2012年10月31日水曜日

吉川英治『鳴門秘帖』(1)


 秋の天気は変わりやすいというが、このところ日毎に天候が変わって、昨日は雲が広がり、今日は秋晴れになっている。もう随分と朝晩の気温は下がり、夜の外出が上着なしには済まなくなっている。秋が深い。

 先日、あざみ野の山内図書館に行った際に、ふと目について、吉川英治『鳴門秘帖』(1989年 吉川英治歴史・時代文庫2~4 講談社)の文庫本3冊を借りてきた。吉川英治は1892年(明治25年)に横浜で生まれ、随分と苦労して、やがて戦前・戦中・戦後を通して「国民作家」とも呼ばれるようになり、いわゆる大衆文学と呼ばれるものの高度な作品を生み出した人で、1962年(昭和37年)に死去している。今日、吉川英治文学賞というのが設けられているが、彼が生み出した作品は、講談的な流れの中で物語性が高くて、物語の展開に巧みな工夫が行われている。構成力が抜群で、どんな長編でも読む者を飽きさせない力をもっている。歴史や事象を扱うというよりも、「人間」を扱った作品であると言える気がする。

 あまりの巨匠で、これまであまり読むことはなかったのだが、改めて一世を風靡したと言われる『鳴門秘帖』を読み始めて、文章のぶっきらぼうさに驚きつつも物語の中に引き込まれていく魅力を感じている。大勢の人を魅了したのは、登場人物たちが危機、また危機に見舞われていく物語性と展開の上手さの妙だろうと思う。

 『鳴門秘帖』は、1926年(大正15年)8月から1927年(昭和2年)10月まで大阪毎日新聞に連載された新聞小説で、連載中から映画化されるなどの好評を博した作品である。物語の背景となっているのは、江戸時代中期の明和の頃で、作中の年号は明和2~3年となっており、神道を学んで尊王思想を説いた竹内式部(敬持)を中心にした若い公家たちによる尊皇の動きを江戸幕府が押さえつけた「宝暦事件(宝暦8~9年 17581759年)」が起こり、続いて、江戸幕府を批判した儒学者の山県大弐が謀反の罪で門弟の藤井右門と共に処刑された「明和事件(明和4年 1767年)」が起こるが、物語の背景はその幕府転覆を図る動きである。(ただし、明和事件は物語の年の2年後)。ちなみに、「宝暦事件」の竹内式部は「明和事件」とも関係があったという罪で八丈島に流されている。

 物語は、その「宝暦の事件」の時に、事件の裏に阿波徳島藩の蜂須賀家第10代藩主の蜂須賀重喜(17381801年)がいたのではないかという設定で、公儀隠密の甲賀世阿弥が阿波徳島藩に送り込まれ、10年の歳月が流れたが、音信不通のままになっており、江戸に残された一人娘の千絵の行く末が案じられるという状況から始まっていく。そこで、千絵の乳母の兄の唐草瓦の窯元の唐草銀五郎が子分の多市を連れ、千絵の手紙を預かって阿波に潜入しようと大阪にやってくるのである(このあたりを作者は、隠密御用は10年帰府なきを死亡とみなして、後継のない甲賀家は取り潰しの危機に瀕しているとしている。もちろん、これは作者の設定であり、史実ではないが、物語を始めるにあたり必然性を持っているように読ませるのである)。ところが、その千絵の手紙が財布ごと「見返りお綱」と呼ばれる美貌の女に摺り取られてしまうのである。

 「見返りお綱」は、摺りとった財布の中の手紙を見つけて、手紙だけを二人に返そうとするが、それが行き違いになって、手紙は目明しの万吉の手に渡る。万吉は、8年前の「宝暦事件」の背後に徳島藩蜂須賀家の陰謀があるのではないかと察していた元奉行所与力の常木鴻山と元同心の俵一八郎と共に阿波の蜂須賀家の様子を探っていた目明しだった。常木鴻山と俵一八郎は「宝暦事件」の背後に徳島藩の藩主蜂須賀重喜がいることを上司に訴え出るが、取り上げられないばかりか役目不心得となって牢人していた。だが、二人はなおも蜂須賀家の様子を探っていたのである。偶然が偶然を呼ぶという展開の仕方が取られていくのである。その展開は、吉川英治の物語作家としての巧さそのものといえる。

 さて、千絵の手紙を失った唐草銀五郎は、も一度江戸にもどって千絵に手紙を書いてもらうために多市を江戸へ向かわせるが、そのことを知った目明し万吉が後を追いかける途中、多市は辻斬りを働いていた「お十夜孫兵衛」に襲われ斬られてしまうし、万吉は彼を助けようとして捕まってしまう。「お十夜孫兵衛」は、元阿波徳島藩の原士(郷士)で、丹石流の剣技に非凡な技をもっていたが浪々の生活をし、辻斬りを働いていたのである。捉えられた目明し万吉は彼の手下の家に監禁されるが、そこに「見返りお綱」がやってくる。「見返りお綱」と「お十夜孫兵衛」は江戸での知り合いで、「見返りお綱」は江戸から大阪に来ていたところであったのである。

 蜂須賀家の内情を探るために妹を女中として忍び込ませて、伝書鳩を使って連絡を取っていた元奉行所同心の俵一八郎は、万吉の妻から万吉が帰ってこないということを聞いて、鳩を使って万吉の居場所を探し出し、万吉があわや「お十夜孫兵衛」によって殺されようとするところに駆けつけて万吉を救い出す。そして、万吉がもっていた千絵の手紙を読んで、江戸の千絵に会えば蜂須賀重喜についてや幕府の意向がわかるのではないかと思い、常木鴻山、万吉と共に江戸に向かって出発していくのである。

 他方、「お十夜孫兵衛」に斬られて川に落ちた多市は、助けられて川魚料理の店で手当を受けていた。付近は「いろは茶屋」が立ち並ぶ歓楽街である(「いろは茶屋」という名前から、作者は多分、道頓堀にあったといわれるものを想定しているのだと思われる)。その川魚料理の店に、「お米」という美貌の出戻り娘がいて、その娘をなんとか自分のものにしたいと思っている徳島藩の御船手が通ってきていた。九鬼弥助、森啓之助、そして原士(郷士)で剣客の天堂一角である。

 そこに多市の話を聞いた「お糸」の計らいで唐草銀五郎が駆けつけ、これまでの経緯が語られるが、それを川魚料理屋に居合わせた森啓之助が盗み聞きし、彼らが徳島藩を探ろうとしていることを知って、九鬼弥助や天堂一角とともに二人を捕らえようとするのである。その時、偶然にも尺八を吹いて歓楽街を流していた虚無僧姿の法月弦之丞(のりつきげんのじょう)が通りかかり、あわや銀五郎が斬られるかと思われた時に彼を助け出すのである。この時、銀五郎は自分を助けてくれた虚無僧姿の法月弦之丞が江戸の甲賀家での旧知で、千絵が弦之丞を慕い、頼りにしていることを弦之丞に告げ、千絵を助けてくれるように懇願するのである。千絵には悪賢く粘着質の旅川周馬という侍が言い寄って、甲賀家も狙っているという。

 法月弦之丞は、大身七千石の幕府大番組頭の子息で、故あって江戸を捨て、虚無僧姿で諸国を歩いている美貌の青年侍である。彼は甲賀家の娘千絵と恋仲だったのだが、江戸を離れたのである。彼の美貌は周囲の女性を虜にするところがあり、この時に、「見返りお綱」も「お米」も、ひと目で弦之丞の虜になってしまう(こういうところがエンターティメント性を生んで、一時、虚無僧姿の法月弦之丞は世の女性たちの大きなあこがれを生んだといわれる。映画では美男の典型と言われた市川右太衛門や長谷川一夫が主演している)。そして、この法月弦之丞こそが、本作品の主人公なのである。

「見返りお綱」も「お米」も、その恋は本物で、身を焦がすようにして弦之丞を慕い、「お米」は、法月弦之丞に千絵という女性があって、一時自害を覚悟したほどであった。娘の切ない恋心が描き出されていく。「お米」は人も羨む美貌であるが労咳(結核)を患って叶わぬ恋をし続けていくのである。「見返りお綱」も偶然にもその川魚料理の店に客としていたのである。

 その後、阿波徳島藩の追っ手から逃れるために、傷ついた唐草銀五郎と多市、そして法月弦之丞は、「お米」の計らいで大津に身を隠し、「見返りお綱」は江戸に向かう。だが、「見返りお綱」の色香を追ってきた「お十夜孫兵衛」も一緒になり、彼女は操の危機を迎えるが、眠り薬で彼を眠らせて逃れ、腹を立てて追ってきた「お十夜孫兵衛」に捕まりそうになった時に、江戸に向かっていた目明しの万吉がいあわせて彼女を助けるのである。そして、俵一八郎と万吉は旅の途中で、偶然にも唐草銀五郎と多市、法月弦之丞が身を隠していたお堂に立ち寄り、そこで、これまで阿波徳島藩蜂須賀家の陰謀を探っていた二組が出会い、協力しあうことにする。

