2013年4月29日月曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(2)


 初夏とは呼べないが、この2~3日、ようやく暖かくなって過ごしやすくなっている。新緑が鮮やかで美しい。こういう日々は本当に嬉しい。

 さて、滝口康彦『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)の続きであるが、第四作「下野(しもつけ)さまの母」は、二十六、七年連れ添った夫に、十四年も前に裏切られていたと思った妻の不信感から始まっていく。夫の波多野修理は謹言一直で、五十歳になり、子どもも成長して、孫もいて、妻の「いよ」は対馬藩の家中で、自分は幸せ者だと思って暮らしてきた。

 ところが、信じて疑ったこともなかった夫が、十四年前に背信行為をしていたことが動かぬ証拠とともにわかったのである。夫の相手は、先代の対馬藩主の愛妾の「若狭さま」で、しかも無理心中まで企てていたことが、修理自身が書いた手紙が「若狭さま」の死去とともに遺品として夫に届けられてきたのであった。手紙は間違いなく夫の筆跡で、藩の家老に宛てたたもので、「若狭さま」との無理心中を記したものであった。

 夫の留守中にその文を盗み見た妻の「いよ」の心は乱れ、夫に問い質すが、夫はただ「聞かずにおいてくれ」て言うだけであった。「いよ」の心が地獄のようになったことを承知の上で、夫はただ「それを承知で頼むのだ」というばかりである。

 その手紙の中には、決して人に明かすことができない秘密があったのである。その秘密は、前藩主が亡くなった時から始まった。前藩主の正室には子がなく、国元の愛腹に、母は異なるが三人の男児があった。世子として届けでられている猪三郎義功は十歳、次男の富寿は八歳、五歳の種寿である。猪三郎義功は十歳で届け出られているが、実際は八歳であった。新藩主は届け出られていた猪三郎義功がつき、国家老の古川図書が補佐となり、このままいけば問題は何も起こらなかったはずである。

 ところが、それから七年後、新藩主となった猪三郎義功が病気で急死した。まだ十五歳の元服前で、将軍参観も猶予されていたので、お目通りも済んでいなかったが、義功の死が表沙汰になれば、世子なき状態となり、家の断絶は免れなくなったのである。

 家老の古川図書は、江戸家老の意見も聞きながら善後策を波多野修理らと相談した。無難な方法は、藩主猪三郎義功の病気届を出し、異腹の弟である富寿を世継ぎと定め、それを幕府に承認してもらった後に、猪三郎義功の死を届け出るというものだった。ところがそれには時間もおびただしい金もかかることになる。財政難の状態で藩にその金はない。

 思案に窮して、修理は、若君をすりかえるという案を出す。亡くなったのが三男の種寿ということにして、次男の富寿を猪三郎義功とし、実際の種寿を富寿として、お目通りもまだだったのだから可能であるという。だが、猪三郎義功の母は既に亡くなっているし、富寿の母「お弓の方」も、自分の子が新藩主になるのだからさして不服はないだろうが、種寿の母である「若狭さま」は、自分の子どもが死んだことにされて取り上げられてしまう。その「若狭さま」の説得を修理は任されるのである。そこには、その説得が受け入れられない場合は、「若狭さま」を殺して、修理も死ねという意味が含まれていた。

 「若狭さま」は、控え目で謙遜な女性だったが、あまりの酷い申し出に抵抗を見せる。しかし、修理はその説得に自分お命を賭けなければならなかった。修理は、万一を考えて、家老の古川図書宛に、自分が「若狭さま」に懸想をして、無理心中をするということを一筆書いて書き置いていた。その書置きを修理は「若狭さま」の説得に行った際に落とし、それを「若狭さま」に読まれていたのである。そして、「若狭さま」はその申し出を受け入れた。それから、母と子が決して名乗り合うことができない日々が続いた。

 五年後に、猪三郎義功の富寿は十九歳で将軍お目見えとなり、対馬守を拝命し、富寿の種寿も宗下野(そうしもつけ)を名乗り、家臣からは「下野(しもつけ)さま」と呼ばれるようになった。彼は文武に秀でた若者に成長していき、家臣の信愛も得ていたが、しかし、残念なことに二十歳の時に病を得て死去しなければならなかった。

 あと三日の命と医者から宣告を受け、修理は、実の母である「若狭さま」に最後のお別れを言わせたいと願い、「若狭さま」を「下野さま」の枕元に連れて行く。だが、「若狭さま」は、最後まで気丈に振舞って「下野さま」をどこまでも自分の子としてではなく、富寿として接した。気を失うほど自分を保っていたのである。

 そして、それから三年余に「若狭さま」が亡くなって、かつて修理が書きた書置きと「若狭さま」が書きおいた修理の心遣いへの感謝の文が届けられたのである。文の背後にあったのは、決して色恋沙汰ではなく、人生の悲しい運命であった。だが、真相を明らかにすることは決してできない。「いよよ、こらえてくれい」と修理は望むばかりである。

 人には、誰にも知らすことができない、また知らしてはならないことがある。それはただ、じっと自分の懐に抱いている以外にはない。心をもつ人は特にそうである。人がそのようなものであることを知っている人間と、そのことがわかなない人間がいる。「サムライ」という人間の精神を描く時代小説は、それを描くのに最も適したジャンルであるが、この作品には、作者のそういう思いが込められているように思われた。

 第五作「昔の月」は、薩摩藩領内にある日向都城の領主北郷忠能の「脳乱」ともいえる暴挙の中で、弟が兄を上意討ち(藩主の命令で殺すこと)にしなければならなくなり、命乞いをする兄を逃がしていく話で、兄の出奔によって一家は立ち行かなくなり、月光の中で兄と弟が斬り合うことがあったが、兄は弟に懇願して命を長らえ、そして、年老いて再び都城に帰ってきた僧となった兄と弟が、互いに名乗ることもなく、再び月を仰ぐというものである。藩主の気ままによって家臣が苦しめられる例は数挙にいとまがなく、第六話「鶴姫」でも、藩主の娘の姫君のちょっとした思いやりが、それを守ろうとする家臣の生命を賭した行為へとつながっていく話である。

