2012年6月29日金曜日

高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』


 めまぐるしく変わる今年の梅雨の天気は、体調の管理がなかなかのところがあるが、雨であれ晴れであれ、日常生活が変わらないというのが現代の生活様式かもしれないと、溜まった仕事を横目にしながら思ったりする。相変わらず、政治も経済も酷い有様だが、能天気に暮らすことにもてる才能を発揮して、明日のことは明日、と決め込んで、今日も一日を過ごしている。

 その中で、高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』(2003年 文藝春秋社)を面白く読んでいた。物語の構成と展開のうまさが光る作品で、主人公は、東北の松ケ岡藩(作者の創作)という小藩で、御家人の中では最も軽格の足軽をしている鬼悠市という鬼のような風貌と巨体を持つ人物である。

 彼は、表向きは決まった役職もなく、竹で鳥籠を作る職人仕事をしているが、風貌に似合わない繊細な彼の鳥籠は江戸や上方でも知られ、藩内では売買が禁じられているものの献上品として用いられたりするほどのものであった。しかし、彼には裏の役目があり、藩の奏者番(藩主への取り次ぎ役で、たとえば江戸幕府内では大目付と並ぶ重職であった)をしている加納正右衛門からの直接の任務を引き受ける、いわば隠密であったのである。

 物語は、この鬼悠市が加納正右衛門から、松ケ岡藩の分家である黒岩藩の元家老を預かり、彼を監視すると同時に保護するという役を言い渡されるところから始まる。鬼悠市は、彼を自宅に隣接している長源寺で預かり、養子としてもらっている少年の柿太郎にその世話を依頼することにする。

 彼が預かった黒岩藩の元家老であった日向杢兵衛は、藩政上の何らかの事情で長預かりの身となったのだが、その日常は穏やかで落ち着き、草花の絵を描いたりする静かなもので、世話をする少年の柿太郎が次第にその人徳に惹かれていくほどのものであった。

 鬼悠市は藩政のことなどに全く関心はないのだが、鬼悠市が日向杢兵衛を預かることを知った上司の足軽組頭の竹熊与一郎がさっそくやってきて、黒岩藩の内情を知らせる。竹熊与一郎は日向杢兵衛がいる長源寺周辺の警護を命じられているのである。もともと二万石弱しかない黒岩藩では、実高が少ない上に不作が続き、収穫が半分も満たなくなったために藩士に半知借上げ(俸給の半分しか出さないこと)をしてもまだ足りずに、あちらこちらで貧窮が続いていた。藩主は、そうした藩の窮乏をよそに公儀の役を次々と引受け、藩は破綻寸前にまで追い込まれていたのである。黒岩藩の御家人たちは、武具や刀まで質入して窮乏をしのいでいたし、領民には一揆の気配も濃厚になっていた。

 日向杢兵衛は、こうした藩の危機を救うために、まず、公儀の役を次々と引き受ける藩主の交代を上訴したのである。しかし、それが不忠不義であるとして免職され、長預かりの身となったのである。そのため、彼を不忠不義者として黒岩藩の血気盛んな若者たちが誅せんとして襲ってくる。鬼悠市は、そうした襲来者から日向杢兵衛を守らなければならなくなるのである。鬼悠市は、屈指の剣の遣い手でもあった。

 人望の厚かった日向杢兵衛が免職され、藩政から排斥されていった影には、黒岩藩の城代家老と本藩である松ケ岡藩の家老の結託による米札の売買に絡んだ私腹を肥やす陰謀が渦巻いていたことが次第に明らかになっていく。黒岩藩では祿米の支給の代わりに米札を出していたが、この米札は額面の三分の一でしか米と引替できず、しかもこの米札を半値で買い取ることで、その差額を懐に入れようとしたのである。この米札のからくりを、鬼悠市は、零落したが平然と生きている米相場師に依頼して探り出していくのである。この零落した米相場師の姿もなかなか魅力的である。

 こうした中で、黒岩藩の城代家老一派から送り込まれてくる刺客との死闘を繰り返しながら、日向杢兵衛を護っていくが、藩の上層部の意向で、日向杢兵衛は捕らえられ、奏者番であった加納正右衛門の改易も行われてしなう事態となってしまう。

 だが、黒岩藩には「かげろう飛脚」と呼ばれる内密の連絡網があり、日向杢兵衛はその「かげろう飛脚」を使って藩政の改革派と連絡を取っており、いよいよの行動を起こす手はずを整えていた。その「かげろう飛脚」とは思いもかけない人物で、その連絡方法も思いがけないものであったが、鬼悠市は、「かげろう飛脚」と共に、日向杢兵衛の意志を伝えるために雪山の中を奔走していくのである。

 日向杢兵衛がとっていた秘策とは、領民の苦渋を知る郡代や家中の御家人すべてが死装束をして登城し、藩主や城代家老の非を改めるというものであった。そして、これが成功して、黒岩藩の一連の騒動が終わり、日向杢兵衛が帰藩し、鬼悠市の日常が戻るのである。

 こうした筋立が、一つ一つの具体的な出来事を通して描き出され、作者の構成のうまさと手法が見事に織り込まれて読み易い展開になっている。

 ただ、個人的な好みをいえば、不遇の状態に置かれても泰然と生きる日向杢兵衛の姿や、彼と接して感化を受けていく少年柿太郎の姿がもう少し描かれて、そこに人格の交流というものが醸し出されていくならば、鬼悠市がこの事件に加担していく姿も、もっと胸を打つのではないかと思ったりした。

 しかし、よく考え抜かれた作品で、面白く読め、ちょっと調べてみたら、これはシリーズ化されているようで、機会があればそれを読んでみたいと思うような作品であった。

2012年6月26日火曜日

上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』


 このところずっとどんよりとした雲が広がり、昨日は肌寒さを覚えるほどだったが、今日は久しぶりに碧空が覗いている。先の日曜日に、宗教改革者のM.ルターについての2回に渡る話を終えて、一段落ついたのだが、彼の代表的な著作を再読したり、いくつかの論文を読んだりしていたために、改めて見れば、もう六月も末で、この月の小説の読書量は減少していたと思ったりする。もちろん、別にたくさん読めばいいというわけではないにしても。

 昨夕から夜にかけて、書き下ろし作品である上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』(2007年 徳間文庫)を読んでいた。作者の作品は、これまで『闕所物奉行 裏帳合』のシリーズや『目付鷹垣隼人正裏録』のシリーズを何冊か読んでいるが、これは「軍師」の名を冠された黒田官兵衛孝高(如水)の姿を描いた歴史小説である。

 戦国の時代の中で「軍師」の名を冠されているのは竹中半兵衛重治(15441579年)と黒田官兵衛孝高(15461604年)の二人で、二人とも豊臣秀吉が「三顧の礼」をつくして自分の参謀とした人物であるが、竹中半兵衛重治は、1579年(天正7年)に秀吉がまだ播磨の国(現:兵庫県南西部)を攻略している中で、肺の病を患い若干36歳で死去している。黒田官兵衛が秀吉に仕えるようになったのは竹中半兵衛よりも12年ほど後で、半兵衛の早死によって二人の交流はわずか4年ほどしかなかったのだが、二人はお互いを「優れた者」と認め合い、織田信長が黒田官兵衛の長子「松寿丸」(黒田長政)の殺害を秀吉に命じた時に、「松寿丸」の命を助け、黒田官兵衛はその恩を生涯忘れず、自分の家の家紋や兜にも竹中半兵衛の家紋を貰い受けたり、その戒名であった「深龍水徹」を刻んでいたりしたと言われる。

