2014年6月30日月曜日

梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(1)

 寒冷前線が伸びて梅雨の真っただ中という感じがしている。昨日、東京の一部では洪水のような大雨になったと報道された。今のところこちらでは雨の被害は出ていないが、熊本の梅雨は湿度が高く、肉体的な疲労感が増す気がする。もっとも、生来ののんびり屋で怠け者である者が分単位でスケジュールに追われる生活をしているのだから、どこかに精神と肉体の齟齬を感じるのは当然のことではあるだろう。

 それでも先日、本屋を覗いていたら梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(2013年 実業之日本社)を見つけ、この作者の作品は本当にいいと思っているので、買ってきて読んだ。本作も力みのない自然体で、文章も展開も無理がなく、しかも歴史的実証もしっかり踏まえられ、描かれる登場人物たちも味わいのある作品が多く、作品の完成度が増した作品だった。

 主人公は、水野忠邦が行った天保の改革(1838ごろ-1843年)のころに北町奉行所の同心として働く澤本神人(さわもと じんにん)という少し風変わりな人物で、彼は当時の北町奉行遠山左衛門尉景元の下で定町廻りをし、次いで隠密廻りをして、遠山景元と同じように名奉行と謳われた矢部謙定を失脚させて南町奉行となった鳥居耀蔵の下にいないことを喜んでいたが、二代後の北町奉行として就任した鍋島内匠頭直孝の時、その初対面で、お前は顔が濃いいいから変装が必要な隠密廻りには向かないと断定され、諸色取調掛(物の値段や物価の動静を調べる役)に回された変り種である。

 時は、その天保の改革が失敗し、水野忠邦が蟄居を命じられて鳥居耀蔵が四国の丸亀藩に預けられ、世間が一息入れはじめたころである。澤本神人は、多代という七歳になる妹の娘と飯炊きのおふくとの三人で暮らしていた。多代の母は、子ができないということで離縁されたが、その時には多代を身ごもっており、多代を産み落とすと死んでしまった。今わの際に「この子をお頼み申します、兄上」と言われ、それ以来男手ひとつで多代を育て、自らはついに婚期を逃してしまっていた。多代は、少女ながらにしっかり者として育っていた。彼には、いつも腹をすかし、腹をすかすと不機嫌になる庄太という小者がつけられていた。庄太は、見た目のぼんやりさとは裏腹に算術が得意で、諸色調べにはもってこいの小者で、町名主が雇ってかれにつけたものである。この庄太が、また、一味もふた味も出して物語の雰囲気を丸く醸す出す役を果たしている。

 澤本神人の思いは常に「物事はなるようになる」というもので、自然体で生きるというのが彼の信条だった。だから、すべてを円満に受け入れる人生を送っていた。

 その彼が、町名主の丸屋勘兵衛に料理屋に招かれての帰りに、両国橋の袂の稲荷鮓の屋台に立ち寄るところから物語が始まっていく。その稲荷鮓屋は、何故か狐の面をかぶり、聞くと顔にやけどの跡があるために、狐と稲荷をかけて、その面をかぶっているのだという。これが第一話「雪花菜」の伏線となっていく。

 その頃、澤本神人のところに味噌醤油問屋の主から隠居している父親が廻りの小間物屋から法外な値段で物を売りつけられたらしいから調べてほしいとの依頼がなされる。調べてみると偽の鼈甲の櫛を十両もの値段で買わされ、当人は十両出しては悪いかと開き直っているらしい。廻りの小間物屋とは十七歳になる娘で、隠居はその娘に入れあげていると息子は言う。そこで隠宅に出かけてみると、その隠居は死んでいた。澤本神人は殺人ではないかと疑うが、牧という定町廻りの小者の辰吉というのが横柄にも、その隠居の死は事故死であると断定する。諸色調掛の澤本神人には、その隠居の死についてとやかく言うことはできないが、隠居が承知の上で十七歳の娘に十両を出したことは別にしても、偽の鼈甲が売られていたことについては調べてみることにする。

 隠宅の女中の話から、偽の鼈甲を売りつけた小間物屋の十七歳になる娘はすぐにわかった。「おもと」という娘で、定町廻り同心の小者の辰吉がその娘に言い寄っていたこともわかる。「おもと」は、器量よしで気立てのいい真面目な娘だった。澤本神人が隠宅で殺人の証拠を見つけていたとき、隠居が死んだことを知らない「おもと」がいつものようにやってきた。それで、澤本神人は、偽の鼈甲の櫛のことを「おもと」に尋ねる。

