それをじっくり読みながら朝の時が過ぎていった。

 土曜日の夜に、鈴木英治『手習重兵衛 母恋い』(2009年 中公文庫)を読んだ。この作者の作品は、以前、『父子十手捕物日記 情けの背中』(2008年 徳間文庫)の一冊を読んで、親子の情や愛する人間の思いやりとか心情とかが柔らかく書かれる中で捕物帳ものとしての面白さもあって、娯楽時代小説としてはなかなかの味のある作品だと思っていたので、これを手にとって読んでみた次第である。

 これもシリーズもので、本作は、ある藩を出奔して江戸の白金村(現:港区白金)で手習い所師匠をしている興津重兵衛を主人公にしたシリーズの7作目だが、軽妙な語り口の中で様々な人間模様が描かれて軽く読める読み物になっている。もちろん、軽く読めるといっても、主人公が、深い事情があって友人を殺して出奔したという重荷を背負った人物であり、取り扱われる事件が軽く扱われているわけでも人間観が浅いわけでもない。

 ただ、主人公の友人となった奉行所定町廻り同心「川上惣三郎」と彼を慕っている中間で事件の探察を手伝う「善吉」の掛け合い漫才のような会話の軽妙さが光って、物語をユーモラスに仕立てているので、そうした印象が残るだけなのであり、また、その「川上惣三郎」と対称的な主人公の「興津重兵衛」の寡黙だが剣の腕も明晰で判断力もあり、思いやりも深くて、美男で、恋する女性に一途な姿も、理想的すぎると言えば理想的すぎるところや、彼が恋する女性も思いやり深く一途であるところなど、それぞれが典型的な人物となっているところなどが、あまり肩が凝らずに読めるところである。

 本作では、興津重兵衛を仇だと偽って保護を求めて転がり込んできた掏摸として育てられてきた女性のことから米問屋の乗っ取り事件に繋がっていく事件の顛末が描かれるのだが、事件の顛末はともかく、そこに手習い所に通ってくる子どもの産みの親を慕う姿やすりの娘と彼女を育てた掏摸の親方との関係、あるいは女に転がり込まれて困惑する主人公や恋人の姿など、それぞれに、ある程度の時代小説のパターンが用いられているとはいえ、それが巧妙に組み立てられているので、展開が面白くなっている。

 よくは知らないが、おそらく、このシリーズの作品もけっこう売れている作品だろうと思う。そういう要素がふんだんに盛り込まれているからだが、何故、こういう作品が現代の勤め人に好まれるのかを分析するのも面白いだろうと思う。もう少し読んで見てから、考えてみたいとは思っている。

2011年4月22日金曜日

佐江衆一『動かぬが勝』

「春霞」というほど天気は良くなく、肌寒い。かつて1923年に関東大震災が起こった時、時の首相を命じられた山本権兵衛は「帝都復興審議会」を直ちに創設し、震災の4週間後には「帝都復興院」が設立されて、総裁となった後藤新平(1857-1929年)はパリの区画整理をモデルにしたものではあったが、未来を見越した大規模な都市改造事業を含む復興計画を打ち出した。そこには土地の私有財産権を無視したことによる批判や莫大な予算の財源のための財界からの猛反対はあったが、これが未曾有の破壊的混乱の中にあった震災の4週間後に打ち出されたことは驚嘆に値する。いずれにしろ、復興を統一的に行う政府機関を直ちに設立したのである。

 マグニチュード9.3を記録した先のスマトラ沖の大震災においても、インドネシア政府は「復興省」を設立して統一的な復興に当たった。いまの日本政府は、まだ、その目途さえ立っていない。なぜ歴史に学んで復興と原子力発電所被害の問題に対して、少なくとも不安を払拭するためにこうした即座の対応を行わないのだろうかと疑問に思いながら、あちらこちらからばらばらに出されて齟齬を来し始めている復興策についての報道に接している。何でも一人でやりたがる「権力好き」が多いのかも知れない。

 閑話休題(それはともかく)、昨夜は佐江衆一『動かぬが勝』(2008年 新潮社)を読んだ。これは「動かぬが勝」、「峠の剣」、「最後の剣客」、「江戸四話」、「木更津余話」、「水の匂い」、「永代橋春景色」の七編からなる短編集だが、短編は長編よりも読むのに時間がかかる。物語の展開というよりもある場面や情景を切り取っていることが多いせいで、わたしのような「物語好き」にはどこか物足りなさを感じるためだろう。とはいえ、短編には短編特有の深みと余韻があり、この作品には特にその余韻が見事に表現されていた。

