2012年5月7日月曜日

風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(1)


 なんの取り柄もなく、覇気もないようだが、周囲から妙に信頼されている人がいる。「信頼」云々は別にして、居ても居なくても変わらないし、かといって人に迷惑をかけるのでもなく、いつも静かに笑っていて、周囲からは「デクノボウ」と呼ばれるような、そういう人間でありたいと、長い間思ってきたわたしにぴったりな時代小説の主人公がいた。「水の城」とか「浮き城」とか呼ばれた武州の「忍城(おすじょう)を守り抜いた成田長親(なりた ながちか 15451613年)という人物である。

 この人を描いた代表的な作品が二つあり、一つは風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2000年 祥伝社文庫 2008年新装版)和田滝『のぼうの城』(2007年 小学館)で、『のぼうの城』の方は2011年に映画化されている。公開は震災のことも考慮して今年(2012年)の秋に予定されていると聞く。山本周五郎にも『笄堀(こうがいぼり)』という短編があり、こちらは同じ舞台であるが、城を守った妻女が中心である。

 風野真知雄の作品は、これまで、名奉行といわれた江戸町奉行の根岸肥前守を主人公にしてシリーズ化されている『耳袋秘帖』のシリーズや他の作品を若干読んで、その軽妙な展開やさりげない人物描写によるある種の深みのようなものを感じていたが、『水の城 いまだ落城せず』は、そうした作品とは異なり、深い感動を呼び起こす作品になっている。

 小説の舞台となるのは、利根川と荒川に挟まれた扇状地に小さな川がいくつも流れて沼地となった所に、いくつかの島や自然堤防を利用して築かれた「忍城」(現在の埼玉県行田市)で、1478年ごろに地元の豪族であった成田氏が築城したのが始まりといわれている。翌年、扇谷上杉家に攻められたが、太田道灌の仲介で和解して城は無事で、1553年には関東の雄であった北条氏康にも攻められるが、氏康も攻略に失敗している。そして、1575年には上杉謙信によって包囲されて攻撃されるが、「忍城」は攻略されなかった。当時の城の配置図を見ると、平城ではあるが難攻不落に近い構造をもっていることがよく分かる。

 そして、圧巻なのは、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が関東平定のために小田原城の北条氏を20万人以上の大軍をもって総攻撃した際、北条氏の支城となっていた「忍城」を石田三成が総大将となって2万(後に5万ほどにふくれあがる)の大軍をもって攻撃した時のことである。石田三成は総延長28㎞にも及ぶ堤防を築き(石田堤と呼ばれる)、城全体を沈み込ませる水攻めを行ったが、「忍城」は、城代であった成田長親を中心とするわずか3000人弱の人間でこれを守り、ついに落城することはなかったのである。

 結局は小田原城に籠もっていた北条氏が先に降伏し、開城することになったのだが、「忍城」は不落の城であった。徳川時代は、家康の四男の松平忠吉が藩主となり、忍藩10万石の城となり、以後、徳川の親藩や譜代の大名が城主となるなど、幕府の重要な拠点となり、1694年に、現在復元されている御三階櫓が完成している。明治の廃藩置県で「忍県」が置かれたが、城内の構造物は破棄されてしまった。こんなところにも明治政府の愚かさがあるのだが、1988年に江戸時代に完成した御三階櫓が再建された。

 池の中にぽっかり浮かんだような実に美しい城で、行田市の観光ガイドによると、毎年11月の第二日曜日に「忍城時代祭り」がここで行われ、武者行列と火縄銃演舞などが行われているらしい。機会があれば、ぜひ行ってみたいと思っている。

 物語は、1590年に豊臣秀吉が小田原城を攻めた際に、石田三成が「忍城」を包囲した攻防戦における成田長親の姿を描いていくのだが、藩主の成田氏長が小田原城に出向いて籠城したために、家老であった叔父の成田泰季(なりた やすすえ)が城代となった。ところが成田泰季が開戦直前に病死したために、その子であった長親が城代の代わりとなって2万以上の軍隊を相手に農民を合わせてわずか3000人足らずでの攻防戦の指揮を執ったのである。長親は藩主の甥に当たる。

 本書は、序章で、この攻防戦を江戸時代になって老武将たちが青年武士に語り聞かせるという体裁を取って軽妙に始まっているが、この序章はむしろないほうがよく、読み進むにつれて成田長親という人物がゆっくりと浮かび上がってきて、強烈な印象を残して終わる。