 「おもと」は、その鼈甲の櫛が母親の形見だったと言う。「おもと」の父親は腕のいい豆腐屋だったが、人に騙されて借金を抱え、荒んで暴力も振るうようになり、大きな仕事が舞い込んだと言ってふっといなくなったと語る。それでも、「おもと」の母親は夫の帰りを待ち、幸せだったころに初めて買ってもらった偽の鼈甲の櫛を大事にし、それを髪にさして風邪をこじらせて死んでいった。そして、「おもと」は、母親がしていた廻りの駒物売りをして生計を立て、味噌醤油問屋の隠居と出会ったという。

 偽の鼈甲の櫛については、「おもと」はそれが偽物であると知っていたし、それを買った隠居も十分に承知していたが、隠居はそれでもそれが本物だと言い張って十両で買ったのだという。

 「おもと」の父親に関しては、もう一つ、両国広小路の芝居小屋が崩れた時に、その縄を切ったのが荒んでいた「おもと」の父親であると役人に決めつけられて、しつこいくらいに「おもと」と母親が住む長屋に押しかけ、それで「おもと」と母親は引越しを余儀なくされたのだと言う。

 そして、自分が隠居を殺していないという証を立てるものとして、隠居が亡くなった時刻に、両国橋袂の狐の稲荷鮓屋に稲荷鮓を買ったという。その鮓屋が売る稲荷鮓は、中がご飯ではなくおからで、以前の飢饉の時に豆腐屋であった「おもと」の家ではおからばかり食べていたが、おからは「雪花菜」とも書いて「きらず」と読み、家族の縁は「切らず」だと言っていたころの家の味が、あのおからの稲荷鮓にすると「おもと」は泣きながら言うのである。

 そのことでぴんときた澤本神人は、狐の稲荷鮓屋に行き、彼が「おもと」の父親であることを暴き、「ここの稲荷鮓屋のおからは一番、幸せだった頃の味がする」と「おもと」が言っていたと告げて、彼に反省を促す。そして、両国広小路の芝居小屋の綱を切ったのが「おもと」の父親でなく、鳥居耀蔵の意を受けて手柄を上げようとした南町の定町廻り同心と手先の辰吉であったことが判明する。また、「おもと」を自分のものにしようとした辰吉が味噌醤油問屋の隠居から意見されてかっとなった辰吉が隠居を殺したことが判明する。

 こうして、一件が落着して、狐の稲荷鮓屋には狐の面をかぶった娘が手伝うようになり、両国広小路の名物になっていくという幸いで第一話が終わる。

 この物語には、人の回復や親子の絆、人の情というのが柔らかく埋め込まれていて、それが「なるようになる」という主人公の口癖によって展開されていく。人間というのは、ある意味で極めて単純な生き物ではあるが、その単純さが折り重ねられて彩られて、「情話」を造る。これはそのような「情話」である。第二話以降は、また次回に記す。


2014年6月23日月曜日

三谷幸喜『清州会議』

 梅雨の重い曇り空が広がっている。こんな日はどことなく気分もすっきりせず、「ブルー・マンディー」の感がある。先週は週末に休みを取ることができなかったので、疲れも溜まっているのかもしれない。今日は早めに帰って、ゆっくりお風呂に入ろうかと思ったりもする。

 先日、映画で抱腹絶倒の面白さを見せたという三谷幸喜『清州会議』(2012年 幻冬舎 2013年 幻冬舎文庫)を楽しく読んだ。

 清州会議そのものは、天正10年(1582年)に尾張の清州城で織田家の後継者と遺領の配分を決めるために織田家の宿老(重臣)たちによって開かれた会議で、この会議によって、織田信長を討った明智光秀を山崎の戦で破った羽柴秀吉(豊臣秀吉)が後の天下取りへと台頭していく道を開いたと言える。

 本書は、その清州会議に集まった柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興、それに信長の後継者候補となって争った信長の次男の信雄、三男の信孝(神戸家に養子に入っていたので神戸信孝)、そして、信長の妹で絶世の美女と言われた「お市の方」や秀吉の妻の「寧々」、関東に出陣していたために会議に参加できなかった滝川一益、あるいはまた秀吉の軍師としての黒田官兵衛などが、それぞれにデファオルメされ、独白を語るという形で物語が展開されている。

