2014年4月25日金曜日

内田康夫『地の日 天の海』

 よく晴れて、新緑が鮮やかに映える碧空が広がっている。風邪の咳がなかなか抜けないでいるが、風薫る季節になりつつある。来週は、月曜日から木曜日まで東京で会議で、木曜日の最終便で帰宅して、金曜の早朝から仕事という過密な日程が続く。その代わりに数十年ぶりで五月の連休を迎えられることになる。温泉にでも行こうかと思ったりもする。

 それはさておき、先日、内田康夫『地の日 天の海』(2008年 角川書店)を、推理小説を主眼とする作者にしては珍しい歴史時代小説だと思い、よく知られている『太閤記』に資料を取りつつも独自の歴史解釈が推理されている点が作者らしいといえば作者らしいと思いつつ読んだ。作者は、江戸初期に徳川家康の政策顧問として、文字通り江戸幕府の礎を築いた「天海」(1536?-1643年)の姿を中心にして戦国史を捉え直したいという意図があったのかもしれない。しかし、「随風」と名乗った若き日の「天海」をほんの少し描くだけで、ほとんどが戦国史の再解釈に費やされ、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉といった人物をめぐる人物たちとその行動の背景を探る筆運びになっている。また、「天海」の実像が歴史的にはっきりしている江戸初期の家康との関係は最後に少し触れられるだけで、「天海」を描くものとしては、未完に終わっている気がしないでもない。

 しかし、実際、「天海」が戦国時代を生き抜いて大僧正という高僧の身分で家康の側近となったことは紛れもないことではあるが、「天海」の出自も、「随風」と名乗った若いころのことにしても、ほとんど不明で、謎の多い人物であることに変わりがないから、後は作者の想像力に頼るしかなく、その点では、例えば、「天海」が会津芦名家の重臣の舟木家に生まれつつも足利将軍のご落胤で、最後の足利将軍となった足利義昭の腹違いの兄弟という説を巧みに取り入れたり、明智光秀との交流などを取り入れたりして、伝承を巧みに活かしていると言える。

 本作では、その他にも仮説として、豊臣秀吉が商人(諸国を歩いて針を売る商人)の出であったがゆえに、合理性に富んだ思考力を持っていたとか、光秀の妹が信長の側室であったがゆえに信長が光秀を重用した(もちろん、光秀自身の才覚を信長は認めていたが)とか、本能寺の変の背後には、足利義昭の画策があったといったような説が巧みに取り入れられている。

 もちろん、いくつかの通説、たとえば、若いころの信長の「うつけ」ぶりが計算の上での行動であったとか、「天下布武」がそれまでの日本の国体を全く変えるようなものであったとか、反信長勢力が足利義昭の画策であり、光秀もその画策に踊らされたとか、あるいは秀吉の行動などにまつわる通説などが取り入れられているし、史的事実もきちんと踏まえられている。

また、「随風(天海)」が純粋に戦を嫌い、殺戮を嫌うがゆえに僧となり、その苦悩を背負っていたという姿も描かれている。戦の参謀でもある陣僧としての「天海」の姿は、きわめて純化されたものになっている。「天海」が学僧としても人格的にも優れた人物であったことが前提となって本書が展開され、こうした事柄は、歴史の検証としては少し物足りなさを感じるのだが、読み物としては面白く読める。

それにしても改めて、織田信長という人間は、それまでの日本社会の根底を覆すような極めて特異な人間であったと思う。光秀にしろ、秀吉にしろ、そして家康にしろ、信長の周りを回る衛星のように映り、作者が用いる「日輪」という言葉が指す人物が時代とともに変わってはいくが、ある意味では信長の影響下での変化といえなくもない。

「天海」は怪僧として描かれることも多いのだが、本書では、高尚な精神を持ち、学問を究め、人格者としても多くの人々から尊敬を受けていたことが記されている。信長、秀吉、家康という三代にわたる覇者たちの姿を彼との関わりの中で描くことで、当時の人々の思想傾向などを浮き彫りにしようという姿勢があって、それが本書の根幹になっている。

歴史小説の中でも、戦国武将物はどちらかといえばあまり好きではないが、それでも本書は面白く読めた。

2014年4月21日月曜日

野口卓『飛翔 軍鶏侍』(2)

 雨模様の寒い月曜日なった。昨日は、よほど疲れがたまっていたのか、風邪気味でもあって午後から夕方まで眠ってしまい、ほぼ何もしない日曜日になった。このところ本を読む気力もわかないほど疲れていたので、まさに「休日」となってしまった。こういう疲れも、なんだか久しぶりのような気がしている。

 さて、野口卓『飛翔 軍鶏侍』(2012年 祥伝社文庫)の第三話「巣立ち」であるが、大村圭二郎の父は、公金横領の罪を着て腹を斬り、大村家は家禄を減らされて濠外の組屋敷に移されていた。自死したのは大目付の林甚五兵衛の屋敷の庭先だった。その父親の死について、当時、小目付として林甚五兵衛の下で働いていた綾部善之助が病を得た死の床で、圭二郎の兄に、父親は自死ではなく、林甚五兵衛によって斬り殺されたのであり、公金を横領していたのが林甚五兵衛であったという真相が告げられるのである。林甚五兵衛は、圭二郎の母の芙蓉に懸想して、横恋慕もしていたが、芙蓉がそれを受け入れるわけがなく、その逆恨みもあったと語る。だが、源太夫も絡んだ藩の政変が起こり、林甚五兵衛は隠居させられ、家禄も減らされた。しかし、林は今もなおかくしゃくとしており、剣の腕も相当に立った。

