2012年4月30日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2)


 朝から雲が広がっているが、新緑が美しい。「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わり、そして今「昭和の日」と呼ばれる休日で、連休で出かけられた方も多いのか、人通りは少ない。だが、今夜あたりは車の渋滞があるかもしれない。ここは、東名高速道路青葉インターのすぐ近くだから。この連休はずっと仕事が続く。

 さて、隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2010年 新潮社)の続きであるが、慶長19年(1614年)の大阪夏の陣の後、不安にかられた大阪方は、二の丸と三の丸を修復し、新しく牢人たちを集め始めるのである。言い換えればそれは、和平後に戦の準備を始めたということで、もちろん、家康も粛々と準備を行っていたのだが、大阪で集められた牢人たちの乱暴・狼藉、果ては京や伏見の放火の疑いが起こってきたのである。大阪城に寄せ集めた牢人を統率する力もなく、そうした噂がばらまかれる下地を作ってしまったのである。駆け引きと暗躍、それがこの年に行われたことであった。

 翌、慶長20年(1615年)、京都所司代の板倉勝重からこの報告を聞いた徳川方は、牢人の解雇と秀頼の移封を要求し、家康は九男の徳川義直(尾張藩初代藩主)の婚儀を名目に名古屋へ向かい、続いて京の伏見、二条城へと向かったのである。大阪方は徳川方から出された秀頼移封を拒否し、かくして夏の陣の火蓋が切って落とされたのである。松平忠輝も、このとき戦陣に加わるように命を受け、越後高田を出立する。忠輝の参戦は、大阪城内に多数立て籠もっていたキリシタン武士たちへの対策としてキリシタンに深い理解をもっていた忠輝を当てようとする徳川方の策だったとも言われている。本書は、これが忠輝とキリシタンに対する底意地の悪い邪悪な徳川秀忠の策だったという。

 そして、大阪へ向かう忠輝の軍勢に監視のために多数の目付を送るだけでなく、柳生宗矩を使っての途中での暗殺計画と忠輝失脚のための罠を仕掛けたと展開する。

 戦を嫌う忠輝は、大阪城内のキリシタン牢人たちのことも理解していたし、それだけではなく、かつて少年の頃に家康の名代として豊臣秀頼に会い、自分は何があっても決して秀頼を攻撃する側にはたたないという約束を守るために怠戦の決意をしていく。だが、そのことが忠輝にとって後に仇となっていくし、忠輝もそのことを重々承知の上であるが、秀頼との約束を優先させていくのである。忠輝は、一度した約束は最後まで果たしていく人間なのである。

 一軍を率いて大阪に向かう途中で、ひとつの事件が起こる。この事件が後に忠輝改易の理由にされたのだが、徳川秀忠直属の旗本二名が、十四、五人の若党を連れて、なんの挨拶もなく忠輝の越後福嶋勢の先陣に割り込み、これを追い抜いていこうとしたのである。先陣への割り込みは、これを斬り捨てても良いことになっていたが、粗暴で無礼な振る舞いをしながら彼らは割り込んだのである。

 そして、忠輝の先陣を務めていた武士がこれを引き留め、問い糾したが、自分たちは将軍秀忠の直属であると無礼を働いたために、先陣を務めていた武士が二人を槍で刺し殺した。これは先陣を務める者の当然の処置であった。忠輝は、これが秀忠の謀略であることを知っていたが、それを無視し、自分は少年の頃に秀頼と約束し、それを守るために戦はしないと筆頭家老の花井主水正(義雄・・かつての家老で忠輝を支え、大久保長安事件が忠輝に及ばないように自害した花井吉成の息子)に語るのである。少年の頃の約束をどこまでも守り続ける男がひとりぐらいいてもいい、と言う。花井主水正は驚くが、忠輝の意をくんで、影武者を作り、不戦が秀忠にばれないように図っていく。

 大阪夏の陣は、豊臣方が大和郡山城を落城させ、堺の町を焼き討ちすることで戦端が開かれた。そして、樫井(泉佐野市)で遭遇戦が行われ、総力戦となり、大阪方は塙団右衛門直之、後藤又兵衛なども戦死し、真田幸村も命を落として敗戦する。真田幸村が徳川家康の間近に迫り、家康がかろうじてその手を逃れた話はよく知られており、家康は幸村の剛勇と戦略に震え上がったとまで言われている。だが、その真田幸村も力尽き、ついに大阪城は落城する。

 本書は、ここで不戦を決め込んだ松平忠輝が傀儡子(くぐつ)と共に戦の成り行きを見守り、いよいよ大阪城落城の寸前に大阪城に忍び込んで、秀頼と会い、最後の宴を催して別れを告げ、秀頼の頼みを聞いて、淀と秀頼の死骸がのこらないように爆裂団を仕掛けたと語る。もちろん、それは作者のどこまでも明るく颯爽と、しかも約束を守る人間としての忠輝を描き出す創作だろうが、実際に、焼け落ちた大阪城から淀と秀頼の遺体は見つかっていない。また、このとき、家康の娘で秀頼の妻となっていた千姫が助け出されるが、それを行ったのが忠輝だったと語る。

 千姫は木村権右衛門と堀内氏久の手で焼け落ちる大阪城内から助け出され、津和野藩主であった坂崎直盛の手に渡されて救出されている。これには講談本などで後日談があるが信憑性はあまりない。

 ともあれ、本書は、忠輝が冬の陣の闘いの際に不戦を決め込んで不在であったことが、秀忠が放った戦目付によって発覚しそうになるが、これ忠輝はを上手くしのいでいった手法を展開する。そして、家康は忠輝を大阪城の城主とすることを秀忠に告げようとするが、秀忠が猛反対し、家康がその考えを放棄したこととして展開し、秀忠が人望篤い忠輝排斥のためにますますあらゆる策を講じていったと語る。秀忠の忠輝に対する感情は嫉妬である。

 それに加えて、戦後に家康が一族を引き連れての大阪の陣に対する朝廷への参内の際に、忠輝が参加せずに、病と称して嵯峨野あたりの川で遊んでいたということがあり、それに家康も腹を立てたことがあり、秀忠は忠輝に対して厳罰をもって処する決意を固めていくのである。本書では、慶長20年(1615年)に出された「禁中並公家諸法度」に対して、天皇を頂点にして「自由の民」であった傀儡子(くぐつ)と共に生きてきた忠輝が反対しての行動だったとする。

 いずれにしても秀忠が忠輝を排斥しようとする思いはますます強くなり、忠輝が大阪冬の陣に高田藩士を連れて向かう際に、自分の旗本が無礼打ちで殺された事件を題材にして、忠輝が詫びなかったことの責任を追求しようとするのである。もちろん、それは秀忠特有の言いがかりである。だが、秀忠は将軍であり、その意は絶対的である。

 家康は、なんとしても忠輝を守りたかったので、彼を勘当して謹慎の身とし、高田藩を存続させ、加えて秀忠のこれ以上の追求がないように計らうのである。忠輝は高田を出て、武蔵の深谷で謹慎する。謹慎といっても、彼は自由の身であり、忠輝はこの家康の処遇を喜んで受けたのである。秀忠はこの家康の処遇に腹を立てたと言われている。彼はなんとしても忠輝を亡き者にしたかった。

