2012年3月30日金曜日

田牧大和『身をつくし』

快晴だった昨日と一転して、重い雲が広がっている。春の天気の変わりやすさはおなじみのものだが、気温も上下するので意外と体調を壊しやすい。まだまだ暖房機のお世話になっている。だが、昨日、熊本からの便りで桜が七分ほど咲いたという。春本番まであと少しだろう。

 昨夜は、田牧大和という人の『身をつくし 清四郎よろず屋始末』(2010年 講談社)を読んでみた。巻末の著者紹介によれば、1966年東京都の出身で、会社勤務の傍らにインターネットで時代小説を発表し、おそらくそれが編集者の目に止まって、2007年『色には出でじ 風に牛蒡』(『色合せ』講談社)で第2回小説現代長編新人賞を受賞されて作家デビューされた方らしい。おそらく、こつこつと仕事が終わって夜に書き綴られてきたのだろうと思う。

 本書がこの作家の何作目に当たるのかはわからないが、文章はこなれて読み易い。ただ、現在たくさん出されている時代小説と同じような類の作品で、歴史考証や人間理解に若干の安易さを感じざるを得ないのが残念だった。

 本書は、南町奉行の榊安房守(これが誰をモデルにしているかは不明。歴代の南町奉行に榊姓はないし、安房守ではなく阿波守なら有馬則篤がいるが、彼が南町奉行であったのは転変急を告げる1866年である。また、1681年から1693年まで北町奉行を勤めた北条安房守氏平がいるが、彼とも異なり、もちろん、作者の創作だろうが、時代背景が不明)の筆頭内与力であった杜清四郎が、身をもって金座の不正を暴露するために自刀した奉行の内意を受けて自ら告発者となり、そのために武士を捨てて「よろず屋」稼業を営む者となり、友人である南町奉行年番与力(筆頭与力)の小暮涼吾とともに、彼の周囲や市井で起こる事件を自らのあり方を悩みながら解決していくというものである。
 主人公のこうした背景は謎めいたまま物語が展開していき、最後に明かされる構成が取られているが、彼がなぜ「よろず屋」稼業をしているかがあちらこちらで謎として書かれ、またいくつかの事件に関わる中でそのことが大きな要素になっているから、わたしとしては、むしろそのことが最初に明記された方が物語の展開と描かれる人間像が深まるのではないかと思ったりした。

 最初の出来事は、清四郎が営む「よろず屋」に簪の販売を依頼している飾り職人の恋の話で、乾物問屋の相模屋から依頼されて丹精込めて作った簪がことごとく返され、あげくの果てには相模屋の女中に無理やり言い寄ったということで奉行所に訴えられて捕縛されてしまった男を、清四郎が相模屋の真意を探り出して助け出していくというものである。

 この飾り職人と病弱だった相模屋の娘が、かつて互いに想いを寄せていたが、娘は相模屋の窮状を救うために他家に嫁に出てき、飾り職人は娘がただ自分の前から消えてしまったことしか知らず、ずっと娘のことを思って桜を意匠にした簪を秘かに作り続けていたのである。他家に嫁いだ娘は亡くなってしまったが、相模屋は娘の恋を知って、彼がまだ娘のことを思っているかどうかを知りたくて簪の作成を依頼していたというのである。こうしたお互いの思惑の齟齬がこの事件の背後にあることを清四郎は明らかにし、飾り職人を助け出すというものである。人を変わらずに恋し続けることへの憧れが作者にあるのかも知れないとも思う。

 第二話「正直与兵衛」は、茶店で間違えて大金の入った箱を持ってきてしまった振り売りの与兵衛が、もとの持ち主を捜して、自分の女房が中根死なけなしの金で買ってくれた煙草入れを探し出して欲しいという依頼を清四郎が受け、そこに、ある旗本家の姫が家臣との間に作った子どもを秘かに里子に出すという武家の体面を守ろうとする姿勢があったことを明らかにして、赤ん坊の父親が武士を捨ててその子を育てていくようになる結末を迎える話である。

 第三話「お染観音」は、清四郎と小暮涼吾が馴染みとして行き着けている煮売り家の女将の「お染」にまつわる話で、「お染」は、遊女であったところを旅芝居の女に助けられ、しかも煮売り家を開くようにしてくれた恩義のある女の依頼で、殺人のアリバイを証明するようになってしまうのである。しかし、女はかなりの破天荒な人間で、商家の後妻になっても遊ぶ金欲しさに主を殺し、「お染」を助けたのも「お染」に対する単なる人間的なことでの嫉妬心からに過ぎなかったが、清四郎はその真相を知ると同時に、恩義のある者にそれが悪と知りつつも尽くそうとする「お染」の姿から、自らの姿を顧みていくというものである。

 本書はこの三話で構成されているが、どうもあまり現実味のない「善意」が前提とされて物語が展開されているようで、主人公も美男であり腕も立つが、すこぶる内面的で、物語の「善意」と主人公の内面の葛藤に齟齬を感じるところがあるような気がした。奉行所の筆頭与力が供も連れずに煮売り家に出入りすることはまずなかったし、主人公の内面の葛藤が極めて政治的な事柄にも絡んでいるのだから、もう少し歴史の背景があってもいいような気がした。本書で重要な役割を果たしている「お染」が、元遊女であるが、どこか武家の女性のような感じで描かれているのも気にかかる。

 とはいえ、こうした作品に文学性や人間観の深みを求めるのはできないのだから、数多ある女流の時代小説の気楽に読める一冊ではあるだろう。小説現代長編新人賞を受賞した『色合せ』は、ちょっと読んでみたい気もする。

2012年3月28日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集13・14 死ぬことと見つけたり 上下』

昨夜、きれいな三日月の側で金星がひときわ美しく輝く夜空をぼんやり眺めていた。月、金星、木星が直列になる時期で、宇宙の妙はいつも感動を起こしてくれる。そして、こうした宇宙の妙は地球に生きる人間の精神にも潜在的に大きな影響を与えているから、天文学は単に宇宙物理学だけでなく人間学でもあるなあ、と思ったりする。宇宙はいつも感動的である。

それはともかく、隆慶一郎『隆慶一郎全集13 死ぬことと見つけたり 上』(2010年 新潮社)と『隆慶一郎全集14 死ぬことと見つけたり 下』(2010年 新潮社)を大変面白く、続けて読んだ。

これは、作者が戦場で独自の感性と思想をもって読んだという「葉隠れ」の研ぎ澄まされた思想を斬新な観点から作者らしいエンターテイメントの物語にした作品で、世にいわれるような薄っぺらな武士道の理解とは全く異なり、己の義を「葉隠れ」(葉に隠すの意)にして貫いて生きる姿を主人公に徹底させて、江戸前期の佐賀鍋島藩を舞台に描き出したものである。

佐賀鍋島藩士であった山本常朝が著した『葉隠れ』そのものは、彼が身につけたいと思っていた武士としてのあり方の心得について6~7年かけて語ったものを、彼を師として尊敬していた同じ鍋島藩士の田代陣基が1716年ごろに完成させたものだが、その巻頭に「全11巻は火中にすべし」と記され、覚えたら火にくべて燃やすように指示されていた。実際、江戸時代では、これは禁書の扱いで、そのため原本はなく、写本が残されただけであるが、佐賀鍋島藩では以後、これを学ぶことがすべてとなっていったほどであった。

「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」は、この『葉隠れ』の中のあまりにも有名な一節であるが、これは、一般に理解されているように死を美化したり、儒学的な武士道を唱えたりすることとは全く異なり、むしろ、生きることを徹底的に追求したものにほかならない。生きることがこれほど精鋭化された思想も他にないと言えるかも知れない。山本常朝が残した「浮世から何里あろうか山桜」や田代陣基の「白雲やただ今花に尋ね合ひ」は、「葉隠れ」の思想をもっとも端的に表しているような気がする。「葉隠れ」という書名が示すとおり、これは心中秘かな意志なのである。

「武士道とは死にぐるい(無我夢中)なり」は、この『葉隠れ』の冒頭の言葉であるが、生死を越えて義を徹する姿がそこにはあり、しかも、それを決して他者の目に触れさせないようにする覚悟のことをいうのである。「覚悟を持って生きる」これが葉隠れの精神だとわたしは思っている。

それはともかく、山本常朝の『葉隠れ』は、佐賀鍋島藩の藩祖ともいうべき鍋島直茂(1538-1618年)を理想としているようなところがあるが、鍋島直茂は、戦国時代に大友宗琳と九州の覇権をめぐって争った肥前の龍造寺隆信(1529-1584年)の家臣であった。この龍造寺隆信という人物は、権力欲と支配欲の強い人物で、疑心暗鬼にかられることも多く、冷酷無比な人間であったが、忍耐をもって彼に仕え、龍造寺隆信が隠居して嫡男であった龍造寺政家とその子の高房が家督を継ぐときに後見を託されたのである。龍造寺政家は病弱で、大名としての才に欠けるところがあったのか豊臣秀吉からすぐに隠居させられ、家督を子の高房に譲ったが、高房はまだ幼少であったのである。そして、豊臣秀吉が鍋島直茂を高く評価して龍造寺家とは別に所領を与え、龍造寺政家に代わって肥前の国政を担うように命じたことから、肥前の実権を掌握していったのである。この鍋島直茂の長男である鍋島勝茂(1580-1657年)がその後を継ぎ、彼が佐賀鍋島藩の初代藩主となる。

本書は、山本常朝の『葉隠れ』が綴られる80-100年ほど前のこの鍋島勝茂の時代に、「葉隠れ」の思想を体現して生きた斎藤杢之助と中野求馬という二人の武士を主人公にして、その壮烈な生き方を描き出したもので、斎藤杢之助が浪人を選び、中野求馬が藩政の要となっていくのだが、二人は親友で、共々に「葉隠れの実現者」なのである。自由人として生きていく姿と、組織の中で生きていく姿が描き出されるという主人公設定の構成は、作者の才の見事さをよく示すものとなている。

『葉隠れ』の「聞書第十一」に「朝毎に懈怠なく死して置くべし」という言葉があるが、本書の主人公である斎藤杢之助が、毎朝の自己鍛錬として自分の姿を想起し、既に死せる者として事柄に当たっていく姿が描かれるところから本書が始まる。それは、壮烈な姿であり、斎藤家が祖父伝来このような生き方をしてきたことが語られていく。彼の父親は鉄炮の腕も達者で、鍋島直茂と小城鍋島家の鍋島元茂に仕えたが、お城勤めができるわけがなく、ずっと浪人暮らしなのである。斎藤杢之助はその父から鉄炮の腕を受け継ぎ、襲いかかる大猪を一撃で仕留めるほどの腕前なのである。

彼は、たとえば闘いにおいても、腕を斬られれば足で、足を斬られれば身体で、身体が動かなくなれば歯で相手の喉を噛み切るというような壮絶な戦い方をし、常に前に進んでいく方法を採る。こういうことを日常で行っているのだから、その壮烈な姿は普通の人間にとっては恐怖であり、「義」を一徹に貫き、相手が藩主であれ、幕府の老中であれ、相手によって自分を変えることもない。

物語は、「葉隠れ」の体現者であるような斎藤杢之助と中野求馬が、それぞれに浪人として、あるいは藩政に関わる人間として、鍋島直茂の後を受けた鍋島勝茂と佐賀藩鍋島家が陥っていた困難を打開していく姿が描かれていくのであり、特に龍造寺家のと確執の中にある鍋島家を取り潰そうとする老中松平信綱の画策を「葉隠れ」の精神で見事に打ち砕いていく姿が描かれていくのである。

その展開では、もちろん、エンターテイメントの要素が十分取り入れられている。『葉隠れ』で記されている「忍ぶ恋」も斎藤杢之助の生き方の一つとして取り入れられている。

本書は、作者の死去によって未完となったが、鍋島家を取り潰そうとする松平信綱の意図をくじくために弱点を探ろうとした結果、「振り袖火事」といわれた明暦の大火(世界三大火災の一つともいわれる大火事で、江戸城も焼けた)が、江戸市中の改造計画に着手した松平信綱による計画的火災が思わず大きくなってしまったこととして描かれるあたりも興味深い。

なお、未完となった部分のプロットが残っており、それによれば、鍋島勝茂の死と追腹を斬る(殉死する)覚悟を決めていた斎藤杢之助と中野求馬に勝茂による追腹禁止命令が出され、斎藤杢之助は勝茂の命にも背かずに、しかも殉死の決意を果たす方法を模索し、やがて、西方浄土への補蛇落渡海(西に向かって海に出て行くこと)でどこまでも海を泳いでいく姿が目撃されて生を終えるのである。

また、松平信綱の権謀術作から振り袖火事の陰謀を盾にとって藩を救った杢之助の死後、勝茂の孫に当たる鍋島光茂は、勝茂の後継となっていたが藩主としての器量を欠き、人格的な欠点もあって、佐賀藩と支藩の関係や旧龍造寺家との関係を悪化させ、一触即発のお家騒動に発展する危険を有していた。中野求馬は、杢之助亡き後、この危機を救うために自ら死を覚悟して大胆不敵な行動に出るのである。
その行動がどんなものかは言及されていないが、それによって中野求馬は、見事に切腹するのである。

