2013年7月31日水曜日

南原幹雄『付き馬屋おえん 吉原大黒天』

 曇天の重い空が広がり、今にも雨が落ちそうである。なかなかスカッと晴れた日がないのだが、晴れたら暑いだろうとは思う。

 吉祥寺までの往復の電車の中で、読んでいた南原幹雄『付き馬屋おえん 吉原大黒天』(1993年 新潮社 1996年 新潮文庫)を読み終えた。これはシリーズ化された作品の4作目で、以前、角川文庫で出された3作目の作品の『付き馬屋おえん 女郎蜘蛛の挑戦』(1997 双葉社 2004年 角川文庫)を読んでいたもので、遊郭の吉原で焦げ付いた借金の取立てを稼業とする「付き馬屋」の、若くてきっぷのいい美貌の女性である「弁天屋おえん」の活躍を描いたものである。前作までは短編連作の形だったのだが、本作では長編になっており、物語としては読み応えのあるものになっている。

 物語の始まりに、江戸城の雑事を行う御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)で悪名高い河内山宗春が登場し、彼が吉原でした借金の取立てを「弁天屋おえん」が行うという話が語られ、一癖も二癖もある河内山宗春がきっぷのいい「弁天屋おえん」を逆に気に入っていくという話になっている。

 そしてやがて江戸城西の丸御書院番(番士は警固に当たる役目で、御書院番は、中流旗本のエリートコースだったと言われている)の松平外記(忠寛 17911823年)による江戸城内刃傷事件へと展開されている。

 松平外記(忠寛)は、桜井松平家の流れを組む家柄の出で(本書では家康の六男で、家康から嫌われ、兄で2代目将軍の徳川秀忠から改易されて流浪の生涯を送った松平忠輝の末裔とされているが、忠輝の流れがある松平家は長沢松平家で、これは作者の誤認か、あるいは同じように優れた人物であったために排除されたことを強調するために、作者が意図的にしたことだろう)、馬術や弓術に優れ、真っ直ぐで剛毅な性格をもった人物だったと言われ、それが、風紀がゆるみ馴れ合いで腐敗しきっていた当時の旗本たちの気風に合わずに忌み嫌われて、先輩格や同僚の手酷いいじめや嫉妬にあい、ついに堪忍袋の緒を切らして、江戸城西の丸の書院番部屋で、3名を惨殺し、2名に手傷を負わせて自害した人物である。

 これらのことは太田南畝『半日閑話』に記されているが、松平外記は書院番となっていらいずっと様々な嫌がらせを受け、特に、将軍徳川家斉が鷹狩りに出ることとなり、西の丸の世子の家慶も随行することとなり、文武に優れた松平外記が番士たちを指揮する拍子木役を命じられた時に、その演習の際に同僚や先輩たちが外記の弁当に馬糞を入れたり、拍子木を打っても誰も動かずに勝手な行動をしたりして彼を困らせたり、羽織の家紋を済で塗り潰し、悪口雑言を吐いて、彼を陰湿にいじめ抜いたりしたのである。

 もともと、いじめは陰湿なものだが、松平外記に対するいじめは執拗で、彼が番士入りしたり拍子木役をもらったりした時に行った(行わなければならない饗応とされていた)もてなしが気に入らなかったという説があるが、いじめる側に正当な理由などないのだし、人は、他者よりも抜きん出ているというだけで排除される。

 本書は、この事件を、松平外記が同僚や先輩を饗応したのが吉原で、宴会の後で同僚や先輩格の旗本たちが勝手に遊女たちと遊んだ金を払わずに、松平外記の借金としようとして企んだことで、その借金の取り立てを付き馬屋おえんが引き受けるという筋立てになっている。そして、御書院番の旗本たちのあまりの非道ぶりが描かれていく。

 その中で、剛毅で真っ直ぐな松平外記におえんが淡い恋心を抱いたりする姿が描かれるが、外記は意を決して、城中で刃傷事件を起こして自害する。だが、そのあとも旗本たちは吉原で無軌道な豪遊を繰り返し、彼らがその金を自分たちが守るべき江戸城西の丸のご金蔵から盗んでいたことが分かっていくのである。

 無軌道で目も当てられぬくらいに卑劣な旗本たちと付き馬屋の死闘が繰り返されて、おえんは、ついに彼らの金が西の丸の御金蔵であることをつきとめ、それをネタにして、彼らの借金を取り立てていくという爽快な結末を迎える。

 読んでいく中で、こんな愚かな旗本たちもいるのだろうかと思えるほど、彼らの無軌道ぶりや愚かさが卑劣極まりないものとして描かれていくが、中途半端に悪い者というのは、意外とそんなものかもしれないとも思う。欲だけがあって知恵も胆力もないからであるが、中途半端に悪い者ほど始末に困るのも事実であろう。悪名を取ったがどこか剛毅なところがあった河内宗春の悪ぶりと旗本たちの悪ぶりが、一方がからりとし、他方が陰湿として描かれるのも面白い。

 物語の構成や展開、山あり谷ありの読ませる力というのは、ここで記すまでもなくあって、エンターテイメントとしての娯楽時代小説の面白さがある。まあ、気楽に読める一冊であった。

2013年7月29日月曜日

鳥羽亮『鱗光の剣 深川群狼伝』

 昨夜半から雨が降っている。昨日は山口県や島根県で集中豪雨があり、昔よく行った津和野が水に浸かっている様子がニュースで放映されて、このところの天気の異常性を改めて感じたりした。人は弱い。つくづくそう思う。