ちなみに、黒田官兵衛が隠居後に名乗った「如水」は、旧約聖書のモーセの後継者となったヨシュア(ジュスエと当時は言われていた)の名に由来するとも言われるが、竹中半兵衛の戒名「水徹」に由来するとも言われる。黒田官兵衛は、熱心なキリシタン大名であった高山右近などの勧めもあってキリスト教の洗礼を受けてキリシタン大名となったが、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出すと、これに従い、隠居して「如水」を名乗ったのが、その2年後の1589年(4243歳)であるから、その時にキリシタンに由来する名前を使ったとは考えられない。黒田官兵衛はどこまでも竹中半兵衛を尊敬していたのである。

黒田官兵衛は、近江の黒田村の出身とされているが、祖父の代に備前国邑久郡(おくのこおり)福岡村(現:岡山県東北部・・ちなみに現在の九州の福岡という名前は、ここから名づけられたものである)から播磨国に移り、西播磨最大の大名であった小寺家に仕え、小寺家の当主小寺政職は、黒田官兵衛の祖父黒田重隆を重臣として迎えて姫路城代に任じている。従って、黒田官兵衛は姫路城代の息子として生まれ、16歳で小寺政職の近習として出仕した。1567年(永禄10年)、21歳の頃に父親から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となった。

その2年後の1569年(永禄12年)に西播磨に勢力を持っていた赤松政秀がおよそ3000の兵をもって姫路城に攻め込んでくるが、官兵衛はその十分の一にも満たない300ほどの兵力で、これを2度にわたって撃退した。これによって官兵衛の名は一挙に上がり、その奇襲作戦と共に智将の名が知られるようになっていくのである。

本書は、その赤松政秀との戦の場面から始まり、黒田官兵衛が適切な情勢判断、状況判断をもって、また人間の行動に対する深い洞察をもって奇襲作戦を建て、攻めるべき時に攻め、引くときに引くという見事な采配を振るっていった姿を描くところから始まる。時は、室町幕府が衰退してそれぞれの領主たち群雄割拠し始めていた時代であり、やがて、小領主たちが統合されていって播磨国は、西の赤松家、中央の小寺家、東の別所家の三つの領主たちが争い合う状態だったのである。黒田官兵衛は、その小寺家に仕える者として、それぞれに対応せざるを得なくなっていくのである。そして、さらに、それよりも強大な毛利家が西に控えていた。毛利家は、毛利元就の活躍で中国地方のほぼ三分の二と九州の一部を支配する大大名となっていた。そして、輝元を中心にして、吉川元春、小早川隆景の元就の三人の子どもたちが不動の体制を敷いていた。

こうした中で黒田官兵衛はなんとか主家の小寺家が立ち行くように状況判断をしていくのだが、彼の目に映ったのは、桶狭間の戦いに勝利し、最強と言われた武田騎馬軍団を多数の鉄砲を使って打ち破った織田信長の姿である。周辺の領主たちが毛利の強大さに目を奪われ、信長の非道とも思える戦の仕方に批判的であったのに対して、官兵衛は情勢を分析して織田信長につくことを決めていく。そして、つてを求め、頭を下げて、すでに信長の配下になっていた摂津の荒木村重を頼る。戦が、これまでの個人から集団によるものに変わったことを見抜き、集団戦の威力をひしひしと感じていたからである。

しかし、その中でも黒田官兵衛が重視したのは、何よりも家臣との信頼関係であったが、本書はそのあたりを彼の手先として働く薬売りの仁吉という人物を登場させて、彼と一緒に魚とりに出かけていく姿として描き出している(2428ページ)。また、領主が直接動くことで家臣の信頼を得ていく姿が随所で描かれる。

荒木村重は信長の配下となって信長からの信頼を得ていたが、武田との戦も終わり、何より信長は役に立たない人物を嫌うと語るが、官兵衛が「役に立つか立たぬかは、使ってみなければわかりますまい。荒木殿、あなたは見ただけでその餅がうまいかまずいかを見抜けるとでも言われるか」(43ページ)と答えたという。そこには荒木村重が信長の配下となった時に餅を食べたという出来事があったのだが、官兵衛はそのことをよく知っていったのである。

こうした姿は、よく調べ、その上で自分の考えを語っていく黒田官兵衛ならではのものだろう。「ものは使ってみなければわからない」ということを自信をもって語ることができたところに黒田官兵衛の生き様がある。こうした展開はなるほどよく考えられていると思った。

荒木村重は、後に信長に反旗を翻らせ、使者として出向いた官兵衛を捕え、一年余にわたって穴蔵に放り込み、そのために官兵衛は、生涯、頭に痘瘡ができ、足が不自由になって、戦の時は輿に乗らなければならず、杖をついて、まっすぐに座れなくなってしまうが、この時は信長の家臣の中でも筆頭格の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に紹介するのである。

人物を見抜くことにかけては図抜けた才能をもっていた秀吉は、官兵衛が荒木村重の紹介状を携えて訪ねてくると、官兵衛を歓待し、妻の「ねね」と共にあけっぴろげで歓迎する。その姿を見た黒田官兵衛はこれほどの器量人はいないと判断し、彼の下で働くことを決意していくのである。秀吉の妻「ねね」は、実に多くの武将から慕われた人で、黒田官兵衛も「ねね」によって自分の嫡男の松寿丸(長政)の命を助けられている。

こうして黒田官兵衛は、秀吉の軍師として、先に秀吉の下で働いていた竹中半兵衛と共に軍略を立てて山陽地方の攻略を行なっていくのである。裏切りや寝返りが続き、彼の主家であった小寺政職の優柔不断な甘い判断で小寺家が右往左往していく中で、黒田官兵衛は揺るぎない確信をもって信長と秀吉に仕え、竹中半兵衛亡き後は、秀吉が最も頼りにする軍師となていくのである。秀吉の高松城水責め、鳥取城攻略のすべてに献策をし、これを成功させていく。

秀吉は、官兵衛を最も頼りにしていたが、敵に回せばこれほど恐ろしい存在はないということも知っていたと言われ、そのため、秀吉が天下平定した後は遠い九州(中津)に領地を与えたとも言われる。

そして、毛利との対決が迫る中で、信長が明智光秀によって襲われる本能寺の変が起こる。官兵衛は、秀吉にそれを伏して毛利と急遽和解し、光秀を撃つことを進言するのである。官兵衛は信長亡き後の天下人になるのは秀吉をおいて他にないと見抜いていたのである。

本書は、この秀吉への進言をもって終わるが、描かれている織田信長や豊臣秀吉の姿が現代の定説に従ったものであり過ぎるとはいえ、黒田官兵衛の人物をよく描いていると思いながら読むことができた。