 しかし、法月弦之丞に恋焦がれて隠れ家まで来てしまった「お米」の後をつけて隠れ家を発見した徳島藩士たちは、その隠れ家を急襲し、ついに多市を殺し、銀五郎と俵一八郎をとらえる。法月弦之丞は、その夜、千絵とのことや自分の不甲斐なさを嘆き、悩みながら他出していたし、万吉はかろうじて彼らの手を逃れる。やがて、知らせを聞いて法月弦之丞が駆けつけ、捕縛されて拐かされた二人の後を追い、徳島藩士たちと斬り合って、銀五郎だけは助けるが、俵一八郎を助け出すことはできなかった。

 だが、助け出された銀五郎も深手を負っており、そこで、法月弦之丞から千絵を助けるという決意を聞きながら息を引き取ってしまうのである。弦之丞は、俵一八郎も大阪の蜂須賀家下屋敷に連れて行かれたと推測し、また、藩主の蜂須賀重喜の国許帰国が迫っていることもあって、下屋敷を見張る。しかし、警戒が厳重で下屋敷にはなかなか近づくことができなかった。

 そうしているうちに、川魚料理屋の娘「お米」に横恋慕していた阿波徳島藩の御船手である森啓之助が、いよいよ帰国を前にして、ついに「お米」をさらって、抜け道をとおて阿波徳島藩下屋敷に監禁する事態となり、法月弦之丞は、森啓之助の後をつけて抜け道を発見し、下屋敷に潜伏するのである。

 阿波徳島藩大阪下屋敷では、藩主の蜂須賀重喜が、「宝暦事件」に関与して幕府の手から逃れていた竹屋三位卿有村(公家の竹屋家の系図には有村という人物が見当たらないので、おそらく作者の創作だろう)を匿い、公家を招いて、徳川幕府転覆の気炎をあげていた。蜂須賀家は、三代将軍徳川家光の頃の三代目藩主蜂須賀至鎮(よししげ)を徳川家から嫁に来た奥方が毒を用いて殺したために、徳川家に対する長年の恨みを持っていると言う(これは作者の創作だろう。名君といわれた蜂須賀至鎮は、実に多くの人々に慕われる人物だったが、病弱のために1620年に享年35でなくなっている。彼の妻(氏姫 敬台院)は、小笠原秀政の娘で家康の養女となって蜂須賀家に嫁いだが、至鎮の死後46年間も生存し、日蓮宗を保護している。本書が告げるような、至鎮に毒をもり、自らもその毒をあおいで死んだということはなかったのである)。止まれ。阿波徳島藩下屋敷に潜んだ法月弦之丞は、この事実を知っていく。

 第一冊目の半分ほどでこれだけの展開がなされ、登場人物たちの危機が連続して起こり、そのあいだに主人公に恋い慕う女性たちも登場し、息をつかせぬ展開がなされているのだから、一気に読ませる作品になっているのは当然で、しかも、物語の起伏が実に細かく配置されている。都合よく偶然が折り重なって物語が展開されていくが、考えてみれば、人間の関係とはそういうものかもしれない。一回では書ききることがもちろんできないので、この続きはまた次回に記すことにする。

2012年10月29日月曜日

上田秀人『侵蝕 奥祐筆秘帳』


 木の葉が色づき始め、秋が一段と深まっていく。人間の精神的バイオリズムから言えば、精神が今頃から低調を醸すとも言われているが、晩秋に向かう時の寂寞感が漂い始めている。人間は気分の動物である。伸びきった髪をそろそろ切りに行こうかと思ったるする。

 昨夜は、上田秀人『侵蝕 奥祐筆秘帳』(2008年 講談社文庫)を一気に読んでいた。これは、徳川家斉の時代(将軍在位:17871837年)、ことに、それまで老中首座として寛政の改革を断行してきた松平定信を1793年(寛政5年)7月に罷免した後の時代を背景として、幕政の中枢的機能を果たしていた奥祐筆にあるものを主人公とし、幕政の裏側や陰謀、権力争いの確執を描いたもので、ある種の緊張感の中で物語が展開されるので、読むときには一息で読ませる作品である。これまでにもいくつかのこシリーズのものは読んでおり、本書は第3作で、将軍徳川家斉の父親である一橋治済による家斉毒殺未遂事件が展開されていく。

 主人公の奥祐筆立花併右衛門は、大奥から上がってきた新規の大奥女中の召し抱えの書類に不審を抱く。家斉の正室は薩摩藩主島津重豪の娘(茂姫 広大院)で、3歳の頃から家斉と婚約させられていたのであるが、徳川幕府が最も恐れた外様大名の雄藩であった薩摩の血を入れることにひと悶着あり、結局16歳の時に婚儀が行われ、第2代将軍徳川秀忠の性質であった「お与江の方」以来の正室による男子誕生をなすが、生まれた敦之助がわずか3歳で死去し、その後も子どもには恵まれなかった。しかし、家斉が設けた多くの子どもたちをすべて「御台所御養」として茂姫の子どもにし、正室の権勢は揺るぐことがなかったと言われている。

 この茂姫付きの奥女中として薩摩藩士の娘を登用したいというのである。しかし、そこには裏があった。奥祐筆の立花併右衛門は護衛役として雇っている隣家の次男である柊衛悟をつかってその背後にある薩摩藩の動きを調べ、それが、将軍位を我がものにしたいと思っている家斉の父親である一橋治済による画策であることを暴いていくのである。

 一橋治済は、岡場所に堕ちた美貌の藤田栄という女性を使い、女好きの家斉の目に触れさせて、その乳房に毒を塗ることで家斉を毒殺し、将軍位を奪い取ろうと企てたのである。藤田栄の家族は口封じのために皆殺しにする。そして、家斉は乳房に塗られた毒で次第に弱っていく。この家斉の危機を公儀御庭番の女忍が救う。

このシリーズは、政争の影で、治済の意を受けて動く元甲賀の「冥府防人」、公儀お庭番、朝廷の意を受けて動いている上野寛永寺の「覚蝉」などが暗躍し、それらと柊衛悟が立ち向かっていくのであるが、今回は特に、海外貿易を密かにおこなっている(抜荷)薩摩藩の示現流の使い手たちとの対決が描き出されていく。このシリーズは、そうした歴史の影で暗躍した人物を登場させて、それによって為政者がいかに権力に固執し、そのためにいかに権謀術作を用いたかが描き出されて、その緊張の中で柊衛悟と立花併右衛門の娘「瑞紀」の恋も描かれ、エンターティメントの要素が満載されているので面白く読めるものになっている。

本書では柊衛悟の兄によって衛悟の養子の口が見つかり、互いに密かに思いを抱く衛悟と「瑞紀」は悩むが、奥祐筆の護衛の任を続けることを望む立花併右衛門が裏から手を回して養子の話を壊し、衛悟も「瑞紀」もホッとするということが記されている。

 個人的に、徳川幕府はだいたい家斉の頃から目に見えて衰退していくと思っているが、「家が内部で争うと滅びる」というのは真実で、いつでも、どこでも、力や権力を求めたがる人はいるのだし、滅びの芽はどこにでもあるなあ、と思いながら読んでいた。策を行う者は策によって滅びる。これが歴史の修正力かもしれないとも思う。

2012年10月26日金曜日

池端洋介『元禄畳奉行秘聞 公儀隠密刺殺事件』


 変わりやすい秋の天気の中で、今日は秋晴れとなった。そろそろ冬仕度を始める頃だが、このところ少し仕事に追われる感じで体調の管理もままならない日々を過ごしている。毎年、今の時期はやむを得ないところがあるが、「生き難き世を面白く」と思っている。

 昨日は会議で早稲田まで出かけ、その往復の電車の中で池端洋介『元禄畳奉行秘聞 公儀隠密刺殺事件』(2009年 大和書房文庫)を面白く読んでいた。これは、主に元禄時代に尾張徳川家の家臣で、膨大な「鸚鵡籠中日記」という日記を残している朝日文左衛門(重章)をユーモアあふれる主人公にして、尾張徳川家が置かれた状況や将軍後継者をめぐる争いなどを展開したシリーズの三作目で、前に第一作の『元禄畳奉行秘聞 幼君暗殺事件』(2009年 大和書房文庫)を読んでいた。シリーズの三作目が一作目と同年に出されているから、かなり集中して積極的に書かれたのだろうと思う。

 元禄時代は、「元禄文化」と呼ばれる江戸文化が花開いた時代ではあったが、「生類憐れみの令」で有名な第五代将軍徳川綱吉の時代で、綱吉の嫡男である「徳松」が五歳で夭折し、後継者がなかったことから、水戸、紀州、尾張の御三家による後継者問題が生じ、それぞれの暗躍が行われるようになっていった時代でもある。本書も、江戸幕府と紀州徳川家が尾張に隠密を送って様子を探らせるということが背景となっている。

 こうした殺伐とした中で、本書は、朝日文左衛門に初めての子ができ、しかも女の子であったためにちょっとした失望に見舞われたり、おしとやかで控えめであった妻の「お慶」が、女から強い母に変わっていくことに戸惑いを覚えたりしながら、相変わらず友人たちと飲み歩いている姿から書き始められている。すこぶる能天気で楽天的な愛すべき人物として主人公が描き出される。

 この朝日文左衛門は、普段は腰が引けた動きの鈍い小心者であるが、いざという時に、気を失った状態で無意識のうちに繰り出す「気まぐれ必殺剣」というものがあり、それで幾度もの危機を乗り越えるのだが、どうやらその剣技が尾張柳生の柳生連也斎(兵助厳包)の秘伝の太刀らしいことがわかっていく。連也斎の秘めた内弟子となっていた文左衛門の叔父たちが、文左衛門が幼い頃に教えたもので、文左衛門にはその頃の記憶がぼんやりとしか残っていなかったのである。