こうしたプロットが残されていたことを巻末の編集部による「結末の行方」によって知ることができる。

いずれにしても、これは、まっすぐに壮絶に生き抜いていく人間の物語であり、全集で上下二巻にわたる長編で、もちろん、詳細な歴史資料もきちんと踏まえられてのエンターテイメントだから、ものすごく面白い作品であった。

個人的に、青年のころに『葉隠れ』を読んでいたが、それを実際の人間の姿として描いた作品は、やはり迫力がある。わたし自身は、壮烈ではなく静かに消えていく方を選びたいと思っているが、ずっと自分の死を覚悟して生きてきたことを思い起こしたりした。佐賀は、なんでもわたしの先祖の地でもあるらしい。そして、江戸初期と江戸末期、特に幕末の佐賀は、なかなか大したものだったのである。幕末のころの佐賀についてもわたしは興味がある。

2012年3月26日月曜日

葉室麟『無双の花』(2)

一日のうちで天候が目まぐるしく変わり、朝方は晴れていたのに、今はもう雲が広がっている。気温も低く、まだ寒い。今日は、なんだか疲れを覚えて一日が始まり、体調も思わしくないが、山積みしている仕事を少しでも片づけようと「元気を出す」ことにした。

 改めて、柳川藩の藩祖立花宗茂は、やはり、無類の人物で、策を弄さずに正直で、しかも誰憚ることなく己の生に忠実な人であったと思う。そして、誠実に生きる人間を描き続けている葉室麟がもっとも関心を抱きそうな人物であるに違いなく、『無双の花』は、正室であった誾千代との関係を柱に据えながら、戦国武将たちとの交わりや人生の変転を見事に「義」を貫いて生きる姿を描き出したものである。

 実際の誾千代との関係がどうであったかは別にして、立花宗茂が「義」というよりも「愛」を貫いて生きた姿として本書では描かれていく。誾千代という女性は、見事に「武」を生き抜いた父親の立花道雪の影響もあって、男勝りで、竹を割ったような気質を持ち、常に爽やかで、しかも愛情深い女性だったと言われている。本書は、その誾千代を深い愛情をもつ女性として描く。

 夫である立花宗茂が、豊臣秀吉の家臣として秀吉の推挙のためにやむを得ずに大阪で側室をもったことをきらい、別居していながらも、なお立花宗茂を支える姿から登場し、関ヶ原の合戦で、決して裏切らないという「立花の義」を貫くために敗北を承知の上で西軍につき、破れて柳川に帰ってきた立花宗茂をよく理解していく姿が描き出されているのである。

 関ヶ原の合戦後、柳川に帰ってきた立花宗茂は、敗者として、東軍側についていた黒田如水、加藤清正、そして同じ西軍でありながら徳川家に恭順を示すために身を翻らせた佐賀の鍋島直茂の三方から責められる事になる。秀吉の軍師で智将の誉れの高い黒田如水と猛将の加藤清正だけでも絶体絶命の危機であり、まさに四面楚歌の状態に置かれたのである。

 誾千代は、もともと豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に、これは「不義の戦」だと断言していたが、関ヶ原の合戦に際しても、これは「自らの利益だけを図ろうとする者らの闘いでございます。立花は関わらぬ方がよろしかろうと存じます」と語っていたが、宗茂の意をくんで、柳川を失っても、「人に恥じぬ生き方をなされませ」と語るのである。

 この誾千代の凛とした生き方を示すエピソードとして、本書では朝鮮出兵を命じた秀吉が肥前名護屋城におもむいた際に、誾千代の美貌に目をつけて伽を命じようとしたとき、誾千代が秀吉を刺し殺して自分も死ぬつもりである覚悟を示し、そのような秀吉を蔑み、「立花には立花のいたしようがある」と断言したことを記している。秀吉はそのことを恨み、宗茂に側室を設ける画策をしたのだが、宗茂はやむを得ず側室とした女性を、ただまっすぐに愛してしまったのである。別居はそのためであったが、宗茂と誾千代は、互いに互いを認め合う深い絆で結ばれていたのである。誾千代は勇猛な加藤清正の軍勢に女武者を立てて対抗し、これを食い止めるから、宗茂が、襲ってきている鍋島勢と後顧の憂いなく対峙できるように取りはからって行くのである。誾千代は、夫の宗茂のために死を覚悟しているのである。

 決して裏切らない義を貫き、人として恥じぬ姿を貫く立花宗茂が、そういう誾千代を心底愛さないはずがない。宗茂と誾千代の夫婦は、共に、決して人を裏切らずに、恥じないという一つの生き方を貫いていく夫婦として描き出されていくのである。夫婦は、そこで一体である。

 また、宗茂と真田左衞門佐幸村(真田信繁)との交流が描かれ、互いにひとかどの人物として認め合っていく姿が描き出され、人が人を認めるということがどういうことかを描き出す。共に人間を見る目を持つ人間どうしなのである。後に、幸村の子どもたちは、仙台伊達家の片倉小十郎に庇護されていくが、それを依頼したのは立花宗茂であり、伊達政宗と宗茂の胸のすくような間柄も描き出されていく。
それもまた、人が人を認めて、互いに尊重し、しかも自律した人間どうしの関係である。これらは、生命のぎりぎりの線上でなお、胸のすくような生き方を貫いた人物として本書で登場する。そして、それらのすべての人物が立花宗茂の人物を認めたものとして描かれるのである。

 もちろん、ここには真田幸村や片倉小十郎、あるいは伊達政宗についてのいくぶんの美化もあるが、実際、彼らは胸の透くような人物たちだったと、わたしも思っている。敗者であることを決して恥じることはなかったし、矜持と誇りを高々と掲げて生きた人間たちだった。

 こうして、立花宗茂は四面楚歌の状態の中で、やがて、朝鮮出兵でも信頼関係をもっていた加藤清正の勧めに従い、降伏し、開城して、しばらくは加藤家の食客となるが、立花家の再建を志して浪人し、京に出ることなるのである。しかし、再建を志しても、宗茂は決して人におもねるような生き方をせずに、凛として日々を過ごしていく。家康はもちろん、この名武将である宗茂が再び豊臣側についていくことを恐れ、宗茂と並んで天下無双と言われた本多平八郎忠勝の薦めもあり、彼を旗本に取り立て、やがて奥州棚倉の大名にしていくのである。家康は、「立花宗茂に十五万石以上を与えてはならぬ」と遺言したと言われ、力を持つと宗茂がいかに恐ろしい存在になるかを熟知していたと言われている。しかし、立花宗茂は、一度家康に仕えると、決して裏切ることなく、徳川秀忠の名参謀として、また三代将軍徳川家光の相談役として生涯を全うするのである。

 彼が徳川家康に仕えるようになったくだりを、家康が背負わねばならないことの重さを感じた宗茂に家康が語りかけるという姿で、本書は感動的に次のように記している。

 「立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すを恐れぬが徳川の義ぞ」
 「恐れ入ってござります」
 宗茂は自ずと頭を下げていた。
 「とは言うものの、汚きことをいたせば、その報いも必ずある。心は荒み、欲にまみれていく。じゃが、立花はまみれなんだ。そなたを召し抱えたのは直ぐなる心根のほどを見極めたからじゃ」
 「それがしに何をせよと仰せにござりまするか」
 「秀忠とやがて将軍になる世嗣の側を離れるな。決して裏切らぬ立花の義を世に知らしめよ。さすれば秀忠と次なる将軍もひとを信じることができよう。そなたは、泰平の世の画龍点晴となれ」
 ・・・・・・・・
 「それが西国無双、立花宗茂の務めぞ」(205-206ページ)

 ここにあるのは、人物と人物の会話である。行間にある人間を認めることの重さがひしと伝わるし、見事に立花宗茂という人間の生き方を示すものとなっている。これによって宗茂は、泰平の世の画龍点睛となることを決意していくのである。会話の重さ、行間の深い沈黙に支えられた人間の姿が見事に描かれている。

 また、徳川家康の側近で策士として人に嫌われた本多正信が立花宗茂を訪ねて来たことが語られ、ひとを裏切らないという義を守っている立花宗茂だけには、自分が家康を裏切らない人間であることをわかって欲しいと願うくだりも描かれている。大久保長安事件で伊達家を巻き込んで政宗から蛇蝎のように嫌われた本多正信であったが、かれもまた、宗茂の生き方に心打たれた人物であったことが語られるのである(237-238ページ)。

 そのほかにも、いくつか宗茂の人物を示す言葉が記されているので、記しておこう。

 柳川に帰ってきた宗茂は、浪人時代から苦労を共にしてきた家臣たちに言う。「わしにとって、浪々の暮らしは心の糧を得た日々でもあった」(240ページ)

 この言葉と姿で、主君と共に苦労を共にしてきた家臣たちは救われていく。そこには苦労を共にしてきた者たちへの深い思いやりと愛情が溢れている。

 また、徳川秀忠が「わしは生来、凡愚であった。戦には勝てず、大名を感服させるほどの力もなかった。ただ懸命に努めて生きて参っただけであった気がいたす」と語るのに対して、宗茂は、「世は努めることを止めぬ凡庸なる力によって成り立っておるかと存じまする」と答えるのである(254-255ページ)。

 「直き心」は努めることを止めぬ凡庸さをこそ愛し、大切にする。これは、おそらく作者の姿勢を表すものであるに違いない。作家が、一文字一文字魂を込めて書くということは、こういうことだという自覚が作者にはみなぎっているように思われるからである。

 立花宗茂を描いた作品はいくつかあるが、この作品は「直き心」と深い愛情を貫いた姿として立花宗茂を描き出した逸作である。使われる言葉が磨かれて美しいのも味わい深い。これを読み、改めて自分のあり方を考えるような作品になっていることを思い、文学とはまさにこういう作品をいうのだと感じている。

2012年3月23日金曜日

葉室麟『無双の花』(1)

春が戸惑いを見せ、今日は雨で寒い。今年の春は、乙女のように恥じらい、躊躇しながらやって来ている気がする。ようやくこの辺りの梅が満開だが、今年はよけいに秘やかな気さえする。

 さて、戦国有数の武将であり、人間的にも極めて優れていた柳川の藩祖、立花宗茂(1567-1643年)を描いた葉室麟『無双の花』(2012年 文藝春秋社)を感慨深く読み終わった。

 九州の柳川には、以前、何度か足を運んだことがある。最初はまだ青年のころで、柳川高校の先生たちが、吉田松陰の松下村塾に倣って柳下村塾という自主講座を開かれているのを見学しに行き、苦労話を聞き、その自主独立の精神に感銘を受けたのを覚えている。二度目は、弟夫婦と一緒に母を連れて「うなぎ」を食べに行った。有名なうなぎ屋だったが、待ち時間が長くて閉口したことだけが記憶に残っている。だが、それらの時には、立花家の別邸を利用してレストランやホテルになっている有名な「御花」に寄ることも、堀をめぐる「川下り」とも無縁だったので、三度目に一日をかけて「御花」と「川下り」だけ、つまり観光を目的として出かけた。暑い夏の日だった。

 その時は、どこか気持ちに齟齬があったのか、「御花」に行ったにもかかわらず、立花宗茂について感慨を深めるところまでは行かなかったのだが、立花家を中心にした柳川藩の質素で剛健な風情が残っているのを静かに感じたことを覚えている。「川下り」の船頭さんが朗々と歌を披露してくれた。

 その柳川の藩祖である立花宗茂の人物を伝えるいくつかの言葉が残されていて、本書の中でもいくつか用いられているが、彼の主筋である九州の覇者であった大友宗麟から「義を専ら一に、忠誠無二の者」と豊臣秀吉に推挙され、秀吉から「その忠義、鎮西一、その剛勇、また鎮西一(ここでいう鎮西とは九州のこと)」と言われていたそうである。そして、秀吉の小田原城攻めの時、「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに天下無双の者」と称されたことが伝えられている。本多忠勝は、「家康に過ぎたるもの」と言われたほどの武将で、立花宗茂は本多忠勝を尊敬して親交をもったそうである。立花宗茂は、その言葉の通り傑出した人物だった。

 少数の兵で数々の武功を残し、「立花家の三千は、他家の一万に匹敵する」とまでいわれた武勇であったが、「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と『名将言行録』に記されている。

 宗茂自身の言葉としては、「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」というのが残され、関ヶ原の合戦で西軍(豊臣側)についたために領土である柳川十三万二千石を明け渡して開城する際には、筑後四郡の領民達は「殿様のためなら命も惜しまない」と涙ながらに開城を押しとどめたが、「気持ちは嬉しいが、皆を戦乱に巻き込みたくないのだ。分かってほしい」と宗茂は答え、領民達は、別れを涙ながらに宗茂を見送ったといわれている。領民の信望は篤かったのである。