 ただし、第六話「鶴姫」の場合は、我儘ではなく自分に仕えている奥女中の恋を実らせようとした思いやりからだったが、それによって、その姫を守る家臣が生命を賭けることになってしまうのである。地位ある者は、自分がもつ地位や力、あるいは言動がどのような影響を及ぼすかを知らなければならない。だが、実際にそのことを知る地位ある者は少なく、権威や権力だけが振るわれる現状がある。人の痛みがわからない人間は、決して力をもってはならない。

 第七話「一夜の運」は、刃傷沙汰に及んだ時に、冷静さを取り戻して、「サムライ」としての守らなければならないことを守ったことによって、自分の運命を危機から救っていく話で、舞台が佐賀鍋島家に取られているのは、鍋島家が「葉隠」の精神をもつものだからだろうと思う。ここには陰湿な「いじめ」もがかれるし、その「いじめ」に対して腹を据えかねて報復する姿も描かれ、その中で、「サムライ」として守らなければならないことを守る姿が描かれるのである。

 第八話「千間土居」は、久留米藩と柳川藩の間を流れる暴れ川と称された矢部川の治水工事をめぐる話で、片方が強固な土居(堤防)を築けば、片方の堤防が決壊してしまうという中で、土居(堤防)の工事に当たった普請方どうしのそれぞれの矜持がぶつかり合う話である。事柄を藩の中だけでしか見ることができない人間と、それを越えて見ようとする人間の姿が描かれるが、藩の枠を越えようとした人間が結局は潰されてしまう悲しい姿も、ここにはある。

 表題作となっている第九話「遺恨の譜」は、幕末期に起こった寺田屋騒動を、その関係者であった主人公が明治になってから語るという設定で、「考えていたのは、結局、薩摩の利害だけではなかったか」という視点で描かれ、わたしも、幕末期には薩摩は利害で動いたと思っているので、作者の意図がよくわかるような気がしながら読んだ。ここには、寺田屋事件で死んだ有馬新七や、後で殺された田中河内介(こうちのすけ)親子、海賀宮門(みやと)らの無念の姿が描かれる。

 ここで言う寺田屋騒動というのは、1862年(文久2年)、京都伏見の旅館であった寺田屋に、急進的な尊皇派であった者たちが、久留米の真木和泉を中心にして、関白九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃しようと集まり、そのほとんどは薩摩藩士だったために、薩摩藩主の父で、藩の実権を握っていた島津久光がこれを危惧して、騒動を抑えようと剣術に優れた9名の人間を派遣し、そこで激しい斬り合いをした事件である。寺田屋は、当時、薩摩藩の定宿であった。この時に、急進派であった有馬新七などの6名が斬り殺され、2名が重傷を負い、多くが捕縛された。そして、2名が切腹させられ、諸藩の尊皇浪士は各藩に引き渡され、引き取り手がなかった田中河内介親子などは、薩摩藩が引き取ると称して船に載せ、船内で斬殺したのである。また、薩摩に連れて行った者たちも浜辺で斬殺した。

 これによって、京都の治安に功があったということで朝廷側は島津久光への信望を高めたと言われるが、幕末は、こういう愚かで残忍なことが繰り返されたのである。このころ薩摩は長州に対しててひどい仕打ちをしていたが、数年後に坂本龍馬らの斡旋もあって、薩長同盟を結んでいる。薩摩も長州も「藩」という枠内を越えることができなかった、とわたしは思っているし、それが明治になっても続いたと思っている。人間の視野はいつも狭く、人の目は狭い視野の中だけでしかものを見ることができない。だから、今見ているものに注意が必要だと思ったりもする。

 ともあれ、本書に収められている短編も、文学性の高い珠玉の短編で、読む者を圧倒する力をもっているとわたしは思う。その思想性もかなり高いものがある。

2013年4月25日木曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(1)


 春の天気は変わりやすいいが、こうも気温の変化が激しいと、「うむ」と思ったりしながら日々を過ごさなければならず、身体的な齟齬が生まれてきたりする。春ののどかな陽射しには縁遠い湿気を含んだ冷たい風が吹き抜けていく。

 以前、滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)を読んで、その作品の質の高さに感嘆して、この人の作品をもっと読んでみたいと思っていたら、演歌の作詞家をしているT氏が『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)をもってきてくれて、これも味わい深く読んだ。

 これも『一命』と同じ短編集で、この中には「高柳親子」、「仲秋十五夜」、「青葉雨」、「下野さまの母」、「昔の月」、「鶴姫」、「一夜の運」、「千間土居」、「遺恨の譜」の九篇の短編が収められ、このうちの「高柳親子」は『一命』にも収められており、この作品については、20121221日に記したので、ここでは割愛する。。

 本書の巻末に、縄田一男の「解説」が記されており、その中で縄田一男は「一般に滝口康彦の一連の士道小説は、武家社会の掟のきびしさや非人間性を描く、封建期の慟哭譜として捉えられてきたし、事実、私もそう記したことがある。しかしながら、・・・・彼ら侍は、歴史の枠組みの中でそうした生き方しか許されなかったのである―滝口作品が、まず私たちに教えてくれるのは、この動かしようのない事実である」(本書373ページ)と述べて、組織の中で個を確立していくことに難儀していく姿がそのテーマとなているというようなことを述べているが、全くその通りだと、わたしも思う。

 そして、滝口康彦の作品が光彩を放つのは、そうした普遍的なテーマと共に、その文学性の高さにあるとも思う。短編として、実に質の高い構成で、切れのある文章で綴られる物語と登場人物の余韻が響く。

 「仲秋十五夜」は、夫が亡くなって七年の歳月を経た後に、夫の死の真相を知ることができた妻が、夫の真実の姿を知り、それによって夫への愛情や夫婦であったことをしっかりと心に収めていく話である。

 薩摩島津領の日向の郷士であった淵脇平馬と押川治右衛門は、薩摩藩主島津忠恒が催した鹿狩りの際に、鹿と間違えて、分領の帖佐二万石の領主伊集院源次郎忠真を鉄砲で撃ち殺してしまい、その場で切腹して果てた。誤って撃たれたのは伊集院源次郎忠真と、もう一人薩摩藩の重臣の子であった平田新四郎の二人で、薩摩藩島津家は、重臣の子の平田新四郎も死んだのだがら、これが全くの過失であると主張したが、その場に駆けつけた帖佐伊集院家の家臣たちは納得ができず、島津家家臣団との間で戦いとなり、十数名が討ち死にし果ててしまうという出来事になった。