 おそらく第二作で展開されたのだと思われるが、「日置村の偽刀事件」(尾張の偽刀事件はよく知られている)の際に襲ってきたのが紀州の新陰流の使い手たちで、どうやら紀州にも「西脇流」と呼ばれる紀州柳生があるらしく(柳生十兵衛三厳に剣を習った西脇勘左衛門が起こしたもの)、どうやら紀州徳川家はその紀州柳生の使い手たちを尾張に送り込んでいるらしいのである。それとは別に、江戸幕府も江戸柳生を隠密として大量に送り込み、徳川御三家の対立は柳生三家の戦いでもある様相を呈し始めていくのである。

 朝日文左衛門を尾張柳生の秘伝の使い手だと設定することによって、こうした隠密どうしの争いとして展開させるという作者の設定は、なかなかうまい設定だと思う。柳生連也斎は、三大将軍徳川家光の時代に御前試合で江戸柳生の柳生宗冬を打ち負かし、江戸柳生は尾張柳生に対して確執をもつようになっていた。朝日文左衛門の叔父たちは、その連也斎の内弟子で、しかも何かの理由で尾張を離れたのではないかと語られ、それが気になった文左衛門がその理由を探っていくという展開になっていく。

 尾張徳川家自体も、その内部で、付家老(尾張徳川家が成立するときに江戸幕府から監視役も兼ねて付けられた家老)の成瀬家と竹腰家の争いがあり、尾張の様相は複雑になってきていた。物語で展開される事件そのものは、尾張徳川家の付家老である竹腰家が、大名となるために、尾張藩を潰して、そのうちの何万石かをもらうつもりで幕府を動かして、尾張藩取り潰しの大義名分を探るために多くの隠密を送り込み、その企てが朝日文左衛門の機転によって頓挫させられていくというもので、文左衛門の叔父も密かに江戸柳生の手から尾張を守るために働いていたというものである。

 だが、その過程の中で、いつも脳天気に発想する主人公と彼を中心にした友人たちの姿などがユーモアのある文章で綴られて、ちょっとしたことが事件の解決につながっていくという幸運に見舞われていくなど、面白く描かれている。今回の作品は隠密の暗躍などがあって、どちらかと言えば「暗闘」に近い話なのだが、底抜けに明るい。日々の暮らしの中での感想が面白く取り上げられているからだろう。こうした楽天性は大事だと思うので、読み物として気楽に読める一冊だった。

2012年10月24日水曜日

安部龍太郎『葉隠物語』(2)


 安部龍太郎『葉隠物語』(2011年 株式会社エイチアンドアイ)の続きであるが、本書は、佐賀鍋島藩の藩祖となった鍋島直茂が仕えた龍造寺隆信が戦死した「沖田畷(なわて)」の戦いの記述から始まる。龍造寺隆信(15291584年)は、豊後の大友宗麟、薩摩の島津義久と並んで九州三強の一人として称され、肥前を統一した人物であるが、疑心暗鬼にかられやすく冷酷非情であったとも言われている。鍋島直茂は、その有能な家臣として龍造寺隆信に仕え、1570年に大友宗麟が肥前に攻め込んだときも、奇襲策を講じて撃退し(今山の戦い)、大友宗麟と有利な和睦を結ぶにいたらせたりしている。1578年に南肥前日野江(島原)の有馬晴信を降して肥前を統一し、家督を嫡男の龍造寺政家に譲って隠居したが、隠居後も実権を握り続け、このころから酒色に溺れて、諫言する鍋島直茂を政務から遠ざけたりしたと言われている。

 しかし、鍋島直茂は、たとえ主人がどのような者であれ、徹底して龍造寺隆信に仕える姿勢を貫き続ける。それが、『葉隠』の「忠」の精神であったと語るのである。しかし、『葉隠』の「忠」は、決して盲信して服従するのではない。誤りは誤りとして己の一命をかけて正そうとする。その目的が仕える主が正しい道を歩むためであるが、ひとたび命が降ると、たとえそれが自分の意にそぐわないものであってもそれに服していくという「忠」である。龍造寺隆信は、馬に乗れないほど太っていて、有馬・島津連合軍が肥前に攻め込んだ時の「沖田畷の戦い」では、輿に乗って動かなければならないほどであり、直茂の諫言を退けて、己の力を過信するあまりぬかるむ田に直進して討ち死にするのである。

 鍋島直茂も龍造寺隆信に従って危機的状況を迎えるが、「葉隠」の真髄を表したと言われる斎藤佐渡・用之助父子が追っ手のすべてを引き受けるという決死の働きをし、中野清明に抱えられて助けられるのである。この斎藤用之助が『葉隠』の真髄を表すものとしていくつかのエピソードが残されており、鍋島直茂を抱えて助けた中野清明が山本常朝の祖父である。

 鍋島直茂は、討ち取られた龍造寺隆信の首の返還を否むことで家臣を「死に物狂いの一団」として薩摩に対峙し、恐れをなした島津家久が退却することで佐賀を安定させ、この時に龍造寺隆信の後を継いだ龍造寺政家は、領国の支配を鍋島直茂に任せるのである。主君はどこまでも龍造寺家であるが、藩政は直茂が行うという二重構造となり、政家は元々病弱で武将としての才に欠けたところもあり、両国の安定のための直茂の苦労が始まっていく。その歴史の経過はよく知られており、佐賀鍋島家はともあれ明治になるまで雄藩としての地位を保っていく。

ただ、ここでは「葉隠精神」について、その具現者とも言われる斎藤用之助について若干触れておくことにする。彼ののエピソードは、本書の中でも第七話「昼強盗」の中で述べられているが、これは『葉隠』聞書第三―十六節に記されていることで、藩士の士気が落ちてしまったのを見た鍋島直茂の意向を受けて彼の後を継いでいる鍋島勝茂が鉄砲の射撃訓練を行ったとき、鉄砲名人として知られた斎藤用之助も訓練に参加させられ、的を狙わずに空に向けて鉄砲を撃ってしまい、「この年まで土など撃ったことはない。しかし敵の胴中をはずしたことはない。飛騨守(直茂)どのが生きておられるのがその証拠よ」とうそぶいて、いたずらに鉄砲訓練などさせる非を指摘したのである。これを聞いて、鍋島勝茂は自分の指示した鉄砲訓練を馬鹿にされたと激怒し、用之助に切腹を命じようとする。

 しかし、鍋島直茂はこれを止めさせて、個々の人間を見ずに十把一絡げに取り扱ってしまう勝茂を逆に諌めるのである。

 もうひとつのエピソードは、斎藤用之助の家が貧を極め、もう食べる米もないという事態になり、女房からそのことを聞かされたとき、父親の斎藤佐渡と共に城に近い高尾橋まで出かけ、城に収めるはずの年貢米を奪い取ったのである。斎藤親子は、当然のことながら奉行所に捕まるが、「腹がへっては戦ができぬと、心得ているからでござる」と豪語するのである。藩の家老たちは二人に対して法度どおりに死罪を決し、これを藩主の勝茂に伝えるが、勝茂は、父親の直茂が斎藤親子を恩人として取り扱っていたこともあって、一応、直茂の意見を聞くことにする。

 その話を聞いて、狼藉を働いたからには死罪もやむを得ないだろうと直茂は答えるが、直茂は女房に語りかけて、「こうして我ら夫婦が殿と言われて安穏な暮らしができるのも、あの二人の働きがあったればこそなのじゃ。・・・それほどの恩人が米もなく飢えていたというのに、何も知らずに放置していた我らこそ大罪人じゃ。なあ嬶、そうは思わぬか」と語り、「あの者たちが殺されたなら、わしらも生きてはおられまい」と夫婦して涙を流すのである。

 これに驚いた勝茂は、死罪を取りやめて、罰を減じ、斎藤用之助を牢人とするのである。そして、それほどのものが牢人となって他国に出るのは何としても止めたいと思い、牢人でも他国に出ることを禁じ、その代わりに食いつないでいけるだけの食い扶持を与える制度を作るのである。この制度は「手明槍」と呼ばれる。鍋島直茂夫婦はこの処置を喜び、また、斎藤親子もその恩を感じ、直茂が亡くなった時には、勝茂が止めたにもかかわらず追腹を切った(殉死した)のである。

 斎藤佐渡・用之助親子は、毎朝自分が死ぬことを想起して心を鍛錬し、いかなる事態も平然としていることができるような武士であり、まさに「葉隠武士」そのものであったのである。「己の死」の姿を様々に思い描くことによって、それを肝に据えて日々を送る。それが「葉隠」である。

 機転を利かせて斎藤親子の罪を減じさせた鍋島直茂の妻の陽泰院(ようたいいん 15411629年)についても『葉隠』はそのエピソードを書き記している。陽泰院は、気丈で聡明、機転が利くと同時に慈悲深い女性であったと、今でも賢夫人、国母と慕われる人で、直茂とは当時では珍しい恋愛結婚であった。

