2013年2月28日木曜日

乙川優三郎『武家用心集』(5)「向椿山」、「磯波」、「梅雨のなごり」


 ようやく少し暖かくなり、少し春の陽射しを感じるようになった。まだ寒い日があると思うが、明日からは弥生である。年度末が近づいたので、今年は自分の身の処理を真剣に考えようと思っているが、このところ急激な体力の衰えを感じたりして、果たしてどうしようかと思ったりもする。そういう者にとっては、春の暖かさは有難い。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)の第六作「向椿山」は、待つことができずに裏切ってしまった女への想いを細やかに描く短編である。

 医師としての五年の学びを終えて帰郷した岩佐庄次郎は、五年前に「待つ」と言って言い交わした美沙生(みさお)が自分を待っていなかったことに愕然とする。

 美沙生は、武家の娘で、庄次郎の師である医師の家に手伝いに来ていた娘であった。明るく屈託がない彼女は誰からも慕われるような娘であった。正次郎は十九歳で江戸に遊学する前、互いに想いを寄せ合っていた十六歳になる美沙生に待てるかと訊き、彼女は、はい、と屈託なく答えていたのである。だが、親の承諾を得て婚約していたのではなかった。

 それから五年、彼が遊学を終えて帰ってきたとき、しかし、そこに美沙生の姿はなかった。彼は事情を知らされないままに、藩から薬草園の設置などを任された仕事をしながら日々を過ごしていた。彼は、遊学中に、せいぜい年に一度か二度しか手紙を書かなかったし、いつのまにか美沙生からの便りも届かなくなっていた。美沙生の家に行っても、美沙生は彼に会おうともしなかった。

 やがて、美沙生についての噂話が聞こえてきた。美沙生が華道家の子どもを身ごもり、その華道家の跡を追って京へ行ったという噂話であった。そして、それから一年ほどして戻り、今は実家にいるということだったのである。それを聞いて、庄次郎の心は揺れ、彼は自分の仕事に精を出すことで忘れようとするが、どうしても美沙生のことが忘れられないでいた。美沙生の母親からの話も聞き、美沙生の裏切りが事実だということも知る。

 そうしているうちに、日々が過ぎていくが、ある日、突然、美沙生が彼を訪ねてくる。美沙生は、庄次郎が別れる時に、草木のことを知りたいのであれば生花でもしたらどうか、と軽く言ったことを覚えて、華道を習い始めたのだという。ところが、習い始めるうちに洗練された生花の腕をもつ華道の師範に次第に心が惹かれていったのである。そして、一線を超えてしまい、子を宿したのである。身ごもった彼女は尼寺に預けられて世間の目を誤魔化そうとしたが、子は生まれることなく流れてしまった。華道の師範は、まもなく京に旅立っていった。、そうして今に至ったと彼女は正次郎に語る。

 正次郎は衝撃を受けるが、待てなかった彼女の姿を見るうちに、覚悟を決めて、彼女を自分の家に連れて行くのである。

 この話はこれだけのことでしかないが、人間の回復をどこでするのかということは、なかなか重いテーマで、自分を裏切った人間を、単にゆるすだけでなく、その者と共に再び生きていけるかどうかは、いつも深遠な課題であると思ったりする。

 第七作「磯波」は、自分の想い人を闊達な妹に奪い取られ、その後ひとりで生きてきた女性の微妙な女心を描いた作品で、なんとなくこの作品集にはそぐわない作品のように思えたが、「断念」して生きていくということを考えさせられる作品であった。

 第八作「梅雨のなごり」は、藩主の交代とともに行われることになった徹底した藩政の改革に携わらなければならなかった勘定方の父親をもつ娘の視点で、飄然と生きている叔父の姿を描いたもので、改革の嵐の中でも、驕ることも増長することもなく、妹の家族を守っていく姿が描かれる。状況の変化の嵐の中で、人はどう生きるかを問う作品でもある。

 藩の勘定方を務める父親の帰りが日毎に遅くなり、ついには城詰めの日々となっていく中で、母の兄である大出小市は、彼女の家の台所の板敷を居酒屋代わりにして、手酌で酒を飲むのを楽しみ通ってきていた。彼女の家はわずか二十五石の俸禄で貧しく、叔父は小普請組の小頭をして金もありそうだし、家族もいるのだが、なぜか、彼女の家で酒を飲んでは磊落で気さくな話をしたりしていた。

 そんな中で、十八歳になる兄の恭助は、道場に行くと言っては出かけて、時折、酒とお白粉の匂いをさせて帰ってきていたが、叔父がいるときに仲間と酒を飲んできて帰ってきた。そのとき、叔父の小市は、今がどんな時か考えろと言って激怒し、藩の情勢について話した。叔父は、磊落そうに見えても、情勢についてはきちんと理解していたのである。

 彼は、藩主が交代して国入りする半年前から、藩政の改革に備えてさまざまな取り調べが行われており、場合によっては奸臣の処分と執政の交代がありうるのだと言う。そのために江戸から来た側用人を頭にして監察組が組織され、父の武兵衛もそこで働いていると語るのである。そして、こうのような時は身を慎むべきだと恭助に諭すのである。

 父親の仕事については固く秘密が守られて何も知らされていなかった家族は驚くが、恭助が一緒に酒を飲む仲間に藩の重臣に繋がる須田千之介という男がいて、恭助は彼から二両の金を借りていた。須田千之介は中老の田上源左衛門と繋がり、恭助を通して監察がどこまで進んでいるかを探ろうとしていたのである。恭助はそのことに何も気づかずに暢気に酒を飲んで遊んでいたのである。須田千之介は神道流の腕が立つ。

 叔父の大出小市は、それを聞いて、道場まで出かけて行って須田千之介に金を返すが、そこで須田千之介は立会いを望み、反対に小市に足をしたたかに撃たれたのである。こうして、恭助の禍根は断たれたが、城ではいよいよ糾弾が始まり、父親も城詰めで帰宅しなくなった。父親の武兵衛は過労で倒れるのではないかと案じられた。

 藩政の改革は想像以上に大掛かりに行われ、執政の更迭が行われ、失脚した重臣たちには即座に処分が言い渡され、その中に中老の田上源左衛門もいて、田上と繋がっていた須田家の行く末も危ぶまれる状態となり、足をしたたかに撃たれた須田千之介が大出小市に仕返しをすると脅しをかけてきた。