 しかも、その独白も「現代語訳」という形で、現代の話し言葉を採用することで滑稽味を増すセリフとして記されており、それぞれの人物像によって言葉使いが変わり、会議に臨む本心が露吐されるという姿がとられて、微妙な心理の揺れが面白く描き出されている。

 会議は、信長の家臣団の中でも筆頭であった柴田勝家が、わずか10日の間に主君の仇を討って台頭してきた羽柴秀吉を抑え込むためのものでもあり、資質的に信長の後継としてふさわしいと思われた三男の信孝を推挙し、それに対抗するために羽柴秀吉が、最初は次男の信雄を推挙していたが、あまりに愚かで、最後に、信長が家督を既に長男の信忠に譲っていたことと、その信忠が本能寺の変で死んだことにより、信忠の子である三歳になる三法師(秀信)が継ぐのが正統であることを主張し、結局、その長子相続の筋目を通すことに賛同した丹羽長秀の寝返り(丹羽秀長は柴田勝家の盟友だった)などによって、結局、羽柴秀吉の主張が通る形で決着する。

 本書では、そこに「お市の方」の思惑なども絡まり、「お市の方」は、やがて柴田勝家に嫁ぐことになるが、そこに秀吉の色恋も絡んで、人物像が膨らませてある。また、何もかも承知の上で黒田官兵衛が助言をしたリする展開にもなっている。

 清州会議は織田家の後継者を決めるだけでなく、信長や明智光秀の遺領の配分を巡っても協議が行われるが、そこでも、相手の思惑を取り入れたようで、結局は天下を手中にしようとする秀吉の巧みな策略の勝利となっていく。

 歴史的には、柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、その年の終わり(1582年末)に「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で争うことになり、翌1583年に秀吉の勝利となって、柴田勝家と妻となった「お市の方」は自害に追い込まれる。

 いずれにしても、清州会議というものをこれほど巧みな心理劇として描いたのは作者が初めてではないかと思う。もともと三谷幸喜は面白い脚本を書く人だったが、小説として、それを独白(モノローグ)の展開として描くところに着目点と技法のうまさを感じる。楽しめた作品であった。

2014年6月13日金曜日

清水義範『会津春秋』(2)

 梅雨の晴れ間となったが、蒸し暑い。でも、なかなか乾かなかった洗濯物がこれで一気に乾いてくれるだろう。だが、早いもので、こちらではもう紫陽花の季節が終わろうとしている。コブシの花が甘い香りを漂わせて清楚な装いを見せてくれている。今年はエルニーニョ現象が起こる気配があるとかで、梅雨が長引くかもしれない。ある人に誘われて夜の散歩に出ることにしているが、雨が降り続くと散歩もお休みになり、大いに残念な気がする。だが雨の風情も、大きな被害が出なければ、いいものである。

 さて、清水義範『会津春秋』(2012年 集英社文庫)の続きであるが、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪からやっとのことで江戸に帰った会津藩士の秋月新之助は、会津藩江戸屋敷で商人に身をやつして江戸の様子を探っていた橋口八郎太と出会う。八郎太は、敵味方に分かれた藩どうしであるが友情は別だと言い切って新之助に会いに来たのである。そして、新政府軍と幕府軍の交戦は避けられず、会津が新政府軍と交戦するとき、相手が薩摩なのか長州なのかで事情が変わってくる。長州は積年の恨みを会津に抱いていると言う。新之助はそのことを心に留めていく。

 やがて、江戸の会津藩士はすべて会津に帰り、秋月新之助も六年ぶりで自分の家に帰る。彼には「お栄」という妻と二人の子どもがいた。「お栄」は、新之助が惚れた「お咲」が安政の大地震で死んだあとで娶った妻であるが、利発で、自分はどんなことがあっても子どもたちのために生きのびようと思っていると語る。それを聞いて、新之助は、自分も精一杯生きようと努力すると語り合ったりする。