 週末は、気楽に読めるものをと思って、鳥羽亮『鱗光の剣 深川群狼伝』(1996年 講談社 1999年 講談社文庫)を読んだ。これは、1996年に『深川群狼伝』の書名で講談社から出されたものを文庫化にあたって改題されたもので、この後、シリーズ化されて現在までに6冊が出ている。

 物語は、深川で様々な揉め事を密かにうまく解決する商売をしている始末屋である「鳴海屋」の始末人たちを巡って展開されるもので、主人公の蓮見宗次郎は、渋沢念流という剣の流派の道場の次男でありつつ、いわば裏稼業に生きる剣の達人である。

 作者は、始末屋の「鳴海屋」を「払えなくなった遊興費の始末を付けるだけでなく、客商売にありがちな客との揉め事や雇人の不始末、同業者とのいざこざなどを、月二分の『万揉め事始末料』とか『御守料』と称して定期的に口銭をもらって始末をつけていた」と設定する。それは、いわば岡っ引きと地回り(やくざ)の中間のような商売といってもいいかもしれない。

 こうした設定や主人公の設定が示すように、これは揉め事を主人公の剣の技で解決に導いていく剣劇、もしくは活劇小説だが、当然、揉め事には背景があり、その背景を探っていくミステリーの要素やサスペンスの要素が含まれている。その意味では、同じように裏稼業として物事の結末をつけていく池波正太郎の「仕掛け人・梅安」とか、テレビドラマの「仕事人」などの設定と同類のものと言えるかもしれないが、「始末屋」は、定期的に口銭をもらっているということで、信用第一であるというところが面白い設定になっているし、描かれる主人公の蓮見宗次郎は、朴訥で明るい。そして、それが本書の面白さを倍加させている。

 物語は、「鳴海屋」に属する始末人の一人が全裸で殺されるという事件から始まる。どうやら女性と交わっている最中に殺されたらしく、そうした殺し方をする女が浮かび上がってくる。それと同時に、「鳴海屋」に持ち込まれた揉め事を始末しようとしていた者たちが次々と狙われだし、蓮見宗次郎も命を狙われる。どうやらそこには「鳴海屋」の始末人たちを殺して鳴海屋の信用を落とさせ、その縄張りを奪い取ろうとする者たちがいるようである。そして、その背後に、土地の地回りや、それを利用しようとした大店の呉服商の思惑が働いているようである。

 そこで、鳴海屋に属する始末人たちは一致協力して、彼らを始末して新しく始末屋を始めようとする者たちと対決していくのである。相手には「人斬り忠佐」の異名をもつ実践剣の達人もいる。蓮見宗次郎はその人斬り忠佐と命がけの対決をしていくのである。

 登場する始末人たちがなかなか個性的に描かれているし、鳴海屋の娘の宗次郎に対する幼い恋心や、落ちそうで落ない小料理屋の女将と宗次郎の関係などが織り込まれ、生活の匂いを漂わせながら物語が展開していくので、緊張感のある激しい闘いがテンポよく描写されていく中で真に絶妙な呼吸をもって物語が進行している。

 生活のリアリティを盛り込みながら進むというような、こういう活劇小説は現代の活劇小説のひとつの姿だろうと思う。ともあれ、面白い。

 また、文庫版の巻末に菊池仁という人の解説が収められ、それが単なる作品の解説ではなく、それぞれの時代の中で剣客ヒーローがどのように描かれ、それがどのような世相を反映したものかが丹念に述べられていて、なかなか味わい深い解説だった。

 彼によれば、吉川英治の『宮本武蔵』に見られる求道者型から『大菩薩峠』の机龍之介から柴田錬三郎の眠り狂四郎へと続くニヒル型や山手樹一朗が描いた自然児型で明朗闊達なヒーロー、そうした変遷から、組織に属し保守と確信のバランスをとるような池波正太郎の『鬼平犯科帳』で描かれた長谷川平蔵が1970年度以降に生まれてきたと言う。そして、組織と個人の論理の板挟みの中で次第に時代小説のヒーローも等身大化されてきたが、ヒーローがもつ思想性に作家の関心が集まるようになったと分析する。

 こういう分析は、なかなか社会学的でもあり、読んでいて小気味がいい。小説をはじめとする文学作品は多かれ少なかれ作家が置かれた社会の産物でもある。

 ただ、この解説がいつごろ書かれたのかはわからないが、今は、思想ではなく生活、哲学ではなく経済が主流となり、作家の思想性に出会うような作品は少なくなっている。もちろん、娯楽作品なのだから、それを求めなくても面白ければそれで良いのだが、小説である限り、「人間」が描かれなければ面白くないし、意味のない単なる読み物は面白くない。本書は、それがほどよく混ざっている娯楽作品であると思う。

2013年7月24日水曜日

白石一郎『庖丁ざむらい 十時半睡事件帖』

 昨日は、お昼まではうだるような蒸し暑さだったのだが、夕方近くになって突然の激しい雨に見舞われて、ちょうど大学から帰宅する途中で、渋谷駅でしばらく稲光と激しい雨足を眺めたりしていた。まさに「滝つせと降る」だった。