 そこのことを知った圭二郎の兄の嘉一郎は、激情型の弟に真相を告げることを逡巡した。圭二郎の暴走を恐れたのである。嘉一郎には、貧しい家でも嫁に来てくれるといった「和」という婚約者がいたが、圭二郎が暴走するとその結婚も危ぶまれることになる。だが、母の芙蓉は既にその真相を察していたし、圭二郎にもそれが告げられた。そして、くれぐれも短慮にはやるのではなく、まず、林甚五兵衛に勝つだけの腕を磨くように圭二郎を諭す。そして、その日から圭二郎の様子が変わった。父の無念を晴らすことが圭二郎の目標になった。彼は、そして以前より稽古熱心だったが、さらに拍車をかけたように稽古に邁進しはじめたのである。

 その変化を師である源太夫が見逃すはずがない。源太夫は兄の嘉一郎から事の真相を聞きだし、なんとか藩の仇討免状をとり、圭二郎に仇を討たせたいと思い始める。そして、友人で中老をしている芦原讃岐に相談するが、真相の証拠がないので難しいとの返事であった。源太夫は圭二郎を道場に住みこませて腕を磨かせることにし、圭二郎もそんな源太夫の気持ちをくみ取って、早朝の掃除なども含めてさらに稽古に励んでいく。

 他方、源太夫自身は、「闘わずして勝つ」ことに向けて自分を向上させることへと向かっていたが、彼に闘いを挑む新たな人物が出現する。川萩伝三郎という浪人で、彼は、かつて旗本の秋山勢右衛門(二代目)から刺客として送り込まれた馬庭念流の使い手の霜八川刻斎を倒すことを目標にしていたが、その霜八川刻斎が源太夫にあっさり破れたことを知り、源太夫に勝負を挑んできたのである。彼は源太夫の秘剣「蹴殺し」と闘うことを願う。源太夫は川萩の申し出を受けて、彼と闘うことになる。そして、「蹴殺し」を使って源太夫は川萩を破る。それから次々に源太夫に挑戦してくる者が現れるが、源太夫はことごとくこれを退け、「蹴殺し」の多様な技を使う。それは、彼が秘剣を超えたところの技をすべて「蹴殺し」と呼ぶことを弟子たちに示すためであった。そして、彼は大村圭二郎に「蹴殺し」が生まれた経過を語って聞かせる。

 そのころ、源太夫から相談を受けた中老の芦原讃岐も、圭二郎の父親の冤罪の証拠を探し出そうとしていたし、圭二郎の兄の嘉一郎の縁談話も進んでいた。嘉一郎は仇討のことがあるので自分の縁談話を逡巡していたが、母親の芙蓉は、「和」が嘉一郎と苦労を共にしたいと言っているのを聞いて、それで十分だと、その話を進めるように言う。そして、嘉一郎と和の婚儀が整うし、芦原讃岐の働きによって藩主から仇討免許状も出ることになる。和は「己を知る」よくできた嫁で、自分は字を知らないから教えてほしいと義母の芙蓉に頼んだりする素直で働き者であった。そして、圭二郎と嘉一郎は見事に父親の無念を晴らすのである。こうして大村家の家禄も元に戻されることになったばかりか、圭二郎に分家を立てることもゆるされるようになる。だが、大村圭二郎は出家すると言い出す。彼は彼なりに人生と人間を考え、そのような結論に達したのである。だから、源太夫は、圭二郎の剣の腕を惜しみつつも、彼を碁仲間の正願寺の恵海和尚に託すことにする。こうして圭二郎は僧としての修業を重ね、得度をして恵山という僧名を持つ者となるところで終わる。

 父親の無念を晴らす仇討ということを通して、一人の若者が精神的に大きく成長していく姿を描いているのだが、それと同時に、師である主人公の源太夫も、そして、それを読む読者をも精神的に大きくしていくような展開が意図されている気がする。第四作目が楽しみではある。

2014年4月19日土曜日

野口卓『飛翔 軍鶏侍』(1)

 優しく咲き乱れた桜が散って、季節は、心を穏やかに落ち着かせる葉桜の季節に向かおうとしている。窓から入る風がずいぶんと柔らかになった。しかし、ついに三月末から続いている怒涛のような日々の疲れが出たのか、風邪をひいてしまった。新しく物事を始めるというのは「しんどい」ことではある。

 さて、以前、時代小説として優れた作品だと思っていた野口卓「軍鶏侍」シリーズの三作品めである『飛翔 軍鶏侍』(2012年 祥伝社文庫)を、これも面白く読んだ。

 主人公の岩倉源太夫は、人付合いの煩わしさから早々に隠居し、好きな軍鶏を飼いながら剣術道場でも開いてのんびり暮らすつもりであったが、ふとしたことから藩のお家騒動に巻き込まれ、それまで「軍鶏侍」と揶揄されていた彼の剣名が上がり、人生が一変していくようになっていた。周囲の勧めもあって、若い妻を迎え、42歳で男子をもうけ、それまでの下男の権助と暮らしていた殺伐とした暮らしも一変した。