 そして、往来で須田千之介は大出小市に斬りかかるのである。彼の父は左遷され、大出小市は普請奉行になって加増されていた。そういう恨みも重なり、気位が高かった須田千之介が私怨を果たそうとしたのである。

 往来での斬り合いであるから、それを止める仲裁が入り、小市は刀をひこうとするが、千之介は無理矢理にも斬りかかり、ついに、小市は脇差で千之介の胸を刺すのである。いくら理があっても往来での藩士どうしの斬り合いは御法度である。大出小市には、何らかの処分が下されるかもしれないが、小市はこの出来事を大目付に届けに行く。

 それを見ていた利枝は、一部始終を母に話した。母はそれを聞いて、「誰かがつらいときは周りのものが明るく振舞うものです」(208ページ)と語り、小市が頻繁に酒を飲みに来たのは、貧しい家に嫁いだ妹のことを心配してであり、叔父はそうして利枝の家を守ってくれたのだと言う。父の武兵衛もそのことを知っていて、小市に感謝していた。

 多分、兄の恭助が叔父を迎えに行くだろう。その兄は、それを聞いても呑気で能天気であるが、その明るさが救いかもしれないと利枝は思うのである。

 小市がどのようになるかは記されない。しかし、全体に変革の嵐が吹き荒れて、つらい時に、辛抱して日々をたゆまずに過ごしていくことや、さりげなく愛する者を守ることに徹していく姿があって、作品の出来はともかく、なんとなく爽やかに読めた作品だった。

 乙川優三郎のこの短編集は、文学性も盛り込まれている思想のさりげなさも、優れて高いと思う。時代小説の形で現代の問題を取り込み、しかもそれが違和感なく著されている。こういう短編を優れているという、と改めて思った。

2013年2月26日火曜日

乙川優三郎『武家用心集』(4)「うつしみ」


 昨日は久しぶりに池袋まで出かけて、E教授やT先生たちと様々なことについて話した。病室でこれからのことを話されていた京都のM先生が24日の朝に予想外に早く帰天されたこともあり、いろいろと考えることの多い日だった。今年になって身近にいた人たちが次々と召されることもあり、静かに瞑目しながら残されている時間のことも思ったりする。身近にいる「明日」を語る人々の中で、「明日はない」と密かに思ったりもする。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)に収められている五作目は「うつしみ」という作品で、何の咎かはっきりわからないままに夫を大目付に捕縛された女性が自分を育ててくれた祖母の生き方を省みて、自分の生き方を模索していく話である。

 夫が大目付に捕縛された松枝は、親戚や実家の者が関わり合いになるのを恐れて、ひとり孤独な日々を過ごしていた。事態がどのようになっているのかわからないままの不安を抱えた日々の中で、彼女は幼い頃に祖母に手を引かれて登った実家の菩提寺の石段を登り、香華を手向けて、自分を育ててくれた祖母のことを思い起こす。

 彼女の実母は彼女が幼い頃になくなり、父親はその後に後妻をもらって、その後妻との間に男の子が生まれ、父親の愛情は男の子に偏った。それを見かねた祖母が彼女の養育を引き受けたのである。しかし、その祖母もまた祖父の後妻で、祖父との間に子どもはなく、祖母といっても血の繋がらない関係だった。だが、祖母の津南は松枝を自分の子どものように育てたし、松枝もまた祖母を母のようにして育ったのである。

 祖母の津南は、二十二歳で前夫に離婚を言い渡された。津南の兄が不始末をしでかしたことが原因で、彼女は四歳と二歳の子を残したまま婚家をさり、実家に戻った。しかし、わずか15石の小身である津南の実家には、謹慎中の兄夫婦と二人の子ども、両親が暮らしており、彼女の身の置き所はなかった。兄の不始末というのは、実家の貧しさから役所の金一朱を無断で借用したことであり、生活はそれほど苦しかったのである。

 津南は、何か身過ぎの術を身につけなければならないと思い、奉公に出たいと考えていたが、兄が見つけてきたのは、酔客を相手にする城下のはずれの料亭の仲居奉公であった。だが、津南はその料亭の住み込みの仲居奉公に出た。実家にいたのはわずか二月であった。

 しかし、彼女は日が経つにつれて、同じ仲居として働く百姓や町人の娘たちの屈託のなさに触れて、武家の娘という誇りなどは打ち捨てて明るく振舞うことを学んでいった。そうして懸命に働き、料亭の女将のように自立した女になることを目指したのである。同輩の信頼も得るようになり、比較的落ち着いた暮らしを送るようになっていた。

 そんな折、料亭の女将から突然、縁談話が持ち込まれた。相手は郡奉行のひとりで、西村宣左衛門という四十歳近くの男で、料亭で津南を見染めたというのである。津南は、その男があまり風采の上がらない小役人のように思えたし、結婚にも懲りていたので、その話を断る。女将のように自立した女になりたいと話すと、女将から、女がこうして生きていくのはさらに苦労すると言われてしまう。

 津南は、しばらく考えて、やはり断ることにすると言い出すと、女将は、実家の兄が既に支度金まで西村からもらっているという意外な返事をする。彼女の兄は金にこすっからい。兄が受け取ったという支度金を返すあてもなく、津南の結婚は決められたようなものだった。そこで、津南は西村に会って話をしてみることにする。

 会ってみると、風采の上がらない小役人のように思っていた西村宣左衛門は、体面などには拘わらない人物であることが分かり、彼女は彼の求愛を受け入れることにしたのである。西村の家には息子と姑がおり、姑は彼女を身分の低い女として蔑んだし、五歳の息子は彼女を母親とは認めなかった。彼女は再び孤独を味わったが、辛抱する道を選んだ。

 だが、やがて一年が経ったころ、家族の不和に気づいた宣左衛門が、姑にきっぱりと嫁を見下したような態度を改めるよう忠告したし、やりたいようにやっていいと夫に言われ、彼女は姑の顔色を見ることをやめて生き生きと自立していった。彼女は身分の差などなく誰かれと客を歓待したので、西村の人望も上がっていった。継子の又吉は気性が荒く、とはしばらくうまくいかなかったが、きっぱりと、「わたしが嫌いなら、いつかこの家から追い出しなさい。そのときがきたなら必ずあなたの指図に従いましょう」と言って、無理に馴染ませようとせずに乗り越えていくのである。津南は背筋をちゃんと伸ばす女になっていくのである。