 そして、今日は、まるで梅雨が戻ったようなジメジメした天気になっている。雨の予報もあるので、降り出しそうでもある。湿度が高いとなかなか疲れも取れない。

 先日、久しぶりで図書館を訪れた際、白石一郎『十時半睡事件帖』シリーズの中の一冊である『庖丁さむらい 十時半睡事件帖』(1982年 青樹社 1987年 講談社文庫)があるのを見つけて、借りてきて読んだ。このシリーズを読んだのはもうずいぶん前だが、と思って、このブログを調べてみたら、シリーズの最後である6作目の『おんな舟』(1997年 講談社 2000年 講談社文庫)が2010年2月、5作目の『出世長屋』(1993年 講談社 1996年 講談社文庫)が2010年3月末に読んでおり、福岡藩の老武士である十時半睡を主人公にしたこのシリーズを読むのは3年ぶりということになる。

 十時半睡の本名は「一右衛門」だが、八十石の馬廻り組という中級武士の生まれながら、知恵と人情に富んで藩の奉行職を歴任した後に隠居して、「半分眠って暮らす」ということで自ら「半睡」と名乗っているのである。彼は、一旦は隠居したが、藩の目付制度(警察制度)の変革によって、十人の目付を抱える総目付として再び出仕させられ、気ままに出仕ても良いというゆるしをもらって時折登城していくような生活をしているのである。人望は高く、彼に対する信頼も大きい人物として描かれる。

 前に読んだ『出世長屋』と『おんな舟』は、この半睡を中心にして描かれ、特に江戸藩邸の総目付として江戸に行くくだりや江戸での出来事が記されているのだが、本作の『庖丁ざむらい』は、おそらくこのシリーズの1作目で、半睡は出来事の相談役や推移を見守る者という役割で登場し、十一篇の短編で綴られるのは、むしろ、福岡藩の下級武士たちの姿である。時代は寛政から享和にかけて(17891803年頃)で、藩の体制が固まり、武士の生き方も武から官へと変わった時代である。

 本書には、刀の鍔(つば)を収集することにうつつを抜かし、結局は古道具屋に手玉に取られるような武士の姿を描いた「第一話 鴫と蛤は漁師がとる」、武士階級の中でも最下層の足軽に対して非道なことをして恨みを買うことになる「第二話 虫けらの怨」、料理にだけ情熱を燃やし、左遷されても新しい料理が覚えられると喜ぶ新人類のような武士の姿を描いた「第三話 庖丁ざむらい」、片方は真面目、もう片方は酒を飲んで乱暴をするという互いに反目する二人の侍が玄界島の警固の仕事で一緒になり、ついに激突してしまうという「第四話 玄界島」、指物大工仕事に熱中し、妻が弟と不義を働いたのもかかわらず、それを認めて自ら身を引き、指物大工の職人となる侍を描いた「第五話 鉋ざむらい」、武士になりたいと憧れて中間となった男か、武家の意地の愚かな争いの中で、意地で生きる武士の愚かさを知っていく「第六話 さむらい志願」、博打にうつつを抜かし、富くじにあたって一時は博打をやめるが、どうしても博打をやめることができない博打好きの武士を描いた「第七話 丁半ざむらい」、藩の馬術指南役同士の愚かな争いを描いた「第八話 水馬の若武者」、金のありがたみを知り、執着するようになった男と、その従兄弟で反対に金を湯水のように使う男の姿を描いた「第九話 合わせて一つ」、従順な理想の妻になるように教育された女性と彼女を妻にした男の間に起こる齟齬を描いた「第十話 人形妻」、そして、息子の教育に情熱を燃やすが、その息子はただ与えられたものを鸚鵡返しにしていくように育ってしまった姿を描いた「第十一話 人まね鳥」が収められている。

 ここで描かれるのは、言ってみればどこにでもいて、どこにでも起こるような事柄であり、下級武士の生態であると同時に、生活している人間の生態でもある。そして、それらに対して、十時半睡の「大人の対応」が記されていくのである。「大人の対応」というのは、無理のない自然な対応ということで、これは、いわば、いい意味での「大人の知恵」である。それは老齢になって初めてわかるものかもしれない。

 物語の構成が上手くて、それぞれに読ませる短編となっており、作者はおそらく、最初はこうした作品のスタイルで続けようと思われていたのかもしれない。しかし、次第に十時半睡その人に関わることが触れられるようになって、人物像がはっきりしていくようになっている。もちろん、このシリーズの後半の方ががぜん面白い。

 なお、本書の内容とは全く無関係だが、文庫本の方には石井富士弥という人の解説が収められている。しかし、これはどうにも「提灯記事」のような感じがしていただけないものだった。

2013年7月22日月曜日

上田秀人『孤闘 立花宗茂』

 暑さが和らいでどんよりと曇っている。参議院議員選挙も大方の予想通り自民党の圧勝で、今回はどの政党の主張も現象の上滑りで、政治思想の貧困しか感じることができなかったので、こういう結果になったのかもしれない。民主政治を愚民政治といったのはプラトンだったような気もするが、今のところは、まあ、これが比較的良い政治形態であるだけに、政治家というならもう少し現象の背後にあるものを熟慮する思想を深めてもらいたい気がする。

 昨夜は、選挙速報を聞きながら、上田秀人『孤闘 立花宗茂』(2009年 中央公論新社 2012年 中公文庫)を読んでいた。この作品は表題にあるとおり、極めて優れた戦国武将で江戸時代初期まで生涯をまっとうした柳河(柳川)藩の立花宗茂(15671643年)を描いた作品で、作者が彼を「孤闘」として描いたところに、作者の彼に対する思い入れがよく表れている。本書は第16回中山義秀文学賞の受賞作品である。

 以前(2012年3月)に、立花宗茂を描いた葉室麟『無双の花』(2012年 文藝春秋社)を大きな感銘を受けながら読んだが、大筋においては変わらないとは言え、上田秀人が描いたものは、それとは若干異なった立花宗茂像で描かれている。発表年から言えば、上田英人の方が先に出版されている。

