2012年6月26日火曜日

上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』


 このところずっとどんよりとした雲が広がり、昨日は肌寒さを覚えるほどだったが、今日は久しぶりに碧空が覗いている。先の日曜日に、宗教改革者のM.ルターについての2回に渡る話を終えて、一段落ついたのだが、彼の代表的な著作を再読したり、いくつかの論文を読んだりしていたために、改めて見れば、もう六月も末で、この月の小説の読書量は減少していたと思ったりする。もちろん、別にたくさん読めばいいというわけではないにしても。

 昨夕から夜にかけて、書き下ろし作品である上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』(2007年 徳間文庫)を読んでいた。作者の作品は、これまで『闕所物奉行 裏帳合』のシリーズや『目付鷹垣隼人正裏録』のシリーズを何冊か読んでいるが、これは「軍師」の名を冠された黒田官兵衛孝高(如水)の姿を描いた歴史小説である。

 戦国の時代の中で「軍師」の名を冠されているのは竹中半兵衛重治(15441579年)と黒田官兵衛孝高(15461604年)の二人で、二人とも豊臣秀吉が「三顧の礼」をつくして自分の参謀とした人物であるが、竹中半兵衛重治は、1579年(天正7年)に秀吉がまだ播磨の国(現:兵庫県南西部)を攻略している中で、肺の病を患い若干36歳で死去している。黒田官兵衛が秀吉に仕えるようになったのは竹中半兵衛よりも12年ほど後で、半兵衛の早死によって二人の交流はわずか4年ほどしかなかったのだが、二人はお互いを「優れた者」と認め合い、織田信長が黒田官兵衛の長子「松寿丸」(黒田長政)の殺害を秀吉に命じた時に、「松寿丸」の命を助け、黒田官兵衛はその恩を生涯忘れず、自分の家の家紋や兜にも竹中半兵衛の家紋を貰い受けたり、その戒名であった「深龍水徹」を刻んでいたりしたと言われる。

ちなみに、黒田官兵衛が隠居後に名乗った「如水」は、旧約聖書のモーセの後継者となったヨシュア(ジュスエと当時は言われていた)の名に由来するとも言われるが、竹中半兵衛の戒名「水徹」に由来するとも言われる。黒田官兵衛は、熱心なキリシタン大名であった高山右近などの勧めもあってキリスト教の洗礼を受けてキリシタン大名となったが、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出すと、これに従い、隠居して「如水」を名乗ったのが、その2年後の1589年(4243歳)であるから、その時にキリシタンに由来する名前を使ったとは考えられない。黒田官兵衛はどこまでも竹中半兵衛を尊敬していたのである。

黒田官兵衛は、近江の黒田村の出身とされているが、祖父の代に備前国邑久郡(おくのこおり)福岡村(現:岡山県東北部・・ちなみに現在の九州の福岡という名前は、ここから名づけられたものである)から播磨国に移り、西播磨最大の大名であった小寺家に仕え、小寺家の当主小寺政職は、黒田官兵衛の祖父黒田重隆を重臣として迎えて姫路城代に任じている。従って、黒田官兵衛は姫路城代の息子として生まれ、16歳で小寺政職の近習として出仕した。1567年(永禄10年)、21歳の頃に父親から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となった。

その2年後の1569年(永禄12年)に西播磨に勢力を持っていた赤松政秀がおよそ3000の兵をもって姫路城に攻め込んでくるが、官兵衛はその十分の一にも満たない300ほどの兵力で、これを2度にわたって撃退した。これによって官兵衛の名は一挙に上がり、その奇襲作戦と共に智将の名が知られるようになっていくのである。

本書は、その赤松政秀との戦の場面から始まり、黒田官兵衛が適切な情勢判断、状況判断をもって、また人間の行動に対する深い洞察をもって奇襲作戦を建て、攻めるべき時に攻め、引くときに引くという見事な采配を振るっていった姿を描くところから始まる。時は、室町幕府が衰退してそれぞれの領主たち群雄割拠し始めていた時代であり、やがて、小領主たちが統合されていって播磨国は、西の赤松家、中央の小寺家、東の別所家の三つの領主たちが争い合う状態だったのである。黒田官兵衛は、その小寺家に仕える者として、それぞれに対応せざるを得なくなっていくのである。そして、さらに、それよりも強大な毛利家が西に控えていた。毛利家は、毛利元就の活躍で中国地方のほぼ三分の二と九州の一部を支配する大大名となっていた。そして、輝元を中心にして、吉川元春、小早川隆景の元就の三人の子どもたちが不動の体制を敷いていた。

こうした中で黒田官兵衛はなんとか主家の小寺家が立ち行くように状況判断をしていくのだが、彼の目に映ったのは、桶狭間の戦いに勝利し、最強と言われた武田騎馬軍団を多数の鉄砲を使って打ち破った織田信長の姿である。周辺の領主たちが毛利の強大さに目を奪われ、信長の非道とも思える戦の仕方に批判的であったのに対して、官兵衛は情勢を分析して織田信長につくことを決めていく。そして、つてを求め、頭を下げて、すでに信長の配下になっていた摂津の荒木村重を頼る。戦が、これまでの個人から集団によるものに変わったことを見抜き、集団戦の威力をひしひしと感じていたからである。