 だが、こうして平穏になった家庭も長くは続かなかった。又吉が元服した年に、宣左衛門は視察のために出向いた海辺の村で津波に飲み込まれてあっけなく他界してしまうのである。それを追うようにして姑もなくなってしまう。津南と敬十郎と名を改めた又吉のちの繋がらない二人が残されたのである。

 津南は、昔、又吉に語ったように家を出る覚悟もあったが、敬十郎は津南を頼りにした。その後、敬十郎が妻帯するまでの十年間ほど、津南は西村の家を守って過ごした。やがて、敬十郎は妻帯し、三年後には松枝と名づけられた女の子が生まれた。だが、松江の母は、松枝が三歳の時に病没し、ほどなく敬十郎は後妻を迎えた。そして、男の子が生まれて、敬十郎は松枝に冷たくなり、それを見かねて血の繋がらない孫の面倒を見ることにしたのである。彼女は、血が繋がらないとはいえ、孫娘である松枝に愛情を注ぎ、「教えられること何でも教える」のである。

 ところが、津南が六十歳を過ぎてから、藩そのものが大変な事態となってしまう。藩主の実弟が江戸で旗本と斬り合って殺害されたうえに、藩がそれをもみ消そうとしたことが幕府に露見したのである。お咎めは必置で、改易の危機に瀕したのである。悲観した藩士は早々に家財道具の処分を始め、西村家でもその準備が進められた。

 幕府の評定で藩主が他家にお預けになることが決まった時、津南の兄が路銀を無心に来た。一家で遠国の親戚のところに身を寄せると言う。そのとき、彼女は穏やかに兄を諭す。

 「武士たるものが浅ましいことを考えるものではございません。殿さまが他家へお預けとなったいま、ご帰宅を願うのが家臣の務めであり、家財道具を片付けたり、他国へ逃れることを考えたりするのはもってのほかでございましょう。たとえ願いが叶わず、御家が断絶したとしても後始末というものがございます。諸道具の片付けはそれからでも遅くはありませんし、そもそも家財なるものは武具から衣服に至るまで俸禄のお蔭をもって調えたものです。さもしい真似をして後の世まで悪名をとるか、実否の定まるまでおまちもうしあげるか、武士としてすべきことは言わずと知れておりましょう」(173ページ)

 と言うのである。これを聞いて、西村敬十郎も家財の整理をやめて家の中を元通りにした。そして、幸い、藩は一万石の減封、揉み消しをした重臣らは重追放となったが、藩の存続は叶うのである。

 津南は次第に松枝の中に自分がかつて置いてきた子どもの幻影を見るようだったが、松枝に女としての生き方を教え、やがて他界した。

 松枝はその祖母の津南の生き方を思い起こす。そして、津南には孤独を丸め込んで生きていく力があったが、自分にはなかったと思う。だが、孤独に負けて夫を疑うのは、自分で自分を粗末にしていることだと思い直し、立ち上がって石段を下り、帰路につくのである。祖母と同じような道をたどる、そういう意味で、祖母の「うつしみ」という表題が付けられているのだろう。

2013年2月22日金曜日

乙川優三郎『武家用心集』(3)「九月の瓜」、「邯鄲」


 晴れ間が戻っているが、冬型の気圧配置が続いてまだまだ気温が低く寒い。青森県で5mを超える積雪が記録されている。ある学校の理事長が訪ねて下さり、このところ静かに沈考する日々を過ごしていたが、今日あたりはぶらりと図書館にでも行ってみようかと思っている。

 さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)の三作品目は「九月の瓜」と題される作品で、人の生き方を簡明に描いた、これもまた秀作だと言えると思う。

 懸命に働いて勘定奉行にまで登りつめた五十二歳になる宇野太左衛門は、妹の娘が婿を取る祝言の席に出かけていく。姪の婿は、私塾の秀才と言われるほどだが、どことなく腰が低すぎて入婿としての如才がないように見えた。だが、「辛抱強いのが一番」と妹は喜んでいた。

 その席に、粗末な形をした青年が妹の夫の配下の者として出席していた。その青年は、かつて若い頃にしのぎを削りあった中であった友人の桜井捨蔵の息子だった。

 太左衛門と捨蔵は、共に勘定方で、優秀であり、共にあと少しで勘定組頭に手が届きそうなところに来ていた。だが、その時に藩の政変が起こり、ほんの些細な遣り取りがその後の二人の運命を決める分かれ道になったのである。政変というのは、藩の重職どうしの権力抗争で、当時の勘定奉行も罷免され、彼らにも役替えの波が押し寄せてきたのである。

 時の勘定組頭が勘定奉行となり、太左衛門に勘定組頭の話が舞い込むのである。その時に、勘定吟味役(監察)の聞き取り調査があるが、罷免された前の勘定奉行に近かったもう一人の組頭とそれに繋がる桜井捨蔵を切ると言い出される。太左衛門は、捨蔵は力量を備えているというが、それを言えば、彼自身の昇進が危うくなると言われ、結局は、もうひとりの組頭も桜井捨蔵も罷免された前の勘定奉行に繋がる者だと言ってしまうのである。捨蔵については、根も葉もない誹謗に過ぎないことを承知の上で、彼はそう言い、やがて、もうひとりの組頭と桜井を陥れたのが太左衛門であるとの噂が広がり、それ以来捨蔵とは疎遠になってしまったのである。以後、太左衛門は順調に出世を重ね、捨蔵は陰鬱な影を帯びて四十八歳で隠居した。彼は桜井家の婿養子であったが、その立場も武士としての気概もないまま、疲れた果たようにして職を去った。

 これまでも太左衛門は自分が語ったことで捨蔵の人生が狂ってしまったことに対して何度か捨蔵に詫びを入れようとしたが果たせずじまいで、捨蔵の息子にも親の憂き目が現れているようだった。

 太左衛門は捨蔵のことが気になり、配下の者に探らせてみると、捨蔵は二年前に妻女をなくし、息子夫婦と孫の四人暮らしをし、日中はほとんど畑作りをしているということが分かってくる。捨蔵は、あの時から寡黙になり、淡々と役目をこなすだけで、昇進も加増とも縁がないままに隠居を迎えた。生活は慎ましやかで、ただ家の柿の木がたくさんの実をつけていることだけがいいことのように思えたと彼の部下は太左衛門に伝えた。