 最初の三編は、隠居した油問屋の老人が、老いて剣術を学び初め、剣術の試合に勝ちたいと焦るあまりにことごとく負けていたが、その負けを通して、焦らず、動かず、平静に間合いをとることを学び取っていく姿を描いた「動かぬが勝」と、息子を殺されたために仇を討とうと老いて動けなくなってしまった父親と孫息子を抱えながら苦労を重ねてきた老人と孫が、ついに仇と巡り会い、幼い孫の「無心さ」によって目的がようやく果たされた姿を描いた「峠の剣」、幕末を生き残った剣客が右手を失って侍を捨てて百姓をしていたが、県令(県知事)の横暴さの中で、自分の右手を切り落とした薩摩示現流の遣い手と同じ遣い手に出会い、剣客として勝負に挑み、「剣の間合い」を取ることに苦心してその勝負には勝つが、相手が引き連れてきていた鉄砲隊によって殺されてしまうという姿を描いた「最後の剣客」である。

 この三編は、いずれも「剣」というものを通して、「不動であること」、「待つこと」、「無心であること」、「平静に間合いをとること」を、そうありたいと願っている人間の姿を描いたものである。

 残りの四編は、いずれも「剣」ということとは無関係に、商家や料理屋などの下働きとして苦労させられているまだ幼い少年たちの年に二回しかない休日である「藪入り」の日の姿を通してその思いを描き出したり、木更津の船頭の恋や賭場の用心棒にまで落ちぶれた侍が捨てられた子どもと出会って、その子と暮らすうちに侍を捨てて家庭を持とうとする話であったりするもので、それぞれが味のある作品になっている。

 短編には情景描写も短編特有の切れ味が必要で、たとえば木更津の船頭の恋を描いた「木更津余話」の中で、心中に失敗して晒し者になっている男女を見た主人公の「茂七」が初めて惚れた女が、かつて心中で死に損なって遊女になっている女で、その女との最後の場面が次のような情景で描かれている。

 「月の光を全身に浴び、豊かな乱れ髪を海風になびかせ、月光がきらきらと煌めく海面を吸い込まれるように見つめている。十六夜の月の光は、昏い海の底深くまで射しこんで、この世の苦も悩みもない、男と女が身も心もひとつに解け合える水底の浄土へととどいているようである。
 女が茂七を見て微笑んだ。そして、手招いた。」(167-168ページ)

 こういう描写によって、幻想的な情景の中で主人公が惚れた女の手を取って自分が憐れだと思っていた心中へ誘われていくことを想像させるような幕切れとなっている。それは、男女のひとつの究極の愛の成就でもあり得る心中に至る独特の心象風景でもあるだろう。

 作者は1934年生まれだから、これを出された時は73歳か74歳で、老成された文章が光っている作品でもあるような気がした。

2011年4月20日水曜日

風野真知雄『耳袋秘帖 妖談うしろ猫』

 このところ少し肌寒い日々になっている。先日、都内に出かけた折に、神田川のほとりに植えられた桜の木々から花びらが舞い落ちる光景をしばらく眺めていた。桜の花びらには、決して華やかさなどなく、どこか淡くて哀しみを誘うものがある。葉桜の柔らかな黄緑も、なんだかそんな気がした。

 電車の往復と帰宅してから風野真知雄『耳袋秘帖 妖談うしろ猫』(2010年 文春文庫)を読んでいたので、ここに記しておくことにした。この作者の作品は初めて手にしたが、文庫本のカバーによれば、1951年福島県出身で、フリーライターを経た後に1993年に『黒牛と妖怪』で歴史文学賞を受賞され、その後いくつかのシリーズを含めてたくさんの作品を出されているようである。

 江戸時代中期から後期にかけての南町奉行所の名奉行として知られる根岸肥前守鎮衛(ねぎし ひぜんのかみ やすもり-1737―1815年)が書き残した巷の奇譚や世間話を集めた『耳袋(耳嚢)』を題材にした小説は、たとえば、宮部みゆきや宇江佐真理なども用いているし、根岸肥前守が、父親が御家人株を買い取って下級武士となった家の出であるにもかかわらず、才能を発揮して佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行と異例の出世を遂げていき、あまり物事にこだわらない大らかさや分析力の鋭さ、何事も前例を重視した江戸幕閣の中で前例に固執せずに現実的な判断をしていくところなどが愛されて、いくつかの作品に好人物として登場している。

 平岩弓枝『はやぶさ新八御用鋹』のシリーズでは、主人公である内与力(奉行つきの与力)の「はやぶさ新八」を使って、名推理を働かせながら事件の解決を行う名奉行として、新しいところでは坂岡真の『うぽっぽ同心』シリーズで、主人公を深く理解する「薊の旦那」として登場したりしている。

 実際、1805年に起こった町火消しと相撲力士たちの乱闘事件(「め組の喧嘩」と呼ばれる)では、事件の張本人だけを厳罰にして残りを軽罪や無罪としたり、窃盗事件でも事情をよく調べて、人情的な裁きをしたりしている。多くの人たちから慕われたことは事実である。

 風野真知雄『耳袋秘帖』は、この根岸肥前守を直接主人公に据えた作品で、彼の意を受けて手足となって働くのが、謹慎中の南町奉行所定町廻り同心の椀田豪蔵(わんだごうぞう)と肥前守が新しく使用人として雇った宮尾玄四郎である。