 彼は、闘鶏からヒントを得た「蹴殺し」という秘剣を編み出した孤高の剣士であったが、夫であり父である家庭人となり、開いた剣術道場で若い藩士たちを育てる教育者となっていくが、凛とした姿勢を崩すことなく、彼の下に集まった弟子たちの成長を見守っていく。弟子たちもまた、それぞれに成長していき、それが成長潭として描かれるだけでなく、問題を抱えながら人間の深みと内実の豊かさに至っていくような姿として展開されていく。前にも記したが、その過去が秘されたままで優れた知恵と生活技術をもつ下男の権助との、時には逆転する主従関係が作品に軽妙さと深みを添えるものとなっている。

 本作の第一話「名札」は、岩倉源太夫が優れた教育者となる葛藤をする物語で、最初に問題児として登場するのは、深井半蔵という青年である。

 岩倉源太夫が藩主のゆるしを得て岩倉道場を開いたとき、ほかの道場から彼の道場に鞍替えする弟子たちがかなりの数に上り、特に大谷道場と原道場の道場主が危機感を抱いて、岩倉源太夫を襲撃したことがあった。源太夫はその襲撃を退け、道場主たちは、園瀬藩の藩内から逐電し、それぞれの道場からかなりの数の門弟が岩倉道場に移って来ていた。だが、それらの多くの者たちは、志が低いこともあり、性格のねじれた者が多く、岩倉道場の厳しい規律と稽古に耐えられずに、やがてかなりの弟子は姿を見せなくなっていた。深井半蔵は、その中で岩倉道場を辞めなかった弟子たちの一人であったし、しかも彼は、源太夫を襲撃した大谷道場では一番弟子であり、源太夫を闇討ちした一人だった。

 源太夫は、それと知りつつ彼の入門をゆるしたが、やはり、彼は道場内ではかなり浮き上がった存在となり、ひねくれて絶えず不満を洩らしていた。弟子の格付けが名札によって示されるが、半蔵は自分の名札の位置が気に入らなかったのである。

 人は、自分のことが高く評価されると嬉しいので、自分の席次が気になる人が多いが、もともとこういうことに拘る人に大した人はおらず、「ひねくれ」は、その拘りから生まれてくる。

 あるとき、深井半蔵は道場で仲間と一緒に酒盛りを始めた。それを咎めた源太夫に対して、道場での飲酒を禁じることは道場訓に記されていないと屁理屈を言い、自分の剣の腕が正しく評価されていないと不平を爆発させた。源太夫は「人は自分を過大に、他人を過小に評価する」(32ページ)と諭し、深井半蔵の席次について証明してみせると語る。源太夫は、半蔵が心の裡に空洞のようなものを抱えていると感じていた。だれかに自分をわかってもらいたいし、認めてもらいたいが、誰にも無視されていると感じて、目立つ行動に出ていたと判断した。少年時代の半蔵は、だから敢えて人の嫌がるようなことばかりし、それがかえって除け者にされるという悪循環に陥り、それが現在まで続いている(34ページ)のだと思う。半蔵は四男で部屋住みの厄介のまま23歳になっていた。

 源太夫は、15歳になる弟子の大村圭二郎と14歳の藤村勇太に半蔵の腕を証明するのに手伝ってもらうことにする。源太夫が大谷道場の大谷馬之介を蹴殺しで倒した時に居合わせた弟子の柏崎数馬と東野才二郎に教えていた鍛錬法を大村圭二郎と藤村勇太は自ら取り入れて密かに稽古を重ねていたからである。その鍛錬法は、相手に向かって小石などを力一杯投げ合って、それを躱す(弟子たちは勝手にそれを投避稽古と呼んでいた)のと、小石の代わりに矢を射かけるのを躱す(矢躱稽古)と暗闇でもものを見る鍛錬(梟猫稽古)である。稽古熱心な大村圭二郎はそれをどん欲に取り入れ、圭二郎を慕う藤村勇太と二人で鍛錬していたのである。源太夫は、妻のみつにお手玉を作ってもらい、それを用いて、23歳の深井半蔵と14歳の藤村勇太を対決させた。その際に、初めに師範代と言えるほどの腕を上げている東野才二郎と大村圭二郎にそれをやらせてみせてから、試合に臨ませた。この辺りが、教育者として作者が主人公を描き出そうとする工夫と言えるだろう。

 結果は歴然としていた。自意識の強い23歳の深井半蔵は、見事に14歳の、しかもひ弱そうに見える藤村勇太に破れたのである。半蔵と酒盛りをしていた仲間たちは姿を消した。やがてほかの弟子たちは誰も彼らのことを気にしなくなっていたが、源太夫は気に病んでいた。