 やがて、秋、太左衛門は意を固めて捨蔵に会いに行く、柿はもう赤くなり、捨蔵は畑で鍬を振るっていた。暮らしが楽そうではなかったので、太左衛門が「楽隠居というわけにはいくまい」と言うと、捨蔵は「そう見えるか、だとしたら生き方が違うせいだろう」と答える(107ページ)。

 「おぬしにはそう見えるかも知れんが、わしはこれでいいと思っている、人より早く隠居したのも、だいが、家内が重い病になってな、死にそうだったからだ、あれには苦労をかけたので最後はわしが面倒をみてやろうと思った。お蔭で二年も生き延びてくれたから十分に尽くせたし、よい別れもできた。城勤めを続けていたならこうはいかなかっただろう、倅も力になってくれたし、嫁も優しい」(108ページ)

 捨蔵は、そう淡々と太左衛門に語るのである。そして、詫びなど、もう自分にはどうでもいことだ、こうして会えたことが嬉しいと言い、太左衛門の帰りに、自分が作った立派な冬瓜を持たせるのである。その冬瓜を抱えて、太左衛門は清々しい気持ちで歩いていくのである。

 この作品は、人間にとって何が大事かをそれとなく描ききった作品であるが、こういう展開や描写もうまさに、つくづく感嘆した作品であった。

 第四話「邯鄲(かんたん)」も同じ主題の作品であるが、邯鄲(かんたん)というのは、中国の唐の時代の沈既済という人の小説「枕中記」から取られた言葉であろう。「枕中記」は、「邯鄲の夢」としてよく知られた話で、次のようなものである。

 あるとき、廬生(りょせい)という若者が一旗上げようと邯鄲(中国河北省の都)に向かって旅をしていた。彼は食事をとろうと旅舎に入り、そこで呂翁という一人の老人と出会い、あくせくと働きながら苦しんでいる自分の身の上の不平を語り、自分の将来の夢を語る。呂翁は彼の話を熱心に聞き、食事ができるまで一休みするように枕を貸す。

 それは両側に孔があいた陶製の枕で、廬生は、枕を借りて眠っている間にその孔が大きくなったので、その中に入ってみると、そこには大きな家があった。その家で廬生は唐代の名家の娘を娶り、進士の試験にも合格して官吏となり、順調に出世して、武功も挙げた。

 しかし、時の宰相に妬まれて左遷させられる。しかし、そこで三年辛抱して、再び返り咲いた彼は、やがて宰相となり、以後十年、天子をよく補佐して善政を行い、賢相の誉れを受けるまでになっていく。彼は、位人臣を極めて得意の絶頂にあったのだが、突如、周辺の将と結束して謀反を企んでいるという理由で逆賊となる。

 彼は縛につきながら妻子に言う。
 「わしは、山東の家にはわずかばかりだが良田があった。百姓をしていれば、それで寒さと飢えは防ぐことができたのに、何を苦しんで録を求めるようなことをしたのだろう。そのために今はこんな姿になってしまった。昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが懐かしい。だが、今はもうどうにもならない」

 彼はそう語って自刀しようとするが、妻に止められてそれを果たすことができなかった。そして、その時に捕らえられた者たちはみんな殺されてしまうが、彼は宦官の計らいで死罪を免れるのである。

 こうして数年が過ぎ、やがて天子はそれが冤罪であったことを知り、彼は再び呼び戻され、彼の息子たちもそれぞれに高官に出世し、十数人の孫たちも与えられて幸福な晩年を迎え、死去するのである。

 そこで「さあ、食事が出来ました」という声で彼は目を覚ます。すべてが消えて、そこにいたのはみすぼらしい身なりをした廬生だった。五十年にわたる波乱万丈の人生も、わずか栗粥が煮えるまでのつかの間のできごとに過ぎなかったのである。

 彼は、自分が見た夢の儚さを思い知り、呂翁に「人生の栄華盛衰のすべてを見ました。先生は、わたしの欲を払ってくださいました」と言って、邯鄲に行くのをやめて故里へ帰って行った。

 これが、「邯鄲の夢」とか「邯鄲の枕」とか言われる「枕中記」の内容で、能の演目にもなっている。

 この故事を踏まえて、作者は一人の青年が、身近なものの中にある真の幸いを見出していく話を綴る。

 新田普請奉行の添役という下級役務を勤めている津島輔四郎(すけしろう)は、気位ばかりが高くて骨をしみする妻と離縁し、「あま」という女中と城下の外れで暮らしていた。彼の妻は家政が破綻した責任を彼の甲斐性の問題にして責め立て、輔四郎の我慢の限界を越えてしまったのである。彼は一人暮らしを決心し、農家の娘を女中として雇うことにしたのである。

 「あま」が津島家に女中奉公にきたのは、十四歳の時で、「あま」は飢餓の年に生まれてどうにか生き延びてきた十一人家族の末子だった。初めて彼女が津島家に来た時は、風呂敷とは言えないような裂に包んだ肌着だけしかもたず、その姿は、まさに貧しさを纏ったもので、哀れを通り越して悲愴で、浅黒い手は傷だらけ、寸足らずの着物からはみ出した脛にはいくつもの痣ができていた。

 輔四郎は、その「あま」に母の形見から普段着を二枚と櫛を与えたが、言葉使いや立ち居振る舞いを一から教えなければならず、果たしてこの娘に奉公が務まるだろうかといぶかい、「とにかく、煮炊きだけは覚えろ」と語った。「あま」は恐怖に近い不安を顔に浮かべ、とにかく、痩せた体に染み付いた臭いと藁束のような髪をなんとかしなければ、と思った次第であった。

 ところが、半年ほどは口がきけないのかと思うほど無口であった「あま」は、やがて武家の奉公人らしい言葉を使うようになり、身だしなみも整い、三年もすると家の中のことはもちろん、来客の応対もそつなくこなすようになっていた。そして、「あま」はときおり虫の音を上手に真似るようになり垣根の側や小さな畑の側で虫たちと声を競って遊んでいるようにも見えた。

 輔四郎は、「あま」のお蔭で平穏に暮らして行けていることに気がついていたが、その時に、突然、藩の家老から呼び出しを受けて、藩には藩主直属の忍びの者である「小隼人組み」というのがあり、二月ほど前に藩の中老が急死したのは、その「小隼人組」を支配している谷川次郎太夫が、力をつけすぎた「小隼人組」の弊害を案じて廃止を画策した中老を殺したのだと告げられ、その谷川を殺せと命じられるのである。