 この出来事を招いたことで、淵脇平馬と押川治右衛門の葬儀もゆるされなかったが、伊集院源次郎忠真の一族も、後の憂いを断つために、その後すべて殺された。

 その後、平馬の妻「とせ」は、平馬が死んだ八月十七日を心に刻みながらひっそりと生きた。そして、七年が経ち、子どもの平次郎も十二歳になったとき、地頭が藩主からの金子を持って「とせ」を訪れ、実は、あの事件には政治的な裏があって、平馬は藩主の命令を受けて伊集院源次郎直実を殺害したのだということを聞かされるのである。

 そこには、かつて伊集院一族が起こした変によって揺るがされた薩摩島津家が、伊集院家の禍根を断つという政治的思惑があったのである。

 事件の前々夜の八月十五日、暗殺の密命を受けた淵脇平馬と押川治右衛門は、自分の生命を賭した、しかも自分の意に沿わない密命を受け、それぞれに逡巡し、仲秋十五日の夜をそれぞれで過ごしていく。平馬はいつもと変わらぬように静かに寝ていた。だが、事件の真相を聞き、「とせ」は、平馬が寝ていたのではなく、必死に何かに耐えていたのだと気づく。殿様からくだされたという金子が重みを失う。

 そして、「平馬は、七年前の八月十七日に死んだ。昨日まで、とせにとって、忘れてはならない日は八月十七日だった。でも、いまは違う。ほんとうに忘れてならないのは、八月十五日なのだ。今夜なのだ」(90ページ)と思うのである。「とせ」は、そのことによって、藩命で死んだ夫を再び自分の手に取り戻すのである。

 こういう密度の濃い展開と人間の姿は珠玉の短編ならではではないかと思う。第三作目の「青葉雨」は、権力の横暴の中でも、強い意志と愛情をもって生き抜く男女の姿を描いたものであるが、これもまた珠玉の作品である。

 「綾」は、家人の留守中に領内見廻りと称して立ち寄った藩主によって手篭にされた。彼女には結城伊織という相愛の許嫁があり、伊織が出府から帰国したらこの秋にも祝言をあげるばかりであった。

 藩主の左近将監忠房は、正室の他に数名の側室を置き、その他にも奥女中に伽を命じるような好色な男で、「綾」に目をつけ、しかもお側頭の深尾主馬と望月宗十郎が画策しての「綾」への狼藉だった。深尾主馬は出世頭第一の男といわれ、結城伊織のことを知りながらも「綾」に後添いを申し入れ、にべもなく断られたことを根にもって、藩主の狼藉を企んだのである。そして、殿様のお手がついたことを藩内の噂として流した。

 だが、「綾」は、そういうことは一切なかったと断固として言う。彼女はそうしながらも、ひとり伊織との結婚を諦め、屈辱に耐えることを決心した。

 だが、殿様のお手がついたのだから側妾として差し出すようにという申し入れが「綾」の兄の伊吹源三郎になされる。「綾」は、断固として、お手がついたというのは噂に過ぎず、もし、藩主が許嫁の定まった娘に主君の威をかさに力づくでてをつけたことになると、藩主は避難の的になるだろうと主張する。

 そうしているうちに、許嫁の結城伊織が帰国した。伊織は直情怪行で無鉄砲なところがあったが、磊落で、こだわりのない真っ直ぐな性格の男だった。そして、「綾」についての噂を知りながらも、なお「綾」を妻に迎えると言う。自分は「綾」を信じており、噂が本当ならなおさら自分が「綾」を妻として迎えなければならないと言い張った。

 だが、藩への婚姻の届出は御側頭の深尾主馬によって却下されてしまう。しかし伊織は、、主君の名を汚さぬようにしているということを主張して婚姻を認めさせる。しかし、「綾」は、自分は伊織の妻にはなれないと思っていた。

 そういう「綾」の姿を見ていた兄嫁は、すべての事実を知りながらも、「綾」が耐えているのは伊織への想いが断ち切り難くあることを素直に認めて、伊織も同じ想いだから、その結婚を承知するようにと語りきかせるのである。「綾」は、その言葉を青葉の雨の中で泣きながら聞くのである。

 権力の横暴によって泣かされた人間は山ほどいる。そして、その中を、自分の思いを強く持って忍耐して生き抜いた人間もいる。この作品は、そういう人間の姿を、自分の思いに正直になって愛を貫く男女の姿として提示するのである。相手に対する思いやりが深い男と女の仲は、そう簡単には崩れないし、また、崩れないでいて欲しい。

2013年4月23日火曜日

高橋義夫『元禄秘曲』


 ようやくまたほんの少し暖かさが戻ってきた。日曜日(21日)は真冬並みの寒さで震えてしまったが、ほっとしている。

 最近、我が家の家電製品が買い替えの時期を迎えているのか、あまりうまく機能しなくなっているのだが、見回してみて、これらはなくても生活できるがあれば便利という類だなあ、と改めて思ったりした。パソコンも、またそろそろ限界に近づいて、買い替えの時期かもしれないとも思う。使っているOSが二時代前のOSである。

 それはともかく、高橋義夫『元禄秘曲』(2009年 文藝春秋社)をあっさりと、しかし面白く読む。高橋義夫は多才な作家だと思っているが、この作品は、「生類憐れみの令」で有名な五代将軍徳川綱吉のころ、1684年(貞享元年)に江戸城中で老中堀田正俊が従叔父に当たる若年寄の稲葉正休(いなば まさやす)に刺殺された事件を背景にして、その後の非遇を受けた堀田家の家臣による抵抗などを盛り込みながら、一人の青年武士の活躍を描いたものである。

 江戸城中での堀田正俊刺殺事件は、今も多くの謎を残したままで、本書でその事件が直接取り扱われるわけではないが、堀田正俊が綱吉の「生類憐れみの令」に反対していたことや、その後幕府の中で権勢を誇っていくようになる柳沢吉保などとの関連で、暗殺陰謀説が出てきたりする。