黒田官兵衛については、既に優れた多く作品が書かれ、小説だけでも、坂口安吾『二流の人』、吉川英治『黒田如水』、松本清張『軍師の境遇』、司馬遼太郎『播磨灘物語』、池波正太郎『武士の紋章』を挙げることができるし、わたし自身の出身が福岡ということもあって、藩祖となった黒田官兵衛には大いに関心があり、以下の作品はまだ読んではいないが読みたいと思っている作品としては、安部龍太郎『風の如く、水の如く』、火坂雅志『軍師の門』、岳宏一郎『軍師官兵衛』、『群雲、賎ケ岳へ』などがある。

黒田官兵衛が残した「われ人に媚びず、富貴を望まず」はとみに有名だが、こうした気概はいつの世にも重要な意味を持つものだろうと思っている。

2012年6月22日金曜日

葉室麟『刀伊入寇 藤原隆家の闘い』(2)


 朝から篠つく雨が降り、肌寒い日になっている。このところ「しなければならないこと」に追われる日々だったが、ようやくひと段落つきそうな気配があり、ちょっと気を抜いている。雨が降ると、やはり、晴耕雨読を考えると、昨夜熊本のSさんと話したりしていた。

 さて、葉室麟『刀伊入寇(といにゅうこう) 藤原隆家の闘い』(2011年 実業之日本社)の続きであるが、事柄のついでに本書にも触れられている清少納言と紫式部という傑出した二人の才女にも触れておこう。

 「清少納言」という名は、実名ではなく、女子が出仕する際につけられた「女房名(女房とはお世話をする女性という意味)」であるが、彼女が、歌人として著名であった清原元輔(908990年)の晩年の娘であり、幼少の頃からずば抜けた機知に飛んでいた女性であったこと以外に、実名は解っていない。966年頃の生まれではないかと言われている。981年(天元4年)に一度結婚し、子どもをもうけるが、無骨な夫とうまくいかずに離婚している。そして、993年の冬頃から、一条天皇の中宮(皇后)であり藤原道隆の娘であった「定子」(従って、本書の藤原隆家の姉)に仕えるために出仕し、博識と才気活発さを愛されて、中宮定子から寵愛され、宮中で著名になっていく。このころ歌人でもあった藤原実方(ふじわらのさねかた)と恋愛関係にあったとも伝えられているが、藤原実方は、20人以上の女性と関係しており、紫式部の「光源氏」のモデルの一人とも言われる人で、たとえ恋愛関係にあったとしても、それは実りのある恋愛ではなかったのではないかと思われる。清少納言は20歳以上も年の離れていた藤原棟世(ふじわらのむねよ)という人物と再婚しているが、再婚の時期は不明である。

 996年(長徳2年)ごろから名随筆と言われる『枕草子』を書き始めたと言われるが、仕えていた中宮定子が1000年(長保2年)に出産で亡くなると、まもなく宮仕えを辞め、再婚相手の任国であった摂津に身を寄せていたという説がある。『枕草子』の最終稿の完成がいつかは定めることができないが、遅くとも1010年(寛弘7年)ごろまでには完成していたのではないかと言われる。

 彼女が寵愛を受けていた中宮定子は、先にも触れたように藤原道隆の娘であり、当然、その弟であった藤原隆家も知っており、道隆の死後の中関白家の衰退を見てきたわけであるが、その中で藤原隆家を好ましい人物として見ていたことなど『枕草子』の中で触れられている。

 清少納言が残した歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」は小倉百人一首にも入っているが、この清少納言が物語作家として光彩を放った紫式部を意識していたかどうかは不明である。『枕草子』には紫式部に関することは一切出てこない。しかし、無関心ではなかっただろうと思う。

 他方、紫式部も実名は不明で、出仕に際しての女房名は「藤式部」だったと言われるが、漢詩人であり学者としても著名であった藤原為時の娘で、幼少の頃から漢文をすらすらと読みこなすほどの才女であったと言われている。彼女もまた、998年に親子ほども年の離れた藤原宣孝という人と結婚し、一女をもうけているが、夫の死去後に召し出されて、1005年(寛弘2年)ごろから一条天皇の中宮「彰子」の女房兼家庭教師のような役で仕えている。そして、この「彰子」に仕えている時に『源氏物語』を書いたと言われている。しかし、彼女が中宮彰子に仕えたのはもう少し早い時期だったのではないかという説も有力である。

彼女が仕えた中宮彰子は、藤原伊周と藤原隆家、中宮定子の中関白家をことごとく排斥することで権力を掌握していった藤原道長の娘で、道長の策略で一条天皇は定子と彰子の二人の中宮(皇后)をもったわけだが、清少納言が定子に仕え、紫式部が彰子に仕えていたこともあるのか、あるいは才女として名高かった清少納言を強く意識していたのか、著名な『紫日記(紫式部日記)』の中で清少納言のことを「したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり(得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない)」と言ったり、「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ(こんな人の行く末にいいことがあるだろうか、ないだろう)」と言ったりして酷評している。確かに、紫式部は当代随一の才女であり、彼女が記した『源氏物語』は、彼女が書く片端から宮中で大評判をとっていったが、しかし、清少納言の気品にはかなわないことを感じていたのではないだろうか。

彼女は、その日記の中で彰子の父であり権力者であった藤原道長が夜中に彼女のところに忍んできたことを記し、道長の誘いをうまくはぐらかしたと記しているが、道長との関係は不明で、本書では、時の権力者の意に反することはできなかったのではないかとしている。もちろん、彼女は、本書の主人公である藤原隆家を知っている。そして、本書ではその隆家の面影が、彼女が描いた「光源氏」の「武」の部分にもあるのではないかとしている。

止まれ。本書では清少納言と紫式部のこうした姿も伝えるが、藤原隆家は大宰府に赴いて「刀伊」の襲撃の備えをはじめる。このとき、襲撃してきた「刀伊」の中に、藤原隆家と渤海国の末裔の娘であった瑠璃との間に生まれた子どもが成長して、渤海国を再興するために「刀伊」の一軍を率いて襲ってきたという展開をみせていく。

1019年3月、「刀伊(女真族)」は数千の軍を率いて壱岐・対馬地方を襲い、殺戮と略奪を繰り返しながら、ついで、筑前博多に上陸してくる。この知らせを受けた太宰府権帥となった藤原隆家は数百の武士を率いて防戦に出るのである。戦いは熾烈を極め、博多の警固に陣取った藤原隆家は何度も襲われるが、これをことごとく退けていくのである。そして、そこに作者はそれぞれの宿命を背負った親子の対決を描いていくのである。

 個人的に、昔、まだ子どもの頃に、なぜか、その歴史を知るわけもないのに、しきりに海沿いの漁村や村々が海賊に襲撃され、皆殺しにされ、家々が焼き払われて絶滅するという不思議な夢をしばしば見ていたのを思い出すが、1019年春の「刀伊」の「入寇(襲撃)」は悲惨を極めたと言われている。数百人規模で根こそぎ奴隷としてさらわれていった。