 彼は、天下無双の名武将であっただけでなく、温厚で誠実に人に接し、義理堅く正直で、「武士の中の武士。彼こそがサムライ」とも呼ばれる人物であったのである。関ヶ原の合戦の後、柳川に引き上げる際には、実父・高橋紹運の仇でもあった島津義弘と同行することになり、宗茂の家臣たちは、関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」と進言したが、「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出たりしている。敵からも味方からも、ひとかどの人物として認められていたのであり、改易後は家臣と共に浪人生活に入るが、彼の武将としての才や人物を知る東軍から召し抱えようとする話が後を絶たなかったと言われている。しかし、そのとき彼は、「我が身惜しさに太閤との誓いを裏切って、親しい友を討つようなことはしたくない」と丁重に断り、敗軍の将ではあるが「天に誓って我が生き方を恥じず」と語ったと伝えられている。関ヶ原の合戦に際して、家康から莫大な恩賞を約束されて東軍につくように誘われたが「太閤の恩義を忘れて東軍につくより命を絶った方がよい」とこれを断り、負け戦を承知の上で「勝敗に拘わらず」と西軍についたのである。義を重んじ、義理堅く生き抜こうとした彼の姿は、東西両軍の武将たちがよく知っていたことである。

 彼はまた極めて謙遜な人物で、佐々成政が肥後に入った折りに補給部隊としてとてつもない活躍(13回に及ぶ戦闘すべてに勝利し、7つの砦を落とすなど)をしたことで、豊臣秀吉が従四位侍従に叙任しようとしたとき、ありがたき仰せなれど、主筋の大友義統が従五位であるからには、それを超えるのは筋ではございませぬ」と断ったと言われているし、江戸幕府のもとで柳川に大名として復帰した際、家臣の数が増えて屋敷が手狭となり、増築するように浪人時代から彼に仕えてきた家臣たちが進言したとき、「屋敷は狭いままで良い。浪人となっても見捨てず、物乞いをしてまで支えてくれた者達はかけがえの無い家臣である。もし屋敷を広くすれば、こうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。それは嫌だ。それなら屋敷が狭いほうが良い」と言い、家臣たちが感涙したという話も伝えられている。

 また、「太閤記」の作者である小瀬甫庵(おぜ ほあん)が編集の為に立花宗茂の元を訪れて、戦功について聞こうとしたとき、「拙者のした事は天下の公論に基づいたもの。どうして名をあげるために、功績を記録する事があろうか」と何も答えなかったという。彼は「功を誇らず」尊厳と品格に満ちた人物だったのである。

 徳川家康から請われて慶長8年(1603年)に五千石の旗本となった後、陸奥棚倉に一万石の大名として復帰し、やがて、元和6年(1620年)に柳川領主に復帰したが、二代目将軍の徳川秀忠の参謀として、また、徳川家光の相判衆(将軍随従者)として徳川家三代に渡って仕えた。

 なお、立花宗茂は、九州の覇者であった大友家の重臣である高橋鎮種(たかはし しげたね-紹運-じょううん-1548-1586年)の三男であったが、大友家の一族であった立花道雪(1513-1585年)に請われて養子となり、道雪の娘であった誾千代と結婚して娘婿となったのである。立花家の実質的な家督を継いでいた誾千代は男勝りのところがあり、子に恵まれずに、道雪の死後、一時仲が険悪となって別居していたといわれるが、立花宗茂が柳川に帰ってきて最初に行ったのが、早世した誾千代の菩提を弔う事であったことからして、宗茂の誾千代に対する愛情は深いものがあったのではないかと思われる。

 本書は、こうした立花宗茂の姿を余すところなく描いているし、特に誾千代との関係がお互いに深い信頼と愛情で結ばれたものであったことをいくつかのエピソードを交えて描き出す。本書の優れたところについては、次回記す事にする。

2012年3月21日水曜日

諸田玲子『炎天の雪 上・下』(2)

気温は低いのだが晴れて、眩しい光が射している。昨日は一日中会議で新大久保まで出かけ、韓国通りの大混雑をよそに、室内で暗澹たる思いに襲われたりしていた。会議で久しぶりにわたしよりも若い友人に会い、彼の頭髪が薄くなっているのに気づいて、思わずお互いの年齢を感じたりもした。。

 生涯は断念の連続で、むしろ平然と断念することを大事にしてきたが、諸田玲子『炎天の雪』で描かれた白銀屋与左衛門という稀代の大泥棒と言われた人物が、断念できずに、報われない自分と世の中に対する恨みを抱いて生きてきたことを、ふと思う。

 その『炎天の雪』のもう一つの背景となっている白銀屋与左衛門についてであるが、大槻一派への粛正が結末を迎えようとする宝暦5年(1755年)、加賀藩は、度重なる藩主の葬儀や相続の儀礼が続いたために、藩の財政は危機に瀕し、銀札という藩札(藩内だけで通用するお金)を発行して急場を切り抜けようとした。だが、正貨との交換ができない銀札の乱発のために米価が通常の40倍程度に跳ね上がるなどして、翌年の宝暦6年(1756年)に貧窮した民衆による打ち壊し騒動が起こったりして、あわてて銀札の発行を取り止めねければならなくなった。この銀札の回収のために、また多額の金が必要となり、武士の知行借上げ(家臣の俸給を減らす)が半知(半分)となり、武家の生活は貧窮し、消費経済が冷えてますます財政困難に陥ったのである。

 加えて、先述した宝暦9年(1759年)の大火によって罹災した人々が生活困窮に陥り、世相は荒れ、一攫千金を夢見る富くじや博打が行われ、泥棒が横行した。白銀屋与左衛門は、その中でも手口が鮮やかで、土蔵を破る名人として盗っ人働きを繰り返したのである。

 彼は、その名が示すとおり金銀細工を行う職人で、能登の生まれだが金沢に出てきて金銀細工を行っていた白銀屋に奉公して、技術を桑村源左衛門に学んだ。桑村源左衛門は北陸を代表する細工師で、加賀藩では細工工芸を奨励したことから白銀屋は伝統と格式をもつ細工師の家系であったのである。加賀は全国有数の名工芸品を誇るところで、もちろん、現在でもその伝統が続いている。

 白銀屋与左衛門は、白銀屋という屋号を名乗ることを許されているのだから、細工技術には相当の腕があったのかもしれない。しかし、世相が荒れ、経済状況が逼迫した中では高価な金銀細工を扱う職人の生活も逼迫し、加えて、彼の住居が遊郭のあるところでもあり、次第に酒と女に溺れるようになったと言われている。そして、そのために土蔵破りをする盗っ人働きをしていったのである。金と女が彼の人生を狂わせていくが、華美であることへのあこがれが人一倍強かったのだろう。

 一説では、彼が破った土蔵は主に大身の武家で、24箇所のうち17箇所が武家の土蔵で、豪商などの商家5箇所、医家2箇所となっている。白銀細工人として武家屋敷に出入りすることも多かったし、刀剣の装具の鑑定も得意で、装具に使われている金銀の剥奪も容易だっし、それを鋳つぶして他の形にして売りさばく技術ももっていたからと言われている。

 彼が捕縛されたのは、宝暦12年(1762年)であるが、公事場(裁判所)の牢内で語ったことが残されており、それによれば、その手口は大胆且つ細心で、蔵の中で何日も過ごすことを覚悟で忍び込み、夜明け頃に家中が騒がしくしているときに堂々と表から出て行くという手口を使ったらしい。また、細工道具も土蔵破りには最適で、彼はこれに独自の工夫を凝らしていたということである。

 彼の吟味(取り調べ)の中で、驚くべき事実が発覚し、馬廻役250石の前波義兵衛の娘「たみ」が10年以上前に出奔して行くへ不明となっていたが、与左衛門の妻となっていたことや、藩士の多くが彼と一緒に博打に興じていたことが明白になるのである。この事件に関連して処罰を受けた武家は百人をくだらない。藩は、この事件をきっかけに武家の風紀の乱れの一掃を行おうとしたのである。

 白銀屋与左衛門は、一度巧妙な手口で脱獄を試み、密告によって失敗したこともあって、刑が加重されて、明和元年(1764年)に「生き胴の刑」で処断され、十三歳になる彼の息子で前田駿河守の家臣木村惣太夫に奉公していた少年も連座で首をはねられて処刑された。

 この事件が藩内で大騒動となったのは、その大胆不敵な手口もあるが、百余名にも及ぶ武家の処分が行われたためで、加賀藩の藩政が重臣たちの権力掌握争いに明け暮れたこともあって、加賀騒動と共に白銀屋事件として人々の口にいつ間でも残ったからであろう。

 『炎天の雪』は、こうした背景の中で、白銀屋与左衛門の妻となった「たみ(本書では多美)」を中心にして、彼女が容姿のよい金銀細工人であった白銀屋与左衛門に惚れて駆け落ちし、子まで儲けて幸せな暮らしをしていたが、与左衛門の中に残っている連座で苦しめられて人間の恨みから、次第に与左衛門が崩れていき、やがで泥棒にまで落ちていく姿を目の当たりにして、自分の生き方を探し出していく姿を描いたものである。

 ことの起こりは、加賀騒動の大槻伝蔵に使えていた佐七という男が、五箇山で監禁されていた大槻伝蔵のために文を届けていたという咎で九年の入牢の後に出所し、幼馴染みで大槻伝蔵の側室となっていた「たみ」という女性を捜し出そうとして、「多美」と間違えてやってくるところから始まるのである。

 佐七は加賀騒動で連座された大槻伝蔵の身内の救出と幸せを願い、自分を認めてくれた大槻伝蔵に恩返しがしたいと願っていた。多美と息子の文吉とで幸福に暮らしていた白銀屋与左衛門は、この佐七の意気に感じ、やがて、大槻伝蔵を支持していた人々と大槻党を作り、大槻伝蔵を罠に嵌めた前田土佐守への意趣返しを企み、その人柄や美貌から大槻党の首領として祭り上げられていくようになる。だが、大槻党の企ては、脇も甘く、前後の結果も考量しない浅はかな素人の企てで、見事に失敗していく。実際の白銀屋与左衛門が大槻党と関係があったかどうかは不明であるが、この辺りが作者の構成力の巧みさだろう。

 経済の困窮から白銀細工の注文も減り、細工師としての腕も振るえなくなり、次第に、白銀屋与左衛門は身を持ち崩していき、博打に手を出し、盗賊団の首領から土蔵破りの鍵を作るのに目をつけられて、その罠にはまっていくようになる。加えて、大槻党の一人であった過激な男から手籠めにされて遊女に売られた隣家の娘と遊女屋で出会、彼女に溺れていくようになるのである。

 彼は、能登で自分の家系が連座で流罪となった家系であることを知り、連座で苦しめられることの恨みを抱き、それをくすぶらせていたのである。

 その間に、佐七は、自分の恨みではなく、人々と助けあって行く道を、当時の公事奉行や多美の家の近くの橋番をしている爺さんから学んでいくようになり、大火の時も人助けに奔走し、貧窮であえぐ人々のために奔走するような人間となり、連座で苦しむ大槻伝蔵の身内のためにも奔走していく。

 また、加賀騒動で無惨な殺されかたをした女中の「浅尾」の弟で、飄々としているが思慮深い小笠原紋次郎という侍と知り合いになり、彼が五代藩主前田吉徳の生母である預元院の意を受けて、大槻伝蔵の事件の真相を調べ、連座されている者たちの救出のために働いていることを知り、小笠原紋次郎も恨みではなくてゆるしと愛で生きていることを知り、一緒に働いていくようになるのである。

 佐七は、次第に「多美」に惹かれていくようになり、「多美」も恨みを抱いて身を持ち崩していく白銀屋与左衛門がわからなくなり、決して美男ではないが爽やかにまっすぐ生きようとする佐七に惹かれていくようになる。また、小笠原紋次郎は、大槻伝蔵事件の連座で苦しむ人々を救うためには現藩主である前田重教の力が必要で、そのために重教の生母である実成院と知り合いになり、彼女と相愛の恋に陥っていく。実成院は病で死んでいくが、その功で、連座で苦しめられていた人々は救い出され、大槻伝蔵の側室であった「たみ」も救い出され、やがて小笠原紋次郎と共に江戸で暮らすことになる。

 佐七と小笠原伝蔵の生き方は、恨みを抱いて生きる白銀屋与左衛門と対称的で、本書の中で光を放つ存在となっている。

 他方、捕縛された白銀屋与左衛門の連座で「多美」も処分を受け、その子も斬首されるが、佐七の懸命な働きや小笠原紋次郎、預元院の働きもあって、子の斬首は形だけのものとなり助けられ、「多美」も佐七との思いを遂げていくようになるのである。

 ここには、白銀屋与左衛門の妻となっていた「多美」と佐七の恋、小笠原紋次郎と実成院の恋という二つの恋が中心に描かれるし、白銀屋与左衛門が身を持ち崩していく姿が克明に描き出されていく。