 大阪の陣によって豊臣が滅び、将軍徳川秀忠にとって、もはや家康の力は無用のものとなったばかりか、大御所として力をもつ父の家康が目の上の瘤である。本書は、秀忠が柳生宗矩の手で、深谷で謹慎している忠輝を巻き込んで家康暗殺を行おうとしてことを告げる。子が父を殺すことは下克上の方法でもあり、あり得ることである。だが、この家康暗殺計画は、忠輝の機転と力で見事に阻止されていく。

 しかし、家康の死期が近まる。家康は鷹狩りの際に鯛の天ぷらを食べ、それがもとで発病してしまう。忠輝の生母であるお茶阿の方は、病床の家康と面会し、そこで、忠輝の勘当は十年の間ゆるさないが、「野風の笛」を忠輝に与えるのである。「野風の笛」は、織田信長から豊臣秀吉、そして家康と伝えられたもので、これを忠輝に渡したところに家康の思いがあり、また、10年間の勘当を解かないというのは、10年間は秀忠が忠輝に対して手を出せないということでもあった。こうして、家康は、大阪の陣の集結によって慶長から元和と号が改められた元和2年(1616年)に没する。また、家康に続いて徳川幕府を支えてきた本多正信も病死する。

 それによって家康の影から完全に脱することができた秀忠は、再び忠輝への攻撃を開始し、まず、忠輝の家老であった花井主水正に非行の罪を着せて切腹させ、高田藩を改易し、忠輝を志摩鳥羽城主の九鬼長門守守隆預けにしたのである。配流である。

 しかし、忠輝はこれに従うばかりか、すべての重荷を取り払われて、再び自由闊達となり、伊勢の朝熊でのびのびと生きていくのである。伊勢はキリシタン大名であった蒲生氏郷の旧領で、キリシタンも多かったし、傀儡子(くぐつ)たちは影ながら忠輝を守っていた。忠輝は、家康が言い残したように秀忠が自分を生涯恐れ続けることを知りつつ、自由でのびのびと生きていくのである。「野風の笛の音がきこえるような気がした」(349ページ)は、この長編小説の完結の言葉である。

 徳川幕府の初期から大阪の陣を経て行く中で激動した社会の様々なことを盛り込みながら、ひとりの「自由人」の姿を描いたスケールの大きな作品だと改めて思う。

 巻末の縄田一男の「解題」によれば、これは1987年に新聞紙上に掲載された作品で、「隆慶一郎にとって完結を見た最後の作品」である。激動していく時代と状況の中で、受け入れられないままではあるが自分の歩みを爽やかに颯爽とし続ける人物を描き出し、まことに「面白くて読み応えのあるスケールの大きな作品」だった。作者の思想が明確なのが何よりいい。「常に死を覚悟して生きる姿」を『死ぬことと見つけたり』で記しているが、本書の松平忠輝の颯爽とした爽やかな姿にもその覚悟があって、やはり、これが人間を造る大きな要素だと改めて思ったりした。

2012年4月27日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(1)


 昨日から小糠雨が降り続いている。今、窓の外を小さな女の子が水色の雨具を着て、お母さんに手を引かれて歩いて行った。黄色の長靴の足の運びをお母さんの歩幅に合わせて大股で歩いて行く。昔、「こんな雨の降る日には、傘もささずに歩くがいい。心を込めて歩くがいい」と書き記した言葉を、ふと、思い出した。

 それはさておき、隆慶一郎『隆慶一郎全集11 捨て童子・松平忠輝 下』(2010年 新潮社)は、慶長18年(1613年)の遣欧使節団の顛末から始まる。物語では、優れた能力を持つ松平忠輝を守るために、彼を亡命させるため、伊達政宗と宣教師のソテーロ、忠輝を信奉する者たちがこの使節団を謀ったとされていく。前年に幕府直轄地でのキリシタン禁制が出され、この年にはそれが全国に広がっていたのだから、この時期に遣欧使節団が派遣されることには相当の理由がなければならず、伊達政宗がなぜこの時期にこうした行動を取ったのかは歴史的に面白いところである。

 この遣欧使節団の派遣に際しての実際の船の建造や経過は、実に詳細に調べてあり、そこに忠輝亡命の話を絡ませて物語が展開していく。

 また、この年、権勢を誇った大久保長安の死去に伴い、いわゆる大久保長安事件が起こる。事柄は長安の葬儀に関して、遺言によって金無垢の棺を使いたいと長安の息子が願い出て、それでなくともそのあまりの贅沢ぶりとおごりで「天下一の奢り者」と言われていた長安に対してあまりよく思っていなかった家康は、これを禁止し、金無垢の棺を壊したところ、そこに長安がしたためていた謀反計画書が出てきたという展開になっている。

 歴史的にはそのあたりは不詳であるが、長安の死後に、その遺体を掘り起こしてまで処罰し、長安と関わりがあった者たちを厳しく断罪し、果ては、幕閣の中心でもあり二代将軍秀忠の側近でもあった大久保忠隣まで、そのとばっちりで突如に改易させられるということを考えれば、その理由が単に「奢って私腹を肥やし、幕府の金を使い込んだ」というだけではすまないものがあっただろうと思われる。本書は、それを長安が松平忠輝を頭にして70万人のキリシタンを動員する謀反計画をもっていたと展開するのである。大久保長安がなんらかの権力掌握を謀っていたことは事実である。そして、大久保忠隣の突然の改易は、大久保長安事件に関連して松平忠輝をなき者にしようと謀った徳川秀忠への家康の手痛いしっぺ返しであったというのである。

 こうした状況の切迫もあって、忠輝のイスパニアへの亡命計画が急がれ、忠輝も自由の地を求めて五六八姫と竹を連れてイスパニアにいくつもりであったが、自分の亡命によって秀忠が越後福嶋藩(高田藩)を取り潰し、家臣団は路頭に迷い、まして集まったキリシタンたちは苦難の道を歩まねばならないことに思い至って、イスパニア行きを取り止めるのである。作者が描く松平忠輝は、単に及びもつかない人並みはずれた能力を持つ者だけではなく、他者を心底思いやることができる人間である。遣欧使節団は忠輝なしに出航する。

 他方、キリシタンに対する弾圧は全国に広まり熾烈を極めていく。その理由を作者は次のように語る。「これ(全国でのキリシタン弾圧)に先だつ有馬領の弾圧があまりに凄まじかったためでもある。凄まじい弾圧が起こったということは、凄まじい抵抗があったからということにある。抵抗といっても後年の島原に見られる武装蜂起ではなく、徹底した無抵抗の抵抗だった。どれほど過酷な拷問にあっても『ころぶ』ことなく、どれほど残虐な処刑をしても、平然と神の御名を讃えて死んでゆくのである。
 大名たちにとって、こんなやり切れないことはなかった。領民が目に見えぬ神のために現世の主君を棄てて死んでいくのである。凄まじいまでの忠節心だが、主君に向けられぬ忠節心は国を亡ぼすもとであろう。・・・早急に皆殺しにして、芽を完全に摘んでしまわなければならない」(100ページ)