 彼女は龍造寺隆信の家臣であった石井常延の次女として生まれ、やがて龍造寺家の家老であった納富信澄に嫁ぐが、夫が戦死したために娘を連れて実家に戻っていた。そこに龍造寺隆信や鍋島直茂らが出陣の帰りに休息のために立ち寄り、昼食を取ることになったのである。主君の急な来訪で、石井家は慌てて昼食の準備をし、鰯を焼いてもてなすことにしたが、人数が多くて鰯を焼くのに手間取ってしまった。女中たちが右往左往しているのを見ていた陽泰院が、「なんと手際の悪いこと」と自ら厨房に立ち、かまどの火と炭を庭先にぶちまけて、その中に大量の鰯を投げ入れ、焼き上がった鰯を笊の上で灰を振るい落とし、焼きたての鰯を供したのである。

 これを見ていた鍋島直茂が「あのような機転が利く女性を妻にしたい」と惚れ、それから熱心に石井家に通うようになるのである。直茂は、一度、東肥前の高木胤秀の息女(慶円)を妻として迎えるが、秀胤が敵対していた大友宗麟に寝返ったためにやむなく慶円を高木氏送り返して離縁していた。直茂は何度となく陽泰院のもとに忍び込み、密会を重ねていたが、ある時、これを知らない家臣が不審者が忍び込んでいることに気づき、警戒し、忍び込んでいた直茂を発見するのである。直茂は屋敷を飛び出して、塀を越え、濠を越えて逃げようするが、その家臣に足を斬られたということが起こったりしている。直茂はそのために足の裏に傷を負って、その痕跡は生涯残ったと言われる。いわば、夜這いを見つかってほうほうのていで逃げ、負傷するのである。

 しかしその甲斐があって二人は正式に結婚することになり、陽泰院は、長女千鶴と次女彦菊、そしてやがて、嫡男勝茂を産み、次男忠茂をもうけている。なお、彦菊が生まれたあと、長く男子が生まれなかったために陽泰院の姉の孫に当たる鍋島主水(佑茂里)を養子にした。夫婦仲はすこぶる良く、いつまでも相愛で、直茂が江戸から帰国する際にひどい船酔いをし、これを恥じて自害すると言い出した時に、側近の藤島生益が羽交い絞めにしてこれを止め、帰国後、その話を直茂が陽泰院にして、「今、ここにいるのは生益のおかげぞ」と語ったところ、陽泰院は藤島生益の前で、涙を流して合掌し、何度も「ありがたや」と感謝したそうである。それほど夫想いの女性で、しかも自分の夫への愛情を人に隠すことのない素直な女性であったのである。

 佐賀には、夫が離縁によって再婚した時に、離縁された女性が夫の後妻を仲間を集めて襲うという「うわなりうち」と呼ばれる風習があり、直茂が陽泰院と結婚した後、前妻の慶円も仲間を集めて陽泰院を襲う出来事があった。たいていはそこで前妻と後妻の戦が始まるのだが、陽泰院は終始冷静に争わずに、慶円らを丁重に迎えて茶菓でもてなし、拍子抜けした慶円らは何事もなく帰らざるを得なかったという。

 また、龍造寺隆信が筑後の豪族であった田尻家を破り、田尻家の人々を処分する際に、幼い男子がいて、龍造寺隆信はその子も処分するように命じたが、処刑場に座らされたその子を見て、陽泰院は隆信にしきりに助命を願い出て、隆信も陽泰院のたっての頼みとあってこれを受け入れ、その子を直茂・要退院夫妻に預けるという処置をするのである。その子は成長し田尻善右衛門と名乗り、直茂の家臣としてよく仕えるようになるのである。要退院が死去した際、田尻善右衛門は「かつて奥方様に命を助けられました。今こそその恩に報いる時。あの世までお供する」といって殉死をする。要退院が死去した時には、女性四名、男性四名の家臣が殉死しているが、大名の奥方の死に殉死者が出るということは極めて珍しく、それだけ彼女が多くの者に慕われていたことを示すものである。

 要退院に関しては、ほかにも、囚人たちが寒かろうと言って温かい粥を振舞ったことや、周囲の人々に対する温かい心遣いの逸話が残され、『葉隠』に記されている。

 佐賀鍋島家は、やがて、龍造寺家との確執を抱えたままではあったが、龍造寺信隆の嫡男の政家とその子の高房が死去すると、名実ともに佐賀藩の藩主となり、直茂は藩祖ではあっても初代の藩主は鍋島勝茂となっている。二代目藩主は勝茂の子の光茂で、三代目が綱茂である。しかし、3支藩(蓮池、子城、鹿島)と鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)、龍造寺4分家(多久、高雄、諫早、須古)の各自治領があり、その複雑な構造が佐賀を疲弊させていく。佐賀鍋島藩が歴史の中で再び雄藩として輝くのは幕末の第10代藩主鍋島直正の頃である。

 本書は、その他にも「葉隠武士」として中野杢之助、鍋島采女、そして山本常朝(神右衛門)の姿などを描き出しているが、「葉隠」の精神は、「徹する」というところにあるのかもしれないと思ったりする。それぞれについては、また別の機会に記すことにして、とりあえずの読後感である。

2012年10月22日月曜日

安部龍太郎『葉隠物語』(1)


 先日、青葉区役所に諸用で出かけた折に、駐車場一面に金木犀の甘い香りが漂っているのに気づいた。金木犀の香りは、どことなくふわりふわりとした優しさを感じさせる。小さな茜色の花が満開だった。「秋、深し」である。

 この数年、なぜか思考の琴線に触れていることの一つに、佐賀鍋島藩の山本常朝が口述して田代陣基(つらもと)が記した「葉隠」の壮烈な生き様がある。以前、隆慶一郎『死ぬことと見つけたり』(隆慶一郎全集1314巻 2010年 新潮社)を読んで、その「葉隠」思想を体現させた主人公たちの姿があまりに強烈だったこともあるし、若い頃に読んだ時の理解を一変させるものだったこともあり、また改めて自分の「覚悟」というものを考える上で大きな意味を持っていることに気づかされたからである。若い頃にはわからなかったことが、年月を経て実感的にわかってくるということがあるもので、わたしにとっての「葉隠」はそういうものの一つである。

 そして、先日、あざみ野の山内図書館で安倍龍太郎の作品に『葉隠物語』(2011年 株式会社エイチアンドアイ)という作品があるのに気づき、早速、借りてきて読んでみた。本書の「あとがき」の中でも、作者も隆慶一郎の作品に触れて、「山本常朝の実践哲学がおぼろげながら見えてきた」(414ページ)と語り、「原書を貫く精神を、数々のエピソードを小説化することでとらえ直す」のがこの作品であると語っているが、読んで見て、「葉隠」が生まれてきた史的背景が見事に描かれ、優れた「葉隠」の体現が行われていると思った。もちろん、隆慶一郎が強調した「常に死を覚悟して生きる」ということが本書でも強調されている。「葉隠」の真髄は「義を貫いて生きる」ということでもあり、描かれる儒教的な主従関係の事柄は別にして、「気概」として考えておきたいことだと思っている。

 本書は、「序章 出会い」で、まず、「葉隠」を記述してまとめた若い佐賀藩士である田代陣基が、佐賀の北にある黒土原(現:佐賀市金立町、弘学館高校がある)に庵を結んでいた山本常朝(常朝は出家後の名前で、それ以前は山本神右衛門)を訪ねるくだりが記されている。山本常朝は、佐賀鍋島藩の二代目城主鍋島光茂に御祐筆(書記官)として仕え、御書物役や書写奉行などを勤め、藩随一の学者とも言われて、光茂が和歌の最高権威である「古今伝授」を授かるのに功のあった人で、佐賀の「曲者(ひとくせもふたくせもある人物、良い意味での頑固者)」と評されていた。藩主の光茂が亡くなった時、追腹を切る(藩主と共に死ぬ)ことが禁止されていたために、出家剃髪して逼塞していたのである。

 本書の「序章」は、田代陣基が山本常朝を訪ねることになった由来を記す。田代陣基の同僚が酒場での口論・喧嘩で人を切ってしまい、相手が藩の重職の子息であったことから裁定が厳しくなり、同僚に切腹が命じられたが、家中からその裁定に不満が起こり、助命嘆願書を作成することになって、能筆家として知られていた田代陣基にその依頼がくるのである。田代陣基はその依頼を受けて嘆願書を作成するが、つい、感情が高ぶって書いてしまったために、その、書きぶりが僭越すぎるということで牢人を命じられてしまうのである。彼に嘆願書の作成を依頼した人たちも、彼に責任を押しつけて、彼は孤立し、これからは米も買えない貧しい暮らしになるとともに親類縁者にも顔向けできず、裁定にも承服し難く、武士の意地を貫いて切腹しようと覚悟を決めるのである。田代陣基、三十二歳の時である。

 だが、死ぬ前に、前々から常朝に会って教えを受けたいと思っていたので、その常朝にあってから腹を切ろうと会いに出かけるのである。山本常朝は彼を迎え入れ、自分で手揉みして作った茶をふるまい、事情を聞く。そして、「なるほど、それでここに死にに来たわけか」と言う(14ページ)。田代陣基は「それしか武士の一分を立てる道はないものと存じます」と答える。だが、常朝は「まず、切腹を命じられた友の介錯をせよ。その位牌を抱いて、仇と目する重役の屋敷に斬り込むが良い。そうして斬り死にしてこそ、こたびの処分の非を鳴らすことができるではないか」と語るのである。そして、牢人を命じられたら命がけで牢人せよ。平伏するときは、いつ命を取られても構わないという覚悟で首を差し伸べよ、と言う(1416ページ)。