 ともあれ、本書の主人公は、旗本の次男坊で冷や飯食いである花房百助という青年武士で、彼は兄が家督を継いだ家を出て、本所の石川礫斎の一刀流の剣術道場の内弟子として住み込んで剣術修行をしているのである。彼はその道場で、本所の小天狗と呼ばれるほどの腕をもち、市中で起こる事件に関係したりしていくのだが、彼の師である石川礫斎は、かつては堀田家に仕えた家臣で、堀田家が殿中事件後に移封されたり、減封されたりする中で身を引いて剣術道場を開いていたのである。

 花房百助と並んで大天狗と呼ばれる師範代の古木要蔵も元は堀田家の家臣で、堀田家の没落によって解雇になった家臣たちと、なんとか意趣返しをしたいと望んでいた。堀田家の遺臣たちは、権勢を誇るようになった柳沢吉保が主君の堀田正俊の暗殺を企んだと思い、柳沢吉保を誅しようと企てていたのである。その企てには、医師をしている石川礫斎の弟も関係ししていた。

 そして、花房百助が慕って行くへ不明になっていた叔父も、実は、幕府目付の隠密同心として堀田家の遺臣たちの動きを密かに探っていたりしたのである。

 こうした大筋の展開の中で、女敵討ちやサド・マゾ好みの武家の妻女が殺された事件などが展開されると同時に、花房百助の縁談話や道場の隣家の旗本の娘との恋などが描かれていく。ただ、こうした事件は比較的あっさり片づいていくし、堀田家の遺臣たちの企ても、意趣返しなどを望まない石川礫斎や花房百助の活躍でうまく抑えられていき、流れるように物語が展開されるだけである。狙われている柳沢吉保が放つ刺客による剣術道場の弟子たちへの襲撃なども堀田家の恨みを晴らそうとする古木要蔵の決起を促すものとなっていたりもする、

 しかし、結末で、石川礫斎の弟が、剣によって柳沢吉保を誅するのではなく、事件を物語にしてそれを市中に配布することで、殿中の暗殺事件の真相を人々に知らせようとしたということが述べられて、元禄時代らしい結末の取り方だと思ったりした。

 全体が軽いタッチで描かれており、もう少し人間像が掘り下げられれば(たとえば、火盗改めになる「のっそり十郎」など)とは思うが、これはこれで軽く読めるような展開になっており、個人的には面白く読めた一冊だった。

2013年4月19日金曜日

上田秀人『隠密 奥祐筆秘帳』


 今日あたりからまた気温が低くなるそうで、曇って、今にも雨が降りだしそうな気配がする。このところ風で埃が舞い上がっていたので一雨きて欲しいが、寒いのは嫌だな、と我儘に思う。

 昨日は、いくつかの下調べをしていて、ふと気がついたら夜の8時を回っているという時間の過ごし方をしていたが、夜、上田秀人『隠密 奥祐筆秘帳』(2010年 講談社文庫)を一気に読んだ。

 これは、このシリーズの七作品目で、以前、これに続く第八作目の『刃傷 奥祐筆秘帳』(2011年 講談社文庫)を読んで、ここにも記していた。ちょっと調べてみたら、2012年8月13日だったから、およそ八ヶ月ぶりにさかのぼって読んだことになる。

 このシリーズは、第十一代将軍徳川家斉の時代(在位 17871837年)の幕府の公文書を取り扱う奥祐筆と彼の身を守る剣士を主人公にして、権力を巡る争いを描いたもので、それぞれの権力者たちの暗躍ぶりが描き出されている。

 本作では、先の老中松平定信が奥祐筆組頭の立花併右衛門の力を取り込もうとして、娘の瑞紀に自分の縁者との縁談を持込、断られた腹いせに、縁談相手の旗本が瑞紀を拐かすという愚挙に出たところから始まっていく。併右衛門は、拐かした旗本の家譜を調べて、拐かされた場所を突き止め、護衛役の柊衛悟と共に娘の奪還に向かい、娘を無事に救出することができた。そして、その裏にいた松平定信に釘を刺すのである。

 松平定信は拐かした旗本を当然のようにして見捨てていく。そして、将軍家斉から、将軍毒殺未遂事件があったことを聞き、今度はその事件についての裏事情を知るために、奥祐筆組頭の立花併右衛門を使うことにしたのである。家斉毒殺未遂事件には、家斉の父で権力欲の塊であるような一橋治済の画策があり、そこに大奥と大奥を護衛する伊賀者の暗躍もあった(このあたりは、シリーズの三作品目『侵食 奥祐筆秘帳』で語られている)。

 奥祐筆に調べられては困る伊賀者は、立花併右衛門の命を狙うようになり、併右衛門の護衛をしている柊衛悟との戦いが展開される。

 他方、一橋治済は、相変わらず甲賀者を使っての暗躍を行うし、将軍家斉は家斉で公儀お庭番を使い、それぞれが奥祐筆を利用できるあいだは利用し、用がなくなれば知りすぎた立花併右衛門の命を狙うのである。だから、護衛の柊衛悟は多方面の敵から併右衛門を守らなければならない局面に立たされていく。

 また、朝廷側は寛永寺塔頭を通して、権力を徳川幕府から奪う画策を続けており、その責任者である「覚蝉」は、幕府内に朝廷の意向を入れる画策のために、公武合体説を持ち出しながら松平定信と手を結び、定信が望むように僧兵を使って奥祐筆の立花併右衛門の暗殺をすると申し出るのである。

 立花併右衛門は、右を見ても左を見ても自分の命を狙う敵ばかりの四面楚歌の状態になるのだが、柊衛悟とともにその難局を乗り切ろうとしていくのである。併右衛門の娘の瑞紀は衛悟に想いを寄せており、父親として併右衛門は娘の想いを遂げさせてやりたいと思って、ついに、柊家に衛悟を婿養子にしたいと申し出るようになる。

 暗躍と激闘に次ぐ激闘という形で物語が展開される中で、衛悟と瑞紀の恋が大いなる清涼剤として働き、権力争いの醜さだけではなく、それぞれの立場での思いが描かれるので、一気に読ませるものとなっているのである。

 もちろんこれは、歴史の裏舞台を通してのエンターテイメント作品であるが、優秀な官僚としての苦慮がよく描かれており、使われる人間の哀しさもよく伝わる作品になっている。その意味では、時代小説としての定形のようなものではあるが、奥祐筆というところに着眼した作者の眼力はなかなかのものだと思っている。