 この見解は、妥当だろう。初期のキリスト教のローマ帝国による弾圧の最たる理由は、皇帝礼拝に対する不服従であったし、第二次世界大戦下でのキリスト者の投獄は天皇よりもキリスト教の神を優先させるということにあったからである。弾圧の大義名分はいつも政治的である。

 こうした中で、キリシタン大名として信頼の篤かった高山右近は、それまで加賀前田家の預かりであったが、慶長19年(1614年)内藤如安らと共に家康によってマニラに国外追放されている。高山右近が追放になったのは、諸大名からも信頼の篤かった高山右近を殺すと大騒動が起こることを家康が危惧したためではないかと思われる。かくして、キリシタン武士たちは大阪城内へと集結していくのである。

 そして、武士が集まれば戦端が切り開かれる危険も増す。「いくさ人」である家康は、このことを察知して大阪の豊臣側との争いが起こるかもしれないことを予測して戦闘の準備を始めていくのである。家康は可能なら大阪との和平のままに秀頼が軍門に降ることを望んでいたが、他方では戦争は避けられないかも知れないとも思っていたと作者は言う。

 この時期、大阪方は愚かな失敗を繰り返す。秀頼が能登の前田利長に黄金千枚を与えるから軍備を整えるように促す書簡を送っていたことが発覚するのである。これは秀頼の意というよりも豊臣家の重臣で、淀の意のままに動いていた大野修理亮治長が出したものである。これを聞いて家康はたかが黄金千枚で徳川に対抗する軍備を整えようとする大野修理亮治長のけちくささを笑ったという。だが、これによて家康は、城を棄てるか戦うかの決着をさせる腹を固めたと言われている。

 また、淀は、秀吉が作って地震で壊れた京都東山方広寺の大仏建造を家康の勧めのままに行い、軍用金として蓄えられていた金に手をつけた。時価でも100億円を遙かに越す金で、これによって大阪城の金蔵は逼迫を来していくと見られた。そして、大仏開眼にあわせて秀吉供養を派手に大々的に行おうとしたのである。今から考えれば、豊臣家の滅亡は彼ら自身の愚かさが招いたことではある。

 そして、その大仏殿のために新しく作られた鐘に刻まれた言葉「右僕射源朝臣 君臣豊楽 子孫殷昌 国家安康」に言いがかりをつけ、大阪方に、秀頼が大阪城を出るか、他の諸大名と同じように徳川側に参勤するか、淀を人質として出すか、の三つのうちの一つを取るように迫ったのである。

 この言葉の言いがかりを進言したのは、徳川秀忠の側近として重んじられていた金地院崇伝と林羅山である。作者は、こうした言いがかりは家家康の本意ではなく、権力掌握を望む徳川秀忠ではないかと語る。秀忠にはずる賢いところがあったのである。しかし、たとえそうであったとしても、その後の展開を見れば、家康もこれを承知していただろうと思う。林羅山は優れた学者ではあったが、どうも権力におもねる学者であったような印象をぬぐえない。金地院崇伝も林羅山も、学者としての誠実さを捨てたのである。

豊臣側は踊らされていく。交渉に当たった片桐且元を家康の手先ではないかと疑い、主戦派の大野修理亮治長らは片桐且元を暗殺しようとさえするのである。正式な交渉人であった且元を暗殺するということは徳川方と戦争をするということに繋がるのだが、そこに思いも至らないのである。

 且元は武人である。さすがにこの暗殺計画を知り、愛想を尽かして大阪城から出て行く。織田有楽斎(常真)を初めとして有能な武士たちも、こうした内紛に嫌気がさして大阪城を出てしまうのである。大阪方は片桐且元が言い渡された高野山での蟄居ではなく、弟の居城であった摂津の茨城城にはいったことを怒り、多数の軍勢を出して茨城城を攻めようとするのである。これが戦端となって大阪冬の陣が始まるのである。内部で争って家が立ちゆくはずがない。愚行、ここに極まれり、の感がある。だいたい、滅亡は内紛によって起こる。

 この冬の陣の時、松平忠輝は江戸城の留守を任される。秀忠は忠輝を禁足させるのである。忠輝が伊達家を初めとする外様大大名やキリシタン武士たちと共に秀頼と千姫の救出に動いたら徳川幕府はひとたまりもないことを恐れたと、作者は語る。そして、この江戸城留守の時に、秀忠は、柳生宗矩の配下に命じて忠輝暗殺を企て、人並みはずれた身体能力と剣の腕をもつ忠輝によって失敗したと展開する。この辺りはエンターテイメントの世界である。柳生宗矩配下の伊賀者たちは、忠輝暗殺に失敗するが、以後、執拗に忠輝の命を狙うことになる。

 徳川秀忠はこの大阪冬の陣で一気に豊臣家を亡ぼそうと焦るが、いかんせん彼は凡人である。大阪城で真田丸という出城を築いて知略を尽くす真田幸村によって翻弄されていくのである。真田幸村の武将としての優れた才は、このときにいかんなく発揮されれ、徳川軍をことごとく退けていく。思えば、徳川秀忠は関ヶ原の合戦の時に真田昌幸・幸村親子に翻弄され、また、冬の陣の時に幸村に翻弄されたのである。彼はとうてい真田幸村の敵となる器ではなかった。

 業を煮やした家康は、一方では大阪方との和平を進めながら、他方では大阪城に向けて大砲を打ちはなし、気位ばかり高かった淀を震え上がらせ、和平へと道を進めていく。かくして、和平会議が開かれて大阪冬の陣は終わるのである。大阪城が通常では難攻不落の城であることを家康はよく知っていたのである。

 問題はこの和平の中身で、大阪城は二重の堀をもつ四重構造で、一番外側の惣構には高い城壁と広くて深い堀があった。和平の中身は、この一番外側の惣構と三の丸の堀の破却を徳川側が行うというものであった。しかし、大阪方はこの時自ら進んで自分たちの手で二の丸と三の丸の堀を潰すことを申し出るのである。

自分たちの手で守りの要となる堀を埋めるという大阪方の提案は自分の首を自分で絞めるような提案だが、大阪方としてはその工事にいつ間でも取りかからないでいようという腹だっただろう。だが、こんな見え透いたことを家康が見逃すはずはない。真田幸村はこれを聞いてあきれたといわれているが、淀を中心にした大阪方の重臣たちはどこまでも甘いのである。

 二の丸と三の丸の堀は、あいついであっという間に徳川方によって埋められていく。難攻不落の大阪城はこれによって丸裸になる。本書では、これをしたのは家康ではなく秀忠と本多正純だったとしている。本多正純は父の本多正信と共に家康が最も信頼を寄せる者であったが、秀忠の器量を見抜いて、なんとか家康在命中に大阪との決着をつけようとしたと言うのである。本多正信と正純は秀忠を見限っていて、豊臣を亡ぼして後顧の憂いをなくし、家康が死んだら自分たちも死ぬ覚悟を決めていたと語るのである。かくして、徳川側の条約破りが行われた。家康は、この一連の出来事で汚名を着ることになるが、本多正信の決意を知ってそれを了承したと、作者は語るのである。