 立花宗茂の生涯については、その『無双の花』を読んだときに記しているので、ここでは詳細に触れないが、上田秀人は葉室麟とは異なって、立花道雪の養子となり、道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)と結婚した宗茂と誾千代が長い間お互いを理解することができない不仲であったことを宗茂の重要な要素として記している。もちろん、上田秀人が描く立花宗茂も最後には誾千代との間に深い理解を得て行くことになるが、葉室麟の方は、言動とは別に誾千代が初めから宗茂に対して深い理解をもっており、お互いに深い信頼と愛情で結ばれていたものとして描かれている。

 個人的には、上田秀人の方が史実に近いような気もするが、好みから言えば、葉室麟が描く宗茂と誾千代の方がいいとは思う。上田秀人は、優れた戦略家であった岳父の立花道雪と男勝りで父親を尊敬していた誾千代の中に婿養子として置かれた立花宗茂の孤独を描き、これはこれでまた意味の深いことではある。

 もう一つ、多分作者が意図的に描いたことではあると思うが、肥後の佐々成政の下で起こった領民の反乱を見事に立花宗茂が鎮めたことを賞して、豊臣秀吉が宗茂に従四位侍従に叙任しようとしたとき、「ありがたき仰せなれど、主筋の大友義統が従五位であるからには、それを超えるのは筋ではございませぬ」と断ったと言われているエピソードを、宗茂が自分を馬鹿にする誾千代を見返すために自ら望んだと作者は展開する。

 恐らくそれは、立花宗茂が置かれた孤独と、彼がその孤独な闘いを行う姿を示すために、敢えてそうしたこととしたのでは思う。上に立つ者はいつも孤独である。宗茂は「功を誇らず」の人であったが、作者は豊臣秀吉と同じように「成り上がらざるを得なかった人間」として、立花宗茂を捕らえているのだろう。

 物語は、秀吉の朝鮮出兵以後は一気に進んで、関ヶ原の合戦からは短くその後の展開が紹介されるだけだが、わたしは個人的には、西軍についたということで所領を没収され、浪人生活を余儀なくされて苦労し、やがて再び、徳川家康によってゆるされ、柳河藩主として戻って家を再興していく時の立花宗茂についてもう少し展開して欲しい気がした。闘いの孤独は、人は誰でも経験するが、平和時の孤独は、闘いの孤独よりも深いからである。

 ともあれ、立花宗茂は優れた人間であり、彼の生涯を「孤闘」として描いた本書は、歴史小説として面白いものだった。

2013年7月20日土曜日

門田泰明『一閃なり ぜえろく武士道覚書』

 猛暑というほどではないが、どんよりと雲が広がり、時折、暑い日差しが射している。先週はなんとなく忙しい日々で、今日はどことなく疲れを覚えているが、「ひと踏ん張りしなきゃあなあ」と思い直したりしている。頑張ってもあまりいいことはないと思いつつも、追いかけてくる責任というのもある。

 先週は、時間の合間に門田泰明『一閃なり ぜえろく武士道覚書』(2008年 光文社文庫)を読んでいたが、一昔前の活劇時代小説のような感じのする作品だなあ、と思いながら読んだ。

 門田泰明は、服部半蔵を中心とする忍者集団を描いた『影の軍団』とか企業小説、あるいはサスペンスを描いた作品が多いが、彼の作品を読んだのはこれが初めてである。

 表題で使われている「ぜえろく」という言葉は、江戸時代に関西で商家の丁稚や小僧に対して使われた蔑称で、そこから江戸の人たちが関西人を軽蔑して言う時に使われる言葉となり、「才六」とも書き、言葉そのものの起源はよくわからないが、一般には「上方人」というほどの意味で使われるものである。ただ、差別的な色彩が濃い言葉で、今では「ぜえろく」とは言わずに、普通、「上方(かみがた)」と訂正される言葉である。

司馬遼太郎の初期の作品に「上方武士道(せえろくぶしどう)というのがあり、上のような理由から『花咲ける上方武士道』と表題が変更されている。本書で作者がなぜこの言葉を使ったのかの意図は不明。あまり差別用語ということは意識しないで、単に京都を中心に物語が展開されるので「上方(かみがた)」という意味で「ぜえろく」と使ったのではないかとは思う。、

 司馬遼太郎の『花咲ける上方武士道』は、幕末の頃に江戸幕府の実情を探るために朝廷の密命をおびた剣の達人である高野則近という公家が大阪侍の百済ノ門衛門と伊賀忍者の名張ノ青不動という個性あふれる者立ちを連れて江戸へ向かう話で、途中で伊賀忍者と敵対する幕府隠密集団である甲賀の刺客との激闘を繰り返したり、高野則近を慕う内くしい女性たちとの恋物語があったりする冒険活劇譚である。

 本書の『一閃なり』は、その前に出された『斬りて候 ぜえろく武士道覚書』の続編にあたるが、時代こそ4代将軍徳川綱吉の時代で、徳川家康、秀忠の時代に朝廷と公家の一切を制約するために発された公家衆法度や禁中並公家諸法度(慶長20年 1615年)の後、江戸幕府のやり方を快く思わなかった後水尾天皇が突然退位して上皇となった時代であるが、主人公が容姿端麗で抜群の剣の腕を持つ公家の出(後水尾上皇のご落胤)で、市井の武士として生きる松平政宗という無類の剣士であり、彼が美貌の女性を助け、幕府隠密と戦いを繰り返し、江戸へ向かうという設定などは、司馬遼太郎の『花咲ける上方武士道』とほとんど同じである。