藤原隆家はその「刀伊の入寇」と真正面から対峙していくのであるが、作者はここで、藤原隆家に、これまでの花山法皇や藤原道長との争い、そして平安期の権謀術策がうずまく宮中で生み出されてきた清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』などにも触れながら、隆家自身がなぜ闘うのかを自問する姿として、次のように語る。

「勝者がすべてではない。敗者の悲しみやせつなさの中にこそ美しさは発展される。勝者の凱歌ではなく敗者の悲歌に心動かされることこそが雅(みやび)ではないか。
隆家にはそう思えてならなかった。この国には敗者を美しく称える雅の心がある。だからこそ、この国を守りたいと思う。この国が亡びればば雅もまた亡びる」(288ページ)。

この敗者が奏でることができる「雅」、それが大事にされることを作者は藤原隆家を借りて語ろうとするのである。「敗者の悲歌に心を動かされる雅」、それが守るべき「美しい日本」ということである。

かつて、川端康成がノーベル文学賞を受賞した時に「美しい日本」という言葉を使い、その後に日本で二人目のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎が、これを批判的に用いたことがあった。しかし、「美しい日本」を支える「雅」は、派手々々しさとは無縁で、本居宣長はこれを「もののあはれ」と呼んだ。西行は、「都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり」と詠んで、都の人たちが「あはれ」と言っているのは、単なる暇つぶしに過ぎないとも語り、「もののあわれ」をしみじみと感じる心を大事にした。

「敗者の悲歌に心を動かされていくこと」、それを「雅」として生き抜く姿を作者はこの本で描こうとしたのだろうと思う。その心を失ったら、私たちの良さも失われるということを、あるいは人間であるということの良さも失われることを改めて考えたりする。個人的に、わたしもまた敗者の側に立ち続けたいと願うばかりである。

2012年6月20日水曜日

葉室麟『刀伊入寇 藤原隆家の闘い』(1)


 横浜を暴風圏に巻き込んだ台風4号が過ぎ去って、飛散した街路樹の枝葉を片づけたりしていたが、昨夜はゴーと唸りを上げる風にあおられて建物が揺れる中で、葉室麟『刀伊入寇(といにゅうこう) 藤原隆家の闘い』(2011年 実業之日本社)を読んでいた。これは、表題の通り、平安期の公家であった藤原隆家(9781044年)の姿を描いたものである。

 実直な人間の姿を描き続ける葉室麟がなぜ平安期の公家に関心を持ったのだろうとか思いながら読み始めたわけだが、藤原隆家が、政治権力の争奪のための権謀術策と閨房政治が渦巻いた平安期の公家の中で、「こころたましい(気概)」をもって生き抜いた人物であったことが大きな要素となっているのかもしれないと思ったりした。

 藤原隆家は、一条天皇(在位:9861011年)の摂政・関白を務めた藤原道隆の四男(高階貴子-たかしなのきし-を母とする子では次男)として生まれ、11歳で元服して、長徳元年(995年)、17歳で権中納言となった公家である。

 彼の生母の高階貴子は、末流貴族の出ながらも和歌や詩文にたけ、「女房三十六歌仙」に数えられるほどの人で、「拾遺和歌集」や「後拾遺和歌集」、あるいは「新古今和歌集」にもその作品が残されており、「小倉百人一首」に「忘しの行末まてはかたけれは けふをかきりの命ともかな」という「新古今和歌集」の恋歌がとられているほどで、息子の藤原隆家も「拾遺和歌集」に2首、「新古今和歌集」に1首の勅撰歌人であるばかりでなく、漢詩にも長けていた教養の深い人であった。

 しかし、藤原隆家は、それだけではなく、当時の公家としては珍しく武にも長け、「天下のさがら者(荒くれ者)」とさえ呼ばれていた。圧巻は、わずか2年余で天皇位を退いて法皇となった花山院(花山天皇)に対して矢を射かけるという出来事を起こしたことで、「長徳の変」と呼ばれるこの事件で、花山法皇を恐怖に震え上がらせたと言われている。『百錬抄』には、この時、従者の童子二人の首を切り落として持ち帰ったと記されている。なお、この事件によって、藤原隆家は出雲に、兄の藤原伊周(ふじわらのこれちか)は大宰府に左遷されている。

 藤原隆家については、清少納言の『枕草子』や『大鏡』、『古今著聞集』、その他の文書などにも多彩な逸話が残されているが、剛直で、気骨のある人物であり、もし隆家が政治を補佐するようになれば天下はうまく治まるだろうと言われるほどの期待をかけられるほどであったが、彼自身は政治的野望とは無縁の人であった。

 長く関白・摂政を務め、中関白と称した父の藤原道隆が死去した後、関白位をめぐる争いがあり、道隆の弟の道兼が関白となったが、病弱で、わずか7日で病没してしまい、さらにその弟(四男、もしくは五男といわれる)の藤原道長が道隆の子の藤原伊周と争って左大臣から摂政へとなっていった。しかし、藤原道長は、中関白家の伊周や隆家をことごとく排斥していった。

 この時期に、道隆の父親の兼家の策略によってによって、わずか2年余で出家させられて天皇位を譲らなければならなかった花山法皇は、かねてより中関白家に対して恨みを抱いていたが、道隆の死後にその子である伊周や隆家に対して陰湿な「いじめ」を開始するのである。花山法皇は、出家後に幾多の修行を積んで法力を身につけていたと言われるが、当時、藤原伊周が通っていた藤原為光の娘の「三の君」(三女)と同じ屋敷に住む「四の君」(四女)の元に通い始め、伊周に「三の君」を寝取ったように思わせて嫉妬心を起こさせ、そのことを伊周が弟の隆家に相談したところ、かねてからの花山法皇の陰湿な「いじめ」を腹に据えかねていた隆家が従者を率いて法皇を襲い、矢を法皇の袖に射かけたのである。

 こうした当時の政争や平安期の朝廷と公家の姿を描きながら、作者は藤原隆家の「直き心」が「荒ぶる魂」として表出していく姿を描き、しかも、当時では珍しく国外(中国や朝鮮)に目を向けていく姿を描き出していく。日本は、894年の菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が停止され、以後正式な中国や朝鮮との交流は行われていないが、交流が全くなかったわけではないし、満州民族の祖と言われる女真族によって1019年3月に壱岐・対馬地方が襲われて島民の多くが連れ去られるという事件も起こったりしている。この時に襲ってきたのを「刀伊(とい)」と呼び、1919年4月に大宰権帥となっていた藤原隆家が撃退したのである。

 作者は、この藤原隆家が「刀伊」の襲撃を撃退できた背後に、彼が早くから黄河下流域の満州から朝鮮半島北部まで栄えた渤海国(698926年)の末裔と交わりをもち、その娘「瑠璃」との交情をもっていたことがあったと展開する。そして、その交情が隆家の「武」と「瑠璃」の「武」の交情でもあったと物語るのである。