 この山本常朝が語った姿は壮烈な生き様である。そして、切腹を覚悟していた田代陣基は、「己の未熟に気付いたからには、うかうかと死んではおれませぬ」と常朝に弟子入りを志願するのである。こうして「葉隠」を生む師弟関係が始まった、と本書は記す。

 ここで描かれたことの史実性は別にしても、記されている山本常朝の言葉は、「葉隠」の真髄を示すものと言えるだろう。「死に狂い」とは「死を当たり前のように覚悟して生きる」ことにほかならない。それはまた、簡単には死なないということでもある。

 こうして、本書が始まるが、それぞれの章ごとに「葉隠」の一節が原文として記され、それが生まれてきた背景として、佐賀鍋島藩の藩祖であった鍋島直茂(15381618年)の出来事から順に歴史をたどる形で、「武士(もののふ)の曲者(くせもの)」として生きた人々の姿を記していくのである。

 以前、隆慶一郎『死にことと見つけたり』について読書記録を記した時には詳細に記していなかったので、「葉隠」の思想を探る意味でも、ここでは少し詳しく内容を記したいので、その内容については次回に記すことにする。

2012年10月18日木曜日

西條奈加『朱龍哭く 弁天観音よろず始末記』


 1516日と箱根で研修会があり芦ノ湖まで出かけていた。ついでに箱根の関所跡にも寄って、江戸時代に箱根を越えることの難しさを改めて感じたりしてきた。

 閑話休題。西條奈加『朱龍哭く 弁天観音よろず始末記』(2012年 講談社)を、作者の興が乗ってきたような作品だと思いながら、とても面白く読んだ。作者が描く人物像が柔らかく、しかも展開される事件が「身分の差をなくす世直し」というような深刻な問題であるというのがいい。

 作中の主要な人物は二人の女性で、一人は、深川で芸者をしていた母親がなくなったあと、柏手長屋という裏店で長唄の師匠をしながら生活している「お蝶」というしゃきしゃきの江戸っ子娘で、もうひとりは方向感覚がまるでなくて外見はおっとりしている義姉の「沙十(さと)」である。「お蝶」は弁天、「沙十」は観音といわれるほど二人は美貌の持ち主だが、二人とも爽やかさが衣を着ているような女性である。

 「お蝶」の父親は南町奉行所の与力をしていた榊安右衛門だが、彼の妻が長男の安之を産んで早くになくなり、その後、深川で芸者をしていた「おさき」との間に「お蝶」ができたのである。「おさき」はしゃきしゃきの辰巳芸者で、「妾をやらせてもらうほど、こちとらひ弱にできちゃいねえのよ」といって安右衛門の世話にはならず、安右衛門がなんども一緒に住むことを願ったが、ついには一緒に住まずに、芸者をしながらせっせと安右衛門の家に通っていたのである。榊安右衛門は長男の安之に家督を譲ってひとり暮らしをしていた。その「おさき」が病気でなくなり、そのあとすぐに後を追うようにして安右衛門もなくなってしまい、「お蝶」は柏手長屋で長唄の師匠をしながら暮らしているのである。

 「沙十」は「お蝶」の異母兄の安之の妻で、安之は「お蝶」に屋敷で暮らすように頼むが、「お蝶」が断り続けているために「お蝶」の長屋を訪ねてくるのだが、方向感覚がまるでなく、つい反対方向に道を曲がっていってしまうというおっとりしたところのある女性で、安之も「お蝶」を可愛がっているなら「沙十」も「お蝶」を可愛がり、二人はまるで姉妹のような間柄である。「沙十」は、一見、茫洋としたところがあるように見えるが、実は頭脳明晰で、薙刀の腕は師範代を務めるほどで、豪胆な胆力をもった女性である。

 この二人の個性ある女性が大きな事件に関わっていくという筋書きだから、物語は優れて面白くなっていく。物語のはじめは、与力の家である榊安之のところに持ち込まれる相談事を「沙十」が解決しようとするところから始まる。「お蝶」のところに長唄を習いに来ている瀬戸物問屋の娘に悪い虫がついたようだからなんとかしてくれと頼まれるのである。瀬戸物問屋の娘には縁談が持ち上がっていた。

 「お蝶」と「沙十」は、さっそくその「悪い虫」と言われた男に会いに行き、手を引くように頼むが、うまくいかずに、瀬戸物屋の娘にも直接会って話を聞いても、娘は男の真実を信じていて別れないと言い出す。そうしているうちに瀬戸物問屋の娘が拐かされてしまう。拐かし犯が要求したのは身代金ではなく、瀬戸物問屋が得ようとしていたある大藩の御用達商人になるという話を白紙に戻せということであった。この拐かしには裏があった。瀬戸物問屋の娘も、彼女が惚れている男も、共に武家屋敷に監禁されていたのである。「お蝶」も二人が監禁されている武家屋敷に連れ込まれてしまう。だが、そこに「沙十」が、「お蝶」の長屋の住人であり、「お蝶」を守ろうとする雉坊と呼ばれる勧進坊主と幼馴染の千吉を伴って乗り込んでくる。そして、薙刀の立ち回りの腕を見せて瀬戸物問屋の娘とその男、そして「お蝶」を助け出すのである。

 この事件の背後には、その大藩の次席家老と用人との争いがあり、拐かされた娘の瀬戸物問屋が御用達商人になるために賄賂を次席家老に贈り、元々商人を牛耳っていた用人がそれを阻止しようとしたのである。次席家老は、これまでの用人のやり方を覆そうとして互いに敵対していたのである。「沙十」がそのことを見抜き、事件の解決を一挙に行ったのである。

 この事件をきっかけに、与力である榊安之の家に持ち込まれる相談事の解決に「沙十」があたり、その手伝いをするために「お蝶」も異母兄の家に住むことになって、異母兄の安之も一安心していくということになるのだが、実は、「お蝶」と安之の父であった榊安右衛門の死が病死ではなく、何者かに斬殺されたことがわかっていくにつれ、事柄は「世直し」という大事へと向かっていくのである。

 事柄の発端は第二話「水伯の井戸」から述べられていく。「お蝶」は八丁堀の兄の組屋敷に移るが、柏手長屋での長唄の稽古は続け、その護衛に溺愛している異母兄の安之から戸山陣内という若い侍をつけられる。「お蝶」が何者かに襲われたことがあったからでもある。戸山源内は貧乏御家人の次男であるが、武士としての矜持をもち、剣の腕で身を立てたいと願っている侍で、八丁堀の与力の家に仕えることができて、若い娘である「お蝶」を自分の主(あるじ)として、「主のために生命を賭すのが武家の習い」と命がけで「お蝶」を守っていく青年である。

 初め、町方育ちで伝法な口を聞く「お蝶」と武家の格式を貫く陣内とは、うまくそりが合わなかったり、「お蝶」の幼馴染で長屋に住んで「お蝶」に惚れている千吉に嫉妬されたりするが、やがて彼が本当に自分の命をかけて「お蝶」を守っていく姿がわかっていき、「お蝶」も頼りにするようになっていく。

 そうしているうちに、牛込の書物屋(子どもが手習いに使う書物などを扱っている店)から、店や近所にひどい嫌がらせが起こっているので、これを何とかして欲しいという相談が持ち込まれる。「沙十」と「お蝶」が、さっそくその調査に乗り出したところ、嫌がらせをしているのは女の幽霊だという話が出てくる。「お蝶」は長屋の雉坊と千吉に頼んで一帯を見張ってもらい、嫌がらせをする犯人を捕らえる。犯人は近くの武家屋敷に出入りしていたが、どの武家がこの事件に絡んでいるのかはわからなかった。その武家を探している途中で、「お蝶」は何者かに襲われる。賊は、父親の安右衛門から預かっている品を渡せと迫ってくるが、「お蝶」には覚えがない。賊たちは「沙十」の薙刀と陣内の剣によってかろうじて難を逃れることができたが、それによって「お蝶」は、今まで卒中で死んだと聞かされていた父親の死に秘密があることを知っていくのである。

 嫌がらせ事件そのものは、「沙十」の見事な推理で、書物屋の通りの裏店にある「水伯の井戸」と呼ばれる枯井戸から再び甘露な水がわくようになり、自分の家の井戸が枯れてしまった茶道の師匠としても高名な旗本が、その井戸を自分のものにしようと企んだことであることが分かっていく。「お蝶」は、その旗本に長屋の井戸から水を分けてもらうようにしたらどうかと提案し、事件は解決する。

 それからしばらくして、品川の廻船問屋の風変わりで傾いている若旦那が「お蝶」に長唄を習いたいと言ってきたりしているうちに、今度は神田の筆墨硯問屋から、娘の許嫁が九歳の女の子にいたずらをしたという咎でお縄になったが、許嫁はそんなことをする男ではないから何とかしてくれないかという相談が持ち込まれる。この事件そのものも、「沙十」の推理と「お蝶」の人柄で、実は九歳の女の子が嘘をついていたことが分かっていくのだが、「お蝶」に長唄を習いたいと言ってきた廻船問屋の若旦那が「お蝶」の父親であった榊安右衛門殺しに大きく関わっていくのである。

 このように伏線いくつも張られて、物語が佳境に入っていくように巧みに構成されている。その事件の真相を探っている時に、「お蝶」は再び何者かに襲われ、通りがかった廻船問屋の若旦那の機転で助けられるということが起こる。それをきっかけに廻船問屋の若旦那は「お蝶」の長屋に出入りするようになるのである。頭脳明晰で人を見抜く力もある「沙十」は、「お蝶」を巡る一連の出来事を見極めようとしていく。