 主人公が後水尾上皇のご落胤で、16歳まで鞍馬山で武術と学問を仕込まれ、圧倒的な剣技を身につけ、包容力も力もあり、しかも絶世の容姿端麗を持つというあまり意味のない設定や、彼に想いを寄せ、彼もまた想いを寄せて守ろうとする高柳早苗という女性も、かつては幕府隠密集団を率いるあらゆる武術に通じた女性で、主人公の松平政宗に惹かれて隠密をやめ、「胡蝶」という料理屋を切り盛りする美貌の女性で、人品ともに多くの人々を魅了して慕われるという設定も、あまりに通俗すぎている気がしないでもない。また、戦う相手が幕府隠密集団というのも、もう使い古された通俗時代活劇のような気がする。

 また、話の展開も、松平政宗は大切に思う早苗の幕府隠密の任を解くために江戸の将軍徳川綱吉に会うことを目的として江戸に向かうのであるが、綱吉とはその前の京都の二条城で会っており、幕府老中が相手とはいえ、江戸に向かう必要性がないにもかかわらず、江戸に向かうとされていたり、早苗が幕府隠密を束ねる柳生宗重の元は許嫁ではあるが政宗に想いを寄せているにもかかわらず、宗重の寵愛を独り占めしたいと願うくノ一と死闘を繰り返して相打ちで死を迎えたりするし、政宗と早苗が江戸行きを途中でやめたにもかかわらず、宗重が執拗に政宗を追い、これと死闘をし、政宗は人語を絶する剣技の持ち主であるにもかかわらず、おそらく相打ちで死んだりして、なんとなく物語全体の展開の齟齬が目立つ。剣の構えにもどうかな、と思うところがある。京都市中を騒がせて奉行所を手こずらせる殺人強盗集団があっさり政宗にやられたりもする。日本左衛門の父で同じ強盗集団の日本右衛門というのも登場する。

 司馬遼太郎の『花咲ける上方武士道』も結末部分は消化不良の尻切れトンボのような感じがするが、本作も、結末部分は、壮絶な死闘が描かれる割には途中が端折られている感じがしないでもない。

 とはいえ、まあ、いくつかの要素がてんこ盛りになった通俗時代活劇としては、極めて娯楽的に楽しめる作品ではある。ただ、こういう設定でこうした展開をする作品を書く事にどんな意味があるだろうとは思う。書き慣れた作家だけに、歴史もよく踏まえられて、分量としては相当のものがあり、それなりの面白さはある。

2013年7月17日水曜日

葉室麟『おもかげ橋』

 猛り狂うような猛暑がほんの少しだけ和らぐ感じがした一昨日と昨日であったが、暑さに変わりはなく、滴る汗を拭きながら日々を過ごしている。一昨日は数年前にわたしのところで少し勉強した青年の結婚式に招かれ、式が始まる5分ほど前に突然に祝辞を頼まれたりして冷や汗をかいたりしたが、楽しい心豊かな結婚式だった。

 昨日は吉祥寺まで出かけて、ぶらぶらと帰ってきた。いつも渋谷で井の頭線に乗り換えるのだが、相変わらずの渋谷の人の多さには閉口する。参議院選挙の立候補者の街頭演説を聞いていて、「自分の正義」を振り回す政治家たちの演説を誰も聞いていないというのがなかなかいいのではないかと思ったりもする。

 それはさておき、葉室麟『おもかげ橋』(2013年 幻冬舎)を気軽に読んだ。「おもかげ橋」は実在し、作中でも触れられているが、つまらない男に懸想されてしまって夫を殺された女性にまつわる悲劇の逸話が残されている今の文京区高田の神田川に架かる「面影橋」だろう。

 その逸話のように、本作は一人の美女にまつわる恋を描きつつも、武士として、あるいは人間として凛とした生き方をする二人の男の話である。一人は門弟が来ずに流行らない貧乏剣術道場を細々と営んでいる草波弥市で、もう一人は、武士を捨てて飛脚問屋の商人となった小池喜平次である。

 二人は、九州の小藩での竹馬の友であったが、藩の勢力争いに絡んで藩を放逐され、江戸に出てきて、それぞれの道を歩んでいるのである。剣の腕は一流だが、人づき合いも生き方も不器用で、愚直な弥市は、道場を開いても門弟はおらずに、出稽古で細々と糊口をしのいで生活をし、他方、喜平次は、暴漢に襲われた娘を助けたことが縁で飛脚問屋の入婿として商人になっているのである。喜平次は元勘定方(経理)だったこともあり、和歌にも親しんだことがある文武に優れた人物で、飛脚問屋の主として店を盛り立てていた。

 そんな中で、彼らの元主家の娘を匿って欲しいという依頼が喜平次のところにもたらされ、喜平次は弥市に護衛を依頼して、二人で娘を護る役割を果たすことになるのである。

 元主家の娘は「萩乃」という美女で、藩にいたころ二人は共にその娘に想いを寄せていた。愚直で無骨な弥市は、萩乃に「つけ文(ラブレター)」をしたこともあったが、萩乃からの返事はもらえなかったという経緯がある。加えて、彼ら二人が藩を出なければならなくなったのは、彼らが仕えていた萩乃の父親の権謀術策の裏切りによって彼らが見捨てられたことによるものだった。それでも、二人の萩乃に寄せる想いは変わらず、弥市は、以前、萩乃に「あなたを守る」と言った言葉を律儀に果たすために、萩乃の護衛を引き受けるのである。だが、そこにはさらに深い陰謀が隠されていた。