 物語は、この後、忠輝の命が柳生宗矩配下であった伊賀者たちから執拗に狙われるがこれを排撃し、大阪から駿府に帰っていた家康と会う場面へと向かう。江戸城留守を預かっていた松平忠輝が駿府の家康と会見したのは事実であるが、ここで、作者は、家康が「わしが死んだら、秀忠はお前を殺そうとするだろう。だが死ぬなよ。しつこく生き延びて、あいつを口惜しがらせてやれ」(199ページ)と忠輝に語り、「秀忠にとってお前はこの上なく恐ろしい生き物だ」(200ページ)と語ったとしている。

 この場面は、なかなか妙味のある場面で、家康と忠輝の親子の情と忠輝が長命であったことが合わさって、後の家康の死の場面と重なる上手い構成になっているのである。忠輝はこの後、高田に帰るが、翌年の春にすぐに再び戦火が切って落とされる。ここでもまた、大阪側は見通しの甘い手痛い失敗をしてしまうのである。そのくだりについては、次回に書き記していくことにする。

2012年4月25日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(2)


 昨日、会議で市ヶ谷まで出かけ、外堀の葉桜の美しさに目を奪われていた。昨日は何故か強い陽射しが差し、電車は冷房が入れられるほどだったが、夜の8時ごろに春雷が鳴り響き、俄に雨が降り出したりした。急激な気温の上昇が積乱雲を発生させて夏の様相を呈したのだろう。今朝は曇り時々晴れで、今のところ気温は上がっていない。

 このところ疲れが蓄積されているのを感じるような日々が続いているのだが、時節柄だろうと思っている。友人の作詞家が「うちわ」という演歌の新曲を出すらしい。プロモーションビデオの撮影が行われていると聞いている。苦労しているので良かったと思っている。

閑話休題。隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(2010年 新潮社)の続きであるが、二代目将軍徳川秀忠に代わって松平忠輝を担ぎ出して天下の覇権を目論んだ大久保長安は、家康と豊臣秀頼の謁見が成功裏に終わったことをあまり喜ばなかったと記されていく。

 「今の長安は、ひたすら家康の死を待ち望んでいる。忠輝は見事に成長した。誰が見ても、秀忠より信頼できる将軍の器である。何よりもキリシタンをはじめ、オランダ、イギリスの商人たちさえ全面的な忠輝支持を表明している。全国七十万のキリシタンの団結もほぼ成った。伊達政宗をはじめとする外様大名たちの結束まであと一息。家康さえ死ねばことは開始できるのである」(194ページ)と語る。

 だが、家康と秀頼の謁見に功を尽くした加藤清正が肥後熊本に帰る途中の船の中で発病し、急死した。突然の発病だったので、清正の死については諸説があるが、本書では、豊臣家を滅ぼしたくて仕方がなかった徳川秀忠の意を受けて柳生宗矩が暗殺者を使ったのではないか、先端が細く尖った錐刀と呼ばれる跡が残らない南蛮渡りの暗殺用武器が使われたのではないかとしている。個人的には、加藤清正はかなりの美食家で、それを利用して船中で毒を盛られたのではないかと思っている。「そこまでして加藤清正を葬り、もって徳川と豊臣の間に生まれかけていた和平の芽を摘み取ろうとする秀忠の心がもっとおそろしかった」(201ページ)と本書は言う。

 作者は、どうも徳川秀忠という人物が嫌いなようで、これまで読んだものでも秀忠のことはあまりよく書かれておらず、本書でも大御所家康と将軍秀忠の間に齟齬があり、秀忠の確執があったとされているが、わたし自身は、加藤清正がもし暗殺されたのであるとすれば、家康はその意向を知っていたと思っている。

 それはともかく、松平忠輝は越後福嶋に向かう。福嶋の高田藩主として忠輝は江戸と福嶋を往還していた。その福嶋で、柳生宗矩と藤堂高虎が放った刺客に襲われるのである。忠輝護衛のために忠輝に信服し藩政に手を貸していた雨宮次郎右衛門は、これも忠輝に絶対的な信を置き、忠輝を影ながら守ってきた傀儡子(くぐつ)の手を借りることにし、傀儡子(くぐつ)の長は、かつて忠輝を思慕し、非業の死を遂げた「雪」の妹で、「飛び鎌」というブーメランのような武器の名手でもあった「竹」を御小姓として側につけると言い出す。

 「竹」は、姉の「雪」が非業の死を遂げたときは、まだ八歳だったが、その頃から忠輝に惹かれ、長い間思慕してきていたので、自分の見に代えても忠輝を守ろうとするのである。実際、松平忠輝はただ一人だけ側室を持ち、その側室が「お竹の方」、つまり「竹」であるが、「竹」については詳細が分からず、この「竹」が傀儡子(くぐつ)の出であったというのは作者の創作だろう。

 物語では、大勢の刺客たちが襲って来たときに、身を挺して忠輝を守り、負傷し、彼女を介抱するときに忠輝が「竹」の意を受けて契ったとされ、女性に執着心がなく、五六八姫と夫婦になっていた忠輝は側室など設ける気もなかったが、「竹」の気持ちを考えて、彼女を正式な側室にしたとなっている。忠輝の当惑が面白く展開されている。「竹」は、忠輝との間に長男の徳松を生んだが、この徳松は、忠輝が改易された後に、十八歳で住居に火をつけて自殺するという悲劇的な死を迎えている。そのくだりは下巻で語られるのかもしれない。松平忠輝は大きな器量の男だから、竹と五六八姫の二人がぶら下がってもびくともしないと、竹と五六八姫はうち解け、竹は五六八姫を守るようになっていく。こういう展開も面白い。

 襲ってきた刺客たちは忠輝と「竹」によってことごとく退けられ、また、家康が出過ぎたまねをした柳生宗矩と藤堂高虎に、柳生の庄を焼き討ちして宗矩も鉄炮で狙うという仕方で手痛い報復をして二人を震え上がらせ、次いで、秀忠夫婦(秀忠と於江)が利発だった次男の国松を跡目にしようとしていたことに対して、厳然と長男の竹千代(三代将軍家光)を後継者と定めて、秀忠の意をくじいたことが述べられている。家光の将軍継承には乳母であった春日局の働きがあったことはよく知られている事実である。

 他方、加藤清正を失った大阪方は不安に襲われる。秀頼の不安は大阪城内の兵士がわずかしかいないことである。戦力的には徳川との圧倒的な差があったのである。本書では、秀頼が唯一頼りにしていた松平忠輝にそれを相談し、家康の六男で大大名でありながらも戦争を嫌い、秀頼を助けたいと思っていた忠輝は、これを雨宮次郎右衛門に相談し、大久保長安に依頼する。大久保長安はこれを大いに喜び、宣教師のソテーロ(ルイス・ソテーロ 15741624年)の手を借りてキリシタン牢人を大阪城に送り込むのである。大阪城内に宣教師を初めとする多数のキリシタン牢人がいたことは事実である。

 だが、その時に徳川幕府のキリシタン禁教令の強化につながるつまらない詐欺事件が駿府で起こってしまう。肥前日野江(島原)の藩主であった有馬晴信は、慶長14年(1609年)に長崎港外でポルトガル船マードレ・デ・デウス号を包囲攻撃したが、これは、前年にマカオ港に寄港した有馬晴信の朱印船の水夫たちが乱暴狼藉を働いて六十人あまりが銃殺された(マカオ事件)への報復であった。この事件で日本人のマカオ寄港は禁止された。