 椀田豪蔵は、柔術が得意な大柄の男であるが、性格は極めて素朴で朴訥でさえある。彼は剛胆であるが幽霊をすこぶる恐れるところもある。口やかましい姉に尻をたたかれながら生活している。宮尾玄四郎は美男子で身のこなしも良く、手裏剣の名手だが、醜女に美を感じ、醜女が好きな男である。変わり者の二人であるが、根岸肥前守の人柄や明晰さに深く敬服しているところがあり、肥前守の危機に際しても身を挺して守っていくような人物である。

 ここに収録されている序章を含めた七編は、いずれも、根岸肥前守の『耳袋』に記されている事柄を題材にしているのだが、それを作者ならではの想像力を駆使して、現実味のある物語として発展させたもので、「奇譚」に対する現実感覚を発揮する肥前守の好判断が光っている。また、肥前守の亡妻を慕う思いや、一風変わった子どもへの大らかな対応なども盛り込まれている。

 根岸肥前守は先述したようにたくさんの作品に登場するが、彼を直接主人公にしたような作品は案外と少ないし、内容の詳細はここでは記さないが、本書は新展開の第一巻目の作品である。この作品では文章も構成も、その人柄を反映したように柔らかくて、楽しみなシリーズに出会ったと思っている。

2011年4月15日金曜日

内田康夫『還らざる道』

 夜は雨という予報が出ているが、いまは晴れて温かい。新緑の季をおもわせるほどの陽気になっている。温かくなると個人的にも大いに助かるが、被災地の人たちも寒さに震えなくてすむので有り難い。


 昨夜は、時代小説ではないが、内田康夫『還らざる道』(2006年 祥伝社)を、変わらない柔らかな筆使いと展開のうまさ、探偵役の浅見光彦の優しいが凛とした姿勢をもつ姿としての描写、などに感心しながら読んでいた。


 作者が描き出す「浅見光彦探偵シリーズ」とでも言うべきものは、大体において一つのパターンのようなものがあり、若いがしっかりした美貌の女性の肉親なり知り合いなりが事件に遭い、その事件を浅見光彦が思いもよらない方角からの丹念な捜査と想像力を発揮して解決していくというのが骨子で、思いやりが深くて優しい浅見光彦が真相を探り当てるが、その事件に関連した多くの犠牲者を出さないために、表だった事件とはせずに、その事件の当事者が自らを裁いていくに任せていくという、これもまた決然とした結末を迎え、その結末によってすべてが再び柔らかさに包まれていくというものである。


 この作品も、そのパターンをとっており、事件そのものは、50年にも及ぶ木曽檜の横流しシステムを構築してきた営林署(農林水産省)と商社の癒着によって、その真相にたどり着いた人間が殺されてきたというもので、そのことを知っていながら沈黙してきた人間が、自らの贖罪を行おうとして殺害されたことから始まる。


 その贖罪を行おうとして殺された人物が、美貌の若い女性の祖父で、偶然に知り合うことになった浅見道彦が、警察が行きずり犯による強盗殺人事件として処理しようとしたのを、その背景に深いものがあることを感知して、事件の捜査に乗り出していくというものである。


 大筋の展開のパターンはあるのだが、それぞれに、歴史や地方特有の特色などが盛り込まれ、そこで生息する人間の息吹のようなものも丹念に描き出されるので、大体において、どの作品をとっても面白いし、ここでは、木曽の山の中と地方の復興問題、そして、懸命に自分の人生を開拓していきながらも、その人生がかつての犯罪に沈黙したことによってもたらされたものであるという贖罪を背負いながら、最後にその贖罪を果たそうとする人間の生き様などが描き出されている。


 こういう作品を読むと、人とは本当に弱いものだが、その弱さを柔らかく包んでいく必要があるのだということを感じたりする。人はみな罪人であり、弱く、欠け多き存在に過ぎない。そういう人間に対する根本的な視座は無類の価値がある。昨今のつまらない責任を問うような無責任な批判にはそういう視座が欠落している。人の弱さは、人の美しさや豊かさでもあるのだから、それからすれば、昨今のマスコミや政治家たちを中心にした風潮は醜く貧しい。


 いずれにしても、「正義」とか「正しさ」を振り回すことが嫌いなわたしにとって、浅見光彦シリーズのような作品は、どこかオアシスのような気がしないでもない。


 今日は午後から都内で会議がある。都内に出るのは本当に面倒になってきた。年々こうしたことが増えているので、早く何とかしたいと思いつつも、会議の準備をしていた。

2011年4月13日水曜日

米村圭伍『おんみつ蜜姫』


 よく晴れ、ようやく温かさを感じる日々になってきた。室内よりも戸外の方がはるかに温かい。福島の原子力発電所の被災に伴う事故は、まだ収拾の目途が立たないし、昨日は、暫定的ではあるが原子力事故の最悪状態を示すレベル7に指定された。レベル7であれば、近隣の住民は「一時避難」ではなく、「移住」が検討されるべきかも知れないが、日本政府はまだそこまでの判断をしていない。もっとも現状からして、判断保留が続くのかもしれないが。