 こうした展開の中でも、当時の宮中にいた二人の才女、清少納言と紫式部の関係などにも触れられていき、「潔さ」、「何ものも恐れない真っ直ぐな心」、「人間としての気高さと誇り」を描いていくのである。藤原隆家は、中国本土における契丹族の動向や女真族の動向を知り、国の危機を覚えて、自ら大宰権帥となって大宰府に趣いていく。花山法皇や藤原道長との軋轢はあるが、そうした京の政権争いよりも、「刀伊」との戦いに備えることを選択していくのである。時の三条天皇が眼病を患ったこともあり、摂政藤原道長はますます自分の権勢を安定させるために、自分の娘と三条天皇の間に生まれた敦成親王への譲位を迫るなどの策謀を進めており、藤原隆家が大宰権帥を拝命するまでにも「いやがらせ」が起こったりしていくが、隆家は大宰権帥として大宰府に赴く。

 このあとの展開は、また、次回に記すことにする。台風は去ったが、次の台風5号の接近もあるのか、今日は風が強い。今のうちに外の用事を済ませておこうと思う。

2012年6月18日月曜日

南原幹雄『闇の麝香猫』


 昨日は午後から晴れて暑いほどだったが、今日も晴れ間が見えている。しかし、天気は西より下り、台風の接近もあって西日本は雨が降っているらしい。

 昨日、M.ウェーバーの『古代ユダヤ教』を基にしてキリスト教と近代世界の切り口を見せた橋爪大三郎氏の『ふしぎなキリスト教』の講演の主催者として池袋まで出かけ、橋爪ご夫妻の礼儀正しい姿に触れる機会があったが、礼儀正しく謙遜であることは大事なことだと改めて思ったりした。

その往復の電車の中で、半分眠りこけながらではあるが、南原幹雄『闇の麝香猫』(1993年 角川書店)を面白く読んだ。これは、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて行われた、いわゆる「安政の大獄」事件下にあって、厳しい弾圧の嵐が吹き荒れた京都を舞台に、幕府側の弾圧に対抗したひとりの公家を主人公にした痛快時代小説で、弾圧の先鋒だった長野主膳(18151862年)と京都所司代であった酒井忠義(18131873年)を翻弄させながら、尊皇攘夷の志士たちを京都から逃がしていくという筋立てになっている。

 物語の構成や展開が、どこか大佛次郎の『鞍馬天狗』を思わせるものがあるのだが、「麝香猫」と名乗る正体不明の人物が、大獄の危機下にあった西郷隆盛(吉之助)や清水寺の住職であった月照らを司直の手から逃れさせるというもので、「安政の大獄」を指揮した長野主膳との対決を面白く描き出している。

 長野主膳は、もともと本居宣長の国学を学んだ人物で、天保12年(1841年)に近江で私塾を開き、この時に、第11代近江彦根藩主井伊直中の十四男で部屋住みであった井伊直弼と出会い、井伊直弼が第15代近江彦根藩主となるにしたがって藩校の教師となり、直弼の藩政改革に協力し、これによって井伊直弼は名君の誉れを得るようになって、幕府政治に参画するようになると井伊直弼の懐刀として存在感を増していった人物である。やがて、井伊直弼が、第13代将軍徳川家定の継嗣問題から攘夷派であった水戸の徳川斉昭などと対立し、その溝が深まる中で安政5年(1858年)に大老に就任して、日米修好通商条約を天皇の勅許を得られぬままに結んでいく際、反対する尊皇攘夷派の人々や公家を押さえ込んでいくのである。

 史上に例を見ないほどの思想大弾圧事件となった「安政の大獄」は、もともと、幕府側についていた九条家の家臣であった島田左近などを通じて朝廷内部の動向を探っていた長野主膳が、尊皇攘夷派であった水戸藩士などの「悪謀」を過度に井伊直弼に伝えたことが原因だと言われ、孝明天皇から日米修好通商条約を天皇の許可なく締結したことに対する叱責の書が直接水戸藩に送られたこと(戊午の密勅・・・幕府の権威を無視し、これによって水戸藩が井伊直弼らの幕閣の責任を問うことができる)の首謀者を小浜藩の儒学者であった梅田雲浜と断じて、京都所司代であった酒井忠義に命じて捕縛させたことから始まっている。

 長野主膳は、その後も尊皇攘夷派の志士たちの処罰を進言し、自ら京都で井伊直弼から送られた老中の間辺詮勝(まなべ あきかつ)と共に志士や公家を粛清していくのである。

 本書は、信濃の大名主であった近藤茂左衛門と梅田雲浜の捕縛から始まり、尊皇攘夷派の志士や公家を一掃しようとする長野主膳と、これを護り、弾圧の嵐が吹き荒れる京都から逃れさせようとする「麝香猫」の戦いに展開していくのである。

 作者が「麝香猫」として主人公に据えたのは、弾圧によって関白職を追われた鷹司政通の次男で鷹司惟在(たかつかさ これあり)という人物で、高司政通(17891868年)は、実際に主だった子どもだけで五男六女を設け、さらに養子も何人かいるが、惟在はおそらく作者の創作上の人物だろうと思う。

 作者が描く高司惟在は、詩学や文学に加えて公家には珍しく武道にまで精進していたが、ある時から蹴鞠や当扇、舞や音曲、香道といった遊びに熱中し、特に蹴鞠に興じ、それがあまりにひどすぎて大納言の官職まで投げ打って、人々から蹴鞠大納言と揶揄されるほどの、箸にも棒にもかからない頼りない人間になっていった人物である。鷹揚で懐の広い人物だが、ただ遊んでばかりいる人間で、親兄弟はもちろん、美貌の妻からも愛想を尽かされている人物である。

 その惟在が、そうした姿を隠れ蓑にして、「麝香猫」と名乗り、尊王攘夷派の有為な人々を弾圧下の京都から逃がしていく活躍を展開するのである。捕縛の手が差し伸べられていた西郷吉之助(西郷隆盛)と月照を鹿児島に逃し(西郷隆盛と月照は薩摩まで逃げるが、状勢が変わった薩摩で捕縛されそうになり、錦江湾で入水自殺を行い、月照は一命を落としてしまい、西郷隆盛はかろうじて助かるが薩摩藩の手によって捕縛される)、次いで、月照の弟で清水寺首座を継いだ信海を長州に逃がしていくのである。

 この「麝香猫」こと高司惟在が長野主膳の裏をかき、彼を翻弄させながら志士たちを逃がしていく過程が面白い活劇風に描かれ、颯爽とした活躍振りが展開されていくのである。物語は、高司惟在と彼の真の姿を知った美貌の妻、そして信海が無事に長州へ向けて船出して行くところで終わる。ストーリーテラーとしての南原幹雄の活劇の面白さが十分に楽しめる作品だった。

2012年6月15日金曜日

西條奈加『善人長屋』


 変わらない日常の中で、今年の梅雨はことのほか肌寒く感じている。気にかかっている仕事があって、それがちっとも進まないままで日が暮れてしまうが、宵を歩くときに、思わず寒気を感じたりする。

 そいう中で、温かい気持ちで書かれた西條奈加『善人長屋』(2010年 新潮社)を面白く読んだ。この作者の作品は、以前、『烏金』(2007年 光文社)を読んで、柔らかな文章の中で綴られる人の情がしみじみとして、物語の展開も味のあるものだったので、他の作品も読んでみたいと思っていた。何か印象として、派手さや奢りもなく、地道に、丁寧に物語を紡がれている気がしている。