 この報復攻撃は、一応、家康の許可を得ていたから、有馬晴信はこれで家康から恩賞がもらえると勘違いしていた。それにつけこんだのが、かつて長崎奉行の与力で、幕政を取り仕切っていた本多正純の与力となっていた岡本大八という男である。岡本大八は、有馬晴信に家康が恩賞として旧領肥前の三郡を与えるつもりだとそそのかして本多正純に口をきいてもらいたいということで莫大な金品を受け取ったのである。だが、本多正純は決して賄賂など受け取らない清廉潔白な人間で、岡本大八が仕組んだ詐欺だったのである。

 岡本大八は家康の朱印と文書まで偽造し有馬晴信に手渡している。だが、いっこうに領地替えの話がなく、有馬晴信は直接本多正純に会い、こうして岡本大八の詐欺が暴露されたのである。そして、岡本大八は、どうせ死罪になるなら有馬晴信も道連れにしようと、大御所家康に書を送り、有馬晴信の秘密を暴露した。それは、マードレ・デ・デウス号の焼き討ちの時に攻撃が手ぬるいとなじった長崎奉行の長谷川左兵衛を激怒して暗殺しようとしたものだった。長谷川左兵衛は家康の愛妾であった「お夏の方」の実兄で、家康は直ちに有馬晴信を呼び出し、岡本大八と対決させられることになったのである。

 場所は大久保長安の屋敷である。そして、これが長安と反目していた本多正純をいたく傷つけた。岡本大八は処刑され、有馬晴信は甲斐に配流去れ、そこで自殺した。だが駿府の大久保長安と本多正純の反目は、江戸における本多正信(正純の父)と大久保忠隣の対立でもあり、しかも岡本大八と有馬晴信は共にキリシタンで、本多正信は、キリシタン信仰はこういうもので、したがってキリシタンを禁制にすべしと主張したのである。有馬晴信は最後のキリシタン大名であった。そして、本多正信は熱心な一向宗徒(浄土真宗)だった。

 この馬鹿げた詐欺事件で幕閣は一気にキリシタン禁制へと向かう。本多正信は、「天下一のおごり者」と言われて派手な行状を繰り返していた大久保長安に南蛮人の影がつきまとっていることを突きとめ、長安排斥のためにキリシタン排斥を訴えたのである。

 本多正信は、岡本大八の悪事をキリシタンの師であるソテーロが既に知っていたと家康に語り、家康はソテーロを呼び出して事情を聞く。ソテーロは、岡本大八から告解されてそれを知っていたが、言えないと答える。家康は、岡本大八が自分を殺すと言っても言えないのか、と重ねて問い、ソテーロは、それを止めるけれども言えないと言ってしまう。神に仕える人間としてそれは当然のことであったが、そのことを理解できない家康の危惧は一気に高まるのである。

南蛮貿易を熱望し、海を越えてメキシコとの通商を開こうとしていた家康は、家康の外交顧問であったイギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)の手を借りて、百トンを超える大船を建築中だった。しかし、この事件をきっかけとして家康は幕府の直轄地でのキリシタン禁教令を慶長17年(1612年)に発令するのである。これが全国に広げられたのは翌年の慶長18年(1613年)である。

 本書ではキリシタン禁制を危惧したソテーロが、この後、大久保長安を訪ね、大久保長安はキリシタンを大阪と福嶋に集め、将軍秀忠を良く思っていない外様大名たちを扇動し、松平忠輝を盟主として一気に反乱を起こすと言う。だが、「いくさ人」である家康を相手には難しく、家康の死を早めたいと思うようになっていったと展開される。ただ、たとえそうなっても、自由闊達で戦を嫌う松平忠輝が承諾するかどうかが問題で、忠輝なしには伊達をはじめとする諸大名たちも動かないと踏んでいた。

 大久保長安は忠輝の説得をソテーロに依頼するが、ソテーロは戦に手を貸すことはできないと断り、開けっぴろげで聡明な好青年であると思っていた忠輝がこのままだと利用されるだけだから、秘かに、海外に逃がすことを考えていくのである。

 しかし、忠輝本人は、こうした状勢とは全く無関係に、相変わらず、浅草のフランシスコ会の診療所で病人の診療にあたり、まさに慈愛をもって人々に接していた。忠輝自身はキリシタンではない。忠輝は美しく豊かな自然に溢れた日本の風土が、キリシタンが説く砂漠の神とは異なっていることを知っていた。キリシタンの神は厳しすぎる、それが忠輝の思いだったと作者は言う。もちろん、これは作者の想像で、それは当時の殉教を栄光としたロ-マ・カトリックの宣教師たちの神理解に過ぎなかったのだが、キリシタンに理解のある者の姿としてはありうることかもしれない。だが、キリシタン宣教師たちが行っていた医療や貧しい者への福祉には大いに感銘を受け、大大名でありながら平然とこれを行っていたと語るのである。

 だが、そこに幕府直轄地でのキリシタン禁教令が出され、彼が病人の治療に専念していた浅草の診療所が打ち壊されることになった。事前にそのことを知らされた忠輝は、医師のブルギューリュスと共に病人たちを移動させて、打ち壊される診療所を眺めていく。私の青春のすべてが此処にあった、様々な人と出会い、神の御業の確かさを江戸に来てはじめて知りましたと、涙を浮かべてその光景を眺めているブルギューリュスを見ながら、忠輝が次のように思ったと作者は記す。

 「神といい仏という、信ずるものは異なっても、高所に達した者の眼は同じものを見るのではないか。忠輝にはそう思えて仕方がない。そして、その高みに登った人を見るたびに、人の世はなんと素晴らしいことか、と思うのだった」(273ページ)

 神学的なことはともかくとして、こういうふうに人間を見ることができる者が素晴らしい人間であるのは、言うまでもないことである。作者は、松平忠輝をそういう美しい人間として描きだしていくのである。

 同じような光景が、診療所を失って河原で病人たちの治療に当たっている忠輝とブルギューリュスの姿として、次のように描かれている。

 「この二人の姿を、家康や秀忠やあらゆる幕閣の人々に見せてやりたかった。キリシタンの最も根源的な、しかも健やかな形が此処にはある。キリシタンの修道士と、彼に医学を学んだ非キリシタンの大名が、青空の下で、大半が非キリシタンの貧しい病人を診ている。修道士は異形の南蛮人だが、誰一人そんなことを気にしている者はいない。病人の大半がぼろを着、薄汚れた連中だが、それも誰一人気にもしない。彼らは完全に融け合って、和気藹々と語り合っている。幕府はこのどこがいけないというのか。どこが邪宗門だというのか。この素晴らしい二人の男たちをどうして捕え、処刑しなければならないのか。自分たちはこの二人に匹敵する何をしているのか」(292ページ)

 作者は松平忠輝という人間をそういう人間として描くのである。そして、この光景を見たソテーロは、松平忠輝を国外に逃がすために働き始めると展開する。ソテーロは忠輝の義父である伊達政宗に会い、忠輝をイスパニア(スペイン)に逃がしたいと長安の陰謀を伝えながら相談する。エスパニア(メキシコ)から来ていた大使のビスカルノ(セバスティアン・ビスカイノ)がもうすぐ帰国するので、その船でソテーロが先にイスパニアに行き、忠輝受け入れの準備をするという計画を話すのである。