 他方、江戸にいる橋口八郎太は、勝麟太郎(海舟)の家に出入りするようになっていた。江戸惑乱作戦のために西郷隆盛から命じられて江戸で騒ぎを起こした者たちが庄内藩兵を主力とする幕府兵に捕縛され、幕府の軍事取扱役となっていた勝海舟に預けられていたのを探るために出かけて行った時に勝海舟と出会い、その魅力に引き込まれていったのである。勝海舟は山岡鉄舟を西郷隆盛のところに使いにやる手助けを橋口八郎太に頼み、こうして山岡鉄舟が西郷に会って、江戸城引き渡しのための勝海舟と西郷隆盛の会談を整えるのである。こうして江戸城は無血開城されることになった。

 だが、その年、慶応4年は9月から明治元年となるが、会津は戦火に包まれていく。会津は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗するが、列藩同盟の諸国が次々と敗れていく中で、ついに新政府軍に取り囲まれて単独での戦火の火ぶたが切られることになる。会津戦争は、会津の人々にとって過酷で悲惨な結末となる。会津鶴ヶ城に籠城した人々はよく戦ったが、ついに白旗を掲げ、藩主の容保親子は謹慎となり、城内の会津藩士は米沢藩の預かりとなった。その時、秋月新之助と橋口八郎太は、互いに生きていることを確認したが、友は勝者と敗者に分かれる宿命にあったのである。

 翌年、明治2年(1869年)、多くの旧会津藩士は東京に送られ過酷を究める捕虜生活を強いられるが、6月に版籍奉還が行われたが、陸奥南部藩の一角に三万石を与えられて斗南藩の再興をゆるされる。だが、斗南藩での生活も過酷を究めた。ほとんどが激寒地での開拓に従事したが、作物はほとんど採れなかった。秋月新之助も家族を連れて斗南藩の開拓民としての生活を始めていく。しかし、絶えず耐え難い空腹に襲われ、寒さに震えなければならなかった。そして、翌年の7月に廃藩置県が発布されるに及んで、秋月新之助は家族を連れて東京に出ることを決心する。

 だが、東京で新しい生活の手段のあてがあるわけではなかった。会津に残していた自宅を処分した金もすぐに底をついてきた。幸い、「お栄」の裁縫の腕が買われ、越後屋呉服店(後の三越)からの仕事の依頼を受けるようになっていく。しかし、それでも家族四人が細々と食べるのに精いっぱいで、長男の教育にまで手が回らない状態だった。秋月新之助が習得していたオランダ語はもはや役に立たず、「お咲」の兄が営む私塾を訪ねてみても、英語が必要な時代になったと言われた。しかし、その私塾に息子の教育だけは頼むことができた。こうして日々を過ごしているうちに、秋月新之助は、偶然、陸軍大尉となっている橋口八郎太と出会うのである。そして、橋口の勧めで邏卒(巡査)の職に就くことができ、こうして秋月新之助は新しくできた警察の邏卒として働いていく。橋口との交流も再開される。東京は日ごとに代わり、世の中の流れも堰を切ったように変わっていった。だが、秋月新之助と橋口八郎太との友情は変わらずにもたれていた。

 しかし、明治6年(1873年)、西郷隆盛が突然政界から身を引いて鹿児島に帰ってしまった。表面的には征韓論争に敗れた形だった。西郷に心酔していた橋口八郎太も西郷に従って鹿児島に帰って行った。そして、西南戦争が勃発した。国内最後の内戦ともいえる。明治政府は総力を結集して西郷を潰しにかかり、警視庁の邏卒も西南戦争に駆り出されて、秋月新之助も田原坂の戦いに駆り出される。そして、その戦の前日、秋月新之助は薩摩兵として戦っている橋口八郎太と会い、最後の別れをする。新之助は銃弾に倒れた八郎太の遺体を発見する。こうして、彼らの地上の友情は終わったが、新之助は、あいつの分も生きようと思って帰京していくのである。

 作者は「あとがき」の中で、「(会津史という悲惨な歴史の中で、さらりと、しかも逞しく生きていく主人公)そんな、ぼんやりした主人公を書くことができて、こういう会津史もあってもいいだろう」(本書378ページ)と記しているが、幕末史を全般的になぞって、その中で主人公を生き生きと活かし、しかも、敵同士の友情を描いており、史的資料の裏付けもしっかりしているだけになかなかの作品になっている。文章も、切れがあって読みやすい。ただ、日本史の書物を読むようなところもあり、これで情景描写がもう少しあるということはないが、幕末の激動を追うだけでも大変な分量になるのだから、やむを得ないことかもしれないと思う。

2014年6月5日木曜日

清水義範『会津春秋』(1)