 『善人長屋』も柔らかく丁寧に物語が進んで行く江戸下町人情噺だが、主な登場人物は、窩主買(けいずかい-盗品などを売買すること)の質屋、盗っ人や詐欺師に情報を売る情報屋、掏摸、美人局をしている兄弟、偽証文作りの浪人、詐欺師の夫妻、盗っ人などといったそれぞれの裏稼業をもつ人物たちであり、彼らがそれぞれに悪業に手を染めていくようになる事情も織り込まれながら物語が展開されていく。「善人長屋」ではなく、本当は「悪人長屋」なのだが、この「悪人」たちがまた、すこぶるつきの善人なのである。それが柔らかくユーモアを交えながら展開されていく。

 深川山本町にある質屋の「千鳥屋」の主、儀右衛門は祖父以来の窩主買に手を染めながら、通称「善人長屋」と呼ばれる裏店の差配(管理人)もしている。この長屋は、人々から「情に厚い善人が住む善人長屋」と呼ばれているが、実はそれぞれに裏稼業をもつ「悪人長屋」だった。儀右衛門には十六歳になる一人娘の「お縫い」がいて、物語はこの「お縫い」を中心にして進んで行くが、住人たちがもつそれぞれの裏稼業の特技を生かして助け合いながら「人助け」をしていくのである。彼らはそれぞれの事情で悪業に手を染めているが、「盗っ人にも三分の理」で、それぞれに矜持をもち、裏の顔が後ろめたいから、表の顔で行いが良い方に向かうという人物たちであった。そして、それぞれに長屋の差配でもある儀右衛門に信服し、深い信頼を寄せている。

 この長屋に、ちょっとした間違いから裏稼業などもたない全くの善人である錠前職人の加助という人物が住むことになってしまう。加助は、火事で妻子を失い、人生を諦めかけているときに、深川の富岡八幡にお参りに来て、人間違いでこの長屋に住むようになったのだが、困っている者には声をかけ、傷ついた者には治療をし、行き暮れている者には自分の部屋を提供するという底抜けの善人で、この加助が次々と困っている者を長屋に連れてきては、儀右衛門を初めとする長屋の連中によって助けられていくのである。

 その長屋の店子で掏摸の安太郎が、昔の掏摸仲間で小さな塩物屋を営んでいる男を連れて儀右衛門の所に相談にやってくる。安太郎は掏摸仲間を脱けるときに儀右衛門の世話になり、それ以来、小間物商いと小さな掏摸稼業をしながらこの長屋の店子として暮らしていた。彼が連れてきた塩物屋は、彼の店に塩物を卸す大店の乾物屋から娘の縁談話が持ちこまれて話がまとまったが、娘には惚れた男がいて、その子を身ごもっているという。縁談を破談にすると商品が卸されなくなるだけでなく、店ごと潰されかねないが、かといって身ごもった娘と相手の男は、生まれること三人で暮らすという。問題は乾物屋をどう諦めさせるかということで、儀右衛門は一計を案じる。

 それは、長屋で振り売りをしながら美人局をしている兄弟の手を借りるということだった。この兄弟は少年の頃に蔭間茶屋(男娼窟)に売られていたが、兄が弟を連れて逃げ出し、儀右衛門に助けられた兄弟で、弟が美形の女性に化けて美人局をしていたのである。その美形に化けた弟が縁談相手である乾物屋の若旦那を誘惑して、向こうから破談にさせるという手である。そして、見事にこれが上手くいくのである。

 こんなふうにして話が展開されていくのだが、人の良い加助が簪を盗っ人に取られて途方に暮れている娘を連れて、助けて欲しいと言ってくる。娘はお店のお嬢さんのこれ見よがしの高価な簪を黙って挿して使いに出たところ、数人の男に囲まれて簪を取られ、途方に暮れていた。仕方なしに儀右衛門たちはその娘の簪を取り返す算段をするが、盗んだ男は筆屋の後家と筆屋の主を殺してそこに居座っており、簪は筆屋の後家の物になったが、どこに隠しているかわからない。そこで、儀右衛門の娘の「お縫い」と妻の「お俊」と共に一芝居打って、後家が簪を隠しているところを見つけ出し、簪を取り戻していくのである。このことにも長屋の住人たちの裏稼業が使われていく。

 さらに代書屋の裏で偽証文作りなどをしている訳ありの浪人が人殺しの疑いで番所に引っ張られ、長屋中が困惑するほど加助が無実を叫んで番屋に日参する中で、役人の目が長屋に向くことを案じた儀右衛門は、長屋の住人や娘の手を借りながら真犯人を見つけ出すという出来事が起こったり、偽紅を使った詐欺にあった者を加助が長屋に連れてきて、それを同じ詐欺師である長屋の夫婦の手を借りて助けていったり、娘をひどい目に遭わされた老いた火事師を助けたり、死にかけている蔭間の恋の最後の願いを聞いていったり、加助が知らずに連れ込んでくる問題を抱えた人々を助けていくのである。

 長屋の連中は差配の儀右衛門に全幅の信頼を置き、儀右衛門の頼みを断ることはなく、娘の「お縫い」は加助の善行を罪滅ぼしと思いつつも、父の儀右衛門や長屋の人々の「情」に触れていくのである。そして、最後に、火事で死んだと思っていた加助の妻と子が生きており、実は錠前師の加助の腕を見込んで開かずの蔵といわれている蔵の仕掛け錠前を外すために、押し込み強盗をする手ひどい強盗が背後にいて、加助の妻が彼の妻となったのもそれをさせるためであったと言うことがわかっていく。彼のこと思われていた娘も、実はその押し込み強盗をする男の子であった。

 「お縫い」は、妻子を捜し続ける加助を何とか助けたいと思って、その事情を知っていき、儀右衛門たちも事の真相を知っていく。そして、押し込み強盗の手から加助の妻子を助け出すが、加助の妻は真実を加助に話し、加助のもとを去る。加助は、「お前たちが幸せならばそれでいい」と言い、長屋に残ることにして、儀右衛門はその加助もまるごと抱え込む決心をしていくのである。

 「善人長屋」というのは、実は儀右衛門が問題を抱えている人間たちをまるごと抱え込んだ長屋である。彼らは「信頼と情」で繋がっており、それが失われることがない。娘の「お縫い」は、加助がこの長屋に来て様々な問題を持ちこんでは解決していくことの中で、そのことを知っていくのである。

 物語は、どれも柔らかく丁寧で、登場人物もひとりひとり丁寧に描かれていて、どこかしみじみとしたものが残る作品で、わたしは、作者の姿勢に拍手を贈りたい。

2012年6月11日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集17・18 花と火の帝 上下』(3)


 昨日の夜から忍ぶようにして降り出していた雨は上がったが、どんよりした梅雨空が広がっている。昨日、宗教改革者のM.ルターについて2時間ほどお話をしたためか、どこか疲れが残っている。だが、洗濯や掃除などの家事も溜まっていたので、朝から精を出していたら、ますます疲れてしまった。日々の暮らしをするだけでもなかなか大変。