 この作品については、まだ、記しておくことはたくさんあり、これは非常に優れた作品であるが、加賀騒動と白銀屋事件を題材にした物語作家の本領が充分に発揮された作品であるとだけ記しておこう。内実のある面白さを感じる作品だった。

2012年3月19日月曜日

諸田玲子『炎天の雪 上・下』(1)

午後からは雲が広がってしまったが、午前中は初春の光が射していたので、掃除や洗濯などの家事に勤しみ、寝具の取り替えなども少し頑張ってしていた。午後から、かなり精力的に仕事や会議の準備等をしていたが一段落つき、諸田玲子『炎天の雪 上・下』(2010年 集英社)を面白く読んでいたので記しておくことにする。

 これは加賀百万石、金沢を舞台にし、伊達騒動や黒田騒動と並ぶ三大お家騒動と呼ばれた加賀騒動と稀代の大泥棒と言われた白銀屋与左衛門の事件を背景にして、連座(罪を犯した者の家族や親類などすべて罰される)で苦しむ人々を助け出そうとする人間たちと、白銀屋与左衛門の妻となっていた「たみ(本書では多美)」という女性の恋の姿を鮮やかに描き出したものである。

 本書では、いくつかの歴史的事件が大きく絡んでいるので、まず、それらの事柄について簡略に記しておきたい。

 本書の骨格となる背景の一つは、前述した加賀騒動である。加賀騒動には加賀藩の執政をめぐる藩主と重臣たちの軋轢が背景としてあり、加賀前田家は、前田八家と呼ばれる重臣で運営され、特に前田八家の中の本多家は江戸幕府が前田家の力を押さえるために送り込んだ目付でもあったので、藩主は幕府の威光を背景にした本多家を中心にした重臣会議を尊重せざるを得なくなっていた。

 ところが、五代藩主になった前田綱紀(1643-1724年)は、祖父で戦国武将として名をはせた前田利常の影響も大きく、尚武英邁な人物で、新田開発や農政改革、「御小屋」と呼ばれる生活困窮者のためのお救い施設の設置、学問や文芸、細工技術の向上を図り、こうした執政状況を改変して藩主の主導権を確立していった。彼の藩政は80年に渡って続き、「仁政」を敷いた名君と言われていた。

 この綱紀の後を受けて六代藩主となった前田吉徳は、さらに強固に藩主の主導権を確立するために上士以外の出身でも広く人材を登用して重臣の前田八家の力を押さえようとした。特に、足軽の三男に過ぎず、世子であったころの御居間坊主(茶坊主)であった大槻伝蔵の才を見出し、彼を重用するようになったのである。

 大槻伝蔵(1703-1748年)は、吉徳が藩主となったときは、まだ切米50俵の士分に過ぎなかったが、吉徳の側近となり、機転が利く才能豊かな人物で、財政にも明るく、悪化し始めていた加賀藩の財政を立て直すために、倹約令や米相場の改革、大阪の豪商からの借り入れなどを行い、次々とこれを成功させて、加賀藩の財政悪化を食い止める働きをしていった。吉徳はこうした大槻伝蔵の働きを尊重し、加増を行い続けて、ついには前田八家につぐ家格までになった。

 しかし、前田八家を中心とした重臣たちは、藩政を握っていた大槻伝蔵に対して、低い家格から急速に出生していったのは茶坊主あがりで藩主におもねる寵臣だとみなし、快く思ってはいなかった。伝蔵が打ち出した倹約令で門閥層たちは既得権を奪われ、その憎しみは嫉妬も合わさって大槻伝蔵に向けられていたのである。特に、前田八家の中の前田土佐守(前田直躬-まえだ なおみ 1714-1774年)は、次期藩主である前田宗辰を取り込んで大槻伝蔵の排斥運動をしたために吉徳の怒りをかい、罷免されたりしたこともあり、大槻伝蔵を蛇蝎のように嫌っていた。大槻伝蔵自身も、藩主に重用されていることを威光として用いる自尊心の強さがあったので、対立は深かったのである。

 そして、大槻伝蔵を重用して藩政の改革を行っていた吉徳が死去(1745年)したあと、前田直躬を中心にした重臣たちは、証拠も不明なままで不行き届きの嫌疑をかけて大槻伝蔵を讒訴し、閉門蟄居を命じ、さらに、1747年に流刑地であった五箇山に配流した(ちなみに五箇山は、現在は白川郷と共に世界遺産に指定されている)。大槻伝蔵はそこで悲憤のうちに自害した。

 ところが、七代藩主となった前田宗辰がわずか一年半で死去し、異母弟の前田重煕(まえだ しげひろ 1729-1753年)が八代藩主のとき、伝蔵が五箇山に配流されているとき、七代藩主の前田宗辰の生母で重煕の養育をしていた浄珠院の毒殺未遂事件が発覚し、「浅尾」という六代藩主吉徳の娘の女中で中老であった女性の犯行と判明し、取り調べの結果、主犯が吉徳の側室であった真如院で、真如院が実子の前田利和を藩主につけることを画策したというのであった。そして、真如院の居室を捜査したら、大槻伝蔵からの手紙が見つかり、大槻伝蔵と真如院の不義密通ということになって、藩主の毒殺も大槻伝蔵が絡んでいるということになったのである。「浅尾」は、毒蛇の壺に入れられるという無惨な死罪、真如院と利和は閉門となり、大槻一派への粛正は1754年(宝暦4年)まで続いた。

 八代藩主も二十五歳の若年で死亡し(1753年)、九代藩主前田重靖(まえだ しげのぶ 1735-1753年)も十九歳で死亡し、結局、加賀藩主は、五代藩主吉徳の七男前田重教(まえだ しげみち 1741-1786年)が継いだのである。こうした次々と起こった藩主の若死にや藩政を巡るごたごたが続き、大槻一派への粛正も続いていたので、奸計に落とされて理由なく自害に追いやられた大槻伝蔵や真如院の祟りがあると恐れられたりしたのである。1759年(宝暦9年)に起こった未曾有の大火も伝蔵の祟りだと流布されたりした。現在では、この毒殺事件は、前田土佐守直躬ら重臣たちがでっち上げた狂言事件ではなかったかと言われている。哀れなのは、でっちあげによって殺された女中の「浅尾」である。人を虫けらのように扱っていいわけがない。

 ちなみに、この宝暦9年の大火は、本書でも一つの背景となっているので、調べてみると、この大火で金沢の町の半分以上が焼け、城の二の丸を初め城館が焼け落ち、武家屋敷や町屋の全焼が10,508戸、米穀の損失は387,000石以上といわれる。死者は26名で、これは火災の発生が夜ではなかったことが幸いしたといわれている。

 以上が、加賀騒動の大まかなところであるが、本書は、この加賀騒動を直接取り扱ったものではなく、おもに、その粛正が続いた宝暦年間、加賀藩のごたごたが続いて、大槻一派への粛正が激しく行われると同時に失政が続いて人々が苦しんでいた時代に、加賀騒動の連座として苦難に陥った人々の姿が描かれていくのである。

 連座は、犯罪を行った本人だけでなく、その家族や親類まで罰されるという法である。現在の日本では連座は禁止されているが、犯罪者の家族などが社会的に非難されたり、執拗な嫌がらせを受けたり、謝罪が要求されたりする風潮があり、近年、この風潮が激しくなった感もある。それで苦しめられる人の立場から本書は描かれていくのである。

 本書のもう一つの背景となっているのは、加賀の稀代の大泥棒と言われた白銀屋与左衛門の事件で、本書は、むしろこの人物に焦点を当てたものでもあるので、残されている資料は少ないのだが、少し史実的なことを記しておきたい。しかしそれは次回に記すことにしよう。

2012年3月16日金曜日

葉室麟『柚子の花咲く』(4)

今朝未明に大きな地震があって、「ああ、かなり揺れているなあ」と思いながら春眠を貪っていたら、吉本隆明の死去が報じられ、「思想」というものを日本の土壌の中で定着させようとした、この人の足跡を思い返したりした。初めに彼の詩集を読んだときの衝撃もあって、「共同幻想」という人間の精神を総括するような概念の広範囲性に驚嘆したりもしていた。「イメージ」という概念を「幻想」としていくところに鋭さがあった。だが、「幻想」で生きるのも悪くはないと思っている。

 それはともかく、『柚子の花咲く』が回復の物語であることは前に記したが、その回復の鍵となる梶与五郎について、井筒恭平は青葉堂村塾でのことを思い起こす。

 梶与五郎は痩せて貧相な体つきをしていたが、子供たちによく相撲を取らせ、自分ももろ肌脱ぎになって子供たちの相手をし、何人かの子どもを相手にすると息も切れ、体格のいい子どもを相手にするとひっくり返り、その姿が痩せ蛙のようだと子どもたちに笑われたりした。川遊びに行っても、深みにはまった子を助けようとずぶ濡れになり、下帯だけの姿で小さなこの手を引いて歩いたりした。自分の弁当は貧しい子どもにやってしまい、いつも腹も空かせていた。

 井筒恭平と穴見孫六の藩校の試験が近づくと、青葉堂に泊めて徹夜で教え、眠気覚ましに灸をすえてやると言い出し、自ら大きな艾に火をつけて、耐えきれなくなって外に逃げ出し、水をかぶってずぶ濡れのままに「眠気は覚めたぞ」と言って笑ったりした。

 梶与五郎は、自分を飾ることもなく、ありのままに、裸で子どもたちと接し、ひたすら子どもたちのために精一杯に生きた人であったのである。彼は自分をよく見せようとすることとは無縁の人であった。わからない人にはわからないが、井筒恭平はその姿に深く心を打たれたのである。

 井筒恭平はその思い出を抱いて「琴」と与五郎の母「吉乃」と会い、覚書を預かり、油問屋の高田屋の寮を出るが、鵜ノ藩の船改めに誰何され、目付の永井勝次郎に船蔵に監禁されてしまう。だが、かろうじてそこを脱出し、海を泳いでようやくのことに青葉村へ帰る。その間に、永井勝次郎は、父親の永井兵部が轟源心を使って息子の梶与五郎を殺したのではないかと源心に尋ねるが、源心は、自分が殺したのではないと答える問答が行われたりする。だが、勝次郎は父親の兵部が与五郎を殺したことを確信していく。

 井筒恭平はようやく青葉村にたどり着いた。何度も海で溺れかけるが、その度に「およう」の姿を思い浮かべていく。だが、そこに「およう」はいなかった。儀平に覚書を渡した後、儀平が、実は、恭平が本当に百姓のために命をかけるかどうかを試すために危険な鵜ノ藩に送り出したことで、「およう」は起こって実家に帰っていることを告げる。儀平は、「おようの気持ちを知っていたからだ」と言う。「およう」は、子どものころ、雷に襲われたときに恭平が「およう」を背負って助け出して以来、恭平に想いを寄せていたと語るのである。そして、自分は「お咲」が好きだったが、自分は逃げるのに夢中で「お咲」をほったらかしにしてしまった。自分はそんな人間だったと語る。そして、「お咲」と結婚しようと思ったが父親が反対し、ついには「お咲」を守ることができなかった。父親が決めたとおり「およう」と結婚し、「お咲」は報われることなく死んでいった。だから、今、、一からやり直したいと思い、「およう」にも好きな道を歩んでもらいたいから、離縁するつもりだと打ち明けるのである。儀平は、「およう」の中に恭平への想いがあることを知り、想う相手と生きることができるようにしてやりたいと語るのである。そして、「およう」が書いた一つの手紙を渡す。

 そんな話をしているときに、恭平は家老の島野将太夫から急な呼び出しを受ける。鵜ノ藩家老永井兵部が日坂藩に来て干拓地の境界をめぐる問題に一気に決着をつけようと、新たな測量を始めたというのである。恭平は持ち帰った覚書を見せるが、そこには測量に基づく絵図がなかった。絵図がなければ測量に対抗することはできない。即刻、絵図を探し出すようにとの命令を受ける。

 その夜、恭平は「およう」からの手紙を開いて読む。そこには儀平と「お咲」のことが記され、「人は思いがあれば生きていける。・・・だが、わたしのことは放念くだされ」と記されていた。恭平の母親は、恭平の「およう」に対する想いを知っていた。恭平は自分が「およう」に対して想いを抱き続けていることを自覚する。「放念してくだされ」と書かれた手紙で、自分が大事なものを失ってしまう気がした。そして、鵜ノ藩に絵図を探しに行けば見つかって殺されるかもしれず、「およう」と大切な話をしないままに死ぬ訳にはいかないと思うのである。

 その夜更け、突然、永井兵部が訪ねてくる。鵜ノ藩行きを止めさせようとするのである。だが、恭平は、自分は師の恩に報いるために探索をしていると断言する。恭平はひたすら師としての梶与五郎を尊敬している。それに報いるのが武士の義だと言う。そして、師である梶与五郎(清助)を殺したのかと直接尋ねるのである。兵部は答えないが、恭平は、兵部は兵部として執政者の孤独があったことを知る。そういう恭平に兵部は心を動かされたのか、梶与五郎(清助)が一貫流の居合いで殺され、その一貫流の業を使うのは鵜ノ藩では二~三人しかいないと教える。