 例年になく暑い夏日が続いた後で、少し早く梅雨入りし、雨模様の湿度の高い日々になている。熊本は思った以上に湿度が高い。だが、紫陽花が鮮やかに咲いて清涼感を醸し出してくれている。雨にぬれるグランドを高校生たちが駆け抜けていく。

 先日来、清水義範『会津春秋』(2012年 集英社文庫)を読んでいた。これは2009年から2011年にかけて『小説すばる』で『会津の月、薩摩の星』と題されて発表されたものに加筆、修正がくわえられて、改題されて出されたと奥付に記されており、元の表題が示す通り、会津と薩摩という幕末の激動した藩の中で生きる二人の人間の藩という枠を超えた友情を著わしたものである。特徴的なことは、徳川親藩として辛苦をなめた会津藩に生きる青年と、雄藩として維新を起こすものの西南戦争で敗れていく薩摩藩士の姿を描き、その二人が友人であるという、これまでの幕末を題材にとった小説の中では描かれなかったような人物設定がされている点である。

 主人公の一人である秋月新之助は、12歳の時に会津藩の世嗣となった松平容保の近習となり、藩命によって西洋砲術を学ぶために佐久間象山の塾に入塾し、習ったことを容保に伝えるという役を仰せつかった。彼は、おっとりとした性格で、剣術の腕はないが、あまり拘りのない素朴さを持ち合わせた人物だった。そして、その象山の塾で、砲術に必要な算術(詳証術)には頭を抱える状態であったが、様々な有為の青年たちと出会うのである。

 実際、佐久間象山の塾には、実に多種多彩な人物たちが集まっていた。長州の吉田寅次郎(松陰)、福井の橋本左内、越後長岡の河井継之助などがいたし、後には坂本竜馬も籍を置いていた。それらの人々の中で、自分と同じように算術(詳証術)が苦手である薩摩藩の橋口八郎太という青年と出会う。この橋口八郎太がもう一人の主人公となる人物である。

 橋口八郎太は、世に名君と謳われた島津斉彬の配下の者で、斉彬を信奉し、同じように西洋砲術を学ぶために佐久間象山の塾に入塾していた者だった。体つきもがっしりし、示現流の相当な遣い手でもあった。象山が行った大砲の試射で、この橋口八郎太が怪我をし、秋月新之助が彼を見舞ったことが縁で、二人の間に友情が芽生えていくのである。

 やがて象山の塾で、雑用をして手伝い仕事をしていた「お咲」という娘に二人とも惚れてしまう。「お咲」は、塾頭の一人の妹で、数学が好きで、数学を学びたいと思って下働きを志願してきた女性だった。そして、数学が苦手な秋月新之助に数学の手ほどきをし、砲弾の軌道を計算する二次方程式(放物線)の理屈を教えたりするのである。新之助はその利発さに目を見張り、彼女に惚れていく。だが、友人となった橋口八郎太も「お咲」に惚れ、そのことを先に新之助に打ち明ける。新之助は友情と恋の板挟みに悩んだりするし、数学がだめだからオランダ語の習得に熱心になったりする。そんな青春期を過ごしていくのである。

 そして、嘉永6年(1853年)、ペリーが米国艦隊を率いて浦賀沖にやってきて、時流は大きく流れ始める。会津藩も浦賀に警護に派兵されるが、新之助は、手持ちの槍や刀でどうして黒船に立ち向かえるだろうと疑念に思ったりする。だが、ペリーはいったん帰国し、次の年の一月に七隻の艦隊を率いて江戸湾に再来し、三月に日米和親条約を結ばされてしまう。かくして日本の鎖国政策は終わるが、象山門下生の吉田寅次郎(松陰)の密出国の事件が発覚し、象山も咎めを受け、象山塾も閉じわれることとなる。新之助は「お咲」に自分の恋心を伝え、橋口八郎太との友情から彼も「お咲」に惚れていることを告げ、「お咲」にどちらを選ぶかを任せることにする。橋口八郎太は西郷隆盛に心酔し、西郷隆盛の意を受けて活動を開始していた。