 11-12日と、こちらでも大きな揺れを感じる余震が頻発した。月曜日は、ちょうど都内で組織の方策の歴史的検証の発題をしていた時で、一時中断せざるを得なかったし、12日は、朝からかなり頻発した。新聞やテレビなどのマスコミでは、何とか震災前の状態を取り戻して平常を装うとしているが、関東以北では「疲れ」をあちらこちらで感じる。前の状態に戻ることを志向するのではなく、経済活動も含めた生活スタイルや社会構造がとられるべきだろうが、重層的、複合的に絡まっている現在の社会システムでは、それがなかなか難しい気もする。


 そういうことを感じながら、全く無関係でお気楽な娯楽時代小説である米村圭伍『おんみつ蜜姫』(2004年 新潮社)を読んでいた。


 これは前に読んだ『おたから蜜姫』(2007年 新潮社)の前作に当たるものだが、和歌に精通し、学識もあり、頭脳も明晰だが、どこか一本ねじが抜けたような母親である「甲府御前」に育てられた豊後温水藩(作者の創作)のおてんばで冒険好きな姫である「蜜姫」の活躍を、歴史的事件を奇想天外に絡ませた中で描いたものである。


 蜜姫が飛び込んでしまった事件は、八代将軍徳川吉宗の時代に起こった「天一坊事件」で、これは、修験者(山伏)であった天一坊改行が吉宗の御落胤であると騙り、浪人を多数集めていた事件で、講談などでは南町奉行の大岡越前守忠相の名裁きによって解決した「大岡政談」で著名だが(実際には大岡忠相はこの事件には関係していない)、作者はこれと徳川吉宗と尾張徳川家の将軍位を巡る確執をからませ、「天一坊事件」が吉宗失脚を狙う尾張徳川家によって仕組まれたこととして物語を展開している。


 作中では、温水藩の藩主であり、「蜜姫」の父親である乙梨重利が天一坊改行を知り、これを一時匿ったが、天一坊を利用して吉宗の失脚を狙う尾張徳川家に天一坊を奪われ、その経過を隠蔽しようとする尾張徳川家から生命を狙われるのをおてんばの「蜜姫」が助け、そこから真相を突きとめようとする「蜜姫」の冒険の旅が始まるのである。


 そこに、豊後温水藩と四国風見藩(これも作者の創作)の疲弊した財政立て直しのための合併話で、風見藩主の後妻になることになった「蜜姫」の事情や、「蜜姫」の母である「甲府御前」の祖である武田勝頼が残した軍用金(秘宝)の話が加わり、「蜜姫」は、豊後から四国、尾張から諏訪、そして江戸までの旅をするということになっていく。


 この奇想天外な物語には、母親の愛猫「タマ」が実は忍び猫で、「蜜姫」の危急を助けていったり、吉宗が創設した公儀お庭番が登場したり、尾張徳川家の密命を受けた尾張柳生が登場したり、徳川吉宗や大岡忠相が戯画化されて登場したりして、物語をわざと滑稽なものに仕立てようとする作者の意図が顕著に見られるが、その実、「ひとりの凛とした女性」であろうとする「蜜姫」の物怖じしない姿が描き出されているのである。


 大筋の大部分が虚であるが、虚実をない交ぜにして、「娯楽読み物」を創作しようとする作者の意図は、他の作品でも顕著である。そして、それが顕著な『風流冷飯伝』(1999年 新潮社)から始まる『退屈姫伝』やこの「蜜姫」シリーズでは、時代の風刺がとことん為されて、それが現代文明批判のようなものにもなっている。


 ただ、作者が創作した温水藩や風見藩といった題材にこだわったところとか、こういう作風は、少々飽きが来るというのも正直な感想でもあり、作者の力量からすれば、他の視点や構成でも、あるいはテーマでも、充分書けるような気がするが、どうだろうか。


 昨日、ようやく急ぎの仕事が片づいたので、今週はいつものペースに戻って、少しのんびりできそうな気もする。それにしても、まあ、次から次へといろいろなことがあるものだ。

2011年4月11日月曜日

坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 あやめ河岸』

 好天ではないが春の温かさを感じる日になっている。昨日はなんだか疲れ切ってしまい、今もその疲れが尾を引いている気がするが、午後から小石川に出かけることになっており、そこで発表することになっているある組織の百年余に及ぶ方策の歴史的検証のまとめを一気に書いていた。何らかの方策には、社会学的検証や人間学的検証が不可欠なのだが、それが浅いとその方策をとる組織は消滅して行かざるを得ない。模索されている大震災の復興策にも言えるだろうが、「哲学なき方策は意味を失う」ことを痛感している。