 井筒恭平は再び鵜ノ藩へ行く。だが、恭平に覚書を渡した「琴」が行へ不明になっていた。「琴」は土屋新左衛門の妻「さなえ」から呼び出しを受けて出かけたというが、「さなえ」はそのような呼び出しはしていないと言う。恭平は土屋家に行き、「さなえ」と会い、新左衛門と会うが知らぬと言う。永井勝次郎を中心にした目付が絡んでいるのではないかということで、心あたりを尋ねると、土屋新左衛門は城下外れの虚無僧寺を探索方が使っていると教え、そこに行くことにする。そして、藩内で一貫流の業を使うのが永井勝次郎と轟源心であることもわかる。

 井筒恭平が土屋新左衛門と虚無僧寺に行ってみると、「琴」は永井勝次郎に監禁され、あやうく犯されようとしていた。土屋新左衛門は表でまっているというので、虚無僧寺に踏み込むと、轟源心がそこにおり、恭平は源心と撃ち合わなければならなかった。ようやく、源心の右太ももを切り、駆けつけてみると、永井勝次郎は何者かに殺され、「琴」は失神していた。恭平は「琴」を助け出し、高田屋の寮に戻る。永井勝次郎を誰が殺したのかはわからない。そして、梶与五郎が生前に「琴」に覚書を渡すときに「大切なものは、大切な人に守ってもらおう。この書状も、そしてもうひとつも」と言ったことを思い出す。

 翌日、永井勝次郎の死を病死として処理したといって土屋新左衛門が高田屋の寮を訪ねてくる。土屋新左衛門は、勝次郎を殺したのは源心ではないかと言って、井筒恭平に轟源心の家を教える。恭平が源心の家に行ってみると、一貫流の業を使う虚無僧が源心を殺して待ち構えていた。井筒恭平を源心殺しの犯人に仕立てようとしたのである。

 他方、郡代屋敷では妻の「さなえ」が夫の土屋新左衛門の帰りを待ち、「琴」が自分の名前を使って呼び出されたことに不審を抱き、そこのことを問い糾そうとしたのである。その会話という形で、土屋新左衛門のこれまでの歩みが語られる。その前に、「さなえ」が梶与五郎(清助)に抱いていた想いが彼女の思い出の形で記されていく。

 永井家と土屋家は親しく行き来をしていたから「さなえ」と清助は知らない間柄ではなかった。その「さなえ」が十歳のころに偶然に城下で清助と出会った時のことである。容貌に自信が持てなかった「さなえ」は川面に映る自分の姿を見て、「太りすぎて、みっともない」と思わずつぶやいてしまい、それを通りすがりに聞き留めた清助が、「わたしもね、自分のことが大嫌いだ、と思うことがよくあります」(255ページ)と語り始め、「わたしは、幼いころから母と別れ別れに暮らしてきました。それが、先日ようやく会うことができたのです。その時、思いました。一緒に暮らせなくても、わたしのことを大切に思ってくれるひとがいる。だから、自分を嫌ってはいけないのだ。それは自分を大切に思うひとの心を大事にしないことになるから、と」と言うのである。この「自分を嫌うことは自分を大切に思ってくれるひとの心を大事にしないこと」が「さなえ」を励まし、彼女は清助との祝言を待ちわびていたのである。だが、清助は放蕩をして座敷牢に入れられ、逐電して行くへがわからなくなり、清助の友だという平沢重四郎を入り婿として迎えたのである。重四郎は土屋家の婿となり、土屋新左衛門と改名した。

 土屋新左衛門は、自分は清助と藩校でも机を並べた中であるが、次第に境遇の差ができてきたと語り始める。清助の父永井兵部が出世して家老となったのに対して、自分の父は勤めで失態を犯し減封され、さらに愚図な父親のせいでひどい境遇にも陥るかもしれないという思いを抱いていたと言うのである。だから、清助に媚びを売るようにして、清助を自分の出世の頼みとしてきた。だが、清助は荒れ出し、自分の父親の失態が起こる前には土屋家との婿養子との話もあったことを知り、逆に清助を憎み始めて賭場に誘ったと語る。そして、奉行所の役人に賭場を密告し、清助は勘当されて座敷牢に入れられ、清助の縁組みも破談となり、自分が土屋家の婿養子となった。清助と言い交わした女中の処遇に兵部が困ったとき、預かることを申し出て、囲い者とした。「琴」は、容姿ではなく心が清らかな美しい女性だった。「琴」を知るにつれ、力ずくで自分の物にしたが、「琴」が清助を思うようには思われていないことを知り、もがいて出世の道を歩んできた、と言うのである。土屋新左衛門は、その境遇から出世に取りつかれた哀れさを帯びて生きているのである。

 その夜、虚無僧に斬られて傷を負った井筒恭平が土屋家を尋ね、新左衛門の失言から、実は、轟源心を斬ったのが土屋新左衛門であり、梶与五郎(清助)も穴見孫六も、そして永井勝次郎も、彼が斬り殺したことを白状する。土屋新左衛門は、すべては「琴」への邪な思いから、また自分の出世のために次々と斬り殺していったのである。そして、井筒恭平を斬り殺そうとする。だが、井筒恭平に胸を刺され、その脇差しを自分で自分の腹に差し込んで、「わしは、自害するのだ」と言ってこときれる。

 「さなえ」は、すべてを納得して事後処理をすると言い出し、井筒恭平は、梶与五郎が「大切なもの」と言った言葉から、覚書とともにあった干拓地の絵図が青葉堂村塾にあることを察していくのである。梶与五郎(清助)にとって、「琴」の他にもう一つの大切なものというのは、青葉堂村塾の子どもたちだからである。子どもたちは、その絵図を守るために青葉堂村塾に籠もっていたのである。

 井筒恭平は青葉堂村塾に行き、そこにいた「およう」と子どもたちに会い、絵図を受け取り、「およう」を嫁にしたいと告げる。井筒恭平にとって「大切なもの」は、「およう」にほかならないからである。そこに藩から知らせを受けた永井兵部がやってくる。永井兵部は何もかも承知の上で、土屋新左衛門の悪事を見逃し、政事のために肉親の情は捨てたと語る。そして、絵図を手に入れるために、井筒恭平や「およう」、子どもたちまで殺そうとする。そこに、庄屋の義平が数人の百姓たちを連れて来る。他藩の領内で庄屋や百姓たちを皆殺しにしたとなれば、日坂藩も黙ってはおれなくなる。

 恭平は兵部に、「柚子は九年で花が咲くと先生はよく申されました」、「わたしたちは先生が丹精込めて育ててくださった柚子の花でこざいます。それでもお斬りになりますか」(306ページ)と言う。永井兵部は、その言葉を閉じて聞くと、「清助めは、やはり親不孝者だ。死んでから後もわしに恥をかかおる」という言葉を残して青葉堂村塾を去っていく。

 その絵図によって干拓地をめぐる争いは決着がつけられた。永井兵部は引退して、清助と勝次郎の菩提を弔うために頭を丸めた。「さなえ」は親戚から新しい婿を取ることになった。「琴」は「吉乃」の養女となり、高田屋の寮を任され、井筒恭平は「およう」と祝言を上げた。そして、井筒恭平は、郡方の勤めの傍ら、青葉堂村塾の教授を務めることになった。そして、青葉堂村塾で子どもたちに「桃栗三年柿八年」と教え、「柚子は九年で花が咲く」と教えるのである。

 この物語は、「大切なものが何か」を知る物語であり、それによって再生(回復)の道を歩んでいく物語である。物語としての構成や技法も非常に優れていて、深くしみじみと感動を呼び起こしてくれる物語である。「愛をもって愚直であること」、それが人の美しい生き様であることを改めて呼び起こさせられる。置かれた境遇から脱出するために出世を求める者、何事かを為そうとすることだけに生きる者、そして、自らの愛する者への想いを貫いていく者、ひとはそれぞれの決断によって生きるが、自分にとって「大切なもの」を本当に大切にして生きる姿にこそ、ひとの幸いはある。感涙をもって読み終わった。

2012年3月14日水曜日

葉室麟『柚子の花咲く』(3)

気温が低く寒いのだが、晴れているので春が近づいている気がしたりする。近くの丘に植えられている梅が清楚な花を咲かせ、桜の蕾も少し膨らんできた。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、この寒さも彼岸までかもしれない。

 さて、葉室麟『柚子の花咲く』の続きであるが、彼の作品は物語の構成や設定が作品の重要な要素となって、その展開が生きた物語を形作っているので、その作品のよさについて語ろうとするとどうしても簡略できずに長くなってしまう。

 青葉村の庄屋である儀平と「お咲」との関係は、儀平の妻である「およう」とのことを含めて重要なものとなっていくが、儀平の話を聞いた後、井筒恭平は鵜ノ藩で殺された穴見孫六の死の真相を確かめるために鵜ノ藩に出かけていく。恭平は孫六が最後に立ち寄ったと思われる鮎川宿の一膳飯屋に足を運び、探索を開始しようとする。そこに、轟源心と名乗る虚無僧が現れ、孫六を連れ出した女性の似顔絵を描く。描かれた女性は、かつて梶与五郎を訪ねてきて川辺で話をしていた女性だった。

 そして、鵜ノ藩家老の永井兵部を訪ね、息子の清助(梶与五郎)は三男だったが、幼少のころから他の兄弟よりも文武共に見劣りがし、賭博にふけり女郎部屋に出入りしたことが判って、座敷牢に入れたが逃げ出して行くへ不明となったことを兵部から聞く。井筒恭平は「先生は青葉堂村塾に来られてからは、まことに立派な師でございました」(69ページ)と語るが、父親である永井兵部は、「清助はわしに当てつけるために日坂藩の干拓を手伝い、郷学を教えるようになった気がいたす」と答え、息子を認めることはなかった。そして、覚書などなく、「江戸へ向かう途中、女連れで旅をして、何者かに斬られるなど恥さらし」とさえ言い、その女についても知らないと言う。

 井筒恭平は、その夜に鵜ノ藩郡代屋敷を訪ね、土屋新左衛門と会う。目的はその妻女で、梶与五郎が連れていたといわれる「さなえ」に会うためだった。だが、「さなえ」に会ってみて、それが別人であることがわかる。また、その「さなえ」と梶与五郎が不義密通をしたということも嘘だとわかる。確かに「さなえ」は梶与五郎の許嫁であったが、与五郎が放蕩のために勘当されてそれ以後会ったことはないと言う。そして、一膳飯屋で虚無僧が描いた似顔絵を見せると、その女性が永井家に仕える足軽の娘で、「琴」といい、かつて梶与五郎と言い交わした仲だったが、父親の兵部が許さず、梶与五郎が放蕩に走ったのはそれからで、それは自分との縁組みを壊すためだったと語るのである。

 そして、永井兵部は「琴」の処分を土屋新左衛門に任せ、土屋新左衛門は「琴」を側妾として囲い、それを知った「さなえ」が「琴」を城下から追い出したと言うのである。「さなえ」は、許嫁であった清助(梶与五郎)が好きだったが、清助は「琴」と言い交わし、夫である土屋新左衛門がそれを側妾とすることが許せなかったと言う。「さなえ」は強い女であるが、その心情は純粋でもある。「さなえ」は「琴」を鮎川宿にやり、夫の土屋新左衛門に金を出させて一膳飯屋で暮らしが立つようにさせたと語る。

 井筒恭平は、その夜、鮎川宿で「琴」の一膳飯屋に再び行き、「琴」が沼口宿の油問屋の豪商「高田屋」に住んでいるのではないかとの話を掴む。そして、そこで「琴」からの呼び出し文を受け取ることになる。

 恭平が呼び出し文の通りのところに行ってみると、そこに待っていたのは「琴」ではなく、一膳飯屋で似顔絵を描いた虚無僧の轟源信と三人の武士たちだった。轟源信は鵜ノ藩目付の探索方で、恭平を捕らえようとする。恭平はかろうじてその手を逃れて日坂藩に帰るが、逃げるときに鵜ノ藩の探索方に傷を負わせたことで、家老の島野将太夫から青葉村の庄屋預かりの謹慎を申し渡されてしまう。日坂藩の家老島野将太夫は隣藩である鵜ノ藩に気を使わなければならない立場であった。

 永井兵部が干拓地の境界争いの決着をつけるために日坂藩に来ることになり、城下から井筒恭平を追い出すことと青葉村の庄屋が覚書の探索を依頼した責任があることから、恭平は儀平のもとに預けられることになったのである。梶与五郎と穴見孫六が殺されたことに鵜ノ藩が関わっていることが判ったが、鍵を握っている「琴」の立場がどういうものかは不明のままである。