 そこに、かつて父親の榊安衛門と碁仲間で、気安く出入りし、安右衛門の人柄をしたっていたという相模の干鰯問屋の紀津屋という男が訪ねてくる。実はこの紀津屋と品川の廻船問屋の若旦那とは繋がりがあり、何らかの意図をもって「お蝶」に近づいたのである。紀津屋の思い出語りの中で、安右衛門が新陰流の的場道場という剣術道場に通っていたこと息子の安之の上司である南町奉行の岩淵是久も同門であること、長屋の千吉も安右衛門の勧めで的場道場に通っていることなどが語られていく。安之だけは別の道場に通っていたが、あまりの見込みのなさに道場を追い出されたという話も盛り込まれていく。

 「お蝶」は、異母兄の安之と「沙十」の出会いが、物取り目当ての浪人に安之が取り囲まれた時に、通りかかった「沙十」の薙刀によって助けられたのが二人の馴れ初めだと言う。安之も「沙十」と同様に、どこかおっとりと望洋としたところのある人間だった。だが、実は安之は剛剣の使い手で、道場では誰も相手になるものがいなかったほどの腕前であったことが、ずっと後で記され、二人の望洋とした夫婦が、実は薙刀と剛剣の使い手で、人は見かけによらないことを作者が仕組んだ人物なのである。

 こうした展開をしながら、「お蝶」は「父親の遺品」ということが気になって、安右衛門が住んでいた下谷の家を訪ねてみることにする。行ってみると、下谷の家はそのまま空き家になっており、何者かが家探ししたことがあるという。そして、妙な女が家の周りをうろついているとも聞かされる。「お蝶」はその女に会ってみることにする。女は夜鷹で、生前の安右衛門に温情をかけられ、安右衛門の死体を最初に発見した女だった。その女から「お蝶」は、安右衛門が斬殺されてことと、その犯人と思しき人物に会ったことを聞かされるのである。安右衛門は死の時に「お蝶」が作ってあげていた紙の姉様人形を握りしめていたと言う。女は犯人と思われる侍にまた出会ってしまい、それを届けるべきかどうか迷っていたと告げる。その話を聞いて、父親が死ぬときに握りしめていた姉様人形の柄が「一斤染(いっこんぞめ)」という独特の柄で、安右衛門はそれを握り締めることで、犯人を告げようとしていたのではないかと推測する。南町奉行の岩淵是久が「いっこん」という俳号をもっていた。父親殺しに南町奉行が関与しているかもしれない、そういう推測をするのである。

 南町奉行は安之の上司であり、しかも剣の腕も免許皆伝と聞く。父親殺しに南町奉行が関与していたことを知れば安之はひとたまりもないだろうから、「お蝶」は自分が気づいたことを異母兄に話すかどうか悩む。

 それはそれとして、市ヶ谷の金物問屋の女将が主人の様子がおかしいと言って相談に来る。金物問屋の女将は、かつて「沙十」の実家で行儀見習いをしていたこともあり、金物問屋は尾張徳川家のご用達でもある老舗だった。だが、その金物問屋が尾張徳川家の家臣に誘われて剣術道場に通うようになり、その道場では、身分の差などが取り払われて、武家も商人も職人も居酒屋で互いに酒を酌み交わしたりしており、金物問屋はそれが気に入って熱心になり、ついには幕府を転覆する「世直し」を口にするようになったというのである。そして、彼が扱う尾張徳川家に収める硝石が何者かに奪われる事件があったが、その彼の着物に硝石から作られる火薬が付着していたのに気づいたというのである。金物問屋の女将は、なんとか主人を止めたいと密かに相談に来たのである。金物問屋の主人が通っている剣術道場は新陰流の的場道場であった。

 「お蝶」は、長屋の千吉が通っている道場も的場道場だから、千吉に話を聞こうとするが、千吉は行方がわからなくなっており、雉坊も姿を消していた。雉坊は、相模の王龍寺という寺の僧だという。金物問屋の主は「江戸の空に王龍が舞う」とも口走っていたという。的場道場と王龍寺と「世直し」、この三つが繋がっていくのである。「お蝶」と「沙十」が的場道場に様子を見に行った時に、「お蝶」の護衛役であった戸山陣内までもが、的場道場に入っていき、姿を消していた。

 「お蝶」が廻船問屋の若旦那と話をしている時に、かつて若旦那も的場道場でひどいめにあったことがあり、彼をひどいめに合わせたのは、「お蝶」の父親安右衛門を殺したと思われる人物だった。こうしてすべてが的場道場へと繋がっていく。廻船問屋の若旦那は、「お蝶」の兄の安之がたとえ与力の株を手放さなければならないことがあったとしても「お蝶」を大切にする人物であることを確かめてから、相模の干鰯問屋の紀津屋を連れてくる。この紀津屋が、実は生前の榊安右衛門から重要な品を預かっており、賊たちはそれを狙っていたのであった。父親の遺品は「連判状」で、そこには南町奉行の岩淵是久の名前も、的場道場主の名前も記されていた。

 相模の王龍寺の住職だった導慧(どうけい)は、徳の高い人物で、信望者が多く、人には身分の隔てなどないという教えを語っていた。身分差別で苦しむ者たちの多くがその教えを喜び、やがて、身分差別のない世の中を作るという「世直し」を掲げた「王龍党」ができ、南町奉行も的場道場主もその「王龍党」の一員で、「連判状」はそれを記したものだった。だが、導慧が亡くなったあと、江戸城に火を点け火薬で爆破して、武力によって「世直し」を図ろうとする急進派の的場道場主と、人の心を変えていくことで平等な世の中を作ろうとする南町奉行との間が別れ、南町奉行は急進派を抑えようとしていたのである。そして、「お蝶」の住む長屋の住人であった「雉坊」こそが導慧の後継者としての責任を負い、彼もまた的場道場主の暴走を止めようとしていたのである。千吉も雉坊とともにその働きに加わっていたのである。

 「お蝶」の長唄の二人の弟子が拐かされ、人質に取られて「お蝶」が呼び出され、「王龍党」が隠れ家としていた船宿の穴蔵に入れられる。そこには、同じように監禁されていた戸山陣内がいた。戸山陣内は的場道場を探ろうとして、気づかれてしまったのである。その穴倉には、南町奉行の岩淵是久の娘も監禁されていた。「王龍党」の急進派が岩淵是久を抑えるために娘を人質にとったのである。彼らの決起は明日に迫っていた。だが、そこに彼らの仲間を装っていた千吉が助けに来て、彼らは無事にその船宿の穴蔵を出ることができ、ことの真祖がわかり、安之に告げて、「お蝶」、源内、そして「沙十」は急進派の決起を阻止するために的場道場に乗り込むのである。的場道場では雉坊が急進派の決起を阻止しようとし、ついに乱闘となる。そこに安之と岩淵是久が廻船問屋の船人足を大勢連れて駆けつける。死闘が繰り返され、戸山源内は的場道場の中でも凄腕と言われた男と対決する。男は、「お蝶」の父親の安右衛門を殺した人物で、しかも戸山源内とは竹馬の友であった。彼は、かつて身分や家格の違いから追放されて「身分のない世の中を作る」という教えを的場道場主から受けて、幕府の転覆を画策していたのであった。

 だが、そのために人殺しや拐かしなどの手段を選ばないやり方をし、大勢の人間を殺すということに賛同できない雉坊や岩淵是久と敵対していたのである。陣内、「沙十」、廻船問屋の若旦那らの破竹の活躍が続く中で、安之も剛剣を奮っていく。こうして、「王龍党」の急進派の企みは灰燼に帰し、安右衛門の仇もとれ、奉行所与力ではあるが、安之はすべてを胸に収めて、また、みんなが元の暮らしに戻っていくのである。

 最後に、雉坊は「沙十」にこう尋ねる。
 「奥方にとって、良い世の中とはいかようなものか」
 「沙十」はしばらくして、「お蝶」のところに長唄の稽古に来る娘たちが賑やかにしゃべりだすのを眺めてから、
 「雉坊さま、娘たちがあのように笑っていられる世の中が、私には何よりに思えます」
 と答えるのである。雉坊は「肝に銘じておこう」と答える。

 まことにそのとおりだと思う。本書は伏線の上に伏線が張られて、やがてそれがだんだん膨らんでいって一つの大きな物語に流れ着くようになっており、構成も、またそれぞれの人物たちも、その展開もよくて、作者の真骨頂がよく出ている作品だと改めて思った。なんでもないと思えるような日常があって、それが物語につながり、その日常の中で織り成されることこそ意味がある。作者はそういうことをよく知っていると思う。人物もそれぞれに個性があってとても面白く読めた作品だった。

2012年10月15日月曜日

築山桂『左近浪華の事件帳 闇の射手』


 昨日は夕方から時間ができたし、外は寒かったので、夜はのんびりと築山桂『左近浪華の事件帳 闇の射手』(2012年 双葉文庫)を気楽に読んでいた。築山桂の作品は以前に『寺子屋若草物語』のシリーズを読んで、その柔らかな文体と細やかさ、情にあふれた作品に接していたが、本作は作風がガラリと変わって、「事件帳」である。これはこのシリーズの2作目だそうだが、1作目を知らなくても面白く読める。もちろん、作品の主題が『寺子屋若草物語』とは全く異なっているが、細やかさや人の信頼というものを描き出す作者の真髄はよく貫かれている。