 谷川次郎太夫は剣の使い手であるだけでなく忍術も使うと言われているが、津軽家は代々剣の名家であり、秘伝の奥義もあることから、輔四郎が刺客として選ばれたのである。輔四郎は、その藩命を断ることはできなかった。そして、今後のことを「あま」に話すが、「あま」は、「どうか、お供をさせてください」というだけであった。「あま」には、もうほかに行く所がなかった。彼女の実家は、彼女が帰ると食べるものはおろか寝る場所さえない状態であった。輔四郎は、剣の達人である谷川次郎太夫と戦っても。自分が死ぬだけだろと思っており、「あま」の行く末を案じて、「あま」に家財の整理を言いつけて、その金子を「あま」に渡そうとするが、「あま」は頑なに「お供をさせてください」と言うだけだった。そして、後のことは考えないで、自分が生きて帰ることだけを考えてくれと言うのである。

 その夜、彼は「あま」を置いて、刺客として谷川次郎太夫の家に赴く。行ってみれば、なぜか谷川次郎太夫は島津輔四郎が来ることを知って準備しているようだった。輔四郎は、彼と堂々と立会をはじめる。輔四郎は追い回されて追い詰められるが、何とかして一太刀を谷川の首に斬り入れる。そして、、虫の息となった谷川から、自分に中老を殺させたのは家老で、今度はお前が殺されると告げられる。

 輔四郎は、谷川が最後に告げたことが真実であることを悟り、このままでは自分も殺されるだろうと思って、その場から逃げ出す。死闘の果てに藩を出奔しようとするのである。やがて野辺に出る。そこで一息入れているときに、不意にあたりの草むらから虫の音が聞こえてきた。そして、それによって彼は、今までは自分のことばかり考えて出奔してきたが、こうしている間にも「あま」は森閑とした家で自分のことを案じてくれていると思い至る。家老の陰謀にひとりで立ち向かうのは無謀に違いないが、「あま」のところに変えることを決心するのである。

 これほど身近に妻にふさわしい人がいることに、どうして今日まで気がつかなかったのか、と彼は思う。「ゆくところもなく、ただじっと待っている女に、帰った、と言ってやりたい。・・・あてもなく待たされるばかりで、供をしたいとしか言い出せなかった女の胸中を考えると、谷川の家へむかったときとは比べようもなく激しい闘志が湧くのを感じた」のである(143ページ)。

 この話は、もちろん「邯鄲の夢」とは全く異なっているが、人は自分を慕う者を愛して生きるほど幸いなことはないのだから、「あま」の境遇と合わせて、それを切々と物語るものである。作者がこの作品に「邯鄲」という表題をつけたのは、「邯鄲はすぐ近くにある」ことを語るためであろう。

2013年2月20日水曜日

乙川優三郎『武家用心集』(2)「しずれの音」


 昨日は雪が舞う寒い日だったが、今日は、気温は高くないものの晴れてきている。日毎に天気が激変するのは身体にこたえるが、これもまた今の季節ならではのことだろう。

さて、乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)に収められている第二話「しずれの音」についてであるが、これは、老いて病んだ母親の看護の問題を取り扱った問題意識の高い作品で、「しずれ」というのは、「垂れ」と書き、木の枝などに降り積もった雪が滑り落ちることを言う。

 物語は、病に倒れて老いた母をもつ娘を主人公にして描かれるが、子連れで、同じように幼い子どもがいる家に後妻に入った母の吉江は、その二年後に夫を亡くし、家禄が減石された家を継いだ。わずか十五石で、暮らしを立てるために懸命に働きながら血の繋がらない錬四郎と実子の寿々を育てた。

 やがて、寿々は他家に嫁ぎ、錬四郎も成長し妻帯した。そして、長い間の無理がたたって、吉江は病に倒れた。手足が不自由になって寝たっきりになったのである。血の繋がらない子ども夫婦がいる中で、吉江は遠慮がちに生活しなければならなかった。ときおり、寿々が見舞うと、明らかにほっとした表情を見せ、我慢していた小用もすませるし、食事も取るようになるのである。そうした彼女の心情は悲しい。そして、寿々を錬四郎の嫁にしなかったのを悔やむようになる。

 錬四郎の妻の房は、看病に疲れたような顔をしていたが、あるとき、ふいと実家に帰り、このままだと離縁すると言い出す。錬四郎は、自分も勤めがあるので吉江の介護ができないから、一ヶ月だけでも吉江を預かってくれないかと寿々に申し出る。そして、寿々は夫に遠慮しながらも吉江を預かるのである。

 だが、一月半経っても錬四郎からは何もいってこなかった。錬四郎の妻の房も、吉江がいなくなったので戻ってきたという。しかし、寿々の夫にも一言の挨拶もなかった。寿々の夫の周助は、そういう錬四郎に腹を立てていたし、次第に吉江を負担に思い始め、夜に出かけていくことも、夫婦の間で吉江を巡っての争いも起こり始めた。吉江は寿々の家に来てからも、周助に遠慮してひっそりと目立たないように生活して、小用も我慢するほどだった。そういう吉江にとって寿々の娘の幼いゆりが唯一の慰めで、ゆりの屈託のなさが少しだけ吉江を明るくした。

 寿々は、夫に言われて、錬四郎の家に事情を聞きにいくが、兄嫁の房は、「おかあさまのことは寿々どのが望んで引き受けた」と兄から聞いていると言い、血の繋がりはないのだからと絶縁を匂わせ、吉江を引き取るつもりはないようだった。

 これを聞いて夫の周助は激怒するが、口頭では角が立つので、文書をしたためて錬四郎に出すことにした。しかし、錬四郎からは何の返事もないばかりか、そもそも錬四郎と嫁の房との間に離縁話などなく、重荷となっていた吉江を寿々に引き取らせる策であったこともわかる。

 房の実家の兄は、間に立って、房が子どもを身ごもり、錬四郎にも出世の話が出ているから、もう一年だけ吉江を預かって欲しいと申し入れをしてきた。吉江は、錬四郎が一度も見舞いにさえ来ないことも、自分が厄介者として扱われていることも承知していた。その話を聞いて吉江は不自由な体で、ただ涙を流すだけであった。寿々の夫への気兼は続き、彼が郡方として外回りをして不在の時だけ心が和むようだった。夫の周助は何も言わなかったが、家の中の空気は重かった。やがて、吉江の食も細くなり、自分は錬四郎のところには帰りたくないから、このまま死なせてくれとまで言い出すようになる。