 伊達政宗は忠輝亡命の話を正直に家康に伝え、家康の許可を得る。その理由は、家康が忠輝の才を惜しみ、また、忠輝の持っている知識は海外でこそ役に立つということを了解したからだという。伊達政宗は家臣の中で肝が据わり剛胆であった支倉常長(六右衛門)をソテーロと共にイスパニアに送り、忠輝の亡命の準備をさせることにした、と展開され、この支倉常長の剛胆さと剣の腕の凄さが物語として展開されていく。こうして忠輝の海外への亡命計画が進められていくのである。

 他方、柳生宗矩の密偵として大久保長安のもとにいた「ひょっとこ斎」と名乗る忍びは、長安の決起を知り、松平忠輝がどうするかを探るために雨宮次郎右衛門のところを尋ねてくる。雨宮次郎右衛門は「ひょっとこ斎」の狙いを知りつつ、彼を連れて松平忠輝と会う。松平忠輝は大久保長安の決起の話を聞いても、長安はキリシタンを思い違いしている、キリシタンは禁令が出ても、闘うよりもむしろ栄光としての殉教を選ぶだろうと語る。そして、「ひょっとこ斎」の思惑も見事に外していくのである。

 松平忠輝はすぐに大久保長安と会い、彼の謀反計画を止めようとする。キリシタンは決起しないし、殉教の死を選ぶと説得するのである。長安は、その忠輝の指摘を聞いて、自分の思い違いだったことを悟るが、もはや後戻りできないところに来ていることを自覚していた。雨宮次郎右衛門は、自分の主ではあるがこのままでは信服する忠輝の立場が危ないと危惧して、才兵衛を長安刺殺に送り出す。

 才兵衛は長安のもとにいた「ひょっとこ斎」と対決して、これを破り、長安の寝所に忍び込む。だが、その時に、長安は脳卒中で倒れていたのである。長安の死後ではあるが、長安は家康によって極刑にさせられていくが、この大久保長安事件といわれる事柄と松平忠輝の改易が関係していくのである。そのくだりは、さらに下巻で展開されて行くであろうし、永預かりの身とされても変わることなく飄々と生きた松平忠輝の姿がそこで描かれて行くであろう。下巻については、次に記すことにする。

2012年4月23日月曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(1)


 昨夕からしのつく雨が降り続いている。気温が上がらずに今日もすっきりしないのだが、ふと、良寛の「謄々(とうとう)として天真に任す」という言葉を思い起こし、良寛の書を集めた本をぱらぱらとめくり、能筆家でもあった良寛が墨を擦り、紙を広げて、一文字を書き下ろす様を思い浮かべたりした。今日はそんなふうにして一日が始まったわけである。

 それはともかく、隆慶一郎『隆慶一郎全集10 捨て童子・松平忠輝 中』(2010年 新潮社)で、先の上巻に続く中巻であるが、中巻は慶長14年(1609年)の出来事から始まる。この年、忠輝十七歳で、信濃川中島12万石の藩主であったが、藩の実質的な運営をしていたのは、花井三九郎(吉成 生年不詳-1613年)、山田正世、松平清直、松平信直の四人の城代家老で、花井吉成を除く三人は、いずれも長沢松平家のゆかりの者たちだった。このうちの最長老であった山田正世が花井吉成を失脚させて藩政を牛耳ろうと松平忠輝の養父であった皆川広照を抱き込んで、いわいるお家騒動を起こすのである。

 皆川広照を抱き込んだのは、藩主の松平忠輝が粗暴に育った(本書では傀儡子-くぐつ-と交わるようになったとされる)のは花井吉成の仕業であると証言させるためである。花井吉成は忠輝の後見人であり、大久保長安とも関係が深かった。山田正世は、初め、これを幕府年寄(老中)の土井利勝に訴えるが、相手にされず、遂に大御所であった徳川家康に訴え出るのである。

 本書では、このくだりが、大久保長安の優秀な手代として働きながら松平忠輝の人柄に惚れ込んでいる雨宮次郎右衛門という人物を登場させて、彼がその手下の忍びである才兵衛を使い事柄が松平忠輝に及ばないように仕組んでいったこととして描かれていく。

 花井吉成は優秀な人物で、家康の前で、山田正世の訴えをことごとく論破し、家康は、花井吉成はお咎めなし、山田正世とその子も連座で切腹、山田正世側の江戸家老であった松平親宗は改易、皆川広照も改易、松平清直も改易の処断をしている。松平信直だけがこの件とは無関係だった。家康は、生まれたときはそのあまりの怪異さに忠輝を嫌っていたと言われるが、この頃からの家康は忠輝を庇護するような行動をしている。家康の評価は様々だが、非常に優れた人間だったことに変わりはなく、優れた人間は優れた人間を理解できるし、また優れた人間の理解は優れた人間にしかできないのである。

 こうしたお家騒動の後の慶長15年(1610年)、徳川家康は松平忠輝を川中島藩と合わせて越後福嶋六十万石(この石高には諸説がある)を忠輝に与えた。この間、松平忠輝は、キリシタンの宣教師や修道士たちとも交わりを深め、ラテン語を学び、医療修道士として江戸に来ていたフランシスコ会の医師であるペドロ・デ・プルギューリョスのもとで医学を学んでいる。彼は大名の身分であったが、浅草で実際に医療活動も行っていたのである。スペイン語もポルトガル語も習得したと言われている。宣教師たちにとって、家康の六男であり、大名である松平忠輝がキリスト教への理解を示すことで、豊臣秀吉が禁止して以来ずっと困難を極めていた日本宣教に望みを託していたと思われる。この辺りは、実によく歴史的検証がされた背景となっているのである。

 こういう知的教養と身のこなしを身につけるようになった松平忠輝に家康は瞠目し、加賀の前田家、米沢の上杉家の押さえとして福島に松平忠輝を置いたのである。大阪にはまだ豊臣秀頼がおり、大阪の力は強く、これらの外様大名たちと戦をするわけにはいかなかったのである。福島は、上杉景勝が豊臣秀吉の命によって会津に移封された後に秀吉の寵臣であった堀秀治が治めて、名家老と言われた堀直政の助けで北陸の雄となっていたが、秀治の後を継いだ忠俊の時に、同じように家老の後を継いだ堀直次と異母弟の堀直寄との間に争いが起こり、これを機に越後福嶋藩は取り上げられて松平忠輝の所領となったのである。

 この時、花井吉成は家老として、北陸道を整備し、商工業を発展させ、福嶋城(現:直江津)に代わって高田城(現:上越市)の築城に働き、加えて、全国天領の総代官(後の勘定奉行)であり、年寄(後の老中)でもあった大久保長安が松平忠輝の補佐役であった。大久保長安の財力と権勢は相当なものになっていたのである。ちなみに、高田城の築城は、義父である伊達政宗が総指揮を執り、慶長19年(1614年)であった。

 そして、本書では、ここで大久保長安を良く思っていなかった二代目将軍徳川秀忠とその意を受けた柳生宗矩が大久保長安を失脚させようと暗躍し、大久保長安は大久保長安で権力を掌握しようと策謀を練り、松平忠輝が、秀忠と大久保長安の間で微妙な立場に置かれていくことを語る。だが、忠輝は、そんなことを歯牙にもかけないで、自らの道を歩み続ける人間になっていくのである。