 これは、誰に仕えるというのでもなく大阪の町を守る「在天別流」という闇の組織に身を置く「左近」という女性を主人公にしたものである。「左近」は通り名で、元の名は「佐枝」という。彼女が身を置く「在天別流」というのは、表は、かつて宮廷などで楽曲や舞、演芸を行っていた楽人が組織する「在天楽所」で、帝から直々密命を与えられて武芸、医術、武具の制作などの技術を磨き、帝が政を行わなくなった後も、大阪の町の守護者として残って、町人のために活動を行っている組織である。

 「佐枝」は、絶対的な信頼を与えられている「在天別流」の長である弓月王の異母妹で、頼るものがなくなって異母兄を慕って大阪の町にやってきた娘であった。兄の弓月の表の名は東儀下総であり、彼女は東儀家の姫として迎え入れられただけでなく、「在天別流」の中で「左近」と呼ばれて男装して男勝りに活躍していくのである。異母兄の弓月が最も頼りにしている側近で、左近を守る役を果たしているのが「若狭」という人物で、物語は、主に「左近」と「若狭」、「弓月」によって織り成されていく。

 本書は、ある商家の娘が拐かしにあい、その娘を助けるために動いた左近が、やがてその事件の背後に水野忠邦家中のお家騒動を起こそうとする一派の企みがあることを知っていくという展開になっている。水野忠邦は、幕府中枢で働くために、長崎警護で幕閣に入ることができない唐津藩主から浜松藩主へと転封を望み、各方面に働きかけて浜松へ転封されたが、その時に、大阪蔵屋敷を中心にして行われていた不正もあって大阪蔵屋敷を廃した。その時に大阪蔵屋敷で収賄を起こしていた責任を取らせて家老一派を改易した。そのことを恨みに思う改易された旧水野家家臣が、商家の娘たちを拐かして身代金をせしめ、お家騒動を起こす資金に当てようとしたのである。もちろん、拐かされた娘はひどい目にあい、ひとりは、助け出されても自害したりする。

 かつて「在天別流」の右腕である「若狭」も、その水野家の大阪蔵屋敷廃止の出来事と関わった事があり、そこに「若狭」の恋もあったりするが、探索する左近を助け、守り、やがて私腹のためにお家騒動を起こそうとした浪人たちを始末していくのである。

 全体的にこうした設定や展開は、いくぶん、たとえば京都を舞台にして物語を展開する澤田ふじ子の『足引き寺閻魔帳』などの作品を彷彿させるものがあるが、築山桂の作品には、描かれる人物たちやその雰囲気にどことない気品のようなものがあり、根っからの悪人は少なく、またかつて罪を犯したものが悔いている姿などが描かれて、人間の取り扱いが優しい気がする。作者の細やかさは人間としての品のある細やかさで、この作品の随所でそれが見受けられる。文章もきれいである。しかし、ただ一点、作者は何のためにこの作品を描いたのだろうかと、ふと思ったりした。それは、このシリーズが完結するまでわからないかもしれないが、単なる娯楽作品では作者の資質がもったいない気がする。

 昨日は雨模様で寒かったのだが、今日はよく晴れている。このところ、ずっと書類書きに追われて日々を過ごしていた。神無月という月は、そういう月かもしれないとも思う。

2012年10月12日金曜日

火坂雅志『家康と権之丞』


 移ろいやすい秋の天気の中で、花屋の店先の秋桜が風に揺れていた。金木犀も甘い香りを漂わせ始めている。そして、数葉の銀杏の葉がひらひらと散っていく。「残された日々」と、ふと思う。いろいろなことを思うと少々うんざりしないわけではないが、「鋭利な刃物のように研ぎすまされた人間」であるよりは、デクノボーの愚鈍でいたい。

 昨夜は、火坂雅志『家康と権之丞』(2003年 朝日新聞社)を面白く読んだ。これは、徳川家康の子と言われる(史的確証はない)小笠原権之丞(1589?‐1615年)を主人公にしたもので、小笠原権之丞は、本来なら家康の六男である松平忠輝の兄にあたると言われるが、家康が手をつけた母が懐妊したまま家臣の小笠原広朝に妻として押しつけられ、権之丞は広朝の子として成長し、小笠原家の家督を継いだ。

 小笠原広朝は、小笠原家の庶流で武田水軍の流れを組み、徳川家康の水軍の一役を担った人で、小笠原権之丞も徳川家の御船手として六千石の旗本であった。彼が家康のご落胤かどうかの確証はないが、いくつかの歴史資料では家康の子としての名前が挙がっている。家康は二人の正室と十五人の側室がいたと言われ、その他にも手をつけた女性がいたと思われる。

 真偽は定かではないが、小笠原広朝はキリシタンで、権之丞の母親も熱心なキリシタンであったと言われ、その影響から権之丞もキリシタンであった。彼がいつごろキリスト教の洗礼を受けたのかは定かではないが、家督を継いだのが二十四歳で、その六年前の十八歳の頃ではないかと思われる。キリスト教側の資料では1606年となっており、フランシスコ会の記録では駿府に小笠原権之丞名義の教会も建てられている。権之丞の洗礼名はディエゴで、これは当時のフランシスコ会の宣教師ボナベンツェラ・ディエゴ・イスパニエスからとられたのではないかと推測される。

 徳川家康は、当初、南蛮貿易のためにキリスト教を禁止してはいなかったが、家康が重用していた本田正純の家臣で岡本大八が肥前の有馬晴信を相手にした収賄・詐欺事件を起こし、両者がともにキリシタンであったことから、この事件の飛び火が飛んでくることを恐れた本多正純と家康の外交僧であった金地院崇伝が手を結んでキリシタン禁教令を進言し、幕府は、1612年(慶長17年)に、江戸・京都・駿府などの幕府直轄地での教会の破壊と布教の禁止を命じた。そして、翌年にはこれを全国に「伴天連追放令」として広げた。1612年のキリシタン禁教令の際には、徳川家の家臣団や奥女中が調査され、改宗しない者は改易処分にされ、居住が禁止されるなどの厳しい処罰が行われた。

 小笠原権之丞は、このときにキリシタンとして改易され、放逐された。彼が再び歴史に登場してくるのは、16141615年(慶長1920年)の大阪の陣の時で、家康の子であるにもかかわらずに豊臣側について大阪城に入り、夏の陣の最後の戦いである天王寺口の戦いで戦死したと言われている。その間の彼に関する資料はほとんどない。

 本書は、家康の落胤として生まれながらもキリシタン禁教令で追放され、ついには家康と戦って大阪で戦死する小笠原権之丞の姿を、父と子、しかも子として認めない父親への反発を抱きながら、青年らしい夢とロマンを求めて生きる姿として描き出したもので、特に、棄教せずにキリシタンとして改易されたあと、すべての人間が平等に生きる無君主立国の建設を目指して、彼の叔父が発見したとされる小笠原諸島で貿易立国を設立しようと小笠原諸島に向けて船旅をしていく海洋ロマンが、まさにロマンとして描かれている。

 この時代に「無君主国家」という発想があったのかどうかは別にして、無人島に理想の国を建てるというのは壮大なロマンである。父親の徳川家康から見捨てられ、キリシタン禁教令で追放された小笠原権之丞は、そのロマンに生涯をかけようとする優れた精神の持ち主であったと作者は展開するのである。彼はそこに日本を追放された多くのキリシタンなどを受け入れて、家康が断念した海外貿易による建国を夢見るのである。

 彼は、京都の豪商であり、家康の側近でもあった茶屋四郎から金を出してもらい、南蛮船を建造し、小笠原諸島に向かい、小笠原諸島の父島、母島を探索し、建国の可能性があることを確信する。だが、帰路、台風に遭遇し、船は難破し、彼の夢は露と消えてしまう。時は、徳川家康が豊臣家を滅ぼすために強引に無理難題を押しつけ、大阪冬の陣が始まろうとしていた時であった。

 船の難破からかろうじて助かった小笠原権之丞は、しばらくは無為の日々を送っていたが、父親の家康の豊臣家を滅ぼすためのあまりにも強引なやり方に反発して大阪城に入るのである。大阪城には、多くの追放されたキリシタンがおり、関ヶ原の戦いで西軍についたために滅亡した宇喜多家の家老で、秀吉も家康も優れた武将として認めていた明石全登(あかし てるずみ 掃部)も熱心なキリシタンで大阪城に入城しており、小笠原権之丞は尊敬する明石全登の指揮下に迎えられるのである。

 本書では明石全登の娘として「レジナ小雪」を登場させ、彼女との恋を描き出す。一節では小笠原権之丞は明石全登を養父にしたとあり、それを踏まえて、小笠原権之丞と「レジナ小雪」が大阪城内で婚礼を行ったとなっている。そして、冬の陣のあと、家康の策謀で大阪城の堀が全て埋められて夏の陣が始まると、小笠原権之丞は明石全登と共に激戦となった天王寺・岡山の戦いに行き、そこで戦死する。小笠原権之丞は徳川の系譜から抹殺された。なお、明石全登の生死は不明で、その後も生き残って九州に潜んだという説もある。スペインに行ったという説や台湾に行ったという説もある。