 後水尾天皇と徳川幕府の確執を通して、天皇制の問題を「真の自由人」の存在のエンターティメントとして展開した隆慶一郎『隆慶一郎全集1718 花と火の帝』(2010年 新潮社)の続きであるが、下巻は、家康の死(1616年 元和2年)から始まり、やがて後水尾天皇の恋から和子の輿入れへと進んでいく。

 後水尾天皇の女性関係は後に目を見張るほど派手になっていくが、朝廷の権威が失墜していく中で時を過ごさなければならなかったために、その最初の女性関係は比較的遅く始まったのである。後水尾天皇が最初に恋をした相手は「およつ」と呼ばれる女性で、「およつ」は、公家の四辻公遠の娘で、後水尾天皇の祖母に当たる新上東門院に仕え、後水尾天皇の元服と同時に「添臥しの女官」(添い寝をする者)となった女性で、後水尾天皇に心底惚れて労わりをもって接した女性で、男としてこのような女性に心が動かないはずがなく、元和4年(1618年)に皇子を出産し、続いて元和5年に皇女を出産した。

 「およつ」が出産した皇子は幼くして亡くなったが、皇女は「梅の宮」と呼ばれ、後に文智女王と称されるほどの学識豊かな女性になった。しかし、彼女は薄幸であった。悋気の強かった徳川秀忠の妻「お江」が自分の娘の和子の嫁ぎ先である帝のこうした女性関係を許すはずがなく、特に天皇家に自分の血筋を入れることを目論んでいた徳川家にとって、後水尾天皇の皇子や皇女に対しての仕打ちにはひどいものがあった。徳川秀忠は、後水尾天皇の子どもの皆殺しを考えていたと言われ、本書でも、後に柳生宗矩配下の者たちがその手を下していったという展開になっている。

 他方、京都で大火が起こり、本書ではこれを仕掛けたのが徳川側に破れた大阪牢人の生き残りだったとし、その嫌疑が猿飛佐助と霧隠才蔵に向けられ、色里に身を隠していた「天皇の隠密」に危機が迫ったこととして展開する。「天皇の隠密」は、家康の死以後、ずっと危機的状態に置かれていたが、彼らの優れた能力でこれを排撃してきていた。今回も、猿飛佐助と霧隠才蔵は色里の中で力を発揮してこの危機を脱していく。

 こうして、元和6年(1620年)5月、徳川和子は江戸を出発し、6月に入内する。和子14歳である。まだ14歳に過ぎない少女は、歓迎されないままに宮中で過ごす日々を送ることになるのである。だが、この和子という女性は、大人の思惑とは別に、実に愛すべきところをもった女性で、やがては後水尾天皇のことを深く理解する女性となっていく。

 本書は、この和子の輿入れの時に、柳生宗矩の配下の者が付随って宮中に入り、「天皇の隠密」を見つけ出して彼らを殺す密命を帯びていたと展開する。彼らはまた、後水尾天皇が和子以外の女性との間に生ませた皇子の皆殺しの密命まで帯びていた。ここにまた、柳生(裏柳生)と「天皇の隠密」である岩介らとの暗闘が展開されていくのである。

 加えて、本書にはかつて北条家に仕えていた忍の集団である風魔まで登場し、風魔が京都の色里を影で支配していたという設定がなされている。この風魔も、朝鮮から渡ってきた「自由の民」の一団だと設定し、岩介らとの戦いの中で、岩介が率いる「天皇の隠密」側についていくようになるというものであり、さらに、シャム(タイ)の呪術師で、かつて岩介と修行をした人物が徳川秀忠に雇われて「天皇の隠密」を暴いて殺すために遣わされてくるという展開になっている。そして、岩介との呪術の戦いの中で、彼もまた「天皇の隠密」側についていく人間となっている。

 岩介は秀忠から遣わされた刺客との争いで傷つくが、岩介と「とら」との間に生まれた娘の「ゆき」が岩介を凌駕するほどの天賦の能力を発揮して助けるという、まさに物語は超能力の空想世界に入っていく。

 しかし、歴史がきちんと踏まえられていて、後水尾天皇が、詩文においては「古今伝授」を受けた者であり、書や茶の道も一流であるだけでなく、「立花」(華道)においてはこれを華道として確立した立役者であることに触れ、自ら政治から身を引いて文芸(文化)の道に進んでいくという選択をされたと語る。また、自分が置かれた状態を妻となった和子に語り、和子が父親である徳川秀忠の仕打ちにひどく立腹し、後水尾天皇と歩んでいくという決心をしていくくだりも展開されている。

 この間、徳川秀忠は、後水尾天皇がほかの女に生ませた子を殺し、さらに天皇の権威を弱めるために、それまで天皇が権威として与えていた寺社の紫衣着用の勅許を幕府の管理下に置くという慶長20年(1615年)に家康が出した「禁中並公家諸法度」を盾に取り、秀忠の後を継いで三大将軍となった家光を用いて、後水尾天皇が勅許として与えた紫衣を法度違反とみなして京都所司代の板倉重宗によって取り上げさせるという出来事を起こした。朝廷側はこうした幕府の強硬手段に強く反対し、高僧らも幕府の抗弁書を出したりしたが、抗弁書を出した高僧らを流罪に処した(「紫衣事件」という)。これによって、本来は朝廷の官職の一つに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上位に位置するものであることを鮮明にしたのである。

 後水尾天皇は、この事件の後で、娘に帝位を譲り(女帝の誕生)、自らは上皇となり、和子も東福門院となるが、幕府の弾圧は止むことはなかった。そして、本書では後水尾天皇を恐怖に陥れるためにその親族を殺す目的で新たな刺客が送り込まれることになり、その刺客と岩介らの「天皇の隠密」との死闘が展開されていく。その死闘が展開するところで、本書は未完のままに終わっている。

 登場人物が多彩で、これをどう終結させるのかに関心があったのだが、未完で終わり残念な気がする。また、多彩すぎる気がしないでもなく、ひとりひとりを十分に生かしきれていない感じもある。個人的に超能力や呪術などに関心はないが、空想物語の要素がたっぷりあり、また「自由人」の姿を描く上では大きな要素もあるので、未完ではあるが、面白く読めた一冊だった。隆慶一郎は「自由人」をとことん描いた作者だとつくづく思う。

 なお、全集18巻には、これも未完ではあるが、後水尾天皇の弟で関白であった近衛信尋が京都の名妓であった吉野太夫に惚れ、彼女をめぐって公家と豪商が恋を競う出来事が描かれた『吉野悲傷』(1988年)が収められている。これは第一回が「小説すばる」で発表されただけで中断された作品であり、これも惜しい気がする。

2012年6月8日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集17・18 花と火の帝 上下』(2)


 九州の南部は梅雨入りしたらしいが、こちらは今のところ晴れ間が覗いて、気温が少し高くなっている。陽射しは、もう、夏の陽射しと言っていい。今朝は何故か早く目覚めてしまい、浅い眠りの中で見る夢のつまらなさを反芻したりしていた。政治も経済もひどい有様になって、「人」が忘れられたような社会が構築されていることがひどく気になっているのか、荒廃した世界で尖った人々に囲まれている夢だった。