 井筒恭平は儀平のもとで謹慎することになり、青葉堂村塾を「およう」と訪ねる。その途中で、「およう」は儀平と「お咲」のことを話し、子どものころの思いでの中で、「わたしは、お咲ちゃんを好きでいながら、わたしを女房にした儀平の気持ちがわかります。わたしも同じように他に好きなひとがいましたから」と告げる(99ページ)。井筒恭平と「およう」は、お互いに相手のことを密かに想っていたのである。だが、その話はそれ以上進むことなく、儀平は恭平に再び沼口宿にいって「琴」と会うことを勧める。「琴」が梶与五郎の覚書を預かっているかもしれないからである。

 儀平の勧めに従って、恭平は再び沼口宿へ向かう。見つかればただではすまない隠密行である。恭平は「琴」がいると思われる油問屋の高田屋を訪ね、そこで「琴」と会う。「琴」は、やはり、かつて梶与五郎と川辺で話をしていた女性であり、「琴」から梶与五郎(永井清助)との話を聞く。

 梶与五郎は、他の二人の兄弟とは異なり、目立たずにひ弱そうで、藩校の他にも郷学に通い、そこの師から見込まれて郷学の教授方に望まれたが、重臣の息子が郷学の教授などになることは望ましくなく父親の兵部がゆるさず、しかも、彼が通っていた郷学の教授は、貧相で頑固で、永井兵部の政事にも批判的であったが、誰も気にもかけることなく、そのことを嘆いて自死してしまった。与五郎は、実は永井兵部の妾腹の子で、彼の母親は沼口の油問屋が建てた寮で料理屋の女将として兵部が重臣や豪商と密談する世話をさせられていたのである。父親の永井兵部が表で清廉を装いながらも裏で歪んでいることを与五郎は知っていたのである。

 また、文武共に優れ、両親にも可愛がられていた永井家の次男の婚儀も決まったとき、女中をしていた「琴」は、その次男から手籠めにあいそうになったのである。次男は文武共に優れていたが、己の欲を果たそうとする傲慢な人物であった。だが、そこを与五郎に助けられる。しかし、与五郎はただ酔って次男に乱暴を働いたということで父親から叱責され、次男もまた「清助(与五郎)の奴はとうとう父上から見放されたぞ。まあ、妾腹なのだから、当然だがな」とうそぶくだけであった。その頃から彼の放蕩が始まり、彼の懐を当てにする平沢重四郎という悪友もつきまとい始めた。

 そして、ある夜、酔って帰った与五郎(清助)を案じていた「琴」に、一度だけ実の母親に会ったことがあることを与五郎が「わしのことなど案じてくれる者は誰もいないと思っていたのだ」と言って語り始めるのである。

 彼の母は、名を「吉乃」と言い、与五郎(清助)に庭に植えられていた木が柚子であることを教えたという。その話を聞いて、「琴」は、あれから九年経っているから、今年、また母に会えるかもしれないと言って、「柚子は九年で花が咲く」ということを教えるのである。それから、与五郎と「琴」は、互いに想いを寄せる仲になっていったという。だが、そのことが知れ、「琴」が父親から怒られたとき、与五郎(清助)は「琴」に結婚を申込み、父に懇願したが、聞き入れられずに荒れ、ついに勘当されて座敷牢に入れられたのである。そして、もう一度母親に会うためにそこを逃げ出したのである。

 「琴」が与五郎(清助)を逃がしたために、処置に困っていたところ、土屋新左衛門が、自分は清助とは友だから、自分に預けるように言い出し、彼に預けられたと、「琴」は言う。土屋新左衛門は清助(与五郎)が放蕩をしていたときに懐を当てにして遊んでいた悪友の平沢重四郎で、清助の後釜として彼の許嫁であった土屋家に婿として入っていたのである。そして、「琴」を手籠めにして、自分は清助の友などではなく、ただあの男を羨んでいただけだとうそぶいたのである。そして、土屋新左衛門の妻となった「さなえ」がやってきて、あなたがいたからこそ、清助様はご自分に立ち返ることができのだから、清助様を待っていて欲しい、と語り、鮎川宿で生きる術を算段してくれたのだと語る。

 彼女の話はそこで終わらずに、さらに、与五郎(清助)の実母である「吉乃」と会い、「吉乃」から自分の後継者として彼女の料理寮で与五郎(清助)を待つようにと言われ、彼女は高田屋の寮に引き取られたと語る。そのことを伝えに日坂藩にいる与五郎(清助)に会いに行ったが、与五郎は「いまのわたしには教えなければならない子供たちがいる。子供たちに支えられて、わたしは変わることができるはずだ。何年かかるかわからないが、九年、十年かけて、柚子の花を咲かせたいと思っている」、「柚子の花を咲かせることができたら、わたしは国に戻ろう」、「琴のもとに戻るつもりだ」と語ったと言うのである。

 そして、八年後、江戸に向かう与五郎と「琴」は鮎川宿で会い、次の日に母親の「吉乃」に会おうとしたときに、与五郎は何者かに殺されたのである。与五郎(清助)が殺された後、藩の目付をしている与五郎(清助)の兄(次男の勝次郎で、琴を手籠めにしようとした男)がやってきて、「清助の一件は笠島湾干拓地の境界争いをめぐって、父上が命じられたのだ。そなた、いらざることを他言するな」と口止めしていったという。

 「琴」は、そのようにこれまでの経過を話し、与五郎(清助)が預けたという覚書を井筒恭平に渡すのである。そのとき、恭平は、梶与五郎が「わたしどもに、生きていくために何を大切にしなければならないかを教えてくださいました。それはひとの心だ、と先生はお教えになったのです」(136ページ)、その思いがこの覚書にある、と語るのである。

 また、「琴」は穴見孫六についても、彼を誘い出すように目付の勝次郎に無理やり依頼されたが、危険を感じて逃がしたと言う。その時、孫六は自分の思いを「琴」に告げ、自分も先生のようになりたかったと語ったというのである。彼は鵜ノ藩目付に狙われていた。だが、孫六が殺された後、勝次郎が「琴」のところにやってきて、「そなたが逃がしたために、何者かに殺されてしまった」と「琴」をなじり、さらに「琴」を手籠めにしようとしたところを、病に伏せていた「吉乃」に助けられたことから、勝次郎が孫六を殺していないことだけは確かだという。孫六の死には依然としてまだ謎が残ったままである。

 物語はここから一気に展開していくことになる。だが、その前に、病に伏せる与五郎の母「吉乃」に井筒恭平は梶与五郎の人と態を語る。それは、まことにこの物語にふさわしいエピソードである。そして、作者が描く人としての「核」でもあるだろう。だから、この書物について長くなってしまうが、それについては次回に記しておくことにする。

2012年3月12日月曜日

葉室麟『柚子の花咲く』(2)

ようやく晴れ間が見えてきて、朝から家中の窓を開けて掃除などをしていたら、妙に疲れを覚えてしまった。コーヒーを入れ、気分を変えて、山積みしているしなければならないことを考え、変わらない日常に勢を出すことにした。

 これを書き始めて、少し長くなる気配を感じながらも、葉室麟『柚子の花咲く』の続きを記しておこう。人は亡くなって初めてその人の素晴らしさや大きさがわかるのかもしれないが、凡庸で風采が上がらないと思われていた人物が、実は、その内実で計り知ることができないものをもっていたことを切々と綴るこの作品は、やはり、深い感動を与えてくれる作品である。読みながら、わかる人にしかわからないし、また、それでいいと思い続けた。

 さて、本筋であるが、殺された師の梶与五郎の汚名を晴らしたいと望んでいた井筒恭平は、師の喪に服するという理由で籠もっていた子どもたちを説得するために出かけた「青葉堂村塾」で、子どものころに一緒に学んでいた「およう」と出会い、彼と「およう」との関わりが述べられていく。

 「およう」は、青葉村の大百姓の娘で、「青葉堂村塾」で学んでいた庄屋の息子の儀平と結婚していた。井筒恭平が江戸へ出府する三年前に、その結婚話が起こった時に、恭平は心中穏やかならぬものを感じていたが、武家の嫡男であった彼が「およう」を嫁にもらうことは難しかった。また、子どものころから「およう」と儀平は仲が良かった。儀平は庄屋として近郷でも評判のよい男になっていた。「およう」と儀平の夫婦は、村の庄屋としての務めを立派に果たしていた。「およう」は井筒恭平を自分の家に案内し、恭平は儀平とも再会する。

 儀平にとっても、師であった梶与五郎の悪い噂と死は信じがたいものであった。そして、梶与五郎が若いころに放蕩をしていたのは本当だが、儀平が村の百姓で酒や女に溺れている者の相談に行ったときに、「見捨てない」ことを諭されたという。与五郎は、「見捨てさえしなければ、必ず立ち直る。恥ずかしながらわしも若いころは道楽者で親に勘当された身だ」と語ったと言うのである(30ページ)。

 儀平のために己の恥を洩らすことをためらわなかった梶与五郎は、儒学者であった岩淵湛山の弟子で干拓地を開いた瀬尾佐内の弟子にあたり、瀬尾佐内が干拓事業をするのを手伝うために日坂藩にやってきて、湛山と鵜ノ藩の家老永井兵部との間で交わされた学領についての覚書を瀬尾佐内があずかり、それをまた梶与五郎があずかっていたと、儀平は井筒恭平に語る。そして、覚書の内容次第では、干拓地の新田の行くへが変わるので、奪われたと思われる覚書を見つけ出して欲しいと恭平に依頼するのである。梶与五郎は百姓のために懸命に働いたのであり、その志を無にしたくないと言う。

 こうして梶与五郎の二人の弟子、穴見孫六は梶与五郎の死の真相を、井筒恭平は覚書の行くへを探すことが始まっていく。井筒恭平は、自分は先生にとって「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」といわれた「柚子」だと思ったりしていく。

 そうしているうちに、井筒恭平は日坂藩家老の島野将太夫に呼ばれ、梶与五郎は武家の妻女と不義を働き女敵討ちにあったので、真相を探るのを止めるように言われる。島野将太夫は鵜ノ藩家老の永井兵部と親交があり、梶与五郎は、実は、本名を永井清助といって、永井兵部の三男であることを告げるのである。そして、永井兵部は勘当した息子のことは恥であり、自分は岩淵湛山とそのような覚書を取り交わしたこともなく、それは梶与五郎がねつ造したことだと伝えたと語るのである。

 また、梶与五郎が不義を働いた女性は、鵜ノ藩郡代の土屋新左衛門の妻女で、もとは梶与五郎の幼いころからの許嫁だったが、梶与五郎が勘当になったために土屋新左衛門に嫁いだ女性だとも語る。梶与五郎がその妻女を呼びだし、追ってきた土屋新左衛門に女敵討ちとして殺されたのだと言うのである。土屋新左衛門は、鵜ノ藩では出世頭で、永井兵部の後継者とも言われている人物だという。

 だが、井筒恭平は、それが事実だとしても覚書がないとは言い切れないと言い、梶与五郎の死の真相については探らないが、覚書の行くへを探すことは、青葉村の庄屋の依頼でもあるから、それについては探察を続けると語って島野将太夫のもとを辞去する。井筒恭平は、家老の圧力にも屈しないで、儀平の依頼を果たしていく。

 友人の穴見孫六も探索は止めないと言う。そして、梶与五郎が貧しい者や弱い者、世の中に引け目があるような者の味方で、干拓事業に熱心だったのは、立派な父親の期待にこたえられない自分が世の中に役に立って、父親に認められたいということもあったのではないか、と恭平に語る。そして、梶与五郎が不義を働いたと言われる土屋新左衛門の妻女に会うと言う。周囲の話から、土屋新左衛門の妻女は、気の強い女性で、とても不義を働くような女性ではないとも言う。覚書の行くへも、梶与五郎の最後に一緒にいたと言われる土屋新左衛門の妻女が鍵を握っている。彼女が事件の要であることは間違いない。

 梶与五郎の生涯には、まだ人に知られないことが多くある。十年ほど前、与五郎とひとりの女性が川辺で話をしていたことがあることを恭平は思い起こす。女性はうつむいて泣き、与五郎は困ったようにおろおろしていた。それを見ていた儀平は「先生は何事かのために、女を諦められたのだ」と言ったが、与五郎は捨てられた子犬のような姿だった。恭平は、梶与五郎が連れていた女性は、あの時の女性かもしれないと思ったりした。

 他方、勘定方をしている穴見孫六は、藩札(藩で通用するお金)の交換比率のことで隣藩の鵜ノ藩との話し合いをする必要があり、鵜ノ藩を訪れ、土屋新左衛門の妻女を訪問する。そして鵜ノ藩鮎川で宿を取っていた時、ひとりの女性に呼び出され、その二日後に宿の外れで遺骸となって発見された。孫六は一太刀で斬り殺され、街道沿いの松の根っこに放置されていたのである。手口は梶与五郎を斬り殺した時の手口と同じだった。

 井筒恭平は孫六の死の真相を探ることを家老の島野将太夫に願い出て、梶与五郎の親でもある永井兵部にも会いたいと言う。島野将太夫はそれを許可し、永井兵部宛の紹介状も書くことにする。事柄の真相をいち早く手にするためであった。