 だが、約束の一年が経っても錬四郎からは何も言ってこなかった。そればかりか、寿々の家と義絶するとまで房の兄を通して言ってきたのである。周助は激怒し、錬四郎と果し合いをするとまで言い出す。だが、その時、吉江が「これは男が命をかけるほどのことでもない。明日、寿々に錬四郎の家の戸口まで運ばせてくれ。自分は疲れたし、ここに置いていだたく理由はない」ときっぱりと言うのである。寿々は、ただ泣き濡れるだけであった。

 翌日、寿々は母親の吉江を荷車に乗せて錬四郎の家まで出かけていく。いくら血の繋がりがないとは言え、これまで苦労して育ててもらった恩も義理もない錬四郎に愕然とするし、夫の周助は吉江が言ったことで、面倒から逃れてほっとしているだろうと、寿々は思う。寒々とした心を抱いて、寿々は母を乗せた荷車を引く。

 その時、ふいに垂れの音が聞こえた。「人でなし」そう言われているような気がした。そして、初めから覚悟が足りなかったと思うのである。人ひとりの余生を預かる覚悟があれば、自分も周助も、錬四郎や房に振り回されることはなかったはずだ。寿々はそこで立ち止まり、立ち尽くしたあとで、ゆっくりと荷車を元きた道に向きを変えて引き返していくのである。

 そして、家の近くまで帰ってきたとき、夫の周助が雪道に転びながら駆けてくるのが見えた。

 この結末を作者は次のように記す。
 「彼女が驚いている間にも周助はみるみる近付いてきた。そして寿々から少し離れたところで立ち止まると、喘ぎながら何か言おうとしたが、息が切れたらしく言葉にはならなかった。城から形振りかまわずに駆けてきたのだろう。
 『どれ、わしが代わろう』
 ようやく歩み寄って、そう言ったとき、寿々は荷車の梶棒を握りしめて立ち尽くしながら、どうしようもなく溢れてくる涙を流れるままにしていた。急に喉の奥が凍りついてしまい、旦那さま、と言おうとした声はどこかに消え、かわりに何かしら甘く澄んだものが胸の中から溢れてくるようであった」(84ページ)。

 この最後の文章は、わたしを圧倒した。介護が必要な吉江を巡る緊張が「垂れの音」と共に消えて、深い愛情の覚悟が温かく包む。まさに珠玉の結びだと思う。わたしは思わず涙した。

作中の男をみれば、錬四郎は重荷となった義母を捨てた男となり、周助は義母を抱きかかえる男となる。寿々は、夫を深く信頼して愛するだろう。房は、やがて老いて、重荷を嫌う夫や子どもから捨てられるだろう。そうはならずにそれなりに暮らすことができたとしても、重荷を負わずに捨てたことで、彼らは人が生きる意味を失うのである。その文学性は高い。こういう作品が、短編の珠玉の作品ではないかと、わたしは思っている。

2013年2月18日月曜日

乙川優三郎『武家用心集』(1)「田蔵田半右衛門」


 雨になった。まだまだ寒いのだが、初春の雨といってもいいかもしれない。昨日は湯河原まで出かけて、少し梅がほころびているのをあちらこちらで見ることができた。梅には人を励ます力があると、いつも思う。西行が「願わくは 花にしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃」と詠んだ「花」は桜で、「きさらぎ」は今の暦では2月ではなく、3~4月頃だが、涅槃を願うわけではないから「きさらぎの梅のした」でも、わたしはいいかと思ったりもする。

 閑話休題。乙川優三郎『武家用心集』(2003年 集英社)を、感銘を覚えて読んだ。彼の作品は、以前、短編集である『五年の梅』(2000年 新潮社)『霧の旗』(1997年 講談社)を極めて優れた作品だと思いつつ読んでいたが、この作品も、内容が豊かで短編としての切れ味や余韻が強く残る短編集だった。ここには、「田蔵田半右衛門」、「しずれの音」、「九月の瓜」、「邯鄲(かんたん)」、「うつしみ」、「向椿山(むこうつばきやま)」、「磯波」、「梅雨のなごり」の八篇の短編が収められている。これらは、いずれも優れた作品だと思うので、少し詳しく記しておくことにする。

 第一作「田蔵田半右衛門」は、偶然に行き会って助けた友人が不正を行っていたことでお咎めを受け、七十石の郡奉行から四十石の閑職の植木奉行へ減封され、藩内の失笑をかった倉田半右衛門が、人間不信に陥って、人との接触を避け、釣り三昧の生活を送っていたが、藩の重職である一人の武士や周囲の人々との出会いによって人間性を回復していく物語が記されている。

 三十歳の時のある夕暮れ、郡奉行であった倉田半右衛門が村廻りの疲れを覚えて城下を歩いていたとき、突然、一人を相手の斬り合いが始まる場面に出くわしてしまう。囲われていた一人は、城下の神道流の剣術道場の同門で気心がしれていた立木安蔵だった。咄嗟に倉田半右衛門は刀を抜いてその友人を助けたが、立木安蔵は、材木問屋と結託して不正を働いた家老の一味で、討手は上意討ち(藩命)だったのである。

 このことで、倉田半右衛門もとばっちりを受け、減封され、植木奉行に格下げされたのである。それ以来、家中で軽視され、倉田という姓にひっかけて「田蔵田」という蔑称さえつけられてしまったのである(「田蔵田」がどういう意味の蔑称なのかは、わたしにはよくわからないが)。彼は、これが自業自得であることを肝に銘じ、同じ過ちを犯さないためにできる限り人との付き合いをやめて、釣り三昧の生活を送っていたのである。

 四十石に減封されて生活が苦しくなったこともあり、釣果は家族の貴重な食料でもあった。彼には、妻の珠江の他に食べ盛りの男子が二人いた。しかし、妻の珠江は、何一つ不平を言うこともなく、慎ましやかに暮らしていたのである。

 そういうところに、半右衛門がお咎めを受けて以来疎遠になっていた兄の勇蔵が訪ねてきて、藩の重職である大須賀十郎が川の堤防工事で不正を働いた奸臣であるから、上意討ちとして彼を討ってくれと頼みに来る。倉田半右衛門は神道流の相当な使い手でもあった。