 彼らが属していた藩では、藩主の座を巡って藩主の異母兄弟の蓮乗寺左京亮(さきょうのすけ)が暗躍していた。左京亮は英気溌剌として役者のような華やかさを持った人物で、藩の要職として藩政の改革にも思い切った手をうっていた人物で、萩乃の父も彼の側につき、勘定方だった喜平次もそれまでの勘定方の不正を暴いたりしていた。ところが、ある時期から、左京亮は私腹を肥やし、商人から賄賂をとり、贅沢三昧で淫靡な暮らしをし始めた。そして、藩主が病死すると、自分の息子を次期藩主に据えるために、幕府老中との繋がりを強くし、江戸に上って自分の息子を藩主として認めさせようとした。

 密かに左京亮の反対派と手を結んでいた萩乃の父は、それを阻止するために藩内随一の剣の腕をもつと言われた弥市と喜平次にそれを阻止することを命じるのである。そして、弥市は槍の名手と言われていた左京亮と戦い、彼に傷を負わせて左京亮の企てを阻止したのである。だが、萩乃の父は、それを隠蔽するために二人を藩から放逐したのである。

 こうしたお家騒動の展開は、よくある話であるが、本来なら、作者は、奸悪と言われる蓮乗寺左京亮の姿をもう少し克明に浮かび上がらせてもよかったのかもしれないが、ここではただ己の欲の塊のような人物としてだけ描かれている。左京亮は、その後、半から追放されたが、彼の息子が藩への帰還を許されて藩に戻ってきたのに合わせて、左京亮も藩に戻り、再び暗躍を始めていたのである。

 萩乃は弥市と喜平次が放逐されたあと、左京亮の反対派の筆頭である家老の一門である椎原亨に嫁いだが、婚家との折り合いも悪く、夫婦仲も良くなかった。そのため萩乃は、一時、自分に言い寄る男に身を任せようとしたこともあり、それが噂となってさらに夫婦仲も冷え込んでいた。彼女は、夫の亨が密かに左京亮の陰謀を阻止するために江戸に出てきて行くへ不明となり、その夫への言伝を父親から託されて江戸に出てきていたのである。

 十六年ぶりに萩乃に会った弥市と喜平次は、何の事情も知らないままに、萩乃の護衛を引受け、少しも衰えない萩乃の美貌に接して、自分たちの恋心を確認していくのだが、萩乃は魔性の女のようなところがあり、どちらにも思わせぶりな言動をするのである。

 そうして彼女を守る日々が続いていくが、彼らはやがて刺客に襲われるようになっていく。事情が次第にはっきりしていくが、実は、かつて自分の野望を阻止された左京亮が自分を斬った弥市と喜平次に復讐するために、様々な画策をしていたことが浮かび上がってくるのである。そして、萩乃の父も、自分の生き残りのために、萩乃を餌にして弥市と喜平次をおびき出し、左京亮に復讐を企てさせ、弥市の剣の腕でそれを粉砕して、左京亮を追いやって自分の地位の保全を図ろうとしていたのである。

 こういう事情が分かっても、弥市は「守る」と言ったものは「守る」と命がけの闘争を刺客や左京亮と展開していくのである。喜平次もまた同様であった。喜平次は飛脚問屋仲間に手を伸ばして彼を窮地に追いやろうとした左京亮の画策に、商人として、凛として戦っていく。左京亮の手先として彼を窮地に追い込もうとした山崎屋は、喜平次の妻を手篭にしようとするが、そこに喜平次が駆けつけて救い出したりする。喜平次は、自分を信じて愛してくれる妻と萩乃との間で心が揺れるが、「もし、丹波屋(喜平次の店)がつぶされるようなことがあれば、わたしは武士にもどる。その際、受けた屈辱は晴らさねばならぬゆえ、山崎屋さんの首は胴から離れることになろう」(160ページ)と言い切ったりする。

 そして、弥市と喜平次は、左京亮の策謀と知りつつも、左京亮と対峙し、弥市はこれを見事にはねのけていくのである。その死闘ぶりは鮮やかである。途中では神田川の蛍が弥市の剣の動きに合わせて舞っていくという美しい光景も描かれている。弥市は、揺れる喜平次とは別に、「守る」ものは「守る」、「信じるものは信じる」という姿を一貫させていく。その姿は『いのちなりけり』と『花や散るらん』の雨宮蔵人やそのほかの葉室麟の作品に登場する心を打つ人間たちを彷彿させるものがある。

 萩乃は、最初、自分はずっと草波弥市に心を寄せていたと打ち明ける。だが、彼は次第に萩乃の心の奥底にあるのが自分ではなく喜平次であったことに気がつく。萩乃自身が、自分がどちらが好きだったのかわからないままに、そう語ったのであり、劣悪な言い方をすれば、いわば、彼女は無意識のうちに二人の男、あるいは彼女の夫も手玉にとっていたのである。それが無意識であっただけにいっそう質が悪かった。だが、それが萩乃という女性なのだろう。そして、その萩乃を弥市も喜平次も好きだったのである。

 だが、弥市は、剣術の出稽古で出入りしている旗本の紹介で見合いした弥生という女性に出会って、そのことに気がついていく。喜平次の妻もこの弥生も、実に素晴らしい女性である。弥生は、「命懸けで人を守ろうとする人」なら惚れるのが当然といって、弥市の押しかけ女房となるのである。彼女の素直さや率直さ、そして弥市への理解、そうしたものが後半で見事に展開され、これが本書の救いとなっている。