 幾たびの攻防の戦国の世を生き延びてきたかくしゃくとした偉丈夫の武人である父親の泰季から見れば、成田長親はこれといった際立ったところがない茫洋とした不詳の息子で、運動神経が鈍くて馬にさえ乗れないような人間だった。だが、不思議に誰からも好かれて、城内には長親のことを頼りないとは思っていたが悪くいう者はひとりもいなかった。閑さえあれば、城外に出て百姓たちと畑を耕したりするのが好きで、偉ぶるようなこととは無縁の、いわば人畜無害の人間だったのである。

 和田滝『のぼうの城』では、農作業を申し出るが不器用なために迷惑ばかりかけ、そのくせ不思議に憎めない人物で、領民からは「でくのぼう」を縮めた「のぼう様」と呼ばれていたとなっている。この描写はいくぶん戯画化されてはいるが、実際に、物事に拘らずにのんびりとした人物だっただろうと思う。

 本書の冒頭で、女だてらに戦に出たがる勝ち気な藩主の娘の甲斐姫(この姫の方がよく知られており、山本周五郎が『笄堀』で描いたし、後に豊臣秀吉の側室となり、ついで豊臣秀頼の側室となって娘を設け、この娘が後の縁切り寺といわれた東慶寺の中興の祖となっている)に、成田長親が「この、うすのろ爺ぃ」と罵倒される場面が描かれている。甲斐姫17歳、長親44歳である。もちろん、これは作者の上手い創作だが、勝ち気な娘の前でおろおろする人物、それが成田長親なのである。

 ところが、この平和な忍城に暗雲が立ちこめる。22万もの大軍による秀吉の北条攻めが始まったのである。忍城は北条方の支城であり、城主の成田氏長への小田原城参戦の命が北条方より出されるのである。22万の兵というのは前代未聞の大軍で、すべて訓練を受けた戦闘集団であったが、これに対して小田原城は6~7万で、しかも城下の町人や百姓を急遽兵に仕立てての数だった。誰が見ても北条側に勝ち目はなかったのである。成田氏長はこれが負け戦になると知りつつも主だった家臣350人を引き連れて小田原へ向かう。

 残された忍城は、家老の成田泰季を城代にして、わずかな家臣と足軽や下働きの者たちだった。そして、小田原を取り囲んだ秀吉は、各武将たちに関東各地にあった北条方の支城の攻撃を命じ、秀吉の懐刀といわれ鋭敏な頭脳によって英邁を誇った石田三成に関東北部の支城の攻撃を命じるのである。

 作者は、この辺りに、文官としては秀吉の信を得ていた石田三成が、武官としては他の武将たちから軽く見られ、信用もなかったという事情を挿入し、秀吉が石田三成に武将としての働きをさせようとしたと語り、石田三成もまたそれに応えて武将であることを証明しようとしたと述べる。石田三成が福島正則や加藤清正に嫌われていたことは有名な話で、それが明白になるのは秀吉の朝鮮派兵の時であったのだが、その事情をここに入れることで、石田三成が関東北部の支城攻撃にいかに自分の命運を賭けようとしていたのかを示すのである。石田三成30歳の若さである。彼が支城の攻撃に気負っていたのは間違いない。

 石田三成は、まず、小田原から遠い館林城を落とそうとする。館林城は北条氏規(ほうじょう うじのり)の城で、沼に突き出た半島のようなところに位置し、幾重にも防備が敷かれ、難攻不落と言われ、ここに城代としての南条昌治を中心にして五千人ほどが籠城した。三成の軍は、清廉な武将として名高い大谷吉継、長束正家らがついた二万近くの兵であった。三成はこの城を落とすのにわずか三日しかかからなかった。そして、難攻不落と言われた館林城をわずか三日で落としたのだから、次の忍城は、わずかの兵力しかなく、二日もあれば落とせるだろうと踏んで忍城の攻撃に向かったのである。

 わずかの兵力しかなかった忍城も、当然のように籠城戦を取ることにし、周囲の百姓や町人も城に入れることにする。それでようやく二千~三千人弱の人数になるのである。忍城に籠城した大多数はそういう人間たちだったのである。本書では、ここで主戦を唱えた武将たちが真っ先に逃げ出したことを語り、勇壮なことを言う人間がいち早く逃げ出す様を展開したりする。