 しかし、やがて、十月近くが過ぎたとき、四人が再び道場を訪ねて来た。その時の彼らは、以前の荒れた気配が消え、静かに詫びを入れた。源太夫は、一目で彼らが立ち直ったことを悟り、稽古をつけてやる。四人はこれまで死にもの狂いで鍛錬に励んでいたことがわかった。彼らは乗り越えたのである。源太夫はそのことがわかって、彼らを温かく受け入れていく。

 第二話「咬ませ」は、軍鶏の鶏合わせから始まる。鶏合わせとは闘鶏のことであるが、現太夫は権助の進言を入れて、「義経」と名付けられた老いた軍鶏と若い軍鶏を戦わせて、若い軍鶏に勝負勘をつけさせようという育成法を取り入れたのである。

 軍鶏の寿命は、通常、1012年と言われ、最盛期は4〜5歳の頃であるが、「義経」は8歳になっていた。「義経」は、非常に高い能力を持つ軍鶏であったが、その衰えは隠しようがない年齢に達していた。

 源太夫は、義経を「咬ませ」として若い鶏と闘わせ、義経は技量豊かに闘う。だが、若くて優秀な若い軍鶏は反撃をしはじめ、源太夫は老いていくことの悲哀を感じて、その闘いを中断させてしまう。だが、権助は「権助めが義経でしたら、たとえ咬ませであろうと、若鶏の稽古台であろうと、闘えるあいだは、闘い続けたいです」(97ページ)と、闘う軍鶏として生まれた軍鶏の思いを語る。そして、それを聞いて源太夫は、自分の思いを反省するのである。

 この短い老いた軍鶏の話が、実は挿話のようにして伏線として張られて、次の第三話「巣立ち」へと繋がる展開になっている。

 第三話「巣立ち」は、源太夫のもとで修業を行い、ついには「若軍鶏」とまで呼ばれるようになった若い大村圭二郎の成長の物語である。それについては長くなるので、次回に記すことにする。


2014年4月14日月曜日

上田秀人『表御番医師診療禄1 切開』

 昨日は一日中雨と風が吹いて寒さに震えるような日だったが、今日は一転して碧空が広がり、日中の気温も20度を超える温かさになっている。ここでは、もう桜の季節が終わろうとしているが、「静心なき花の散るらむ」で、どことなくせわしい日常が続いている。今のところ、だいたい10分刻みで仕事を処理しなければならないが、じっくりと構える姿勢は崩さないでおこうと思ったりもする。

 さて、先日、上田秀人『表御番医師診療禄1 切開』(2013年 角川文庫)を読んだ。これは江戸幕府の表御番医師を主人公にした作品で、江戸城には表御番医師と呼ばれる城中での医療行為にあたる医師と将軍と将軍家のための医療行為を行う奥医師というのが置かれていたが、表御番医師は、いわば城内の診療医師のようなものである。徳川家康は天下の実権を握るためにできる限り長生きをすることを望んで、自分で薬を調合するほどの薬草に関する知識もあり、医学に対しては特別の関心を持ち、医師を側に置いて厚遇した。奥医師は幕府に仕える医師の最高位とされていた。

 本書の主人公、矢切良衛は、代々が御家人(下級武士)であったが、戦場に於ける怪我人の応急手当をする金創医を兼ねていた家の長男で、父親が、十五歳になった良衛を和蘭院流外科術の医師であった杉本忠恵のもとに修行に出し、さらに京都随一と言われた名古屋玄医の下で修行を重ね、江戸にもどって家督を継いだ青年医師である。父親は隠居後に得度して青梅の寺に移り、母親は既になく、薬箱持ちの老爺の三造と台所仕事をする女中の三人で暮らしていた。

 そして、医師としての評判が上がる中で、幕府の典薬頭である今大路兵部太輔親俊(ちかとし)に目を留められて、無理矢理に彼の妾腹の娘である弥須子と結婚させられ、その代わりに表御番医に引き上げられて禄(給与)も加増され、身分もお目見え以下からお目見えへと格上げされた(お目見えとは、将軍の前に出ることがゆるされた格式で、下級役人である御家人はそれが許されないお目見え以下であった)。今大路親俊は、医家の名家としての立場を保つために新式の和蘭医術を学んだ矢切良衛を一族の中に加えることを目論んで、良衛に白羽の矢を立てたのである。こうして、良衛と弥須子は結婚し、二人の間には四歳になる男子の一弥が生まれていた。彼はまた、父祖伝来の戦場剣法を習得していた。

 作品の中で取り扱われている時代は、五代将軍徳川綱吉の時代で、本書では特に、貞享元年(1684年)に江戸城中で起こった刃傷事件が取り扱われている。時の大老であった堀田筑前守正俊が従兄弟で若年寄りの稲葉石見守正休に懐刀で斬られるという事件が起こったのである。殿中での刃傷事件は、このほか、赤穂浪士で有名な播州赤穂の藩主であった浅野内匠頭が吉良上野介に斬り掛かった事件があるが、江戸幕府初期の堀田正俊が受けた刃傷事件は、相手が幕府の実権を握っていた大老であっただけに、その後の幕府の政治体制を一変させるほどの事件であったのである。そして、堀田正俊は落命し、事件を起こした稲葉石見守正休も、その場に居合わせた老中の大久保加賀守忠朝(ただとも)や戸田山城守、阿部豊後守、稲葉美濃守らにその場で斬り殺された。ただ、この事件には謎が多い。本書はその謎解きを一本の柱としたものである。