2013年4月17日水曜日

南原幹雄『御三家の反逆』


 曇ってはいるが春の気温で暖かい。昨日、ハナミズキが綺麗な花をつかせているのを見て、なんとなく心が和んでいた。今週から、週に一度の割合で吉祥寺まで通うことになり、渋谷から井の頭線に乗り換えて、井の頭線の沿線風景を眺めながら、昨日は南原幹雄『御三家の反逆 上下』(1991年 新人物往来社)を読んでいた。

 これは、徳川家の御三家と言われる、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家が幕府政策の転換によって危機的状況を迎え、その存続のために苦慮していく姿を、主に初代尾張藩主となった徳川義直(16011650年)とその附家老であった成瀬正虎(15941663年)の側から描いたもので、歴史小説としてなかなか面白いものあった。

 戦国武将と言われる人たちの多くは、肉親の情愛というのを現代の尺度とは違った感覚でもっており、下克上はなにも他者との関係だけでなく、親子の関係でもよく起こり、子が親を蹴落とすということが頻繁に起こっている。徳川家康も、彼が江戸幕府を築いて安定させるまでの間に生まれた子どもたちを、どこか嫌っていたようなところがあり、親子関係にもいびつさをもった人だった。

 しかし、晩年に生まれた子どもたちは、孫のような感覚があったのかもしれないが、可愛がって、特に、九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房は寵愛した。そして、各地の有力諸大名を抑えるためと後継者の維持のために、それぞれの要所であった尾張(名古屋)と紀州(和歌山)、水戸に親藩を置き、これを身内で固め、御三家とした。義直が初代尾張藩主になったのが7歳で、義直は3歳で甲府藩主であったが、6歳で元服して尾張清洲藩主となり、ついで尾張一帯の藩主として名古屋に城を構えたのである。頼宣が紀州藩主となったのは17歳の時であるが、彼は2歳で水戸藩主である。頼房が水戸藩主となったのは6歳である。そして、徳川宗家に後継者がない場合は、これらの三家、特に尾張と紀州から後継者を出すようにして徳川一党の支配の継続を図ったものである。

 家康は、また、それぞれの藩主が幼年のために、信頼できる自分の側近を附家老として派遣し、藩政をとらせた。成瀬家は義直に家康がつけた附家老で、尾張藩には成瀬正成と竹腰正信が附家老としてつけられ、慶長12年(1607年)には平岩親吉が附家老になったが、平岩家は後継者がなくて、慶長16年(1612年)に排除されている。成瀬家は尾張藩附家老であると同時に尾張犬山藩の藩主でもあった。本書の主人公のひとりである成瀬正虎は、その2代目で、正成の子である。

 徳川御三家は、将軍を補佐するという名目ではあったが、権力者というものは、どうしても自分の一手に権力を掌握し、その地位を脅かすものは排除する傾向をもつのだから、2代将軍秀忠や3代将軍家光のころになると、その立場が微妙に変化していく。2代将軍秀忠は、おそらく自分よりも優れていると目されていた自分の兄の秀康、弟の忠輝を排除したし、家光は、明らかに自分よりも優れていると考えられ、両親からも寵愛された弟の忠長を排除し、御三家を排斥しようとした。時代も武から文へと変わりつつあり、武を誇る者たちの排斥が続いたのである。

 こういう中で、自分の権力を確立し、御三家を排斥しようとした家光と、家康の子であり将軍位候補でもある御三家の間に、当然、確執が生まれ、陰に陽に闘いが展開されるし、それに幕閣やその意を受けた柳生宗矩を中心とする隠密働きとか陰働きと言われるような者たちの画策が行われた。

 特に、家光の将軍家と義直の尾張は関係がぎくしゃくし、一触即発の状態が続いたのである。義直は家康の子であるという自尊心も強かったし、大坂の陣にも参戦し、文武ともに優れた人物だったという評もあるくらいであり、家光は、幼少の頃は病弱で、吃音で容姿も美麗とは決して言えず、父の秀忠と母のお江が弟の忠長を寵愛したために嫉妬心も強くて、人一倍権力志向の強い人で、権力掌握のための幕府機構を次々と制定していった人であった。

 尾張徳川家と幕府将軍家の確執として残されている記録は、寛永11年(1634年)に家光が病床に伏した際に義直が幕府に無断で大軍を率いて江戸に向かった事件で、家光が万一にも死去すれば、後継者がないために、義直としては御三家の筆頭として徳川家を慮ったとも言われるし、あるいは、将軍位の第一候補として江戸入りを目指したとも言われる。そのときの義直の意図の真偽は定かではないが、いずれにせよ幕府閣僚の土井利勝や松平信綱は尾張藩が大軍を率いて江戸入りされれば、自分たちが敷いてきた幕政体制が壊れるのは必定だから、これを小田原で足止めさせて、義直に江戸入りをさせなかった。

 もう一つは、同じ年に行われた家光の大上洛の際に、家光はこの上洛で朝廷との関係がよくなったことを示すと同時に、幕府の権力の強大さを誇示したと言われるが、その帰路に当然寄るべきとされていた名古屋城を素通りしていった事件である。尾張藩としては彼のために造営した御成御殿がまったく無駄になり、その面目を全く無視された格好になり、尾張徳川家と将軍との間の亀裂がますます深まったと言われる。

 これらを背景にして、本書は、江戸幕府の権威確立を急いだ家光を中心にする幕閣の意を受けて暗躍する柳生宗矩が放つ隠密と、尾張藩の護衛を行う御深井衆(おふけしゅう)との間の暗闘などを盛り込みながら、2代将軍秀忠の死も、大御所政治を嫌って、権力を掌握するために家光の幕閣による毒殺ではないかという説を展開したりする。圧巻は、寛永13年(1636年)に家光が日光東照宮を造営して参詣した際に御三家が反逆して兵をあげ、一時は江戸城も占拠されたが、調停側の働きで和解し、その事件そのものが歴史から抹消されたという結末が記され、将軍家と御三家の軋轢が爆発したとされていることであろう。

 もちろん、そうした反逆事件が実際に起こったかどうかの歴史的確証はどこにもないが、将軍家と御三家の齟齬はこのあともずっと江戸幕府が倒れるまで続いている。御三家どうしも紀州の徳川吉宗が8代将軍になったときに、尾張と紀州の間に熾烈な争いが起こっている。