 その時、長親が城代となっている父に、「父上、この際、逃げる者は皆、逃がしてしまいましょう」と言い出したと語る。「籠城では城の内側から人心が崩れていくのをもっとも警戒すべきでしょう」(114ページ)と語る。茫洋としているようでいて鋭い洞察をもって事に当たろうとする長親の姿がここで示されるのである。崩れるときは内から崩れる。その愚を犯すことを長親は明確に避けようとしたのである。

 城には、長親が普段親しくつきあっていた百姓や町人が入ってきた。彼らは長親のことをよく知り、頼りなく思えても親しみを感じていた人間たちであった。本書では、ここで、城下で機屋を営み、各地に旅をして情報をもっている25歳の栗八という青年と、油屋の四男で知恵者である多助、近郊の村で百姓をしている清右衛門という青年を登場させ、やがて長親が彼らの助けで城を守っていくことになる展開を見せていく。長親には、妙に人を安心させるようなところがあり、彼らは長親を信頼していくのである。

 その長親の力が示されるときが来た。二万余にふくれた三成の軍隊が、三成の指揮の下で整然と攻撃を開始したのである。だが、城への道は細く、周囲は深田で、三成の兵たちは深田に足を取られながら進んでくる。長親は、これを十分引きつけて、少ない鉄砲でも効果か上がるようにして防ぐのである。この出来事で足軽や百姓たちからなる忍城は三成の攻撃を一度は退けることができたのである。

 だが、その戦の最中に城代であり長親の父である成田泰季が病で倒れ、死去する。本書ではこのくだりも上手く、死の床にあった泰季を看取ったのが藩主の妻の「お菊」で、泰季は、自分の代わりの城代として武勇で知られた正木丹波にしてくれと言い残すのである。ところが、この「お菊」は、泰季が自分の代わりの城代として指名したのが息子の長親だと言い出し、決定させるのである。

 この「お菊」という女性は、山本周五郎の『笄堀』の主人公でもあるが、実に優れた女性で、普段は物静かな女性であるが、物事に動ぜずに大局を見る目と人を見る目をもち、時に毅然とすることができる女性で、長親のもつ力を見抜いていたのである。山本周五郎の『笄堀』では、城中の女性たちを集め、娘(甲斐姫)を城中に座らせて、自らは顔を隠して他の女たちと堀をつくり、寄せ手を防いだと展開されている。本書でも、魅力ある女性として描かれているが、もう少し、この「お菊」を登場させて描き出すといいだろうと思うが、本書で焦点を当てられているのは、むしろ「甲斐姫」で、この甲斐姫が長親と同衾したり、攻撃手であった真田幸村に惚れたりしたと記されていく。

 ともあれ、父に代わって城代となった成田長親は、「やるだけやって、あとは野となれじゃ」と言い放ち、百姓や町人の手を借りながら、しかも城中をいつも明るく保ちながら、城を守っていく。当然、苦戦は続くが、長親は穏やかにして、城内を柔らかい空気で包んでいく。鉄炮の玉がなくなれば、石を削ったり、相手が撃ち放った玉を広い集めたりして凌いでいくのである。食糧は城を囲む沼の鯉と蓮根である。長親はどこにでも気軽に顔を出し、ともすれば絶望的で厭戦的になってしまう城内にいる人たちと和やかさを保つことに努めるのである。人々の長親に対する親しみと信頼は増していく。

 業を煮やした石田三成は、いよいよ周囲に堤を作っての水攻めを決行していく。だが、堤を作るためにかり出すのは近在の百姓たちで、百姓たちから親しまれていた長親は、いち早く三成が水攻めを行うことを知り、堤の欠陥工事を図って行くのである。水は次第にたまり、城は水没しそうになる。だが、欠陥工事のために、満水になったとたんに堤が切れて、三成の水攻めは見事に失敗し、それだけでなく洪水となったために多大な犠牲を出していくのである。

 鋭利な刃物のような三成の攻撃の仕方と、柔らかく包むような長親、その姿がここで描き出されていく。やがて、小田原城に籠もっていた北条方は降伏する。だが、長親は降伏しない。名将と言われた真田幸村も三成軍に加戦することになり、あやうく破られそうになるが、甲斐姫が飛び出して真田幸村と対峙し、これを退ける。忍城は成田長親を中心にして一致団結していたからである。一つになった力は強い。本書では、このときに真田幸村と対峙した甲斐姫が幸村に惚れてしまったということになったりする。柔らかさは最強の力なのである。

 長くなったので続きはまた次回に記したいと思うが、風野真知雄が描く成田長親には深く心を揺さぶられるものがある。

0 件のコメント:

コメントを投稿