 恭平は鵜ノ藩に行く前に儀平と「およう」を訪ね、孫六は梶与五郎の女性のことを調べに行って殺されたのだから、かつて梶与五郎が川辺で話していた女性のことを儀平と「およう」に聞くためであった。
儀平は、女性がしきりに国許に戻るように懇願していたのに対して、与五郎が、ここで一からやり直したいと語っていたことを恭平に教える。

 そして、儀平自身が、かつて自分は「お咲」という娘が好きで、親同士が許嫁と決めた「およう」があったが、「お咲」を嫁にしたいと思っていた。しかし、親は許さずに、「お咲」を忘れられないなら妾にしろと言われて諦めたと話し始める。

 やがて「お咲」は、大酒飲みの乱暴者であった権太という男のもとに嫁いだが、苦労をし続け、病を得て死んだと言う。権太の素行が修まらずに儀平は庄屋として悩んだが、梶与五郎から「見捨てるな」と言われ、そうしてきた。だが、権太の素行は直らず、「お咲」は苦労して死んだのだと言う。儀平の妻となっている「およう」もそのことは知っているという。

 この展開で、実は、本書の主題の一つが「再生」ということに繋がっていく。中心である梶与五郎の再生はいうまでもなく、儀平の再生、「およう」の再生、そして梶与五郎の父である永井兵部の再生、また井筒恭平の再生が語られていくのである。その意味で、まさに本書は「回復の物語」なのである。その回復の鍵が、殺された梶与五郎の人とあり方にほかならないのである。

 物語の展開については、また次に記すことにするが、これだけの複雑な構成をよくぞ考えることができるものだと作者の構成力に感服する。葉室麟の作品には構成の妙が確実に存在する。

2012年3月9日金曜日

葉室麟『柚子の花咲く』(1)

灰色の雲が重く立ちこめて、余寒の冷たい雨が降っている。まだまだ冬が頑張って寒い。「もう頑張らなくていいよ」と言いたい。このところずっと天気も悪く、政治も経済も暗いから、スカッと晴れてくれないかなあ、とぼんやり雨を眺めながら思っていた。

そんな中で、葉室麟『柚子の花咲く』(2010年 朝日新聞社)を、これも感銘深く読んでいたので記しておくことにする。

 これは、ある藩(「日坂藩」という架空の藩)の村で「青葉堂村塾」という郷学の村塾を開いていたひとりの武士が殺され、その村塾で学んでいた弟子たちによって彼の死の謎が解き明かされながら、その生涯をたどっていくという形で、人の生き様を感動深く描いた作品である。

 郷学は、藩校とは別に町人や百姓も学ぶことができるように各藩が開設した学問所で、私塾や寺子屋とは違い、そこで教える武士は、身分は御雇いの牢人ではあるが、特別に設定された郷学領から手当てが支給されていた。「青葉堂村塾」は、そのような郷学の学問所の一つで、その教授であった梶与五郎が隣国である鵜ノ島藩の領内で殺されたのである。時は、将軍綱吉が死去して家宣が六代将軍となった宝永6年(1709年)である。

 日坂藩では、干拓地に学領を設けて「青葉堂村塾」を細々と続けていたが、梶与五郎の死にはいかがわしい噂がついて廻っていた。それは、梶与五郎がお役目で出府する途中で、酌婦を連れて遊び歩き、土地のやくざ者と揉め事を起こして殺されたという噂であった。もともと与五郎は、隣藩である鵜ノ藩の藩士の家に生まれ、江戸に遊学したが、鵜ノ藩に戻らずに、さらに勉学のために長崎に行く途中で青葉村に足を止め、そのまま、家老の推挙で十年ほど「青葉堂村塾」の教授方を勤めたが、うさんくさく思われていたし、中肉中背で、丸顔の風采の上がらない男であった。死去したとき、36歳であった。

 子どものころに「青葉堂村塾」で梶与五郎から学んだ郡役人の筒井恭平は、江戸から帰郷して、与五郎の死についての噂が自分を教えてくれた師に似つかわしくないと思い、同塾で学んだ勘定方の友人である穴見孫六を訪ね、与五郎が干拓地の境界をめぐる日坂藩と鵜ノ藩との争いの承認として出府したことを知る。

 干拓地は、最初の「青葉堂村塾」の教授を務めた岩淵湛山の門人の願い出によって行われ、湛山と親交があった隣藩の鵜ノ藩の家老永井兵部も、湛山のために鵜ノ藩の新田の一部を提供し、日坂藩もこれを受けて学領を定めていたものであった。だが、大雨で山崩れが起きて川の流れが変わり、鵜ノ藩領内を通らなくなって、取水ができなければ鵜ノ藩の新田が枯渇するだけとなったため、永井兵部は鵜ノ藩が提供していた郷学のための学領の返還を幕府に訴え出ていたのである。岩淵湛山が亡くなり、鵜ノ藩と日坂藩の取り決めについての詳細を知る者がなく、二人が交わした覚書を、湛山の後を継いで「青葉堂村塾」の教授方となった梶与五郎があずかっていたため、それをもって江戸の評定所に出るために、梶与五郎は出府したのである。

 ところが、日坂藩領内を出て鵜ノ藩領内の沼口という宿場はずれの川辺で、梶与五郎が殺されているのが見つかったのである。日坂藩から目付が出向いて調べたが覚書らしきものは見あたらず、しかも、沼口の手前の鮎川という宿場から与五郎が女連れであったことが判ったのである。

 梶与五郎は、藩が路銀を出して江戸出府をいいことに、女連れで物見遊山のつもりで旅をし、その途中で賊に襲われて金と重要な覚書を奪われたのではないかと噂され、若いころから賭場に出入りし、女郎部屋に入り浸って遊蕩を繰り返して、座敷牢にまで入れられたが素行が修まらずに勘当され、帰国することもできずに隣藩である日坂藩領内に流れ込んでいたのではないかとも言われ、死去にまつわるいかがわしい噂のためにその評判は地に落ちてしまっていた。

 「青葉堂村塾」の師としても、子どもたちに相撲を取らせたり川遊びをさせたりしてひんしゅくを買ったことがあった。だが、梶与五郎についての噂は、彼に直接習った筒井恭平も穴見孫六も信じがたいことであった。

 梶与五郎の口癖は「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く、梨の大馬鹿十八年」で、二人が藩校の試験を受けるときも、真剣に勉学をさせ、論語の読解に何度も間違えると、「ひとは、間違えるものなのだ。間違うということは恥ずかしいことではない。間違えたらやり直して前へ進め」(13ページ)と励ますし、自分は腹を空かせていても自分の弁当をいつも貧しい子にやり、弱い者を気遣い、腕白な子には「強いとは、弱い者を助ける勇気があるということだ。力があっても弱い者を助けることができなければ弱虫だ」(15ページ)と諭していた。

 井筒恭平も、藩校で上士の子との喧嘩が絶えずに「青葉堂村塾」に来たのだが、軽格や百姓の子に対して粗暴な振る舞いをしたときに、「身分などは生まれ合わせに過ぎぬ。生まれ合わせによって、相手に頭を下げたり、居丈高になるなどと、おのれを変えるのは恥ずべきことだ」と諭され(16ページ)、その言葉か強く心に残っていた。

 その人柄からして、噂が信じられないのである。そして、穴見孫六が調べたところ、梶与五郎が連れていた女性というのが酌婦などではなく、武家の女性で、しかも与五郎は右脇腹から左胸にかけて一刀のもとに斬り上げられており、居合いの業で殺されたのではないかと思われた。井筒恭平と穴見孫六は、干拓地の境界をめぐる争いで証拠となる覚書をもって江戸に向かう梶与五郎を鵜ノ藩の者が殺したのではないかと思い始める。

 師としては威厳を欠いてはいたが、汚名を着せたまま放置することはできないと考え、二人は真相の究明を始めていく。

 都合のよいことに、井筒恭平は郡方の役人として上役から「青葉堂村塾」に行くように命じられる。師亡き後も子どもたちが喪に服するといって村塾に籠もっており、家に帰るように説得してほしいということであった。上役は梶与五郎の噂を語り、「そのような者が、よく四書五経を教えられたものだ。お主も大変な師を持ったな」と揶揄する。しかし、井筒恭平は、与五郎は師としては凡庸だったかもしれぬが、自分が藩校の試験でよい成績を収めたときにはにぎりめしを作って喜んでくれた。それだけで十分ではないかと思い、「それがし、師を恥じてはおりません」(21ページ)と答えて、「青葉堂村塾」に向かうのである。

 井筒恭平は「青葉堂村塾」に籠もる子どもたちを説得しようとするが、年長の少年に「恩師の喪に服するのに一年でも少ないと思います。いまやめては師の恩を踏みにじる気がいたします」と理路整然と言われて感服するだけであった。そして、そこで、かつてその塾で一緒に学んだ「およう」という女性と再会する。彼女は籠もっている子どもたちの世話を引き受けていたのである。

 物語はここから深くなる。この作品は、言ってみれば、小さなせせらぎからやがて小川となり、大河になっていくようにして、評判が地に落ちてしまったひとりの人間が、実は、己の愛を貫き、生き方を貫いていった姿であったことに向かっていくのである。葉室麟の描く主人公は、他の作品でも、外見や世間の評判が悪くても、実は、そこに凛とした真実がある姿が多く、その真実を描き出して余りある作品になっている。それがわたしの心を打つ。

 この作品も、実に感銘深く、しかも、じわじわとしみ通るように感銘を与えてくれる作品で、その後の展開については、また、次に記すことにしたい。

2012年3月7日水曜日

中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』

昨日、今日と、曇ってはいるが気温が少し上がって、風邪気味のわたしとしては助かる日々になっている。ある古文書研究会の人たちと話をしていて、「ひらがな」の当て字(万葉仮名なのだから当然ではあるが)の読み下しの難しさを感じて、もともと日本語は書かれた言葉ではなく語られた言語に重点が置かれていたのではないかと思ったりした。

 言語学でいう「パロール(書き言葉)」と「ラング(話し言葉)」の区別で言えば、日本語は「ラング」が中心の言語ではないかと思ったのである。だから「誤字」ということはなく、「音」で区別するだけだったのではないだろうか。昔の人たちは、漢字を自由に音で使っていたのだ。比較的当て字を使うことの多いわたしは、そんなことをふと思った。

 昨日、中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』(2007年 実業之日本社)を読み終えたので記しておく。作者は、1949年栃木県の生まれで、いくつかの文学書を受賞され、1994年に『二つの山河』で直木賞を受賞された後も、1995年に『落花は枝に還らずとも』で新田次郎賞などを受賞されている。

 わたしはこの作家の作品を読むのはこれが初めてであるが、図書館の書架に並べられている著作のタイトルを眺めていると、いくつかの歴史的な人物を掘り下げていく歴史小説とでもいうべき作品が多いのに気づいた。歴史の主役たちではなく、むしろ騒ぎ立てることなく静かに世を去りながらも、凛とした姿勢を崩さずに生きた人を描いた作品を書かれているのだろうと思った。会津に深い関心があるのか会津の武士たちを取り扱った作品が多いような気がする。

 『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』は、そのタイトルの通り、天保というひどい政治状況の下で名南町奉行といわれた矢部定謙の生涯を描いたもので、史実に基づきながら優れた筆法で読む者を魅了する作品だった。

 矢部定謙(1789-1842年)は、その剛直な性格と才能で小姓組(将軍の日常生活の雑用をするもの)から先手鉄炮頭、火付盗賊改めを経て、1831年(天保2年)に堺奉行、1833年(天保4年)に大阪西町奉行へと順調に経歴を重ねていった人物で、この経歴は、彼がいかに優れた人物であったかを物語るものとなっている。だからといって、彼は、人におもねることもなかったし、たとえば小姓時代に先輩たちのいじめに遭い、これを厳然とはね除けたエピソードが本書でも記されているが、自ら出世を望むようなところもなかった。自ら保身に走ることもなく、ただ、誠実な務め振りと見識の深さ、才能と人格的な懐の深さが彼を奉行職へと進ませたのである。

 大阪西町奉行の時、元与力であった大塩平八郎とも昵懇になり、飢饉であえぐ人々のために大塩平八郎の意見なども考慮して、飢餓対策を施したりしている。運の良さもあって、やがて大塩平八郎が貧民救済を掲げて乱を起こしたとき(1937-天保7年)には、すでに大阪西町奉行から江戸幕府の勘定奉行となって大阪を去っていた。

 だが、江戸幕府の大塩平八郎に対する処遇をめぐっては、これを逆賊とした老中水野忠邦と対立し、大塩平八郎に注がれた汚名を晴らそうとしている。しかし、そのために水野忠邦から勘定奉行の職を追われ、閑職であった西の丸留守居にさせられた。だが、その処遇を平然と受け止め、やがて、3年後の1840年(天保11年)に小普請組支配となり、翌1841年(天保12年)に南町奉行となった。

 この時に彼が行った名裁きがいくつか残っており、その中でも、やむにやまれぬ事情から新吉原で火をつけた遊女に対して、その事情を考慮して、刑期を80年にしてこれを助けた話は著名である。