 この事件に主人公が関わっていくのは、斬られた堀田正俊の治療のために若い寄合医師(奥医師の家柄の跡継ぎや御番医師でその腕を認められた者が属して、奥医師の席の空き待ちをする医師たち)で本道(内科)が主である奈須玄竹が呼ばれたからである。刀傷なら外道(外科)の表御番医の自分が呼ばれてもよいはずだった。しかも、最新式の和蘭外科を身につけている良衛が呼ばれても当然だったが、何故か本道(内科)の奈須玄竹が呼ばれ、しかも治療の施しようもなく、堀田正俊は駕篭で自宅まで運ばれて絶命している。
 奈須玄竹の祖父は希代の名医と言われ、当代の玄竹はその名と家督を継いだ者であったが、まだ若く、しかも今大路親俊の娘婿でもあった。その典薬頭である今大路親俊から医師の技量を認められて、同じように娘婿に選ばれたという自負を強くもっていた矢切良衛は、事件の日に江戸城にいた外道医師のなかでは自分が最も優れた腕をもっていると自認していたので、いわばプロとしての嫉妬の情を抱いたのである。

 こうして、この事件の謎に関心を持っていた良衛は、幕府内の勢力争いの中に巻き込まれていくことになり、大目付の松平対馬守との間に、利用し利用される関係が生じていく。もっとも松平対馬守は大目付(大名を取り締まる役)であり、身分の差は歴然としているので、良衛は対馬守から命令を受ける形になっていくのだが、良衛は諾々とそれに従っているのではない。

 事件の裏には、綱吉が将軍になる時から問題となっていた御三家、二代将軍徳川秀忠の血筋である甲府の松平家、加賀の松平家、それに堀田家自身の跡目相続を巡る問題、大老職を狙う老中たちなどがあり、この事件が江戸幕府内での勢力争いの側面から描かれていく。矢切良衛も何者かに命を狙われるようになる。こうして、事件の謎解きが「権力争い」の視点で展開され始めるところで、本書は終わる。

 それらは殺伐とした争いであり、矢切良衛の妻となった弥須子もまた息子の一弥を一流の名医にして、兄弟姉妹を見返してやるという争心をもっている。その意味では、本書は、「人間の闘争」を情に絡めて展開するこれまで読んで来た作者の作品らしい作品の一つで、主人公を表御番医師という設定にすることによって、医家の立場からの闘争録になっている。

 しかも、それだけではなく、良衛が医師として治療に当たって来た貧乏御家人の、今では美貌の未亡人となっている井田美絵とのそこはかとない情愛が描かれていく。心身ともに闘いに明け暮れてしまう良衛が心を休める場所として設定されており、それが本書の一本の横糸を構成している。

 改めて見てみると、本書は実によく構成されており、いくつかの伏線が絡み合って本筋を作るような展開がされている。描かれる人物像は、作者のほかの作品とも似通ったものではあるが、伏線の張り方の巧みさが光っている。巧い作品だと思う。

2014年4月10日木曜日

神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(2)

 一日の寒暖の差が激しいが、日中は本当に過ごしやすくなって、新緑が美しく映え始めてきた。このところ日々が怒涛のように過ぎて、肉体的な疲労は覚えるが、緩やかに広がった空を仰いだりしていた。ようやく、よたよたとではあるが日常を営む環境が整いつつある。普段を取り戻すのは連休明けくらいになるだろう。だが、今年の連休は都内での連続した会議が予定され、さて、どうなるだろうかと思ったりもする。

 さて、神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(1994年 中央公論社 1997年 中公文庫)に関連して、南方熊楠の結婚後の生活であるが、生活が落ち着くと採集と研究に没頭していく。熊楠は多汗症の質であったためか、薄着が真っ裸で過ごすことが多く、妻となった松枝も、「およどん(女中)」として雇われた少女たちも、最初はこれにはびっくりしたが、やがて慣れていった。しかし、田辺周辺で採取活動をしていた時に、山の中で道に迷いながらも珍しい植物を発見してブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性たちが、裸で駆け下りてくる熊楠の姿を見て「天狗が出た」と思って逃げ去ったというエピソードが残っている。熊楠は、目鼻立ちがはっきりした好男子であったが、自分の身の回りのことや服装などには全くの無頓着であった。

 彼はまた方向音痴で、街中でもよく迷ったと言われるが、その奇天烈振りが、本書の第一話の「雀のおうめ」で紹介されている。それは、「おうめ」(熊楠家の猫はすべて「チョボ六」、犬は「ポチ」、奉公人は「おうめ」と呼ばれたが、この「おうめ」は本名も「おうめ」)が「およどん」として雇われてまだ二日目のことで、田舎から出てきたばかりに「おうめ」は西も東も分からない状態であったが、熊楠は自分が道に迷うために「およどん」に道案内してもらうのが常で、この「おうめ」を連れて歯医者に行き、二人してあちこちで道に迷ってしまい、「いつになったら家に帰り着くのかのう」となったらしい。