 だが、不幸にも、そこに安政の大地震が起こり、「お咲」はその地震で命を落としてしまう。そうしているうちに疾風怒濤の時代の嵐が吹き荒れていった。尊王攘夷の熱波の中で、京都では暗殺が横行した。文久2年(1862年)、会津藩主松平容保は、京都の治安維持のために設けられた京都守護職を無理やり押しつけられ、会津藩士約千名が入京し、容保の近習であった秋月新之助も藩主に従って京都へ入り、公用局という新設の役務の末席に籍を置くことになった。そして、西郷隆盛の意で動いていた橋口八郎太と再会する。

 薩摩藩でも、英明の誉れが高かった島津斉彬が没し、藩の実権を斉彬の母違いの弟の島津久光が握り、安政の大獄後に事情が一変し、西郷隆盛は久光の激怒をかって囚人となり、藩の過激分子を一掃するということで「寺田屋事件」が起こっていた。また、8月(現:9月)には神奈川の生麦村でイギリス人商人たちを殺傷するという事件も起こしていた。橋口八郎太はそういう薩摩藩の激流の中にいた。会津の秋月新之助と薩摩の橋口八郎太は、そうしたそれぞれの藩の状況を屈託なく語り合うし、政治的な状況が二人の友情に影を挟むこともなかった。

 会津藩の傘下に置かれた新撰組の活動も活発化してきたし、当時の江戸幕府がとろうとしていた公武合体策に対する反幕府の旗印を長州が強くして来ていた。そして、薩摩は会津と手を結び、台頭してきた長州勢力の一掃を図るようになっていく。かくして京都の長州勢力とそれに加担していた尊攘派の七人の公家が京都から追い出されるという事件が起こり(七卿落ち)、やがてはそれが長州による京都襲撃の「蛤御門の変」(禁門の変)へと繋がっていく。

 そうした状況下で、島原の料亭で飲んでいた秋月新之助と橋口八郎太のところに、新撰組に追われた坂本竜馬が逃げ込んでくるという設定で、坂本竜馬の姿が、この二人の立場を通して描かれるようになる。竜馬の人を惹きつける魅力に二人とも捕らえられたりするのである。また、新撰組の中でも暴虐無人の振る舞いをしていた芹沢鴨の粛清があったりする。そんな中で、秋月新之助は、時局の対応に疲労し健康を害していた藩主の松平容保の心情の聞き役として仕えたりしていく。

 文久4年(1864年)、元号が元治に改まり、公武合体策を行うために組織された朝議が、各大名の身勝手さで空中分解した後、密かに京都襲撃を企んでいた長州藩士を中心にした浪士たちが新撰組によって惨殺・捕縛されるという「池田屋事件」が勃発し、次いで、秋月新之助と橋口八郎太の師であった佐久間象山が暗殺された。そして長州兵による「蛤御門の変」が勃発する。このとき、薩摩と会津は共同して御所を護る戦いに出て、秋月新之助も橋口八郎太も共に戦う。

 だが、事態はそれから大きく動いていく。第一次長州征伐が行われたころから、幕府の弱体化は隠しようもなくなり、坂本竜馬の働きによって長州と薩摩が手を結んでいくのである。そして、徳川家茂が病没し、孝明天皇が没して、ついに、徳川慶喜によって大政奉還が起こる。そして、大政奉還を建策した坂本竜馬が暗殺された。そして、会津藩は御所から追放され、徳川慶喜は二条城から大阪城へと逃げて行った。どこまでも将軍家を護る宿命を負った会津藩は、やむを得ず慶喜が逃げた大阪城へと移動する。秋月新之助も大阪へと向かう。その時、新之助は薩摩がどうでも将軍家を潰すつもりでいることを橋口八郎太からの手紙で知らされていた。だが、どうにもならず、ついに慶応4年(1968年)の正月に鳥羽伏見の戦いが始まってしまう。そしてこの時、またしても将軍徳川慶喜は、松平容保らを引き連れて密かに船で大阪から脱出し、江戸へ逃げるのである。鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍は朝敵の賊軍になり、置き去りにされた幕府軍の兵たちはさんざんの苦労をしながら江戸へと落ち延びていくのである。秋月新之助も苦労を重ねて江戸の会津藩邸へと戻っていく。

 ここから、悲惨を究めた会津戦争を経て、会津の秋月新之助と薩摩の橋口八郎太の人生は大きく変転し、やがて運命のいたずらとも思える道を歩むことになり、物語は佳境に入っていくが、そのことについてはまた次回に記すことにしたい。

 なかなかこれを書く時間も取れなくなっているが、折々にでも読書ノートとして記し続けたいとは思っている。