 弥生は、少し太っていたためにみんなから「大福餅」とあだ名されていたと言う。その弥生に弥市は「大福餅はそれがしの大好物でござる」と言うのである。この弥生が、弥市が左京亮との戦いに出た留守に押しかけ女房としてやってくるのだが、その時の会話が振るっている。弥市は自分の傷の手当をしてくれる弥生を見て、自分の胸に満ちてくる幸せな気持ちに気づき、「弥生殿、それがしのもとに参られるか」と言った時、「もう参っておりまする」と言うのである。そして、「世を渡るのは戦場を行くが如きもの、と心得ております。おたがいを見つめ合う夫婦もよきものではございましょうが、わたくしは背中合わせに草波様の背後を守りたいと存じます。飛んでくる矢の二本や三本、わたくしが払って進ぜます」、「代わりに、わたくしの背後は草波様に守っていただきます。そうしますと、わたくしどもは天下無敵でございましょう。」そう言って、弥生はおおらかに笑うのである。

 美貌ではあるが陰湿な萩乃とおおらかで真っ直ぐな弥生。弥市は弥生に出会って本当に良かったと思うのである。

 わたしは、やはり、あまり見栄えがせずに愚直であるが、自分が信じたものにまっすぐ向かう弥市と、世の美貌とは違う、もっと尊い美しさを持つ真っ直ぐな弥生が、実は本書の中心であると思っている。そういう人間こそが書くに値する人間だから。

 本書は、あっさりと気楽に読めた作品だったが、そのぶん、若干の物足りなさもないではない。しかし、弥市のような愚直なまでに真っ直ぐな男と、弥生のような自分の正直な人物が登場するだけでも爽快である。

2013年7月12日金曜日

藤本ひとみ『維新銃姫伝 会津の桜 京の紅葉』

 猛暑日が長く続いて、「この暑さには、ちとまいる」感がある。気力と体力の衰えは如何ともしがたい。最近、野菜生活が続いているので、今夜は肉にするか、と思う。

そういう戯言はともかく、NHKの大河ドラマ『八重の桜』で取り上げられている新島八重の会津戦争までの姿を描いた藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風、会津の花』(2010年 中央公論新社 2012年 中公文庫)ほんの少し前に読んで、新島八重を描いた作品としても、文学作品としても優れていると思っていたので、その続編にあたる藤本ひとみ『維新銃姫伝 会津の桜 京の紅葉』(2012年 中央公論新社)を読んだ。

 これは戊辰戦争における会津の敗戦と鶴ヶ城の開城、そして塗炭の苦しみを舐めた会津藩士たちの姿から、やがて、八重が兄の山本覚馬のいる京都へ出て、そこで新島襄と会い、結婚して、夫婦で同志社大学の前身である同志社英学校を設立していくまでの姿を描いたものである。

 維新後の会津藩士たちの苦労はお互いにそこはかとない思いを抱いていた会津藩家老の山川大蔵の姿を通して描かれ、山川大蔵と山本覚馬、そして新島八重の三者が物語の中心となって話が展開されていく。

 幕末から明治にかけて会津藩は比類を見ない苦境に陥った。作者はそれを本書の最初で次のように記している。
 「文久二年、会津藩は京都を守るために呼び出され、天誅の嵐の中で多くの藩士を失いながら、財政の破綻も顧みず、ひたすら幕府の命令に従い、朝廷に正義をつくしてきた。しかし孝明天皇の崩御、薩摩長州の政権への野望、そして徳川慶喜の保身が重なり、一方的に朝敵の汚名を着せられ、追討の対象とされたのだった」(5ページ)。
 これは客観的で簡明な歴史判断だろうと思う。そして、会津は多くの犠牲者を出して敗れる。その悲しみは測り難いものがある。多くの死者が累々と横たわり、崩れ落ちた鶴ヶ城に白旗が掲げられて、城は明け渡されたのである。

 山川大蔵は、藩主親子の助命嘆願をしながら残された会津藩士の行く末を案じ苦労していく。維新政府が会津に対して厳罰主義をもって臨もうとする中で、会津藩がようやくにして東北北端(現:青森県)に「斗南藩」として残される道を作るが、そこに撮された藩士たちの生活の苦労は並大抵のものではなかった。貧苦に喘ぎながらも、会津藩士としての心意気をもって苦労に耐えていこうとする。そこでの新しい道を見出そうとするのである。もちろん、「貧すれば貪す」で多くの不満を持つ者も出る。山川大蔵はそこで苦労しながら、なんとか道をつけようとしていく。だが、それもつかの間、廃藩置県令によってあっという間に「藩」という存在自体が消失する。

 中央集権化を急いだ維新政府は、あらゆる強硬策をもって政権の確立を図ったが、勝者である薩長土肥の奢りと政権の私物化、腐敗もひどいものがあった。そして、政権中央部の勢力争いや分裂も起こり始めていた。

 本書の中では、新しい明治政府に失望した者たちの姿が、明治政府の中枢にいたが、やがて追われるようにして乱を起こした江藤新平(佐賀の乱)や前原一成(萩の乱)、そして西郷隆盛(西南戦争)として描かれる。