 この「おうめ」も田舎育ちの天衣無縫のようなところがあり、熊楠とは気性があったのか、彼のエピ―ソードを良く伝え、熊楠が研究に没頭すると、文字通り寝食を忘れて、「わしゃあ、飯をくったか」と言ったりしたことを妻の松枝や娘の文枝と笑い会ったようで、妻の文枝が熊楠を良く理解して、鷹揚にこれを受け止めている姿などが本書で描かれている。ちなみに、南方家に奉公に来た「およどん(女中)」たちは、ほとんどが南方家の世話で良縁を結ぶことができ、南方家で丁重に嫁支度までしてもらっている。「およどん」たちもまた愛すべき女性たちだったのである。

 熊楠は、友人の毛利清雅(紫庵)が県会議員に立候補したときの応援をしているが、「おうめ」も一役買って反対派の切り崩しなどをしている。熊楠は、田辺で、生涯変わらぬ友情で結ばれた医師の喜多幅武三郎、素封家で熊楠の初恋の人と言われた「たか」の父親の多屋寿平次、石工の親方で侠客を任じていた佐武友吉や鈴木新五郎、画家の川島草堂、牟婁(むろ)新報の社主で県会議員となった毛利紫庵(清雅)、料亭の女将で女傑と言われた「お富」、芸者たちや熊楠を師とも親分ともしていた漁師たちなど、そういう人々を友人として、金があればみんなで飲みまくって騒ぎ廻った日常を送っていた。熊楠は、「ネイチャー」誌に論文を発表したり、粘菌の標本を大英博物館に寄贈してこれが植物学誌に掲載されたりして、世界的な粘菌学者としてもよく知られていたが、彼は誰一人分け隔てすることなく、みんなでワイワイするのが好きで、妻の松枝はそういう彼を良く理解していたのである。

 時に1906年(明治39年)、明治政府は「神社合祀令」を発布し、神社の統廃合を行って一定水準以上の神社として継続的な経費の維持が可能になるようにした(ちなみに、これは、神社を国家の宗祀として地方公共団体から維持費の公費供進を行い、神社を地方自治の中心に据えることが目的であった)。この政策で7万社ほどの神社が取り壊されたが、和歌山県下でも3700ほどあった神社が600に統合される事態になった。廃棄された神社の境内の森は容赦なく伐採されて売られた。

 これを見て熊楠は激怒し、樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔や粘菌が多く、伐採されるとそれらが絶滅する恐れがあったのである。熊楠は、この時、日本で初めて「エコロジー(生態学)」という言葉を使って、生物が互いに繋がっており、全生命は結ばれていて、その生態系は守らなければならないと訴えて、明治政府に反対した。また、神社の森はただの木々ではなく、森の破壊は心の破壊であると訴えて、舌鋒鋭く意見を新聞に発表したりした(彼のこの反対のおかげで、現在の熊野古道が残されていると言ってもいい)。

 そして、1910年(明治43年 44歳)の時、合祀政策を推し進める県の役人が教育委員会に招かれて田辺高校の教育講習の演説をするということになり、熊楠は直談判するために会場を訪れて面会を望んだが、これを拒否されたために、酩酊して乱入し、植物標本の入った袋を投げつけたために、「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間警察に拘留されている。この時、彼を師とも親分とも慕う人々が「儂らの先生をなっとぞするか!」と駆けつけて大騒ぎになっている。しかし、熊楠は拘置所の中で珍しい粘菌を見つけ、釈放を告げられても、「もう少し置いて欲しい」となかなか拘置所を出ようとしなかったらしい。こうした熊楠らの反対運動が功を奏して、この法令は10年後には無効とされた。

 また、これをきっかけにして、当時は内閣法制局の参事官であった柳田国男と知り合いになり、日本の民俗学に大きく寄与することになっていく。本書では、柳田国男との交流についてはあまり触れられないが、熊楠が柳田国男に最初に会ったときは、緊張のあまりに酒を痛飲して泥酔状態であったらしい。

 南方熊楠は、その後、「南方植物研究所」の設立構想を練って資金集めに奔走する。この時に寄付を集めるために書いた履歴書が、実に、巻紙で7m70㎝、5万5千字にも及ぶ長大なもので、世界最長の履歴書と言われている。そして、資金造りのために1926年(大正15年/昭和元年 59歳)で、『南方閑話』、『南方随筆』、『続南方随筆』を出版した。これは国内に向けた最初の一般著作であった。また、その年、イタリアのプレサドラ大僧正の菌図譜出版に際しての名誉委員に推薦されている。

 圧巻なのは、1929年(昭和4年 62歳)の紀南行幸で昭和天皇が田辺湾沖合の神島を訪問された際に、熊楠は、戦艦長門の船上で菌類や海中生物について御前講義を行い、昭和天皇は熊楠の講義に深い関心を寄せられて予定時間を超えても受講されたという。熊楠はその時、粘菌標本を天皇に献上した。しかし、通常は天皇への献上物は桐の箱などの最高級のものに納められるのが普通であったが、熊楠はキャラメルの箱に標本を入れて献上している。周囲は、一瞬、驚いたが、その場は無事に収まり、熊楠が亡くなったときに、昭和天皇が「あのキャラメルの箱のインパクトは忘れられない」と語られたという。まさに、熊楠の真骨頂であろう。

