2012年5月25日金曜日

風野真知雄『耳袋秘帖 八丁堀同心殺人事件』


 先日、ブログのコメントに葉室麟『蜩ノ記』がNHKでラジオドラマ化されてFMで6月18日から全十話で放送されるという知らせを寄せてくださった方がおられ、知らなかったので大変嬉しく思っている。『いのちなりけり』と『花や散るらん』をテレビドラマ用に脚本化することを友人に勧めているが、彼の作品はどれをとっても素晴らしい。先日、時代小説の中で誰がいいですか、と聞かれた時、私は一番にこの人の作品を上げた。宮部みゆきの『孤宿の人』も素晴らしいが、葉室麟には作家として一本の強い線が貫かれていると思っている。

 閑話休題。先に風野真知雄『水の城 いまだ落城せず』(2008年新装版 祥伝社文庫)を読んで、大変感動したが、再び江戸時代の名奉行と言われた根岸肥前守を主人公にした『耳袋秘帖 八丁堀同心殺人事件』(2011年 文春文庫)を気楽に読んだ。これは出版社が変わったために新しく「殺人事件シリーズ」と銘打って出されているものの二作目の作品で、前作『赤鬼奉行根岸肥前守』(2011年 文春文庫)で、根岸肥前守が62歳の高齢で南町奉行となったいきさつ等が触れられていたが、今回は、八丁堀の江戸町奉行所の同心たちが立て続けに何者かに襲われて殺されるという奉行所にとっては威信のかかる事件を中心に、彼が記していた『耳袋(嚢)』を題材にして、「緑の狐」、「河童殺し」、「人面の木」、「へっついの幽霊」、「鬼の書」、「河童の銭』の六章からなる筋立てになっている。このうちの最後の「河童の銭」は余話となっている。

 根岸肥前守という人自身は極めて優れた官吏であったが、その鷹揚な性格や人格の豊かさもあり、どちらかと言えば非政治的な人間だったと思う。しかし、町奉行という職責もあって、当時の松平定信や旧田沼派の画策、あるいは十一代将軍の徳川家斉の思惑、定信が行なった寛政の改革の失敗と失脚など、大きな政治的要因がかれの周りに引き起こされ、否応なくその中を生きざるを得なかったところがあった。本書は、この辺の背景も巧みに取り入れながら、自らの姿勢を曲げることなく、しかもそれを柔らかく貫いていく姿も描き出していて、単なる江戸市中に起こった事件の解決だけではなく、様々な狭間の中で「柔中剛」のあり方を示すという味が付けられている。もともと、本当に芯を持つ者は、外は柔らかい。強がる人間ほど中身はない。

 様々な怪異な事件や噂などに対して、本書で描かれる根岸肥前守は極めて合理的な精神と現実的な人間観で対応する人物になっており、「緑の狐が出たとか河童の話とか、あるいは幽霊が出たということに何らかの人間の思惑が隠されていることを見抜いていくのである。彼が高齢で南町奉行となったということも「人間通」である彼の面目躍如を示すものである。「人間通」というものは、酸いも甘いも知りながら、表面の善悪にこだわることなく、しかも善であるような人間を言う。作者は肥前守をそういう人間として平易に描き出すのである。

 本筋の同心殺しという出来事の裏には、同心たちの振る舞いやそれに対する「恨み」が隠されているのであり、欲が絡んでいるわけで、それに対して根岸肥前守と彼が自分の手足として使っている若い坂巻弥三郎や栗田次郎左衛門などの爽やかさが光るのである。「欲」に対抗するのに「欲」をもってするという状況が普通に行われる人間の行為であるが、本書は「欲」に対抗するのが「無欲」であることをよく表している。

 ここでは、本書で展開されている内容にはいちいち触れないが、物語の展開や構成は平易で、実に気楽に安心して読める読み物である。ただ、「河童」をめぐる話はどは、どこかで聞いたような話で、このシリーズの他の作品と重なっているところがあるような気がして、斬新なものではない思いが残る。しかし、黄表紙的読本としては面白いと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