 昨日行われた統一地方選挙では、現在の状態もあって、「現状維持」が採択された。現代日本社会の当然のような結果だろうし、政治の時代ははるか昔に終わっているのだから、「積み重ね」によってしか社会は動かないのが現状だろう。変化せざるを得ない状況下では、人は「防衛」を考える。


 閑話休題。9日(土)の夜に、坂岡真『照れ降れ長屋風聞帖 あやめ河岸』(2006年 双葉文庫)を読んでいたので、ここに記すことにした。先月の風邪による疲れも残っていたのか、なんだか柔らかいものを読みたいと思って手にした次第で、このシリーズは、前に11作目の『盗賊かもめ』というのを読んでいて、本作は、それより前のこのシリーズの5作目の作品である。


 このシリーズの主人公である浅間三左衛門は、ある藩を出奔し、江戸で貧乏浪人暮らしをしているくたびれた中年の代表のような人物であるが、小太刀の遣い手であり、知恵も機転も利き、洞察力もあり、思いやり豊かな人物である。「おまつ」という十分の一屋(結婚仲介業)を営む女性の亭主として養われ、普段は「ぼさぼさの頭髪に無精髭、よれよれの着流しを纏い、暢気そうな顔つきの痩せ傘張り浪人で、腰の刀は竹光である。「おまつ」にも事情があり、その連れ子「おすず」と共に裏店で暮らして、「おすず」からは、この作品ではまだ「おっちゃん」と呼ばれている。彼は家事もこなせば子守もする。だが、自分が背負っている過ちの贖罪のために人助けに奔走していくのである。


 本作には「第一話 松葉しぐれ」、「第二話 あやめ河岸」、「第三話 ひょうたん」、「第四話 片蔭」の4話が収められており、「第一話 松葉しぐれ」は、「おまつ」の幼なじみだった女性が、つまらない男の口車に乗せられてその男と恋をして、その子を棄てられ、散々苦労させられたあげくにその男からも棄てられ、女性の髪を集めて売る「落買い」という惨めな姿でいるのに出くわし、他方で、近所に越してきた合羽職人が義弟の博打の借金のために高利貸しから苦しめられる事態にも遭遇して、これを何とか助けようとする話である。


 物語の展開の中で、様々な人物とその人生が交差し、合羽職人を苦しめていた高利貸しが、実は「おまつ」の幼なじみの女を弄んだあげくに、その女性の家から大金を盗み出した男であることがわかり、女性が棄てた子どもが合羽職人に拾われて立派に育っている子どもだったことが分かってくる。因果が巡っていき、浅間三左衛門は、単身、高利貸しのもとに乗り込んでいく。高利貸しには凄腕の浪人が用心棒として雇われている。その用心棒にも罪過を背負っている陰があり、彼は、対峙した浅間三左衛門の前で、何を思ったか、雇い主である高利貸しの首をはね、一件は落着していく。


 ここでは、自分の過ちに責められながらも、それを背負って生きなければならない人間の悲哀が丹念に描かれ、それを負いつつも生きる道を模索していく姿が、主人公の姿とも重ね合わされて柔らかに表出していく展開がとられている。「おまつ」の気っぷの良さと人を思いやる「世話好き」佐や、それに応える主人公の姿もあって、主筋の展開と共に物語を深めるものとなっている。


 「第二話 あやめ河岸」は、主人公の浅間三左衛門の狂歌仲間であり、気があって、ときおり浅間三左衛門も事件の解決に手助けする南町奉行所定町廻り同心の八尾半四郎を中心にした物語である。八尾半四郎は、南町奉行の特番の隠密廻りとして働いている美貌で、利発で、武芸も達者な「雪乃」という女性に惚れているが、相手にされずにいる。母親からは次々と結婚話を迫られているが「雪乃」を思って母親が持ち込む結婚話には耳を貸さないでいる。だが、同心としての働きは抜群で、ここでは巧妙に隠されていた抜け荷(密貿易)に絡む殺人事件を丹念な捜査によって解決していく。当時流行していた千社札が事件の鍵となっていくという構成もよくできている。


 「第三話 ひょうたん」は、「おまつ」の連れ子で、三左衛門も子として可愛がっている「おすず」の姿を中心に描いたもので、ふとしたことから艾(もぐさ)屋の子どもの拐かし(誘拐)話を聞いた「おすず」が、母親の「おまつ」の遊び人の弟の怪我などであたふたとする母親や三左衛門に、つい相談し損ない、ひとりで誘拐された子どもを探し出そうと苦労していく。小さい女の子が苦労して誘拐された子どもが押し込められている場所を探し出し、岡っ引きらが駆けつけるが、そこに子どもはおらず、「おすず」は「嘘つき」呼ばわりされたりする。