 1937年(昭和12年 70歳)の日中戦争勃発あたりから、熊楠は体調を壊し、それでも「日本産菌類の彩色生態図譜」の完成に尽力し、450015000枚に及ぶ図譜を完成させている。そして、1941年(昭和16年)、日本海軍による真珠湾攻撃に絶句しながら、死去についた。74年の波瀾に満ちた、そして実に楽しい生涯であった。

 その熊楠の破天荒ぶりの日常を描いた本書は、抱腹絶倒で読むお面白いものであった。南方家の「およどん(女中)」たちもまた、それぞれに個性を発揮するし、周囲の人々も個性豊かである。おそらく、熊楠のような人の側では、人が生き生きと自分を発揮できるようになっていったのではないかと思う。

 彼は、ほとんどの学校を中退や放校されて学歴もなく、どこにも属さずに、ほとんど独学で、国家の支援も受けず、定職もつかずに経済的に苦労したが、全く意に介さずに「面白き世を面白く」生きた人であろう。「肩書きがなくては己が何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と語っている。毎日を楽しく突き進んで生きていく。そういう熊楠の日常が本書には溢れていて、しかも、その人情の温かさがあり、非常に面白く読んだ一冊だった。南方熊楠は「巨星」の名にふさわしく、器の大きな人間だったのである。

2014年4月4日金曜日

神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(1)

 3月末に横浜から熊本に転居した。転居した当日は、熊本は桜が満開で、目を見張るほどの春日の光景が美しく広がっていたが、花散らしの雨が降り、今日は、肌寒い日になっている。これまで引越しの作業に追われていた。自宅と仕事場の二重の引越しとなったために落ち着くまでひどく日数がかかってしまった。まだ、自宅でのネット環境を整えておらず、これを記すのも随分と久しぶりになった。かつて夏目漱石が乗り越えることができなかったようないくつかの拒絶を感じないわけではないが、受容の壁をどう乗り越えるかがしばらくの課題だろう。

閑話休題。豪放磊落、奇行で知られた稀代の生物学者で、民俗学の創始者でもある愛すべき学者の南方熊楠の生活を描いた神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(1994年 中央公論社 1997年 中公文庫)を、彼なら「さもありなん」と抱腹しつつ読んだ。「およどん」というのは「女中さん」のことで、本書は、南方家に奉公した七人の女中たちとの交流を通して、熊楠の奇行ぶりや彼の周囲の人たちとの面白おかしい生活ぶりを描いた作品である。

 南方熊楠のことを簡単に記しておこう。
南方熊楠ほど自由奔放に生き、しかも「知の巨人」と言われる人はいないかもしれないと思う。彼は、幕末の1867年(慶応3年)に、現在の和歌山市(和歌山城下橋丁)の金物商の次男として生まれ、子どもの頃から天才ぶりを発揮したと言われる。なにせ、1876年(明治9年 9歳)の時に、当時の百科事典とも言うべき『和漢三才図会』全105巻を借りて読み、これを自分の記憶だけを頼りに筆写し始めたり(5年をかけて完成している)、12歳までに当時の植物学書であった『本草綱目』や『大和本草』、日本地理書であった『諸国名所図会』の写筆を完成させたりしている。記憶力がずば抜けており、一度会った人や出来事も細部に至るまで良く覚えていたが、学校はあまり好きではなく、興味のない科目などは見向きもせずに、散漫な態度をたびたび教師に叱られたりしている。植物採集に熱中するあまり、山に入って数日行方不明になるという騒動も起こしている。

 普通の優秀な勉学少年とは全く異なり、勉強は好きだが学校の勉強は嫌いというタイプで、胃の内容物を自由に口から吐き出すことができたらしく、喧嘩をしたら胃の中のものを吐き出して相手にかけたために、喧嘩では一度も負けたことがないという奇行が既にこのころからあったということが伝えられている。

 その彼が中学時代(和歌山中学校:現 和歌山県立桐蔭高校)に出会った先生が素晴らしく、その先生(鳥山啓)から博物学を勧められて、自分の進路を決め、上京して共立学校(現:開成高校、当時は授業は英語)に進み、この時に世界的に有名な植物学者のM.バークレーが菌類6000種を集めたと知って、自分はそれ以上の標本を造り、図譜を作ろうと思い立ったりしている(この決意は実行され、後に15000枚にも及ぶ英文の『彩色生態写生図』をまとめて、日本菌請を集大成している)。この頃も授業よりも読書に熱中する日々だった。

 18歳で東京予備門(現:東京大学)に入学するが、学業には全く興味を示さずに、上野の図書館に通って和漢洋書を読みあさり、遺跡発掘や博物標本採集に明け暮れていた。同窓生には夏目漱石や正岡子規などもいたが、中間試験で落第したために、東京予備門と退学した。「こんなことに一度だけの人生をかけるのは馬鹿馬鹿しい」というのが彼の弁であった。そして、父親を説得して米国に留学する。