 複雑に入り組んだ歴史と状況が展開されるのは、たとえどのような重層的な状況が張り巡らされようと、松平忠輝が、ひとりの人間として、文武を究め、愛情をもって颯爽と生き抜く姿勢をもっていたことを示すものである。隆慶一郎の主人公たちは、とにもかくにも、颯爽と生き方を貫く男たちである。

 事柄は、秘かに天下を掌握しようとする大久保長安と二代目将軍徳川秀忠およびその意を受けて自らの地位を確保しようとする柳生宗矩の争いであり、柳生宗矩は密偵や柳生の刺客たちを放ち、その刺客たちと松平忠輝を何とか守りたいと願っている雨宮次郎右衛門と才兵衛との闘いが展開されるし、江戸初期のキリシタン宣教師たちの事情がそこに絡んでくる。

 作者は、大久保長安が70万人もいたと言われるキリシタンを使って、天下を掌握しようと企てていたという設定をして物語を進める。大久保長安が新しく松平忠輝の所領となった福嶋高田藩にキリシタン牢人たちや職人たちを家臣として新しく集め、これを一大勢力としようと企てていったと語るのである。

 この設定にも無理はない。大久保長安は新しい鉱山技術などをもって金山や銀山の開発を推し進め、それによって莫大な財を築いていったのだが、この新しい鉱山技術を大久保長安がキリシタン宣教師から習得したというのである。大久保長安がキリシタンであったかどうかの確証はどこにもないが、彼がキリシタン宣教師と何らかの関係を持っていたのは事実であるだろう。

 また、豊臣秀吉のバテレン追放令によって改宗していったキリシタン大名は数知れず、かつてはその大名のもとでキリシタンとなった家臣や領民たちも大名の廃絶によって牢人していたのは事実である。徳川家康は、はじめ、西欧諸国との貿易に熱心で、秀吉が出したキリシタン禁令をゆるめ、宣教師たちの活動を黙認していた。やがて伊達政宗もイスパニア(スペイン)とローマに支倉常長(15711622年)などを派遣するくらいであった(慶長遣欧使節団-1612年-慶長17年)し、本書では、松平忠輝の正室となった五六八姫もキリシタンであったとしている。

 この伊達政宗の遣欧使節団については、支倉常長の人物像と共に本書の後半で出てくるが、ちなみにこの支倉常長の洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコといい、フランシスコ会によって洗礼を授けられたもので、ローマで教皇パウルス5世に謁見し、貴族としての待遇を受けていたが、彼が帰国したときは既に江戸幕府はキリシタン禁教令を強め、伊達政宗が望んだ通商を果たすことはできなかった。一説では、伊達政宗はそれによって徳川幕府の転覆を謀ったとも言われるが、そのことも本書で松平忠輝と関連して語られていく。

 ともあれ、物語は、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の謁見へと進んで行く。本書では、徳川家康は最後までなんとか豊臣方との和平を進めていこうとし、むしろ二代目将軍徳川秀忠が権力掌握のために豊臣家の滅亡を謀ったとされている。徳川家康の腹の内は分からないが、この時点では家康は確かに豊臣方との和平の手段を講じていたのである。これをぶちこわしたのは、むしろ秀頼を溺愛しすぎていた淀君であった。この時、秀頼十九歳であったが、淀は典型的な子離れしない母親であったのである。豊臣家は、この淀と自己保身ばかり図る無能な家臣団によって自ら滅びの道を進んだとも言えるのである。

 徳川家康は、この会見に豊臣家恩顧の大名であった加藤清正と浅野幸長を仲介役に選んで豊臣家の説得に当たらせたが、淀君が猛反対したことはよく知られている事実である。本書では、状況を知らずにいる豊臣秀頼に、慶長10年(1605年)に出会って秀頼が敬服している松平忠輝が大阪城に忍び込んで秀頼のために説得したと展開され、その際、大阪城の天井裏に偲んでいた真田幸村の意を受けていた猿飛佐助と出会ったと話が膨らませてあるし、秀頼が家康と二条城で謁見した後に、忠輝と共に向け出して京都市中を遊びに出る約束をし、それが実行されたという展開になっている。

 二条城での秀頼と家康の謁見は成功裏に終わる。秀頼は以丈夫の立派な若者に成長し、家康はその秀頼のものおじしない堂々として姿に瞠目したと言われているが、本書は、そこに松平忠輝の姿が大きく働いていたと語る。そして、かねての約束通り、忠輝は秀頼を連れ出して、京都市中に遊びに出て、傀儡子(くぐつ)たちとこだわりもなく交わる忠輝の自由闊達な姿に触れて、秀頼が大いに喜んだと展開されていく。通説では、家康は秀頼のあまりの立派さにこれを放っておけないとこの時に決断したともされている。

 ともあれ、ここで猿飛佐助を出したり、何ものにもとらわれずに自由闊達に、しかも颯爽とする忠輝の姿を描いたり、傀儡子(くぐつ)たちとの親密な交わりと深い信頼を描き出すのは、語り部としての作者の力量である。しかもここで、柳生宗矩が放つ柳生の者や二代将軍徳川秀忠におもねって家康との謁見を阻止しようとする藤堂高虎が放った手の者との暗闘を盛り込んだりしている。忠輝は藤堂高虎が放った刺客たちを一瞬にして退けたりするのである。

 しかも、この後、忠輝が二条城へ赴いて父の家康に会う場面が描かれ、家康が「お前は将軍になるのはいやなんだろうな」と尋ねたことに対して、忠輝が「いやですね」とはっきり答える場面が描かれたりする。忠輝は「ただの人が一番いい」と答えるのである(188ページ)。「越後七十五万石の大大名でありながら、浅草のフランシスコ会の療養所で、貧民たちの診療に携わっていた男など、日本史の中にもほとんどいない筈だ。しかも来たいと思えば、こうして単身ひょっこりと京に現れたりする。大大名のすることではなかった。正に只の人の気楽さであり、身軽さだった。家康の息子たちの中でそんな破天荒なことのできる者は一人もいない」(188189ページ)と、その自由闊達ぶりを描くのである。

 他方、天下の覇権を望んだ大久保長安は、この頃から自分の年齢のこともあって焦り初め、様々な画策を展開していく。大久保長安はこの2年後の1613年(慶長18年)に卒中によって死去するが、1614年(慶長19年)には大阪冬の陣が起こっており、このころの政情は激変していくのである。そうした事柄を踏まえて、大久保長安の策謀が織りなされていく様子が次に展開されていくが、その後のことは次回に記す。そうした策謀の中でも、松平忠輝はまっすぐに自分の信じるところを怖じることなく歩いて行く人間として描き出されていくのである。

2012年4月20日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集9 捨て童子・松平忠輝 上』


 曇り、ほんの時々晴れで、気温は低い。今日は何故か朝から疲れを覚え、脳細胞は半睡状態。まあ、こんな日もあるだろう。

 隆慶一郎『隆慶一郎全集9 捨て童子・松平忠輝 上』(2010年 新潮社)を大変面白く読む。これは、全集本で上・中・下の三巻に渡って収められている長編で、徳川家康の六男でありながら生涯自由人として生きた松平忠輝(15921683年)を全く別の角度から描き出した作品である。