 なお、本書では成瀬正虎は高潔の人物で、強く将軍家光と幕閣に憤りを覚えていたとされているが、附家老という立場は微妙で、実際にはどちらにもとれる解釈が可能であろう。

 いずれにせよ、権力争いというのはどこにでもあるが、人は権力や力をもとうとすると、つまらぬことで争わなければならないと、本書を読みながら思っていた。力をもつことは、人の幸せとは無関係である。「力への意志」は、まことに愚かな結末を迎える。

2013年4月15日月曜日

小杉健治『ひとひらの恋 三人佐平次捕物帳』


 ようやく、今週あたりから春の暖かさを感じることができるらしくて、少しほっとしている。新年度が始まって少し慌ただしいのだが、やはり、春は「のどか」であるのがふさわしい。陽光ののどかさが、心を誘ってくれることを期待する。

 週末は、小杉健治『ひとひらの恋 三人佐平次捕物帳』(2010年 角川春樹事務所 時代小説文庫)を読んでいた。これは『三人佐平次捕物帳』というかなり長いしシリーズになっている作品の16作品目であるらしく、この作者も、この作品も初めて読むのだが、娯楽時代小説の流れの中にある作品で、文庫本カバーの作者紹介では推理作家としての作品が多く、「捕物帳」としての若干の推理性をもつ作品である。

 「三人佐平次」という表題は、作中で記されていることによれば、平助、次助、佐助という三人の兄弟で、それぞれの頭文字をとって一人の佐平次という理想の岡っ引きを作り出して、三人が協力して事件の解決にあたるというものである。

 北町奉行所定町廻り同心の井原伊十郎が、岡っ引きたちのあまりの無道さに業を煮やし、洞察力が鋭くて頭脳が明晰な平助と、巨体で豪腕の次助、美女と見間違えるほどの美貌の持ち主である佐助という兄弟に目をつけ、この三人で一人の佐平次という理想の岡っ引きを作り上げて、江戸の岡っ引きの向上を図り、その三人で一人の佐平次が次々と事件を解決していくというものである。

 三人の兄弟は、初めは佐助を女にして美人局を働いていたところを、井原伊十郎が目をつけて、老練な茂助という岡っ引きの下で修行をさせて、やがて茂助が引退して、彼らが岡っ引きの稼業を引き継いだのである。

 いわば、三人は人間の知力、体力、外見を代表するような人物で、佐平次はその三拍子が揃った理想の人間として活躍していくのだが、こういう設定は娯楽以外の何ものでもない設定であるから、初めから、あまり考えないで気楽に読むことを目的として書かれているように思える。

 本書には、この三人で一人の佐平次の他に、これも美貌で賢いの「お鶴」という女性が登場し、本書では彼女の心情が中心になるのだが、「お鶴」は、最初、佐平次にあまり活躍してもらっては困ることになる他の岡っ引きが佐平次を潰すために男装させて岡っ引きとして売り出した女性であったが、佐平次の魅力に虜になって、佐平次の手下として一緒に働くようになったのである。「お鶴」は、上州の地回りの親分の娘で、美貌、頭脳明晰に加えて武芸の心得もあるという、これまた、理想の女性になっている。「お鶴」は、佐平次の秘密(三人で一人の佐平次であるということ)に気がついているし、佐平次として表に出ている佐助が、実は気の弱い人間であることも知り、その佐助に惚れているのである。

 もう一人、佐平次に惚れている、これも美貌の芸者である「小染」という女性が登場し、佐平次との付き合いもあり、佐平次が実際は違う顔を持つ人間であることに気がついているが、その佐平次に惚れきっているのである。

 佐平次を巡る「お鶴」と「小染」のそれぞれの想いが本書で展開され、互いに相手を認めながらも嫉妬心に身を焦がしていく姿が描かれていく。

 本書で取り扱われる事件は、酒問屋の息子が水茶の女に惚れ込んで、店から金を持ち出しているのを何とかしてくれという酒問屋の番頭の訴えから始まるのだが、その水茶屋の女には別に惚れた男がおり、酒問屋の息子が持ち出す金はその男に流れているのである。ところが、その男が殺されるという事態が起こる。佐平次たちは、この事件に乗り出していくのである。また、その頃に、呉服屋の手代が店の金を盗んで行くへ不明になっている事件があって、佐平次たちはその手代も捜していた。

 事件そのものは、酒問屋の番頭と内儀が密通し、酒問屋の主人に毒を盛って病気にし、若旦那に男殺しの濡れ衣を着せて、店を乗っ取ろうとし、それに呉服屋の番頭も絡んで、また、金を盗んだ手代も犯人として濡れ衣を着せて殺していたというもので、大きな謎があるわけではなく、二つの事件が関連していくという結末になっている。

 それに「お鶴」と「小染」のそれぞれの恋心や佐平次の秘密などが絡み、いわば、女心が描き出されていくのである。佐平次こと佐助は、表の顔とは違ってなかなか煮え切らないのである。だが、やがて、「小染」は、「お鶴」の純粋さに負けて、佐平次が住む町から深川に移り、身を引いていく。「お鶴」は、その「小染」の気持ちを知りつつ、佐平次の下で働くのである。

 中心になる人物を理想的な美男美女として設定するというようなこういう作品には娯楽性以外のものを求めないので、これはこれで真に気楽に暇つぶしとして読める作品であるが、まあ、一言で言えば軽い。女性の嫉妬心も男から見た嫉妬心で、それも男にとって都合の良いような理想的なものとして描かれている。嫉妬する女の怖さというものがあるのだから、その怖さが描かれてもいいかもしれないと老婆心で思ったりもする。人間の嫉妬心というのは始末に負えないものの一つであるのだから。

2013年4月12日金曜日

宇江佐真理『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(3)


 なかなか暖かくならない日々が続いているが、そのせいか少し体調を壊しがちになっている。まあ、それでも向こう2週間分の仕事を今日のうちに片づけておこうとは思っている。

 さて、『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』(2010年 文藝春秋社)の第四話「春に候」は、龍之進の揺れる心を中心に物語が展開される。