 特に、江藤新平に関して、山川大蔵は会津戦争の時に敵将であった谷城に懇願されて官軍の将となり(薩長への報復を考えていた)、江藤新平の乱を治める側にたち、他方、八重は覚馬の意を受けて江藤新平の救出に向かい、二人が佐賀で出会うという場面を展開している。ここで八重は、窮状に陥った山川大蔵の命を助け、江藤新平の義士としての姿を垣間み、彼を見送るという役割を演じている。明治政府を掌握している大久保利通のやり方が、会津を陥れたのと同じやり方で、力ある彼らが反乱を起こさざるを得ないように仕組んで、彼らを滅して、権力を掌握することで中央集権化を進めるやり方だったと、作者は語るのである。

 新島八重が江藤新平の佐賀の乱の時に佐賀にいたかどうかの記録はないが、作者がこういう展開をしたのは、江藤新平のことについて触れたいという思いがあったからだろうと思う。そして、そこに八重と山川大蔵の結ばれなかった恋について、ほんのちょっとしたすれ違いで、互いに想いを寄せながらも違う道を歩まなければならなかった二人の物語を絡ませているのである。

 他方、八重の兄の覚馬は鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩に捕縛され、獄中生活を耐え忍んでいたが、彼の学問の才能を見込まれて京都権参事(後の京都府知事)植村正直の顧問として、幕末で荒廃した京都の再興に力を注いでいた。彼が獄中で新政府あてに書いた『管見(かんけん)』は、非常に優れた将来の国のあるべき姿を記したもので、後に明治政府の政策の骨格に繋がるもので、西郷隆盛がかれを非常に評価したと言われる。

京都の復興に尽力し、新しい国作りに種々の産業復興に尽力する中で、彼は、女中の家に身を寄せていた母や八重らを京都に呼び寄せた。彼は会津に妻子があったが、盲目になった時に彼の世話をしてくれた女性(時恵)との間にも子どもができ、そのため覚馬の妻だけは郷里に残ることを選択して娘だけが八重とともに京都に出てきていた。八重はそういう覚馬に若干の異を覚えつつも、人間としての覚馬を尊敬していた。

 江藤新平の乱が起こった時、覚馬は言う。「新政府は腐敗している。人間の精神そのものがダメなのだ。儒教教育の限界だろう。人心を改めねばならない。それには今までとはまったく違う新しい精神、新しい哲学を持った人間が教育に携わる必要がある。そういう人間が、新たな人材を育てるのだ」(282ページ)。

 そうして、明治8年(1875年)頃、大阪で活動を開始していたアメリカの会衆派の宣教師からキリスト教の教義を解説した『天道溯原(てんどうそげん)』を贈られ、これに大いに感銘を受けた。そして、そのころにアメリカから宣教活動のために帰国していた新島譲と出会うのである。彼は自分が購入していた旧薩摩藩邸の敷地6000坪を新島譲の学校用地として譲渡し、新島襄と共に「私学開業願」を文部省に出願するのである。ちなみに「同志社」という名称は覚馬がつけたものだと言われている。

 八重は、この覚馬の下で、もともと進取の気性を持っており、英語を学び始めたり、女子教育のために尽力したりしていく。だが、本書では、会津に育ち、会津魂を持ち、しかも会津城の戦いで悲惨をなめた八重は、このような仕打ちをした明治政府の要人への報復を忘れなかったとされている。だが、長州の木戸孝允が死去し、西郷隆盛が自決に追い込まれ、そして権謀術作を施していた大久保利通が暗殺され、彼女の復讐心は平安を見るようになるし、それと同時に、新島襄との出会いによって「罪のゆるし」ということを心に刻んでいくようになるのである。

 新島襄と山本覚馬が設立した同志社英学校は、幾度かの経営の危機を迎えていく。内外に渡る誤解もあり、その度に苦慮することになるが、新島襄と八重は新しい夫婦の姿としてそれを乗り越えていくのである。

 また、山川大蔵も「鶴ヶ城が壊されるのを見ただろう。城の喪失は、暗喩だ。私たちはこれまで、朝な夕なに天守を見上げてきた。それは私たちの至誠の象徴だった。皆がその方向に歩めばよく、私やおまえはそれを指揮する立場だった。だが時代は移り、城は消えた。つまり皆が仰ぎ、目標とするものがなくなったのだ。誰もが同じ方向を目指し、指揮者がそれを引き連れていく時代は終わったということだ」、「共に共通する価値観や目標というものは崩壊し、存在しなくなったのだ。一人一人が自分なりの価値を見出し、それにそって自分の道を探り、歩き出さねばならなくなっている。おまえも、皆を引きつれていくという今までの考え方を捨てろ。でなければ生きていけん」(291ページ)と会津戦争の時に責任をっていた梶原平馬に言われて、新しい道を歩んでいくのである。

 ちなみに、この山川大蔵(浩)は、後に(明治18年―1885年)、東京高等師範学校(現:筑波大学)及びその附属学校の校長、女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の校長を務めている。明治31年(1898年)に男爵に叙せられ、同年、病没した。

 本書は、一本の筋として、山川大蔵と八重の、互いに想いを寄せながらもどうしてもすれ違ってしまう運命の悲恋を置きながら、激動していく幕末から明治にかけての歴史、その中で無念に死んでいった者たちの重荷を抱えながらも、新しい生き方を模索していく人々の物語である。女なしくないことを恥じていた八重が、やがで銃姫としての自分を見出し、そしてまた、教育者として生きていくような姿を描くのである。そして、それは女性ばかりではなく、山川大蔵や山本覚馬についても同じだと語るのである。

 八重は芯の強い女性だった。自分の生き方をはっきりさせる女性である。新島譲は彼女のことを「ハンサムウーマン」と呼んだが、しかしまた、それは彼女の努力の賜物でもあったのである。その努力の跡が本書で記されているのである。これもまた、いい本だった。