 だが、三左衛門は、「おすず」を信じ、事件の解決に乗り出して、ついに誘拐犯を捕らえていくのである。そこには、「おすず」を「嘘つき」呼ばわりした岡っ引きも絡んでいる。こういう中で、「おすず」は三左衛門のことを、まだ「おとっつあん」とは呼べないが、三左衛門に信頼を寄せていくのである。


 「第四話 片蔭」は、役者に惚れぬき、やがて人気が出てきた役者から棄てられても、その役者が帰る「湊」のような者になろうとする女性の、いま妾とされている詐欺師の男から陥らされた窮地を、三左衛門が命がけで守っていこうとする話で、やがて自らが招いたことで役者ができなくなった男が最後に彼女のところに帰っていくというところで決着が着く。


 この作者の作品は、『うっぽぽ同心』シリーズも同じだが、中心となる人物たちが見せる日常での柔らかさがあっていいと思っている。あまり気を張らずに読めて、しかも事件の構成にも手が込んでいるので、事件帖物として味わいがある作品になっていると思う。何か集中して読むというのではないが、疲れた時は、こういう小説が本当にいい。

2011年4月7日木曜日

宮部みゆき『淋しい狩人』

 今日も春めいた陽射しが降り注ぎ、現状の右往左往をよそに、自然はゆっくりと動いている。人が自然と同じようなスローなペースで生きていればいいのだが、人工的に造られた物は人工的に壊れ、その壊れ方がひどいので、しなくてもいい苦労が山のように襲ってくる。そういう現状の中で、統一地方選挙の選挙カーが候補者の声を連呼して五月蠅い。知事選の演説を聞くと、この国の政治思想はつくづく貧しいと思ったりもする。


 昨夜は遅くまで起きていて、宮部みゆき『淋しい狩人』(1993年 新潮社)を読んだ。宮部みゆきの時代小説の中では『孤宿の人』が最も感動的で最も味わい深い作品だと思っているが、これまで読んだ時代小説以外の作品になかなか行き当たらずに、こうした「現代物」を時折読んでいる。


 これは、六話からなる一話完結型の短編連作推理小説で、連作となっている探偵役の主人公は、現役を引退したが友人の死去によって引き受けた古本屋を営む六十歳代の「イワさん」と呼ばれる岩永幸吉という異色の人物である。人生の経験を重ね、明晰な頭脳を働かせて難事件を解決する老女を主人公にしたアガサ・クリスティーの『ミス・マープル』を思わせるような設定だが、こちらは、古本屋だけに本にまつわる事件が取り扱われ、「イワさん」の店を週末だけ手伝いに来る高校生の孫息子との掛け合いや、その孫息子が陥った恋愛なども絡んで、物語の余韻も残るようなすっきりした短編推理小説になている。


 話の内容も、小金を貯め込んでいる姉の財産を狙った妹夫婦の悪巧みや(「第一話 六月は名ばかりの月」)、平凡に生きざるを得ない息子が、平凡に生きていた父親の死によって知ることになったある事故の真相を「イワさん」の名推理で教えられていくことになったり(第二話「黙って逝った」)、改築されることになった古い家の跡地の地下にあった戦争中の防空壕から発見された遺骨を巡る悔恨を察していったり(第三話 「詫びない年月」)といった日常的に起こりうる出来事が取り上げられている。


 また、教師による子どもの虐待という極めて現代的な問題が取り上げられたり(第四話「うそつき喇叭」)、取り柄がなくて生き甲斐を見いだず、少しひねくれた若い女性がふとしたきっかけで知ることになった会社の金を横領して自死した男女の姿が描かれたり(第五話「歪んだ鏡」)、作家が描いた未完の推理小説を模倣する事件で、行くへ不明で死亡したと思われていたその作家が生きて証言し、その事件が単なる模倣犯に過ぎないことを明白にしたり(第六話「淋しい狩人」)、ある意味で現代社会が抱えている暗部を照らすような内容が展開されている。


 これらの作品のテーマのいくつかは、まだ読んではいないが、『模倣犯』とか『楽園』といった作品名がすぐ思い浮かぶので、さらに徹底した形で後に長編として展開されていると推測されるから、そういう意味で、ここで取り扱われたテーマは、作者の中でデッサンのようなものとなっているのではないだろうか。


 静かに人生の経験を重ねてきた主人公であるだけに、物語の展開に余韻があり、短編の良さも充分にある。しかし、宮部みゆきは優れたストーリーテラーとして長編がいいと思う。長編になると、文章も膨らんで独特の感性の豊かさが感じられたりするし、なによりも悲喜こもごもの人間の姿が丁寧に描かれているからである。宮部みゆきは優れた作家として数々の賞を受賞しているが、なるほどその作品は豊かだとつくづく思う。

2011年4月5日火曜日

高橋克彦『だましゑ歌麿』

 先週の土曜と日曜日は寒の戻りで気温が下がり、被災地でも雪が舞ったりする光景が報道されていたが、今日は少し気温が上がって春めいてきた。桜も一気に開花するだろう。溜まっていた掃除や洗濯をしながら、日常の生活に追われ行く日々を感じていたら、仙台のF氏から電話をもらい、水と電気は回復したが、まだガスが復旧されないという話だった。無事であることは連絡を受けていたが、とにかく元気そうで何よりだった。