 龍之進が通った手習所の師匠の息子である笠戸松太郎は、龍之進と同じ歳の友人だった。松太郎は頭の良い男で、やがて湯島学問所に入り、学問吟味も首席で合格し、ある大名家のお抱え儒者として、藩主や藩士に講義をする毎日を過ごしていたが、労咳(結核)を患い、実家に戻ってきていた。その藩の用人の娘を妻に迎える予定だったが、回復の見込みはないという。

 龍之進は松太郎を見舞いに行く。松太郎は、自分と婚約した娘が、いつも仏頂面をしているために縁談がなかった娘で、自分が死ねば娘がどうなるか気がかりだという。娘は何度も見舞いに来たが、松太郎の母親が会わせずに追い返した。なんとかその娘に会いたいと龍之進に訴えるのである。

 一方、茜は、道場主に新年の挨拶が遅れたとからかわれたことに腹をてて、「所詮、肝っ玉の小さい男なのだ。あれで道場主だというのだから笑ってしまう。ああ、気がくさくさして敵わぬ」と言いながら歩いているとき、伊三次の息子の伊与太と出会う。伊与太は正月休みで絵師の弟子入り先から帰ってきていたのである。伊与太は、なかなか一人前の絵師になれないことで悩んでいたし、自分の中途半端さで悩んでいた。それは、茜も同じだった。伊与太も茜も幼い頃からお互いをよく知っていた。

 そのとき、伊与太は不審な人物がいるのに気がついて、その似顔絵をさっと描いて、それを伊三次か龍之進に届けて欲しいと茜に渡す。伊与太は実家に帰って、母親のお文のありがたみがよくわかっているが、それをうまく言い表せないもどかしさも感じていたし、これからの行く末もなかなか見いだせないままに絵師のところに戻っていく。

 他方、龍之進は、昨年の秋から起こっている寺での盗難事件の探索に精を出しながらも、友人の松太郎の婚約者の娘と松太郎が会うことができるようにしていく。娘は、松太郎が病を得て婚約が破棄されたが、自分は納得がいかないと語る。龍之進はその娘に松太郎ときちんと話をつけて別れを言うように頼む。

 だが、娘が帰ったあと、松太郎は、娘がこれから誰のところにも嫁ぐ気はないと言ったと語り、自分が死んだ後に、その娘を嫁にもらってくれないかと龍之進に言い出すのである。「おぬしがうんと言ってくれたら、それがしは、もはやこの世に思い残すことはないだ」(210ページ)と言う。龍之進は、松太郎の病状を慮って、「しかと覚えておく」と返事をしてしまう。

 伊三次は寺の寺男から怪しげな人物がうろついているので力になって欲しいと相談され、一連の寺での強盗事件の関連から、友之進や龍之進らの同心と共に、狙われている寺を見張り、強盗団を一網打尽に捕縛する。その中には、伊与太が茜に渡した似顔絵の男も含まれていた。茜は、その似顔絵を龍之進には渡さずにいた。男の顔が誰であれ、それを描いたのが伊与太で、それを自分に宛てられた手紙として保存していたのである。茜は、普段はぶっきらぼうに男勝りの振る舞いをするが、そういう細やかなところもある娘だった。

 龍之進は松太郎から頼むと言われたことがひどく気になっていた。松太郎は少し落ち着いたようだし、許嫁だった娘も見舞いに通っている。だが、彼はその娘のことがひどく気になりだしていたのだった。

 第五話「てけてけ」は、龍之進の母親の「いなみ」の下で教育を受けていた「おゆう」も店の手代と祝言を挙げるという話から始まる。「いなみ」は龍之進の嫁のことを心配しているし、龍之進も三十近くにもなった男が独り身であるのは世間体が悪いということを気にしている。そんな中で、同心見習いの中で何かと問題を起こしている笹岡小平太という十三歳の少年を預かって面倒見てくれと頼まれる。龍之進が面倒を見なければ、小平太は奉行所の役人にふさわしくないということなって、見習いの取り消しになるかもしれないと言われてしまう。小平太の父の笹岡清十郎は五十五歳であり、しかも小平太は養子で、笹岡家が不幸になるのは目に見えているから、龍之進は小平太の家の事情を調べることを引き受けるようになる。小平太の実父は鳶職で、三年前の火事で屋根の下敷きになって死んでいた。

 龍之進は小平太の家に赴き、そこで、しっかりものだが天真爛漫な姉の「徳江」に会う。小平太が養子にもらわれる時に、姉と離れるのは嫌だと言うので、姉弟共々に笹岡家に引き取られたのだという。小平太の父親が死んでから、母親も女房持ちの男と駆け落ちし、姉弟は親戚中をたらい回しにされ、ようやく笹岡家に落ち着いたのだと「徳江」は言い、だから「どうぞ、小平太を放り出さないでくれ」と龍之進に頼む。「徳江」は十六歳になる娘で、龍之進はどこかで「徳江」の眼を見たような気がする。彼はこのまましばらく小平太の様子を見ることにしましょう、と言う。そこへ、小平太が剣術の稽古から戻り、姉の「徳江」のことを「てけてけ」と呼ぶ。「徳江」の元の名は「たけ」で、かけっこが得意で、みんなが「たけ、たけ」と呼ぶのを幼かった小平太が「てけてけ」と呼ぶようになり、それからずっと姉のことを「てけてけ」と呼んでいるのである。「てけ」は、また「てんけ(天気)」の転じた言葉で、呪文のように「てけてけ」と唱えるのは邪気祓いだそうである。龍之進はそれを教えられたりする。そして、小平太に、同じように町人から吟味方の同心になった友人の古川喜六の話をし、彼に、武士になる心構えを聞いてみよ、と勧める。

 そうしているうちに、労咳を患っていた友人の笠戸松太郎が死ぬ。松太郎が言い残したことが遂に現実のものとなってくるが、龍之進は迷い、茜に相談してみたりする。茜はきっぱりと「わたくしでしたら、亡くなった方とご縁のある人などはまっぴらです」と言い切るが、龍之進は迷い、かつては松太郎と幼馴染で初恋の相手であり、今は同僚の古川喜六の妻になっている芳江に相談する。芳江と松太郎は互いに魅かれながらも一緒になることができず、芳江に喜六との縁談が持ち上がると、芳江は松太郎と分かれて喜六と祝言を挙げ、今は三人の子の母となり倖せに暮らしている。喜六は芳江と松太郎のこともよく知っており、松太郎を慕っていた頃の芳江を否定するつもりもないし、二人で松太郎の弔問に訪れていた。芳江と喜六は仲の良い夫婦である。芳江は、龍之進の話を聞いて、自分も茜と同じように反対だと言う。そして、相手の女性に会って、その気持ちを聞いてみると言い、龍之進はその話を芳江に任せることにする。