 松平忠輝は、家康と側室の茶阿の局との間に生まれた子であるが、生母の茶阿の局の身分が低かったこと(徳川家康の側室は身分が低い者が多い)と生まれたときの面容が人並みはずれて醜かったことから、家康が一目見て「捨てよ」と命じ、わずか3万5千石の小大名であった長沼城主の皆川広照に預けられて養育されて育った人物だった。

 後に新井白石が著した諸大名家の由来や事績を収録した『藩翰譜』(はんかんふ 1702年)には、「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まじなりさかさまに裂けて恐ろしげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と記されている。だが、これはあまりのことだろう。本書では、これを受けて「鬼っ子」という言葉が使われている。

 しかし、松平忠輝が面容怪異で、幼少から「捨てられる側の人間」であったことは事実で、その点では家康の子どもの中でも特別な立場にいたし、忠輝が生涯もっていた弱い者や貧しい者、力のない者の側に立つ姿勢はこの幼少期の体験と無縁ではないかもしれない。表題の「捨て童子」はそこに由来する言葉であるが、彼がただの「捨て子」ではなかったことを「童子」という言葉で表した、と作者は述べている。

 彼を預かった皆川広照は、いわば自分の保身のために「厄介者」を引き受けただけで、養育ということからはほど遠いところで忠輝を預かっていたので、礼儀作法はもちろん社会的な適合などを教えることもなく、そのため忠輝は粗暴で野性的だったとも言われるが、武芸の上達は人並みはずれていたし、成長するにつれて、広く深い教養を身につけ、その習得も天才的な能力があったと言われている。晩年の彼は、俳句や能にも親しみ、庶民に慕われる人物になっているのである。

 やがて、1599年(慶長4年)、7歳の時に家康の七男で同母弟の松千代が与えられていた長沢松平家の家督を相続し(忠輝は弟以下に扱われていたのであり、家康がいかに彼を嫌っていたかがこれでもわかる)、武蔵国深谷に1万石を与えられる。そして、徳川家康が天下を取るための布石として東北の雄であった伊達家との姻戚関係を結ぶために、伊達政宗の娘五六八姫(いろは姫)と婚約させられた。

 家康が忠輝と対面したのは、忠輝7歳の時で、そのとき家康は「恐ろしき面塊かな。三郎の稚顔に似たり」と言ったとことが伝えられているが、三郎とは家康が最も期待をかけていた家康の長男であった徳川(松平)信康のことで、織田信長の命によって家康はこの武勇にたけていた長男を切腹させなければならず、家康は生涯そのことを悔いたと言われているほどで、忠輝の中にその信康の面影を見ていたのではないかと思われる。もっとも、家康は自分を凌駕するような人物は排除していったので、長男の信康にも六男の忠輝にもその危惧は感じていただろう。

 家康の他の子どもたちは大藩の継承者となっていったが、忠輝は冷遇されていた。しかし、やがて1602年に下総の佐倉5万石に加増され、翌年すぐに信濃川中島12万石を与えられた。それでも他の子どもたちに比べれば冷遇に代わりはなかったのである。しかし、忠輝の能力は人並みはずれたところがあり、自分が冷遇されていることなど歯牙にもかけないほどの自由さがあった。家康は、この忠輝の力を高く買っていたのか、1605年(慶長10年)に徳川秀忠が二代目将軍となったとき、大阪の豊臣家を懐柔するために家康の命令で将軍名代として大阪城の豊臣秀頼に会い、そのとき豊臣秀頼は忠輝の人柄に感銘を受けて大喜びしたと言われている。忠輝には人を惹きつけて止まないところがあったのである。そして、翌年の慶長11年に婚約していた伊達政宗の娘である五六八姫と正式に結婚した。

 上巻は、ここまでの忠輝の姿を描いたもので、忠輝の異能ぶりがいかんなく描き出され、しかも、何ものにも捕らわれない自由闊達な人間として、武芸も極め、「優れた能力を持った自由な民」である傀儡子(くぐつ)とも交わり、彼らから絶対的な信頼を勝ち取っていく姿が描かれている。

 この忠輝を表す言葉として、作者は次のように記している。
 「『その時はその時のことさ』
  忠輝はそう思っている。何事も先取りして考えたり悩んだりするのが大嫌いだった。明日のことなど人間風情にわかるわけがない。また分からないからこそ、生きるのが楽しいのではないか。現実にぶつかってみて、知力と体力の限りを尽くして対応すればいい。それで駄目なら死ねばいい。忠輝にとって人生は極めて簡単で楽しさに溢れたものだった。予測や不安でその楽しさを消してしまう人間の気持ちが分からない」(249ページ)。

 そういう天性の楽天性を備えた好人物として描き出すのである。

 本書の初めの方に、

 「そして忠輝は弱冠二十五歳にして流罪となり、以後なんと六十七年間、秀忠、家光、家綱、綱吉、四代の将軍にわたる永の年月を配所で過ごしたのである。
 『玉輿記』という書に、忠輝の人物について異様な記述がある。
 『此人素生、行跡実に根強く、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。故に淵川に入って蛇竜、山谷に入って鬼魅(ばけもの)を求め、剣術絶倫、化現(神仏が形を変えて現れること)の人也』
 これほどの人物を何故流罪に、それも永代流罪に処さねばならなかったのか。
 或は、これほどの人物だからこそ流罪に処するしか方法がなかった、徳川家の事情とはなんであったか、我々がこれから追おうとしている問題はそこにある」(13ページ)

 ということが記されていて、本書はこの『玉興記』の描いた人物像に則って、忠輝の少年期が記されていくのである。

 『玉輿記』は作者不詳のもので、主に徳川家の婦人たちを中心に描き、歴史的な信憑性はあまりないのだが、このくだりは「『玉輿記』の三」に記されてもので、『柳営婦女伝双』(国書刊行会編)に収められている。

 松平忠輝が流罪となる過程には、徳川家康のもとで莫大な金銀を生み出し、江戸初期の権勢をほしいままにし、やがて明確な理由も不明なままで憎まれ、死後もその遺体を掘り起こして罰を与えられるという生涯を送った大久保長安の事件とも関連しているし、また、忠輝はキリシタンとも深い関係を持っていたと言われており、そのあたりが中巻で記されていく。大久保長安がなぜ死後に極刑を受けたのかということについての作者の解釈は下巻で記されていく。

 隆慶一郎が松平忠輝を異能者として描くのは(実際、「化現」といわれるほどだからそうだったかもしれないが)、異能者が、その能力が優れていればいるほど、一般には世間から受け入れられないからである。漂白の民であった傀儡子(くぐつ)を「優れた能力を持つ自由の民」とするのもそうだろう。しかし、受け入れられるとか受け入れられないとかなどのことを些末なこととして生き方を貫いていく人間として松平忠輝に焦点を当てる姿は、作者の思想そのもので、しかもそれをエンターティメントとして描き出すところに、作者の力量の大きさとずば抜けた能力があると思っている。

 とにもかくにも抜群の面白さがこの作品にもあって、思わず読み進めていくものがある。中巻の展開は次回にする。