 今日はあまり仕事をする気にもなれずに、とにかく土曜と日曜にかけて高橋克彦『だましゑ歌麿』((1999年 文藝春秋社 2002年 文春文庫)を読んでいたので、それだけでも記しておくことにした。これは、松平定信の寛政の改革(1787-1793年)とそれによって辛苦を舐めなければならなかった人間の姿を真正面から小説の形で取り上げたなかなかの力作で、ある意味でミステリー仕立ての時代小説としての構成も展開も、面白さも備えた秀作だと思った。


 これは、松平定信が寛政の改革で風紀を厳しく取り締まり、あらゆる事柄に贅沢を禁止した禁令を断行し、火附盗賊改の長が有名な長谷川平蔵であった時代に、南町奉行の同心で30代半ばの仙波一之進が、人気絵師であった喜多川歌麿の妻が惨殺された事件を調べ、権力による圧力を受けながらも、喜多川歌麿の反骨精神、歌麿や山東京伝の出版元であり、自らも改革の犠牲となって処罰を受けた蔦屋重三郎などの当時の文化人たちの姿を絡ませながら、知恵と剛胆さ、もちまえの剣さばきなどを発揮させて真相を明らかにし、改革の主であった松平定信に反省を促していくというものである。


 事の発端は、深川一帯が大嵐の水害によって壊滅的になった後始末に駆り出された南町奉行所同心が、半壊した「おりよ」という女性が住んでいた家の不審に気づき、やがて「おりよ」の死体が無惨に陵辱された姿で見つかるというものであった。「おりよ」は絵師の喜多川歌麿が愛して止まない妻であった。


 仙波一之進はこの事件を探索しようとするが、上からの探索の中止の命令が下される。また、南町奉行所から火盗改めに移されたりする。しかし、彼は圧力がかかる中で密かにこの事件の真相を探り続け、そこに長谷川平蔵率いる火盗改めと老中松平定信の画策の匂いをかいでいくのである。当時の一番人気絵師であり文化の花形であった喜多川歌麿の妻を殺すことで、歌麿の活動を停止させ、言論の統制を図ろうとした意図が見え隠れする。


 一方、愛する妻を殺された喜多川歌麿は、そのことを感知して、ほんの僅かな金だけを盗むが、政道批判を展開する押し込み強盗団を作って、松平定信を窮地に追いやって復讐しようとする。作者は美術館学芸員の経歴を持ち、江戸時代の絵師についての専門的な知識もあるが、こういう発想が面白いし、また実際の歴史知識に裏打ちされた発想であるから、詳細に渡ってこの発想が生きている。


 権力の圧力に耐えながらの仙波一之進による地道な探索が続いていく。何度も危機的な場面に出くわす。だが、彼の武骨なまでの同心魂と剛胆さで、ついに真相が明らかになる。彼は、唯一信頼できると思われた北町奉行初鹿野信興(実在の人物)を引っ張り出し、ついに老中松平定信に反省を促していくのである。


 この作品には、喜多川歌麿をはじめとして、長谷川平蔵や松平定信、初鹿野信興は言うまでもなく、蔦屋重三郎、朋誠堂喜三郎(秋田藩江戸留守居役でもあった平沢常富)などの多くの実在の人物が登場するし、後に著名になる葛飾北斎も「春朗」として登場し、その鑑定眼を活かして仙波一之進を手助けする者として描かれたり、仙波一之進の父親左門らとの日常的な会話に絵の構造や手法について語る場面があったり、それらの会話から、風景画に進んで行く方向なども示されるという虚実を巧みに混ぜた展開がされている。


 また、武骨な主人公である仙波一之進と柳橋の売れっ子芸者である「おこう」との恋も描かれ、最後に二人が結ばれ、その「おこう」の活躍を描いた『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)が記されるほど、生き生きとした人物像となっている。


 寛政の改革という歴史的事柄と真正面から取り組み、そこでの文化統制、言論の弾圧といった問題に、政治によって翻弄され、苦しめられる人間の側からの視点で、しかも、時代小説としての醍醐味やミステリー仕立ての展開の面白さがあって、小説として読み応えのある作品だと思う。長谷川平蔵が設立した「人足寄せ場」(厚生施設)の問題もかなり突っ込んだ形で描き出されている。


 この作品については、もっと多くのことが語られうると思うが、他にももちろんすることやしなければならないことが山積みしているわけだし、今日はここで止めておこう。

2011年4月1日金曜日

佐伯泰英『無刀 密命・親子鷹』

 怒濤のようにして過ぎた三月が終わり、本来なら桜舞う四月を迎えた。来週は少し気温も下がり、「花冷え」という美しい言葉もあるが、このところ気温が上がっている。だが、地震と津波による被害はあまりにもひどく、あまりにも広域で、加えて懸命な作業が続けられているとはいえ、福島の原子力発電所からの高濃度の放射能漏れの収拾もめどが立たず、土壌や海洋汚染が広がっている。原子力発電所のある地帯は、今後何十年にもわたっての死の土地となる懸念もある。