 その帰り道、日本橋近辺で小火でもあったのか、龍之進は火事を知らせる半鐘の音を聞く。その側を小平太が走り抜け、それを徳江が追っている姿が目に飛び込んでくる。小平太は火事場での町火消の段取りの悪さに業を煮やして、何かを言い、それが燗に障った徳江から叱られていた。その兄弟喧嘩を見ていて、龍之進は少し鬱屈した気分が晴れるようで、「小平太も徳江さんが傍にいれば曲がることもないだろう」と言う。龍之進は、徳江の笑顔を見ていると心が温かくなるようなものを感じていくのだった。

 第六話「我らが胸の鼓動」は、「おゆう」の婚儀に「いなみ」が呼ばれるところから始まる。「いなみ」は「おゆう」を龍之進の妻にしたいと望んだが、「おゆう」の婚儀は豪商の大和屋らしく、贅を尽くしたものであり、その暮らしぶりは同心の暮らしとは比べ物にならないもので、「おゆう」は龍之進に想いを持っていたが、そのこともよく知っていて、大和屋のあと取り娘としての婚儀を選択したのである。「いなみ」にはそのことがよくわかった。「いなみ」は大和屋に「おゆう」の結婚の祝いの品を届けた帰り道、龍之進を待っている一人の娘を見つけ、誰だろうと思う。龍之進がそこへやってきて、娘はいかにも嬉しそうに龍之進に話しかけている。「いなみ」はなぜかその娘のことがひどく気になった。

 龍之進は、古川喜六から松太郎の婚約者だった娘が龍之進との結婚をきっぱりと断り、藩の家臣と結婚するという話を聞き、若干の意気消沈を覚える。

 他方、伊三次は、伊三次の家の女中をしている「おふさ」が、どうも不破家の中間の松助に気があるらしく、二人がうまくいくように取り計らってくれないかということを「いなみ」に頼みに来る。「いなみ」もまた、昨日見かけた徳江という天真爛漫な娘のことが気になっていると伊三次に告げて、伊三次はその娘の素性を調べてみるということになる。

 そのころ、八丁堀の町医者が瀬戸物屋の番頭に首を斬られるという事件が起こった。もともとその町医者と番頭は親しくつきあっており、その夜も将棋を指したりして変わった様子はなかったのに、突然の凶行が行われてしまったのである。書状が残されており、番頭が町医者に頼まれて店の金を用立てて、町医者がそれをなかなか返してくれないために、無理心中を図ったことがしたためられていた。龍之進はその事件の取り調べ中に、野次馬の中に徳江を見かけるが、その時、徳江の義母が徳江を「この、恥晒し」とひどく叱って、頬に平手打ちをする場面を見る。徳江は謝るが、義母は容赦しなかった。

 町医者の事件は心中を企てた番頭も三日後に死に、一件落着するのだが、徳江は行儀が悪いからと養家を追い出されていた。彼女は鳶職をしている伯父さんの家に追われていたのである。伯父さんの家は裏店で寝るところもなく、台所仕事や縫い物をしているが、そのうち女中奉公に出されるのではないかと、弟の小平太は言う。

 龍之進は徳江のことが気になり、様子を見に行く。徳江に最初に会った時に、以前どこかであったような、ひどく懐かしい気持ちがしていたのを思い起こす。徳江は龍之進が好きだったが、それも彼女が追い出された理由になっていた。

 行ってみると、徳江は裏店で洗濯をしていた。「小平太のこと、くれぐれもよろしくお願い致します。短い間でしたけど、不破様のお顔を朝晩見られて、あたしは・・・倖せでした」(303)と言う。そのとき、龍之進の中の何かがはじけて、「徳江さんは火消し人足に嫁入りしたいですか、それとも八丁堀の同心と一緒になりたいですか」と言う。年が離れているが、徳江を妻にすることを真剣に望んでいると言い出すのである。徳江はそれを聞くと鼻を啜って泣き、身の回りの品をまとめて、龍之進と共にその場から八丁堀へ向かうことにしたのである。龍之進は、心配するなという。徳江は、「不破様があたしの亭主になる人だと、最初からわかっていた」と言ったりする。家族の反応がどうなるかと案じながらも、二人は八丁堀への道を急ぐ。

 他方、伊三次がもちこんだ女中の「おふさ」と不破家の中間の松助との間もうまくいく。二人は小料理屋で初めて話をする。「いなみ」やお文の計らいがあったのである。不破家に龍之進が徳江を連れて行った夜である。不破家は大騒動で、徳江と同じ歳の妹の茜はその話を聞くと驚いて自分の部屋に入ってしまい、友之進はおたおたしていたが、「いなみ」はこうなることを予測していたようだったと、松助は料理屋で「おふさ」に話したりしていた。二人は自分のことをぼちぼち話し出し、やがて、曖昧宿へ行く。松助は「俺たちは時間がねえのよ」といい、「おふさ」は、松助が「俺たち」と言ってくれたことに安堵するのである。

 この物語はここで終わるが、不破家に当然のようにして入ってきた徳江が、おそらく、いくつかの問題を乗り越えながら生きていく姿や、茜と伊与太の成長、お吉の成長などがこのあとも展開されていくのだろう。何かを決断する前には当然悩みや不安が起こるし、決断すれば壁もできる。その壁から逃げ出す人間もいれば、何とかして壁を乗り越えようとする。だが、いつも大事なことは、自分の気持ちに真っ直ぐにあることだ。この作品の主人公たちは、そういう姿を示していくのである。

 『髪結い伊三次捕物余話』のシリーズも、本当に円熟味のある作品になってきたと、本書を読みながらつくづく思った。構成も展開も、文章も素晴らしいし、何より作品全体の独特の温かさがいい。宇江佐真理の作品は、どれもいい作品だと思っている。