 米国ではミシガン農業大学(現:ミシガン州立大学)に入学するが、一年も経たないうちに寄宿舎で飲酒を禁止する規則に触れて放校される(一応自主退学になっている)。だが、動植物の観察と読書に明け暮れ、この時にシカゴの地衣類(菌類と藻類の共生生物)学者W.W.カルキンスに師事して標本製作などについて学んでいる。ミシガンには結局、4年ほど住んでいたが、やがてフロリダに移り、生物を調査しながら生活のために中国人の食品店で住み込みで働いた。そして、この時、新しく発見した緑藻について科学雑誌「ネイチャー」に発表し、国立博物館などから注目されている。

 だが、その年の9月(1891年 24歳)にキューバに採集旅行をし、石灰岩生地衣を発見するも、なぜかそのままサーカス団に入って団員として中南米を旅行している。翌年、1月にフロリダに戻って先の中国人の食品店に住みこむが、9月にイギリスに渡り、その翌年に「ネイチャー」誌に初めての正式な論文となる「極東の星座」が掲載された。これは天文学会の懸賞論文に応募したものだったと言われる。そして、大英博物館に出入りして、考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々を過ごす。やがて、日本文学研究者でロンドン大学の事務総長をしたF.V.ディキンズと出会い、彼の翻訳を手伝うことで経済的な支援を受けながら、大英博物館の東洋図書目録編纂係りとしての職を得た。

 このディキンズとの関係でも面白い逸話が残されており、ディキンズが『竹取物語』の英訳の草稿に目を通してもらおうと南方熊楠に依頼したら、熊楠はページをめくるごとに翻訳部分の不適切さを鋭く指摘し、推敲するように命じたのである。日本に精通しているという絶対的な自信を持っていたディキンズは、30歳も年下の熊楠の不躾な態度に腹を立てて「目上の人にも敬意を払えない野蛮人め」と罵ったが、熊楠もディキンズの傲慢な態度に激昂して「権威に媚びて明らかな間違いまでも不問にし、阿諛追従するような者など日本にはいない」と怒鳴り返し、喧嘩別れになったのである。だが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディケンズは、その後、終生、熊楠の友人として彼を支えた。熊楠は語学が堪能で欧米語はもちろんのこと、1819カ国語をこなしたといわれ、彼の語学習得方法は、「対訳をよく読み、あとは酒場に出向いて会話から覚える」というものであったらしい。

 大英博物館の職員として勤める時にも面白い逸話があり、当時は東洋人に対する蔑視もあって、閲覧に来た人物に馬鹿にされ、熊楠は大勢の人の前で彼に頭突きをくらわせて、3ヶ月の入館禁止処分を受け、さらにその1年後に声高に騒ぐ人物を殴打して、ついに博物館から追放処分を受けている。だが、彼の学才を認めてこれを惜しむ有力なイギリス人たちから嘆願書が出されて復職したのである。このロンドンに滞在中に、亡命していた中国の孫文と知り合い、親交を結んだ。熊楠31歳、孫文32歳で、意気投合したといわれる。

 だが、ついに困窮極まりなくなり、1900年(明治33年 33歳)で帰国し、大阪を経て和歌山に居住し、熊野で植物採集をしたりし、和歌山南部の田辺(現:田辺市)を生涯の居住地と定めて、家督を継いで造り酒屋として成功していた弟の援助で家を借りて、研究に明け暮れた。熊楠は生涯定職に就かなかったために収入も乏しく、父親の遺産や弟の援助に頼っていたが、弟は、何かにつけて金を借りに来たり、大酒飲みで盛り場に出ては芸者を上げて大騒ぎをしたり、喧嘩をしては警察にやっかいになるなどの奇行をする熊楠のことを快くは思っていなかったと言われる。しかし、経済的な援助は続けていた。商人として成功した真面目な弟のような人にとって熊楠のような人間は理解の限度を超えた人物だったのである。

 1905年にディキンズとの共著で『方丈記』の英訳を完成させ、1906年に田辺の神官の四女であった「松枝」と結婚した。熊楠40歳、松枝28歳であった。この時も、松枝を紹介されて惚れた熊楠は、松枝に会う口実に、汚い猫を何度も連れて行って、松枝に洗ってもらうという奇策を講じている。熊楠は猫好きで、ロンドン時代には布団代わりに猫を抱いて眠ったといわれるほどで、彼が飼う猫の名前は、どの猫もいつも「チョボ六」と名づけていた。松枝は熊楠のあまりの生活の破天荒ぶりに腰を抜かしたことだろうが、生涯彼を支える良き伴侶となった。熊楠は、この年に、採取した粘菌の一種が新種として認められるなどの業績を残している。彼は生涯に10種類の粘菌の新種を発見している。

 熊楠の生涯のエピ―ソードは、まことに面白く、本書の扉にも「予の一生すべて小説同様に面白い。・・ちょっとしたつづき物よりも、予の伝のほうが面白かろうと思うが如何」という「南方熊楠語録」の一節が記されているが、これだけの人物はそうそうお目にかかれるものではない。

 本書は、その熊楠が結婚し、その後の奇行振りを、じんわりとした彼の温かみを共に描き出し、熊楠が愛すべき人物であったことを描き出しているのである。長くなったので、その後の熊楠の生涯と本書については次回記すことにする。