 いずれにしても、本書は、家康と権之丞という父と子の葛藤を描き出すと同時に、ひとりの男が壮大なロマンを描き、やがてそれが破れていく姿を描いたものだと言えるだろう。小笠原諸島での理想国家の建設、徳川軍と大阪城で戦うのも、そのロマンの延長で、それが現実に破れていった人間の姿を描き出しているのである。徳川家康という現実主義者と小笠原権之丞というロマンチストの戦い。それが本書の骨格だろうと思っている。少ない資料を巧みな想像力で無理なく補っている作者の創作力がいかんなく発揮された作品だと言えるだろう。

2012年10月10日水曜日

中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(2)


 日毎に気温が低くなり、秋が一段と進んでいる。空気がすっかり秋の気配で、「もの思う」にはいい季節になってきた。昨日、少し体調を壊したこともあって、これは「気分が高揚しないための戒め」と受け取り、改めて自分の歩みをコツコツと続けていく必要を自戒したりした。

 もう随分以前に書いていたわたしの論文などが掲載されていたHP『思想の世界』が閉鎖されていることを岡山県の方が連絡くださり、これを作成してHPとしてアップしてくださっていた千葉県のT氏に深く感謝するとともに、長い間連絡もしなかったことをお詫びしたいと思っている。

 T氏は、わたしが発行していたメールマガジン「思想の世界」の読者の方で、IT技術を専門とされて、好意でHPの作成とアップを申し出てくださった方で、このHPは世界各地のキルケゴールの研究家の方々や哲学、倫理学、社会学などの関係の方からたくさん閲覧され、また引用されたりしていたので、閉鎖の問い合わせが、最近よくある。

 わたし自身が、メールマガジンを発行していた時から仕事の関係で何度か転居したり、メールアドレスが変わったりして、メールだけのやり取りだったT氏との連絡がいつの間にか取れないままに過ごしてきたので、更新などもできず、また、アップルのHPはアップが有料なこともあり、T氏に対して非礼であったと反省している。出版や広告掲載の依頼もたくさんあったがお断りしていた。「思想の世界」に掲載していたものは、いずれまた時を見て、とは思っている。

 それはさておき、中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1991年 新人物往来社)の続きであるが、佐川官兵衛が戊辰戦争で越後を転戦して、長岡近郊の見附(現:見附市)の塗師今井庄七の家を本拠としていた時、今井家の人たちも官兵衛の人柄をいたく尊敬し、彼を手厚くもてなしている。官兵衛も塗師として三代続いていた今井家の在り方に心を動かされるところがあり、この家に家人の求めに応じて春夏秋冬の歌を四首残している。

 春月 朧々(ろうろう)
 天のがは 雪げの水やまさるらん かすみに濁る春の夜の月
 夏月 涼
 ゆく水に 影をとどめて 水よりも すずしく澄めるなつのよの月
 社頭 賞月
 よの人のこころの声や払ふらむ 月住のよの松のあらしに
 寒夜 月
 霜のうへに  冴え行く月や穐草(あきくさ)のつゆのやどりを おもひ出づらむ

 薩長軍から「鬼官兵衛」と恐れられた佐川官兵衛が繊細な心の持ち主であったことがよくわかる歌である。強靭、豪胆であると同時に繊細、それが佐川官兵衛の人柄であったと言えるだろう。

 会津若松戦争は悲惨を極めた。官軍は会津若松の徹底的な破壊を行い、官軍はまさに「奸軍」となり、暴虐の限りを尽くした。この時の官軍を指揮したのは山形有朋であった。会津藩の藩士の婦女子は官軍に恥ずかしめを受けないように自害し、子どもから老人に至るまで殺された。

 この時、佐川官兵衛は遊撃隊として城外に打って出ることになっていたが、一藩の命運をかけた戦いの朝、官兵衛は、前夜に藩主の松平容保から名刀の政宗を贈られ、酒席を設けられて酔いつぶれてしまい、寝坊してしまうのである。肝心な時に寝坊するというのも、わたしは好きである。だが、そのために遊撃隊の出陣が遅れ、作戦は失敗に終わる。この時に、官兵衛は、自分が敗れるようなことがあれば、二度と城には帰らずに城外で戦い抜くと語っていたが、そのとおりに官兵衛が鶴ヶ城に帰ることはなく、城外で戦い抜いた。だが、奥羽越列藩同盟のうち、長岡藩が破れ、米沢藩が恭順の意を示し、戦死者と負傷者が折り重なるように城内にあふれ、砲撃は絶え間なく続くなかで、ついに松平容保は降伏する。官兵衛は、なおも戦い抜こうとするが、藩主の命が下って戦を終える。

 この時、藩主の松平容保は全ての責任を一身に背負うと述べ、家臣は、非は自分たちにあるから藩主親子の命は助け、自分たちが至らなかったのでこのようになったのだからその責任を負うと語る。こういうところが「会津」のよさだとつくづく思う。佐川官兵衛も藩主に対しての寛容な処置を願い、自らが責任を取って切腹する覚悟であった。新政府は、松平容保に罪一等を減じ、江戸での謹慎とし、家老に切腹を命じた。このとき在命だったのは次席家老の萱野権兵衛だったので、彼が全ての責任をとって切腹した。官兵衛は、萱野権兵衛の代わりに自分を切腹させるように嘆願書を出すが、認められなかった。また、この時に官兵衛がこよなく可愛がっていた妻の「おかつ」は労咳のためになくなってしまう。

 官兵衛はすべてを失い、自失した生活を茫然と送ることになる。やがて新政府は徳川慶喜と松平容保の罪を許し、容保の実子慶三郎に青森最北端に「斗南藩」を起こすことをゆるす。生き残った会津藩士たちは斗南藩に移り、そこの開墾を手がけることになったのである。官兵衛も老いた母親を連れてそこに移り、開墾生活を始めるが、土地は耕作に不向きで、過酷な冬は長い。開墾生活は苦渋を極めた。

 1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、斗南藩は、やがて弘前県となり、弘前県は青森県になっていく。松平慶三郎(容大)も東京に戻され、官選の県知事が赴任し、会津藩士たちが斗南に留まる理由もなくなり、官兵衛は母を連れて再び会津に帰り、寺子屋をしていた叔父のもとに身を寄せるのである。そして会津での日々を過ごすうちに彼のもとに旧会津藩士や青年たちが集まってくるようになる。人としての官兵衛の魅力は、青年たちの支えとなっていくのである。

 そのころ、新政府に対する不満が各地で爆発し、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱といった士族の反乱が各地で起こり、明治維新の中核であった西郷隆盛も、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らと衣を分かって鹿児島に戻るという出来事が起こる。この対立のもとになったと言われる西郷の「征韓論」にはいくつかの要素があって単純ではない。その西郷に見出されて、特に新政府の司法省の重責を担っていた川路利良は、1871年(明治4年)に西郷隆盛とともに警察制度(邏卒制度)をつくっていたが、1873年(明治6年)に西郷が鹿児島に戻った年に、内務省を発足させて、東京警視庁を誕生させ、全国に巡査大募集を行った。

 そして、川路利良は、強靭の誉れ高い旧会津藩士たちを巡査として採用したいと思い、旧会津藩士の中でも最も武勇と人望が高かった佐川官兵衛に白羽の矢を立てるのである。

 官兵衛は、戦で多くの者を死なせた責任を痛感し、川路の申し出を断っていたが、貧苦に喘ぐ旧会津藩士や青年たちの生活のために、彼らに請われてついにこれを引受け、旧会津藩士や青年たち三百人ほどをつれて警察に入るのである。これによって彼は東京に移り、母親を東京に呼んで生活をする。そして、「佐川」の血筋を絶やさないためと母親に説得されて、21歳の年の離れた「カン」と再婚し、男子が誕生する。

 やがて西南戦争が勃発する。東京警視庁は内務省の管轄下で警視局東京警視本署となり、川路利良は鹿児島で蜂起した西郷軍鎮圧のために七百名を派遣し、さらに千百八十名を九州各地に派遣する。佐川官兵衛もこのとき九州に派遣され、西郷軍が熊本の南阿蘇の要所であった二重峠を占拠したとの報を得て、白水村の吉田新町に陣を置く。だが、その時に南阿蘇方面を指揮していたのは、檜垣直枝という決断力のない凡人で、官兵衛はここでも苦労する。やむなく黒川村あたりに軍を展開した折、西郷軍と遭遇し、西郷軍の鎌田雄一郎と真剣で対峙した時、横合いから農民が銃で官兵衛を撃った。佐川官兵衛の生涯は、この南阿蘇で閉じられた。真剣勝負をしている人間を横合いから狙い撃ちして自分の手柄にしようとする下卑た人間はいるもので、不意の出来事というのは、たいていそういう人間によって引き起こされる。

 かつて、「会津の二川」と言われ、「知恵山川、鬼佐川」と言われた佐川官兵衛は、彼を慕った人々の心にその痕跡と人物をしっかり刻みながら、一発の兇弾によって大木が倒れるようにして倒れた。享年四十五の生涯であった。

 本書は、丹念に歴史資料にあたりながら、それを縦横に駆使して、佐川官兵衛の姿を感動的に描き出す。佐川官兵衛についての資料はいくつかあるが、小説は少なく、この作品は貴重だと思う。また、小説として人間が生き生きと描かれているので、作者の作家としての力量が大きいことを知ることができるが、それにしても、佐川官兵衛という「武」の在り方は感銘的である。