 彼が南町奉行であったとき、天保の改革を無理やり推し進めようとする老中水野忠邦の強引な政策に対して、北町奉行であった遠山景元(遠山の金さん)と共に、それが江戸の経済を疲弊させ人々を困らせるものだと反対する。

 だが、そのことが原因で、水野忠邦におもねて町奉行の座を狙った鳥居耀蔵につけねらわれ、明白な理由もなしに鳥居耀蔵の策謀によって、1年足らずで南町奉行を罷免され、伊勢桑名藩預かりとなった。そして、桑名藩に預けられたまま、自ら絶食して死去した。彼の死は、いわば憤死であるが、死後も彼の高い見識が見直され、その非業の死は惜しまれた。自ら餓死を選んで非業の死を遂げるのは相当の覚悟がいるし、意志の強さがなければできないことで、武人としての彼の姿がそこに結実している気がする。

 彼は、本書のタイトルか示すとおり気骨の人で、「剛の者」であり、それだけに弱者や貧しい者に対しては限りなく優しい「情の人」でもあった。家臣はもちろん、江戸市民にも絶大に支持され、彼が取り止めさせた三方領地替え(三つの藩の領地を替えること)によって救われた出羽庄内藩では、復領の恩人として祭神に祀られているほどの人である。

 本書は、この矢部定謙の生涯をその人物像や数々のエピソードを交えて描き出したもので、単に史実を述べるのではなく、物語の形式で綴り、それによっていっそう生き生きと人物を浮かび上がらせたものである。わずか一年足らずの町奉行職だったとはいえ、人間としての筋を通した名奉行と言えるだろう。矢部定謙という人物を知る上では、少なくとも名著といえるかも知れない。

2012年3月5日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集7 かくれさと苦界行』

このところの急激な気温の変化に身体がついていかないで、風邪気味で、だるくて思考力に持続性がないのを感じる。こんな時は、ゆっくりコーヒーでも入れて、SF冒険映画でも見るといいのだろうが、年度末の慌ただしさもあってそうもいかない。そういえば、昨年もちょうど東日本大震災の時に手ひどい風邪をこじらせて、もう駄目かもしれないなどと思っていたことがあるが、今回はそれよりも軽いので大丈夫だと思っている。

昨日も若干の発熱と怠さを覚えていたが、隆慶一郎『隆慶一郎全集7 かくれさと苦界行』(2009年 新潮社)を面白く読んだので、働かない脳細胞のままでも記しておくことにする。

これは、先の『隆慶一郎全集1 吉原御免状』の続編で、1986年(昭和61年)に「週刊新潮」7月十日号から翌年の4月23日号まで連載された作品だから、前作から2年後に書かれたことになる。前作は、江戸の遊郭吉原を山窩(さんか-山の民)の流れをもつ自由の民としての傀儡子(くぐつ-傀儡)の自由を守る砦として描き、徳川家康から「御免状」をもらったいきさつと、その自由を許さない幕閣との争いを、吉原を守る後水尾天皇の落胤である主人公松永誠一郎らと裏柳生である柳生列堂儀仙との死闘として描いたものであった。

本作では、その柳生列堂義仙との死闘に決着がつけられると同時に、吉原を創設した庄司甚右衛門(甚内)の死が描かれている。物語は、寛文3年(1663年)から寛文8年(1668年)の時代を背景としており、この時代の徳川将軍は四代将軍家綱で、老中首座のひとりが本作でも陰謀を画策して自己保身のために吉原を仇敵と狙う酒井忠清であった。酒井忠清は、政治に全く無関心であった家綱を尻目に、権勢をほしいままにして独占欲の強い専横的人物だったといわれている。

江戸時代、政治の中心を担った幕閣に、どうも人品の卑しい人物しか出てこなかったのはなぜだろうか、と思ったりもする。もっとも、身分制度という者は、それがどのような制度であれ人間の人格を育てるというところからは遠くある。身分にあぐらをかき、またそれに固執する人間が輩出してくるからだろう。酒井忠清もそういう人物だった。

それはともかく、本書で「幻斎」として登場する庄司甚右衛門(甚内)は、謎の多い人物で、1575年(天正3年)生まれだといわれるから、もし生きていれば90歳近いわけだが、歴史的には1664年(正保元年)に死去したとされている。しかし、本書では彼が生きて、しかも自由の砦としての吉原を守る要として活躍するのである。

また、本書には荒木又右衛門も登場し、荒木又右衛門は1599年(慶長4年)に生まれ、鳥取の池田家で1642年(寛永19年)に急死をしたと伝えられたが、実際には、1643年(寛永20年)に死んだとの説もある。荒木又右衛門は柳生宗矩に師事したことがあるといわれているが、詳細は不明である。しかし、本書には、この荒木又右衛門が柳生の里に匿われて生きのび、しかも「お館さま」と呼ばれて恐れられる存在であり、老中酒井忠清の陰謀によって危機に瀕した柳生家を守り、またそのために松永誠一郎や幻斎と争うことになって、幻斎との死闘の中で相打ちして死を迎えるという筋立てになっている。本書は、ある意味で、幻斎と荒木又右衛門という二人の武人の死を描くものでもある。

酒井忠清の意を受けて吉原を襲う裏柳生の柳生列堂儀仙は、松永誠一郎との争いで片腕を斬られたが、なお、吉原を狙い続ける。大阪の遊郭と手を結び、江戸で禁制の岡場所を作り、吉原の力を弱めて襲撃する計画を立てたりして、吉原の総名主となった松永誠一郎に私怨を晴らそうとする。だが、柳生新陰流の極意でもある「無刀取り」の争いに敗れ、一命を取り留めて、松永誠一郎の何ものにも捕らわれずあるがままに生きていく姿に感じ、自らの固執や我執を捨てて、仏門に入り生きていく姿を選んでいくのである。我執を捨てた柳生列堂儀仙の姿は、それまでとは全く変わって爽やかである。それが本書の終わりで記されていく。

主人公の松永誠一郎は、自由の砦としての吉原を幻斎らと共に守り、女を食い物にする岡場所を潰すこととも繋がる柳生列堂儀仙との争いを繰り返しながら、「おしゃぶ」との間に子どもができ、幻斎や荒木又右衛門の死を看取りながら、老中酒井忠清の野望を打ち砕いていくのである。

この後、裏柳生に代わって上野寛永寺が幕府の吉原撲滅の手先となり、それと争っていく姿や松永誠一郎や「おしゃぶ」の死までが描かれる予定であったそうだ。特に、上野寛永寺は徳川家の菩提寺であると同時に、第三世貫主が後水尾天皇の第三皇子守澄法親王であり(1654年)、以後ずっと天皇の猶子や皇子が貫主を務めて、朝廷と徳川幕府の関係の要ともなり、御三家に匹敵する権力をもっていたので、そこでの争いが描かれる予定であったのだろう。

本書の物語の展開も、そのひとつひとつの要素や剣術争いなども面白いし、ある種の剣豪小説のような趣を持ちながらも、「自由」と「愛」が描かれているのだが、もうひとつ面白いのは、文中で突然作者の顔が見えるように書かれているところである。特に、争いの中で戦争中の作者の体験や思いが表出し、作者の「勢い」のようなものが感じられた。もちろん、物語としての面白さはいうまでもない。

本書には、このほかに、「吉原遊女の張り」と言われた、いわば「自由」にまつわる短編が「張りの吉原」という題で書かれ、これが収録されている。「自由」を守るために厳格な戒律をもった亡八たちの姿が描き出されるのである。ここでは大阪で太夫であった花扇という女性の眼を通してそれが描かれていく。本書で描き出されるエロティシズムが1980年代のものだなあ、と思ったりもする作品だった。

いずれにしろ、隆慶一郎の作品は、後の時代の剣豪小説などにも大きな影響を与えて、活劇としての時代小説を開花させている作品で、その点でも面白いと思っている。

2012年3月2日金曜日

高橋義夫『御隠居忍法 鬼切丸』

寒さが戻っているのだが、1923年(大正12年)に百田宗治という人が発表した「どこかで春が生まれてる」という童謡をふと思い起こすような弥生になり、そんな気がしている。「弥生(やよい)」という言葉の響きはとても柔らかい。「弥生」という言葉そのものは草木が生い茂ることをいうのだろうが、よくぞ三月にこの名を付けてくれたものだと感心する。だが、今年はまだまだ寒い。

 閑話休題。時代小説の多くは気楽な娯楽作品として読んでいるのだが、その一つである高橋義夫『御隠居忍法』のシリーズで、『御隠居忍法 鬼切丸』(1999年 実業之日本社 2002年 中公文庫)を、これもまた気楽に読んだ。

 このシリーズは、隠居した鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者を主人公にした活劇小説で、隠居して奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになり、彼が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているもので、本書では、主に五合枡村や近郊で起こる事件が取り上げられている。

 一話完結形式の連作で、本書には「鬼切丸」、「闇の羅刹」、「地下法門」、「火勢鳥の怪」、「犬抱峠」、「びいどろ天狗」、「ただしい隠居道」、「虎の牙」の八話が収められている。

 「鬼切丸」は、剣術修行中という武士が五合枡村にやってきて、おもだった者をたぶらかして五合枡村に道場を開くと言いはじめるところから始まる。彼は、老人や婦人たちの人受けもよく、「鬼切丸」という伝来の刀を持ち、押し出しも立派だった。鹿間狸斎は、そこにいぶかしさを感じたが、多くの者はころりと騙されてしまう。そして、金をだまし取って逐電するのである。

 この話の結末は、見た目に人受けがよい彼が、実はもと修験者で、里で女犯をおかし、金をだまし取ったことが露見して追われていたことがわかり、彼を追ってきた修験者仲間によって成敗されるというものである。

 「闇の羅刹」の設定は、五合枡村を縄張りにしている岡っ引きの文次のところに柔術使いがやってきて、強い者が好きな文次は彼に肩入れして柔術の稽古を子分たちにさせるようになるというものである。だが、その男は幼児を犯して殺すことに快感を覚える人間で、被害者が出る。鹿間狸斎は男の正体を見抜き、対峙して捕らえるのである。

 「地下法門」は、文次の女房で五合枡村の近くの大黒湊で旅籠の雁金屋を切り盛りする「おきみ」と古道具屋の婆さんが突然いなくなり、怪しげな宗教に取り込まれているのを狸斎が助け出していく話である。古道具屋の婆さんの遺体が川から上がったことから、二人が同じ村の出身で、その寒村で怪しげな宗教でその村の住人たちを取り込んでいるという出来事が起こっていたのである。

 「火勢鳥の怪」は、大黒湊の薪炭問屋の真木屋でぼや騒ぎがあり、その火付けと思われる男が、藁の編物を頭からかぶって騒ぎ廻るという行事の格好をして自死しているのが発見され、その事件の真相を探るという話である。狸斎の見分で、その男が自死ではなく殺されたことが判り、薪炭問屋の真木屋も何者かに大金を脅し取られていることがわかっていく。どうやら仕入れている炭のことで揉め事が起こっているらしいということで、狸斎は、炭の産地である蕨沢村まで出かけていくことにするのである。

 そこには、かつて飢饉の時に搗き米屋が襲われ、その責任を捕らされた隣村の加津木村の肝煎りの三男が、修行を積んで不動坊と名乗る男となって帰って来て、蕨沢村の村人たちにいうことを聞かなければ呪い殺すと脅して寄進を強要しているという出来事が背景としてあったのである。

 狸斎はその男と対峙し、男は身につけていた藁に火がついて自ら焼死する。呪術というのが信じられていたので、それを利用して村を乗っ取るという出来事が起こるが、結局は自滅を招くという話である。

 「犬抱峠」は、岡っ引きの文次がほおけたように帰って来て、その理由が犬抱峠の山伏に襲われたことがわかり、犬抱峠のある合ノ海という寒村に狸斎がでかけ、そこで、合ノ海村にかつてあった砦の跡を使って独立を企む出来事にあうという話である。

 「びいどろ天狗」は、金箱の封印を巧妙に仕掛けて大金を盗む「びいどろ天狗」という泥棒を捕まえる話で、利用される人間の悲哀が盛り込まれている。

 「ただしい隠居道」と「虎の牙」は、鹿間狸斎が江戸に出かけていき、かつての上司から行くへ不明になっている隠密の捜査を依頼されたり、昔の俳句仲間が非道な旗本に殺されたことを暴いて仇を討ったりする話である。

 これらの物語そのものは、事件が比較的あっさりとかたづけられて、主人公の活躍が光ると同時に、隠居して女中に手をつけて子どもまで作ってしまった主人公の苦労などが描かれていて、それなりに軽妙で面白く読める。少しあっさり過ぎるというきらいはあり、娯楽時代小説と言ってしまえばそれまでだが、村でなんとか糊口をしのぎながら、しかも頼りにされて隠居生活を送るという、いってみれば羨ましい生活をする姿が面白く描かれているのである。しかし、主人公の生活は何とも騒がしい隠居生活ではある。隠居できるだけまだましかもしれないが。