 大須賀十郎は、大雨が降ると冠水してしまう水立川の水を海に流すための掘抜工事を同じ問題を抱えていた隣藩と交渉して共同で進め、五年の難工事の末に完成させ、それによって藩内の実力者として台頭していた。

 兄は、この時の工事に不正があり、それを知った藩主の内意を受けて、大須賀十郎を密かに討つよう半右衛門を説得するのである。半右衛門はそれを断るが、息子たちの行く末を考えろと強引に押しつけてくる。

 妻の珠江は、その話を聞いて案じる。彼女は、夫が減封されても、家中で蔑視されても変わることなく半右衛門を支えてきた。ただ、半右衛門はそういう彼女や子どもたちにも楽をさせたいと逡巡し、一応、兄の話の真偽を調べることにする。

 ところが、彼が実際に調べてみると、大須賀十郎は兄が言ったような人間ではなく、傲慢なところもひとつもなく、むしろ、細かなところにも配慮している人物で、掘抜工事で私腹を肥やしたとか賄賂をもらったとかいうこともなく、工事の完成によって村々と藩に増収をもたらしたことが分かっていく。大須賀十郎は、真摯な姿勢で施策を実践し、行政のすみずみまで気を配るような優れた人物であった。

 お咎めを受けて以来、人に裏切られることを恐れて人づきあいを断っていた彼の調査を快く助けてくれた者の素直な態度も、倉田半右衛門は感じていく。また、大須賀十郎が通っていると言われた妾宅に行き、それとなく出かけていき、素足に草履を履いている質素な姿も目にする。その時、大須賀十郎を闇討ちしようとする数人の人影にも気がつく。

 これらのことから、倉田半右衛門は兄の依頼をきっぱりと断る。そのことで兄が怒り、義絶を申し入れられるし、内命を知っている自分や家族も危険に晒されることになるが、彼は自分の決断をもって行動することにする。

 倉田半右衛門が大須賀十郎の暗殺を断ったことで、大須賀十郎は他の者から命を狙われることになる。彼が妾宅と言われている家からの帰り道に夜襲をかけられるのである。大須賀十郎も直心影流の使い手だったが、そこに倉田半右衛門が駆けつけて大須賀十郎に助勢するのである。倉田半右衛門は、この時のあることを知って大須賀十郎を見守っていたのである。

 その後、大掛かりな藩の執政交代が行われた。大須賀十郎は筆頭家老となり、上意と偽って刺客を放ち大須賀十郎を闇討ちしようとしたのは、彼の台頭を快く思っていなかった家老たちであった。半右衛門の兄も罷免された。家老たちも半右衛門の兄も、藩の御用達商人と手を組んで不正を働き、私利を貪り、その証拠を大須賀十郎が握って追求しようとしていたために、彼を暗殺しようとしたことが分かっていくのである。

 これらの人たちへの処分を、大須賀十郎は藩主に願い出て軽くした。もし、倉田半右衛門が暗殺を引き受けていたら、その後に別の刺客が半右衛門を斬る手はずでもあった。危ういところで、彼は、人の噂や語ることではなく、自分の見たことと考えたことに従って判断し、それが彼を救ったのである。

 事件後、倉田半右衛門は四十石を加増された。かつてお咎めを受けた時よりも十石多くなり、大須賀から元の郡奉行に戻ることを進められるが、身分は、閑職である植木奉行のままであることを固持した。自分が出世すれば誰かが辞めなければならないと思ったからで、このまま隠居していくような目立たない生き方の方が自分にはふさわしいと思ったからである。「たとえ人には槁木死灰(こうぼくしかい)のように思われても、真実に忠をつくせばよいのであって、役目が何であるかは問題ではなかろう」(44ページ)と、彼は考えるのである。それに、大須賀十郎が通っていると言われていた妾宅は、実は病んだ大須賀十郎の実母の家で、大須賀十郎は実母の見舞いに通っていたのであり、倉田半右衛門はこの点での自分の不明を恥じた。「(人は、とりわけわしのような慌て者は、望みの少し手前で暮らす方がいいのかもしれない)」と、彼は思う。

 この作品の最後がまことに味わい深いので少し抜書しておく。最後の場面は、倉田半右衛門が磯の波打ち際に腰掛けて好きな釣りをし、その側には妻の珠江がして、少し離れたところで子どもたちが釣りをしているところである。

 「そう思っていたとき、珠江がまた話しかけてきたので、半右衛門は動きそうにない浮木から妻へ眼を移した。珠江はすがすがしい顔に陽を浴びて、くすくす笑っていた。
 『おとなりのつやさんに訊かれましたの、田蔵田って何ですのって、返事に困りました』
 『それで、何と答えた』
 『それはもう正直に、麝香鹿に似た獣だそうですと申しました・・・そうしたら、つやさん、あなたは鹿に似ていないって言うんですよ、わたくしおかしくって・・・』
 『・・・・・』
 『だって、どちらかと言えば馬に似ていますって言うんですもの』
 『あの娘がそう言ったのか』
 『はい』
 珠江はうなずくと、半右衛門を見つめて吹き出すように笑い声をあげた。
 『ふん』
 半右衛門は憮然とした。娘のちんまりした顔を思い浮かべながら何か言い返す言葉を探したが、うまい悪口は見つからず、珠江の笑い声を聞くうちに何となくおかしくなって自分も笑い出した。屈託のない珠江の笑い声を聞くのも、自ら笑うのも久しぶりのことだった。見ると、子供たちもこちらをみて笑っている。
 (これがまことの褒賞かな・・・)
 大須賀十郎という逸材とともに藩の将来をも救って一躍名を上げたにしては、半右衛門はつつましい感情を抱いた。しかし、心は十分に満たされていた。
 何よりも珠江や子供たちが自分の気持ちを分かっていてくれるのを感じながら、半右衛門はさらに大きな声で笑った。その声は磯に住む小さな生物たちを驚かしたらしく、あわてた船虫が蜘蛛の子を散らすように岩陰に隠れるのが見えたが、いつもとようすの違う釣人に驚いているようでもあった」(4446ページ)