 テレビで、特に民放で取り上げられるスポーツ選手や芸能人の「ガンバレ」という呼びかけにも、安価でうんざりする。妙なナショナリズムの高揚も行われ始めた。言われなくても生き抜かざるを得ない状況だし、忍耐しなければならない状況なのだから。現地の人たちは黙々と歩み始めている。少なくとも大仰に呼びかけたりしないで、粛々と支援したらよかろう。昨日、ささやかな支援物資を宅急便に託す作業をしながら、そんなことを思っていた。


 閑話休題。風邪で寝込んでいた時に佐伯泰英『密命 弦月三十二人斬り<巻之二>』(2007年 祥伝社文庫)を読んだので、昨夜は手元にあった佐伯泰英『無刀 密命・親子鷹』(2006年 祥伝社文庫)を読んだ。前者の方の発行年が遅いのは新装版だったからであり、本作はその密命シリーズの第15作目の作品だが、奥付を見て、同じシリーズ物であるにも関わらず、書名に<巻之十五>という記述はないし、表題の仕方も変わっているのは何故だろうと、ふと思ったりもした。些細なことではあるが、出版社の編集者はこういうところに気を使って欲しい気もする。


 これまでの内容は「巻之二」からずいぶん進んで、直心影流の達人である主人公の金杉惣三郎は、思いを寄せていた「しの」と再婚し、市井に生きる者として火事場の後始末を請け負っている「荒神屋」で帳簿つけをする仕事について糊口をしのぎながら、剣術指南をしているし、自分の道を見いだせずに荒れていた長男の清之助は、剣の道に邁進し、徳川吉宗の御前試合で剣名をあげ、諸国に修行の旅に出ている。しっかり者の長女「みわ」は、家計を支えるために八百屋で働きながら、火消し人足である「鍾馗の昇平」と恋仲になっている。


 本書では、家出をした次女の「結衣」が金杉惣三郎を暗殺しようとする尾張徳川家の暗殺集団に利用されそうになるのを、救い出すために、父親の金杉惣三郎が剣の修行中であった清之助と尾張名古屋で合流して無事に救い出して、清之助が世話になっている大和柳生の庄に滞在することになることころから始まる。


 大和柳生は柳生新陰流の発祥の地であるが、柳生家の歴史的経過の中で尾張柳生とは競い合う間柄でもあった。剣名の高い金杉親子を迎え、その人柄に触れて、大和柳生は活況を取り戻していく。金杉親子の剣名のために多くの武芸者が大和柳生を訪れるようになり、これを機に、大和柳生では金杉親子による大稽古を催すことになるが、尾張の暗殺集団の執拗な攻撃も続く。そういう中で、金杉惣三郎と清之助は、それらの暗殺集団の手をことごとく払っていくのである。


 また、江戸では、長女の「みわ」に思いを寄せる火消し人足の「鍾馗の昇平」が、金杉惣三郎から厳しい修行で仕込まれた剣と人柄から火消しの花形である纏持ちに抜擢されるということになり、それを嫉んだ先輩火消しから次々と刺客を送られるようになったりして騒動が持ち上がる。「鍾馗の昇平」は剣の師匠である金杉惣三郎から教えられた業で、それらの刺客をかろうじて倒していくが、剣の修羅場に引き込まれていくことを危惧した剣術道場主は、剣の修行をすることを止めさせ、「鍾馗の昇平」は、「みわ」を初めとする周囲の人々の心使いを知って、纏持ちとしての道へ邁進することにするのである。


 本書で、大和柳生と江戸でのこうした展開が繰り返されるのだが、正直なところ、剣の達人として描かれる金杉惣三郎と息子の清之助の姿が、剣においてはあまりにも超人的で、人柄においてはあまりにも理想的すぎる気がしないでもない。いくら剣豪小説でも、これはできすぎではないかと思わないでもない。もちろん剣豪小説としてのおもしろさはあるのだが、くりだされる秘剣というのが無敵すぎる気もするのである。「鍾馗の昇平」を支える「みわ」の心や、それに応える「鍾馗の昇平」も理想的すぎる気がしないでもない。いい男やいい女ばかりが登場する小説というのは、娯楽小説としては面白いが、ただそれだけのような気もする。また、「巻之二」で示された社会背景の陰というのも、このあたりになると薄れて、現状肯定の保守的な根性小説に陥る危険性を感じたりもする。「巻之二」で示された人間への鋭さは、少なくともここでは薄まっているのではないだろうか。


 批判的なことを書くのは、読み手であるこちらの気分が批判的になっているからでもあるし、客観性に乏しいのかも知れないが、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。