 それはともかく、隆慶一郎『隆慶一郎全集1718 花と火の帝 上下』(2010年 新潮社)の続きであるが、大阪冬の陣(1614年 慶長19年)の後、徳川側の一方的な主導で豊臣側との和議が成立していく。しかし、女帝ともいうべき「淀」という気が勝った傲慢な女性の下に置かれた豊臣側に家康と対抗できる人物はなく、家康は着々と天下掌握の道を進めていく。この時の家康に豊臣家を壊滅させる意志はなかったという解釈も面白い解釈である。「淀」は絶世の美人と言われたお市の方の娘であり、徳川秀忠の妻になっている「お江」の妹であるが、「お江」にしろ、「淀」にしろ、視野の狭さと自己中心的な気の強さは天下一品だったような気もする。

 この時期、朝廷は全く無力である。後水尾天皇はその無力さに歯噛みをしていくが、情勢は一方的に徳川方に傾き、家康また朝廷の権威を弱めていく工作も着々と進めていく。家康は後水尾天皇に「天皇の隠密」がいることに気づき、その対策のためにひとりの密偵を送り込むことにするのである。この辺の展開から、「天皇の隠密」としての岩介と猿飛佐助、そして徳川側の密偵との陰の展開がなされていくが、家康から送られた密偵も特殊な能力を持ち、その能力の由来が綴られるなど、エンターティメント性が抜群に発揮されていく。

 家康から「天皇の隠密」を探り出すために遣わされた密偵は、一見したところ、ぶよぶよと丸く太り、武芸に練達している風は決してなく、目立たずにひっそりとしている朝比奈兵左衛門という男で、京都所司代の板倉勝重の配下にいる者だった。この朝倉兵左衛門という人物の設定も実に面白い。

 朝比奈兵左衛門は、聖護院派の修験者を父にもち、父親は厳しい修行を積んで様々な密教の秘儀に達した人物だったが、獲得した術に傲慢になり、武家の娘をさらって一子を生ませたことが発覚して僧籍を追われ、諸国を回る中で、子に密教秘儀を伝授していったのである。少年の頃から厳しい修行の中で育てられた兵左衛門は、やがて、天皇に奉納する魚を奪ってしまい、息子が帝に逆らう行為をしてしまったことで、犯すべからざることを犯したと自らの腹を指して刺して山上から飛び降りてしまうのである。兵左衛門八歳の時である。その後、戦国の世に不思議な術者として著名だった果心居士に見出されて、彼のしたで修行を積み、数々の秘儀を身につけていたのである。果心居士は伝説上の人物である。

 岩介は、「天皇の隠密」の正体を暴こうとするこの朝比奈兵左衛門と精神による戦いを開始し、彼を「天皇の隠密」として自分の味方につけることに成功していく。そのくだりも優れた能力をもつ者同士の戦いが展開されるものとなっているが、「不動金縛りの術」や「記憶術」、「観の術」、あるいは「呪術」といった、いわば「超能力」の戦いとして描かれる。空想の産物なのだが、妙にリアリティーがあるところが作者の器量の大きさでもあるだろう。

 こうして、「天皇の隠密」が出来上がっていく。真田の忍びである猿飛佐助も、大坂夏の陣の後始末をして生き残り、その時に彼の弟子として優れた能力を持つ霧隠才蔵も加わるという、まさに、エンターティメントの世界が広がっていく展開になる。その際、作者は霧隠才蔵を美貌のキリシタンとして登場させ、物語の幅と深みを広げている。霧隠才蔵もまた超人的な能力を身につけていた人間であり、しかも、愛する女性に殉じてキリシタンとなった人物だとするのである。

 物語の彩をなす役者が岩介を中心にして出揃っていく。岩介、朝比奈兵左衛門、猿飛佐助、そして霧隠才蔵といずれも卓越した能力を身につけた人物たちである。彼らが後水尾天皇を護り、徳川側との戦いを展開していく筋立てへと物語は進んでいく。

 大坂夏の陣(1614年 慶長19年)が終わってすぐに、徳川幕府は朝廷を法制下に置く前代未聞の「禁中並公家諸法度」を制定した(1615年 慶長20年)。それまで天皇は、いわば治外法権的存在であり、あらゆる法を超越した存在だったが、ここで初めて幕府が管轄する法の下に置かれることになったのである。朝廷はこの事態に騒然となるが、もはや成す術はなかった。後水尾天皇は歯噛みをする思いでこれを受け取らざるを得なかったのである。加えて、徳川秀忠の娘である和子の皇室への輿入れの話が進んでいく。家康は天皇家の中に徳川の血を入れ、天皇の外戚となることで支配体制を磐石なものにしようと図るのである。元号も、徳川幕府によって、一応は後水尾天皇の即位という名目ではあったが、この年に慶長から元和に変えられ、天皇の権威は失墜したままになっていく。

 この事態の中で、「天皇の隠密」は、天皇家にこのような攻撃をかけてくる徳川家康に、それがいかに恐れ多いことかを知らしめるために、猿飛佐助と霧隠才蔵の手で鷹狩り中の家康を急襲し、恐れを抱かせる作戦に出る。また、後水尾天皇も殿に籠って秘伝の呪詛を行う。この辺の展開は、まさに歴史の狭間を利用したほとんど漫画的な展開なのだが、それが真に巧妙に面白く展開されている。

 家康は自分に襲った一連の出来事が朝廷側の仕組んだことであることを察知して、二代目将軍徳川秀忠に「天皇の隠密」を誅することを命じ、同じように「天皇の隠密」の恐ろしさに震えた徳川秀忠は、柳生宗矩にこれを撃つことを命じる。事態を察知した岩介はそのことを後水尾天皇に告げるが、後水尾天皇は決して殺してはならないと命じる。天皇の名で人を殺すことはあり得ないし、またそれを行うこともないからである。そこで、迫り来る柳生の軍団を相手に、岩介は「呪術」を用いて対抗し、猿飛佐助と霧隠才蔵の手も借りて、これを無力化していくのである。そして、家康は死を迎える。無力化された柳生宗矩も家康の死によって軍団を引き上げ、かくして一時的な休戦状態となるのである。

 しかし、狷介な徳川秀忠がこのままにしておくわけはない。娘の和子の天皇家への輿入れは家康の死によって一時延期されたが、徳川の朝廷乗っ取り策ともいえる和子の輿入れの話は進み、いわば既成事実となっていくし、「天皇の隠密」に恐怖を抱いた秀忠がこれを放っておくはずかない。そこから下巻が始まっていく。

 「呪詛」による戦いというのは、ほとんど空想の世界の展開だが、作者は天皇家の力をこうした精神的・神秘的なものであると設定しており(それは、ある意味で歴史的にも言えることであるが)、その展開なしには「天皇の権威」を語ることができないと考えているからだろう。天皇家に代々伝わっている「大嘗祭」をはじめとする秘儀は、まぎれもなくこうした神秘的な要素で出来ているからである。

 ともあれ、下巻の展開は次回に記すことにする