しかし、その中でも黒田官兵衛が重視したのは、何よりも家臣との信頼関係であったが、本書はそのあたりを彼の手先として働く薬売りの仁吉という人物を登場させて、彼と一緒に魚とりに出かけていく姿として描き出している(2428ページ)。また、領主が直接動くことで家臣の信頼を得ていく姿が随所で描かれる。

荒木村重は信長の配下となって信長からの信頼を得ていたが、武田との戦も終わり、何より信長は役に立たない人物を嫌うと語るが、官兵衛が「役に立つか立たぬかは、使ってみなければわかりますまい。荒木殿、あなたは見ただけでその餅がうまいかまずいかを見抜けるとでも言われるか」(43ページ)と答えたという。そこには荒木村重が信長の配下となった時に餅を食べたという出来事があったのだが、官兵衛はそのことをよく知っていったのである。

こうした姿は、よく調べ、その上で自分の考えを語っていく黒田官兵衛ならではのものだろう。「ものは使ってみなければわからない」ということを自信をもって語ることができたところに黒田官兵衛の生き様がある。こうした展開はなるほどよく考えられていると思った。

荒木村重は、後に信長に反旗を翻らせ、使者として出向いた官兵衛を捕え、一年余にわたって穴蔵に放り込み、そのために官兵衛は、生涯、頭に痘瘡ができ、足が不自由になって、戦の時は輿に乗らなければならず、杖をついて、まっすぐに座れなくなってしまうが、この時は信長の家臣の中でも筆頭格の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に紹介するのである。

人物を見抜くことにかけては図抜けた才能をもっていた秀吉は、官兵衛が荒木村重の紹介状を携えて訪ねてくると、官兵衛を歓待し、妻の「ねね」と共にあけっぴろげで歓迎する。その姿を見た黒田官兵衛はこれほどの器量人はいないと判断し、彼の下で働くことを決意していくのである。秀吉の妻「ねね」は、実に多くの武将から慕われた人で、黒田官兵衛も「ねね」によって自分の嫡男の松寿丸(長政)の命を助けられている。

こうして黒田官兵衛は、秀吉の軍師として、先に秀吉の下で働いていた竹中半兵衛と共に軍略を立てて山陽地方の攻略を行なっていくのである。裏切りや寝返りが続き、彼の主家であった小寺政職の優柔不断な甘い判断で小寺家が右往左往していく中で、黒田官兵衛は揺るぎない確信をもって信長と秀吉に仕え、竹中半兵衛亡き後は、秀吉が最も頼りにする軍師となていくのである。秀吉の高松城水責め、鳥取城攻略のすべてに献策をし、これを成功させていく。

秀吉は、官兵衛を最も頼りにしていたが、敵に回せばこれほど恐ろしい存在はないということも知っていたと言われ、そのため、秀吉が天下平定した後は遠い九州(中津)に領地を与えたとも言われる。

そして、毛利との対決が迫る中で、信長が明智光秀によって襲われる本能寺の変が起こる。官兵衛は、秀吉にそれを伏して毛利と急遽和解し、光秀を撃つことを進言するのである。官兵衛は信長亡き後の天下人になるのは秀吉をおいて他にないと見抜いていたのである。

本書は、この秀吉への進言をもって終わるが、描かれている織田信長や豊臣秀吉の姿が現代の定説に従ったものであり過ぎるとはいえ、黒田官兵衛の人物をよく描いていると思いながら読むことができた。

黒田官兵衛については、既に優れた多く作品が書かれ、小説だけでも、坂口安吾『二流の人』、吉川英治『黒田如水』、松本清張『軍師の境遇』、司馬遼太郎『播磨灘物語』、池波正太郎『武士の紋章』を挙げることができるし、わたし自身の出身が福岡ということもあって、藩祖となった黒田官兵衛には大いに関心があり、以下の作品はまだ読んではいないが読みたいと思っている作品としては、安部龍太郎『風の如く、水の如く』、火坂雅志『軍師の門』、岳宏一郎『軍師官兵衛』、『群雲、賎ケ岳へ』などがある。

黒田官兵衛が残した「われ人に媚びず、富貴を望まず」はとみに有名だが、こうした気概はいつの世にも重要な意味を持つものだろうと思っている。

4 件のコメント:

  1. こんばんは。通りすがりの者ですが、私もなんとなく、官兵衛さんの出家後の号である「如水」というお名前と半兵衛さんの戒名である、「深竜水徹」、どちらも水がついてるし、もしかして、と思っていたらやっぱりそうだったんだ、と思いとてもうれしいです。

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  2. コメント、ありがとうございます。

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  3. 深龍水徹の読みを教えて下さい。

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  4. 深龍水徹は、深竜水徹と龍の字を簡略化して標記することもありますが、読みは、文字通り、「しんりゅうすいてつ」です。

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