 う~む、とうなりたくなるような見事な結びと言えるような気がする。
 第二話「しずれの音」も、いい作品で、これについては次回に記す。

2013年2月15日金曜日

諸田玲子『幽霊の涙 お鳥見女房』

 今日は曇って寒い。天気が崩れて雨か雪との予報も出ている。このところ日替わりで天気が変わるが、これも冬から春への脱皮の特徴だろう。まだまだ寒い日が続く。

 先日、あざみ野の山内図書館に行った時に、諸田玲子『幽霊の涙 お鳥見女房』(2011年 新潮社)があり、このシリーズも久しぶりな気がして、借りてきて読んだ。本作はこのシリーズの6作品目である。

 江戸幕府のお鳥見役とは、将軍が鷹狩りを行う御鷹場を管理し、鷹狩りの準備をする役務で、御鷹場における密猟の防止や獲物となる鳥の餌づけ、また、鷹狩りの際の周辺農民の動員の管理などを行った。こうしたことは長年の経験が必要とされ、技能職として世襲されたようである。役料は80俵5人扶持の下級御家人であるが、鳥の生息状況を見るために大名屋敷にも入ることが許され、そのことから情報収集のための隠密として用いられることもあったと言われている。

 本シリーズは、代々そのお鳥見役である矢島家の主婦である「珠代」を主人公にしたもので、ころころとよく笑い、笑窪ができて、人情家で、明るく真っ直ぐな性格の珠代を中心にした矢島家が幾度もの危機を乗り越えながら生きていく姿を描いたものである。珠代には全くの赤の他人を、事情を聞かないで居候として受け入れていく度量の広さもある。登場人物たちは、それぞれに重荷を抱えて生きているが、珠代はそれらの重荷を包みながらほっこりした温かさを醸し出していくのである。下級御家人の懸命な姿がそれに重なっていく。

 お鳥見役には危険がつきまとう。珠代の祖父も、隠密として出かけた先で殺され、父の久右衛門と夫の伴之助もそれぞれに隠密として出かけた先で一時行くへ不明になるという出来事があった。父の久右衛門は、役務のために親しくなった女性を捨てて来ていたし、伴之助は人を殺したことで一時精神を病んだことがあった。二人とも、それぞれを重荷として背負うほどの良心の持ち主であり、その中で珠代はそれぞれを受け入れながら闊達に生活を送っていくのである。

 本作では、伴之助と珠代の子どもたちもそれぞれに成長し、長男の久太郎もお鳥見役として出所するようになり、次男の久之助も大番組与力の家に養子となり、長女の君江も次女の幸江もそれぞれに嫁いでいる。一時期、矢島家に居候していた石塚源太夫も、彼を敵としていた美貌の女剣士の多津と珠代の人柄に触れて結ばれ、源太夫の子どもたちもそれぞれに成長している。

 そして、珠代の父の久右衛門が亡くなって一年後の初盆の時に、それぞれが寂しい思いをしている中で、久右衛門の幽霊が出るという話から始まり、それが久右衛門と喧嘩別れをした幼馴染の友人だとわかり、みんなで久右衛門を偲ぶところから始まり、やがて長男の久太郎が祖父や父と同じように密偵として相模に出かけていくという話へと展開されていく。

 時は、老中水野忠邦が失脚したとあるから弘化2年(1845年)ごろのことで、弘化の前の天保の時に、大阪で大塩平八郎の乱が起こったり、アメリカの商船「モリソン号」が江戸湾にやってきたりして(いずれも天宝8年 1837年)騒然としており、江戸幕府は海防を急務のこととして諸藩にその任を命じたが、お鳥見役の矢島久太郎に隠密として下された任務は、その海防の様子と海防にあたる諸藩を探ることであった。

 しかし、諸藩には諸藩のそれぞれの事情があり、幕府の隠密などに探られたくないのだから、矢島久太郎も相模で案内役として雇った親切な男から崖から突き落とされて殺されそうになるのである。最も親切な顔をして近づいてくる者が最も手酷い裏切りをするのは世の常である。イスカリオテのユダではないが、裏切りは接吻と共にやってくる。

 矢島家では久太郎の行くへが案じられる。だが、久太郎は一命を取り留め、漁師の祖父と娘に助けられていた。彼は、一時は記憶を失っていたが、体調が回復するまでの半年余りをそこで過ごすのである。彼は自分の身分を隠さなければならなかった。漁師の祖父と娘は久太郎を気に入り、娘は恋心を抱くようなるが、久太郎は、不義理はできないと思いつつも一切を秘したまま体力の回復を待つ。

 そうしているうちに、石塚源太夫の次男の源次郎が、久太郎の行くへを案じている珠代や久太郎の妻の恵以のことを考えて、少年ながら単身で相模に久太郎を探しに来るのである。源次郎は、まず、久太郎が案内役として使っていた男のところに行く。ところがその男こそ久太郎を殺そうとした人物で、そのことを知った久太郎は、世話になった漁師の祖父や娘にきちんとしたことを話さずに、源太郎のところに駆けつける。

 源太郎は案内役の男の人質となっていた。彼は金で雇われた男だが、源次郎を人質として久太郎ともども殺そうとする。その急場を漁師の娘が救う。それによって久太郎は江戸に帰ることができた。しかし、彼は自分の命を助けてくれた漁師の祖父への恩義と、その娘の恋心を知りつつも無視してきたことを悩む。

 娘は、久太郎を諦めることができないのか、久太郎を殺そうとした事件の背後を探り、江戸まで出てきたりする。久太郎の妻恵以はそのことで悩んだりするが、珠代は、その娘と会って、久太郎のことを話し、その事件の背後にはいろいろな複雑な事情があるから娘に深入りしないように語る。だが、不幸にも、娘は、事故か殺人かは判然としないが、崖から落ちて死ぬ。

 やがて、珠代は、ひとり残された漁師の祖父のことを案じて相模まで出かけていき、祖父は珠代の行いにすべてを悟って、またその姿の温かさに触れて、じっと穏やかに耐えていく姿を見せる。

 物語はそこで終わるが、そのあいだに石塚源太夫の娘の恋や居候となっている珠代の従姉の姿などが盛り込まれたり、子どもができないことで悩んだりする姿が描かれたりしながら、軽輩の御家人ではあるが、明るく、温かくしっかりと生きている家族の物語が展開されていくのである。

 あっさりとした文章で物語が展開されていくが、最後の場面で、孫娘を失い孤独に耐える漁師とその傍らで娘の墓に手を合わせる珠代が海を眺める姿は、なんとも味わい深い光景である。不幸に寄り添いながらも前を向いて生きる。この作品の主人公の珠代は、そんな女性である。